囮の実力者になりたくて!Return15 作:ボルメテウスさん
私服を買い替えたい。
そう思ったのは、デルタの狩りで三着目の上着が枝に引っかかれて裂けた夜だった。襟元から背中にかけて走る裂け目は、見事なほど一直線で、裁縫の得意なベータでも「これは直すより買った方が早いです」と断言するほどだった。
普段着なんて何でもいい。だが何でもいい服を何でもなく選ぶ才能が俺にはない。前回自分で選んだ服は、走ると袖が肩より上にずれ上がる代物だった。
服選びに自信がない。
だからイプシロンに相談した。
「私服を選んでくれないか」
その一言で、イプシロンの予定は瞬時に空いた。
* * *
王都の服飾店。木の棚に並んだ布地の色が、窓から差す午後の日差しに溶けている。店内は静かで、客は俺たち以外に一組だけだ。
「こちらなどいかがでしょう」
イプシロンが上品な手つきで一枚のシャツを引き出した。水色に近い淡い色合い。彼女の髪色とは違う、もう少し深い青。
「色はいいけど、襟が」
「襟ですか」
「掴まれても破れにくいやつがいい」
イプシロンの手が止まった。一拍の間。そして彼女はそのシャツを棚へ戻し、隣の白いシャツを取り出した。
「こちらはどうでしょう。襟がしっかりしていますわ」
「縫い目は」
「二重に縫われております」
「いいな。袖は」
「普通の長さですわよ」
「袖口が広いと枝に引っかかる。窄まってる方がいい」
イプシロンが白いシャツを手に取ったまま、少し呆れたような目で俺を見た。いや呆れたような、というのは正確ではない。呆れているのと諦めているのの中間だ。
「エロゲ。あなたは普段着を選びに来たのですよね」
「そうだよ」
「走りやすい靴、破れにくい襟、窄まった袖口。これは野戦服の仕様書ではありませんわ」
「俺にとっての普段着はこれなんだよ」
「なぜですか」
「デルタの狩りにガンマの外出にゼータの護衛。私服が消耗品なんだ」
イプシロンは一つ息を吐いた。溜息というよりは、覚悟を決めた呼吸に近い。彼女は白いシャツを棚へ戻し、今度は別の棚へ歩み寄った。
「では、これと、これと、こちらを」
彼女が選んだ三着は、どれも地味だが仕立てがいい。色は落ち着いた灰、墨、白に近い生成り。襟はしっかりしているが飾り気がない。袖口は窄まっている。
「試着なさってください」
俺は一番手前の灰色のシャツを手に取った。布が軽い。肌触りがいい。襟を指で引っ張ってみた。確かに頑丈だ。
「いい布だな」
「当然ですわ。私が選びましたから」
イプシロンの声に少し誇りが混じった。彼女は服を選ぶ時に楽しそうだ。棚から引き出す手が丁寧で、畳み直す指先が迷わない。慣れている。それだけではなく、選ぶこと自体を楽しんでいるのが伝わる。
俺は試着室へ入った。鏡に映った自分を見る。破れた制服の上からシャツを重ねてみた。
合う。色が合う。サイズも悪くない。
「いかがですか」
試着室の外から声がかかった。
「悪くない。襟も動かしやすい」
「それはよろしいですわ」
着替えて出ると、店員が近づいてきた。年配の女性で、柔和な顔つきをしている。
「お似合いですよ。奥様の選ばれる目は確かですね」
「奥様じゃないです」
俺は即答した。
「服を選んでもらってるだけです」
隣でイプシロンの手が止まった。棚から次のシャツを引き出しかけた指が、空中で止まったのが見えた。
「君の見立てなら信用できるから、頼んだだけだよ」
俺は続けた。イプシロンの手が動いた。引き出しかけたシャツを棚へ戻す。だがその動作がいつもより遅い。
「・・・信用、ですわ」
「ああ。自分で選ぶと走れない服になるからな」
「走れない服」
「前回買ったシャツ、腕を上げると袖が肩より上にずれるんだよ」
「それは着方の問題では」
「着方じゃない。服が悪いんだ」
イプシロンは何か言いかけて止めた。唇が一動き、閉じた。
店員が席を外した。店内には二人きりになる。
イプシロンが小さな袋から飾りを取り出した。袖に留めるタイプの、小さなブローチだ。銀色の留め具に青い石が一つ嵌まっている。
「これを袖口につければ、少し華やかになりますわ」
「俺に飾りは不要だろ」
「不要ではありませんわ。普段着でも一つくらいあれば」
