囮の実力者になりたくて!Return15 作:ボルメテウスさん
制服の袖口が裂けていた。右肘にも擦り切れた跡がある。土埃は洗濯では落ちなかった。誘枴の痕跡が服に染みついている。
「ひどい状態ですわね」
振り返るとイプシロンが立っていた。いつの間に部屋へ入ったのか。扉の音もしなかった。この組織の人間は全員足音を消す訓練でも受けているのか。
「着られれば十分だ」
「十分ではありませんわ。その制服で授業に出るおつもりですか」
「出るつもりだ。他にないし」
「あれば直すのですか」
「直すより買う方が早い」
イプシロンが近づいてきた。水色の髪が揺れる。上品な歩き方だ。だが目は真剣だった。
「脱いでくださいませ」
「は?」
「上着だけですわ。誤解なさらないで」
誤解する余地がある言い方だった。だがイプシロンの手には裁縫道具が既に握られている。準備がいい。どこから出したのか。
「イプシロン。お前、裁縫できるのか」
「当然ですわ。身だしなみは淑女の嗜みですもの」
「淑女の嗜みで人の上着を脱がせるな」
「直すために必要ですわ」
俺は上着を脱いだ。渡すとイプシロンが裂け目を検分する。指先で布の端を摘まみ、縫い目のほつれを確かめる。手つきが慣れている。
「右肘の裂け目が深いですわ。ここは当て布が必要です」
「当て布って目立つだろ」
「同色の布を裏から当てますので目立ちません」
「そんな技術があるのか」
「ありますわ」
イプシロンが道具箱から布を取り出した。深い紺色の布だ。制服と同系色。色見本でも持っているのか。
「エロゲ様。採寸させてください」
「採寸?」
「袖の長さと肩幅を確認します。直す前に寸法を知らないと」
「今のままでいい」
「よくありませんわ」
イプシロンの手が俺の腕に伸びた。袖口を押さえ、肩から肘までの長さを測る。メジャーが無い。指の幅で測っているらしい。器用だ。
「肩幅は標準的ですわね」
「標準的で悪かったな」
「褒めています。標準は直しやすいですから」
「直しやすいことが褒め言葉になるか」
「なりますわ」
イプシロンの指が俺の肩から離れた。次に袖口を確認する。だがふいに布が動いた。
イプシロンの手元で裂け目の端がふに、と盛り上がった。縫い目が勝手に縮んだ気がした。いや縮んだのは布じゃない。イプシロンの指先が一瞬だけ別の形になったように見えた。
「今、布が勝手に動かなかったか」
「動いておりませんわ」
「動いた。ふにって」
「ふに、とは何ですの」
「お前が一番分かってるだろ。今の動きだよ」
イプシロンの手が止まった。止まったが表情は動かない。上品な微笑みを保っている。だが袖口を押さえる指に少し力が入った。
「裁縫道具が布に引っかかっただけですわ」
「道具は机の上にあるだろ。お前の手元には何もない」
「手芸用の小さな針が指に挟まっておりましたの」
「挟まってる針が布をふにって動かすか」
「動かしますわ。しなやかな針ですので」
「しなやかな針って何だよ」
「しなやかなのです」
イプシロンが布を摘まみ直した。今度は動かない。普通の布だ。さっきのは見間違いだったのか。だが俺の目は悪くない。誘枴される時に周囲を見る訓練だけは積んでいる。
「イプシロン。お前、何か隠してるだろ」
「隠しておりませんわ」
即答だった。即答する時は隠している時だ。シドで学んだ。
「じゃあ何でさっき手が震えた」
「震えておりません」
「震えた。一瞬だけ」
「一瞬は震えておりません。気のせいですわ」
イプシロンが道具箱を閉じた。閉じる動作が少しだけ速い。速い動作は焦りの証拠だ。俺は誘枴される時に焦った人間を何人も見てきた。見分け方は覚えている。
「まあいい。直してくれるなら助かる」
「ええ。お任せくださいませ」
イプシロンが縫い始めた。針が布を縫う音が小さく響く。手つきが丁寧だ。だが時々、布がわずかに盛り上がる。縫い目が勝手に整う。まるで布自身が形を変えているように見える。
「イプシロン」
「何ですの」
「お前の裁縫、魔法か何か使ってるだろ」
「魔法ではありません。技術ですわ」
「技術で布が勝手に盛り上がるか」
「盛り上がっておりません。縫い目が整っているだけです」
「縫い目が勝手に整う技術って何だよ」
「熟練の技ですわ」
「熟練の技で布が自律するか」
「自律はしておりません」