イプシロンの手が俺の袖口へ伸びた。飾りの留め具を袖に当てる。指先が袖の布を押さえた。
「動かないでくださいね」
「動いてない」
「少し左へ」
俺が言われた方向へ動くと、イプシロンの指先が留め具の針を袖に通そうとした。
その時だ。
「その色、似合うな」
俺が何気なく言った。
イプシロンの手が止まった。留め具の針が袖に掛かったまま、指が動かない。
「似合う、ですわ」
「ああ。その青い石、服の色と合ってる」
「・・・ありがとうございます」
彼女の手が動いた。針を通そうとした。だが指に力が入りすぎたのか、針が袖の布に引っ掛かった。布が不自然に引っ張られた。袖口が伸びた。伸びたというより、歪んだ。
俺は目を凝らした。袖の布が針の掛かった部分だけ、ゴムのように伸びている。普通の布なら裂けるか針が抜けるはずだ。だがこの布は伸びている。
「おい、袖が」
「大丈夫です!」
イプシロンの声が普段より高い。彼女は慌てて袖口を掌で押さえた。両手で覆うように。
「少し手直しが必要ですわ。お待ちください」
「手直し? 店員じゃないのに」
「慣れておりますので」
イプシロンの手が袖口を押さえたまま動かない。掌の下で何かが動いている気配がしたが、俺の位置からは見えない。
「飾りが服を傷めたのか」
「傷れておりません」
「でも袖が」
「すぐに戻りますわ」
彼女の声が必死だった。普段の落ち着いた口調とは違う。俺はこれ以上近づくべきではないと判断した。何かがおかしいが、何がおかしいのか分からない。分からないなら近づかないのが正解だ。
「無理に使わなくていい。針を使わない飾りがあるだろ」
「針を使わない」
「クリップ型のやつ。店員に頼めばあるはずだ」
イプシロンの手が止まった。袖口を押さえる圧力が少しだけ緩んだ気がした。
「・・・そうですね。クリップ型がよろしいですわ」
彼女が袖口から手を離した。布は元に戻っていた。伸びも歪みもない。俺は目を凝らしたが、普通の袖口しか見えなかった。
「直ったか」
「最初から傷れておりません」
「でもさっき伸びて」
「見間違いですわ」
断言された。断言されるほど自信があるなら最初から慌てなかったはずだが、追求する材料がない。
店員が戻った。
「クリップ型の飾りはありますか」
俺は聞いた。
「ございますよ。こちらの棚に」
店員が小さな箱をいくつか並べた。イプシロンの目が箱を眺めた。さっきまでの慌てた様子は消えている。代わりに選ぶ楽しさが戻っていた。
「こちらがよろしいですわね」
彼女が選んだのは、小さな銀色のクリップだった。青い石が嵌まっている。
「同じ色だな」
「合わせて選びました」
「さっきのと同じ石だな」
「・・・似ているだけですわ」
似ていない。同一だ。だが指摘するとまた慌てるかもしれない。俺は黙った。
* * *
レジで三着のシャツと一つのクリップを支払った。店員が紙袋に入れて渡してくれた。
「お似合いですね」
店員が二人を交互に見て言った。
「服が?」
俺は聞き返した。店員は笑って何も答えなかった。
店を出て、日差しが目に入る。午後の光が石畳を白く染めている。
「イプシロン。お茶でもどうだ」
「お茶ですか」
「選んでくれた礼だ。付き合ってくれ」
俺は紙袋を持ち直して歩き出した。
「礼、ですわ」
「ああ。わざわざ付き合わせたからな」
「・・・はい。喜んで」
イプシロンの声が少し柔らかくなった。歩幅が俺に合わせて小さくなる。彼女の足は短い。いや小柄だと言うべきか。だが歩く速度は速い。ついてくる。
「次は靴も見ようか」
「靴もですか」
「走れるやつを」
「まだ野戦仕様の話をしておりますの」
「普段着の話だよ」
「嘘ですね」
「嘘じゃない」
「では靴は走らなくてもよろしいですわね」
「いや走れる方が」
「嘘ですわ」
イプシロンの声に笑いが混じった。笑いと言うより、呆れと楽しさが混ざった音だ。俺は何もおかしいことを言っていない。
「走れる靴が何で嘘になるんだよ」
「普通の人が服を選ぶ時に走れるかどうかを気にしません」
「俺は普通じゃないからな」
「それは認めますわ」
認めるのが早すぎる。
通りの角を曲がると、茶屋の看板が見えた。イプシロンの歩幅がほんの少しだけ速くなった。気づかないふりをした。