イプシロンの針が止まった。止まったがすぐに再開した。今度は布が動かない。普通の縫い物だ。だが俺は確信した。この女、何か隠している。
「イプシロン。お前の体、何か特殊なのか」
「特殊ではありませんわ」
「でも布が」
「布は関係ありません」
「関係あるだろ。お前が触ると布が」
「エロゲ様」
イプシロンの声が少し硬くなった。上品な口調は保っているが、硬さが混じっている。
「身だしなみの話をしておりましたのに、なぜ私の体の話になるのですか」
「いや、布が動くから」
「布は動いておりません。あなたが見間違えているだけですわ」
「見間違えてない」
「見間違えております」
イプシロンが針を置いた。上着を持ち上げ、裂け目を確認する。縫い目は整っている。当て布も自然だ。確かに直っている。だが直り方が完璧すぎる。人間の手仕事でここまで均一な縫い目は作れない。
「ほら。綺麗に直りましたわ」
「・・・ああ。ありがとう」
「どういたしまして」
イプシロンが上着を俺に渡した。受け取って着る。袖口がしっくりくる。動きやすい。裂け目も目立たない。
「これなら次の誘枴でも少しは見栄えがする」
「次を前提にしないでくださいませ」
イプシロンが微笑んだ。微笑んだが目は笑っていない。次を前提にするなという忠告だ。アルファと同じことを言う。この組織の女子は全員俺の誘枴を前提にしないよう言う。無理だ。前提にしなくても誘枴されるんだから。
「イプシロン。お前の裁縫、また頼むよ」
「ええ。いつでもどうぞ」
「次はもっとボロボロになって持ってくる」
「だから次を前提にしないでくださいませ」
イプシロンの微笑みが少しだけ深くなった。深くなったが、その目はまだ布の動きを気にしている。俺も気にしている。だがお互い追及しない。追及しないのがこの組織の暗黙のルールだ。知らないふりをする。知らないふりをされたふりをする。
俺は姿見の前に立った。制服が整っている。見た目は悪くない。動きやすい。これならデルタに襟首を掴まれても布が裂けにくいかもしれない。
「イプシロン」
「何ですの」
「ありがとうな。見た目も動きやすさも両方いい」
「・・・どういたしまして」
イプシロンの声が少し柔らかくなった。上品な口調はそのままだが、柔らかさが混じった。褒められて悪い気はしないらしい。この人は服を褒められるのが一番嬉しいのだろう。俺の誘枴体質より服の方が大事なんだ。
「次は」
「次を前提にしないでくださいませ」
「分かったよ」
分かったが前提は消えない。誘枴は予定ではなく天気のようなものだ。明日晴れるか雨が降るか分からないように、明日誘枴されるかどうかも分からない。ただ頻度が高いだけだ。
「エロゲ様」
「何だ」
「その制服で外を歩く時は、なるべく壁に近づかないでくださいませ」
「なぜ」
「壁が壊れると巻き込まれますので」
「壁を壊すのは俺じゃない」
「存じております。デルタ様ですわね」
イプシロンが道具箱を抱えて扉へ向かった。今度は足音があった。わざと立てているらしい。入る時は消していたのに。出る時は立てる。この違いは何だ。
「イプシロン。入る時も足音を立ててくれよ」
「失礼いたしました。次からはそうしますわ」
「次からじゃなくて今から」
「今からはもう出ますので」
扉が閉まった。静かな部屋に戻る。姿見に映る自分を見る。制服が整っている。縫い目が完璧だ。完璧すぎる。
(布がふにって動いたよな)
まだ引っかかっている。だが追及する材料がない。イプシロンは上品に取り繕った。俺は知らないふりをした。知らないふりをするのがこの組織で生きるコツだ。
俺は上着の袖を動かしてみた。動きやすい。裂け目も目立たない。次の誘枴で少しは見栄えがする。しないかもしれない。でも今はこれでいい。
窓の外を見た。午後の日差しが寮の庭を照らしている。静かだ。壁も壊れていない。天井も落ちていない。平和な午後だ。
だが俺は知っている。平和は長く続かない。誘枴は天気のようにやってくる。
「イプシロンの裁縫、また頼もう」
独り言が部屋に響いた。返事はない。当たり前だ。一人だ。だがこの一人の時間も長くは続かない。誰かが来る。誰かが扉を開ける。誰かが窓から入る。
その誰かがイプシロンで、また布がふにって動くかもしれない。
俺は姿見から目を離した。