囮の実力者になりたくて!Return15   作:ボルメテウスさん

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死体のない殺人事件

屋上の風が強かった。

 

初夏の空は青すぎるほど青く、手すりに干した洗濯物があればまだ飛んでいきそうだ。飛んでいけばいいのに。飛んでいけば俺は今、寮の部屋で静かに昼寝できていた。

 

「シド」

 

アレクシアが屋上の扉を開けて入ってきた。金髪が風に舞う。凛とした歩き方だ。俺は給水塔の陰に隠れていた。隠れた理由はない。昼寝の場所を探しただけだ。探した結果、ここに着いた。着いた瞬間に二人が来た。不運だ。いつもの不運だ。

 

「シド、いたのね」

 

「いたよ。屋上には僕がいる」

 

シドが手すりに寄りかかって振り返った。いつもの爽やかな笑みだ。

 

「用事は」

 

「話があるの」

 

「話すと長くなるやつだ」

 

「長くないわ」

 

「長くなるやつだ」

 

「五分」

 

「十分」

 

「七分」

 

交渉が成立したらしい。シドが手すりから離れてアレクシアの方へ向き直る。俺は給水塔の裏で息を止めた。出るタイミングを逃した。今出れば「盗み聞きしていたのか」と言われる。盗み聞きなどしていない。たまたま屋上にいた。ただし七分前から。

 

(出るな。動くな。寝たふりは無理だ。目立たない方向へ)

 

給水塔の陰は目立たない。だが夏場の日差しは容赦ない。陰が狭い。狭い陰に押し込められた俺の体勢は中腰だ。足が痺れ始めた。

 

「事件の件だけど」

 

アレクシアが切り出した。

 

「ひと段落ついたわ。あなたの容疑も晴れた」

 

「それは助かるね」

 

「迷惑をかけたわね」

 

「うん」

 

「それだけ?」

 

「感謝してるよ」

 

「してない顔をしてるけど」

 

「顔は変えられないんだ」

 

シドが笑った。笑って誤魔化す。いつもの手だ。

 

「姉が専門の調査部隊を立ち上げることになったの」

 

「専門の」

 

「私も協力するつもりよ」

 

「ほどほどにね」

 

シドの声が少し平らになった。平らな声で「ほどほど」と言う男の中身はいつも計算ずくだ。

 

「ほどほどって何よ」

 

「深入りしないってことだよ。安全第一」

 

「あなたに安全と言われたくないけど」

 

「言われるより言う方が安全だからね」

 

会話の温度が少し変わった。アレクシアの声に棘が混じった。シドの笑みが少し深くなった。俺の足の痺れが進行した。

 

「それから」

 

アレクシアが少し間を置いた。間の中で風が強く吹いた。

 

「あなたが前に私の剣を好きだと言ってくれたこと」

 

「言ったね」

 

「礼を言うわ」

 

「礼」

 

「事件を経て、自分の剣を少し好きになれたの」

 

シドが一瞬黙った。一瞬だ。だが俺は見た。シドが黙る時は珍しい。黙る時に考えている。考えている時は計算している。計算している時は後に何かが起きる。

 

「あなたのおかげじゃないけれど」

 

アレクシアが付け足した。

 

「一言余計だね」

 

「事実よ」

 

「事実は時として暴力的だよ」

 

「あなたの言葉も時として暴力的よ」

 

「暴力は嫌いだよ」

 

「嘘ね」

 

「暴力は使わない。使うのは言葉だけだ」

 

「言葉も武器になるわ」

 

「武器にならない言葉を選んでるつもりだよ」

 

「つもり、ね」

 

二人の会話に温度が戻った。元の温度だ。からかいと反発が混ざった温度。俺の足の痺れが限界に近づいた。

 

「で、もう一つ」

 

アレクシアが声を落とした。落とした声が風に乗った。給水塔の裏まで届いた。聞こえた。聞きたくない。聞こえた。

 

「私たち、付き合っているふりをしていたわよね」

 

「してたね」

 

「ゼノンが死んだから、もう続ける必要はないのよね」

 

「ないね」

 

即答だった。シドの即答に迷いがない。俺でさえここまで即断しない。いや、俺ならもっと速く断るかもしれない。だがシドの断り方には一種の潔さがあった。目的が終わった手段は捨てる。それがシドだ。

 

アレクシアが沈黙した。沈黙の中で風が吹いた。沈黙の中で俺の足が痺れ切った。痺れが膝を越えて太腿に達した。

 

「もう少しこの関係を続けてみないかしら」

 

来た。

 

俺は給水塔の裏で目を閉じた。来た来た。予想していた。予想していたからこそ出られなかった。出たら「聞いてたの」と言われる。聞いていた。聞いている。だが聞いていることと盗み聞きは違う。違うと言い張る。

 

「続けてみないか」

 

アレクシアの声が少し揺れた。揺れが揺れであってほしかった。揺れが揺れであれば、俺は盗み聞きをやめて堂々と出ていけた。だが揺れの中に何か別の温度が混じっていた。混じった温度は恋愛コメの温度だ。恋愛コメの温度の会話を盗み聞きした男が出ていけるか。出られない。

 

シドが笑った。爽やかに笑った。笑みの質が変わった。今までの笑みとは違う。笑みの裏に鉄板がある笑みだ。

 

「お断りだ」

 

即答だった。だが即答の上に中指が立った。

 

「?」

 

アレクシアの顔が凍った。凍った顔が次の瞬間に沸騰した。

 

「中指!?」

 

「返事の代わりだよ。明確な拒絶の意思表示だ」

 

「意思表示の方向が間違ってるわよ!」

 

「方向は合ってる。合ってるからこそ中指だ」

 

「合ってない! 合ってる方向はこっちよ!」

 

アレクシアが剣に手をかけた。

 

(出るか。出ないか。出るなら今だ。出ないなら一生出ない)

 

「シド。あなたという人は」

 

アレクシアが剣を抜いた。銀色の刃が日差しを反射した。反射した光が給水塔の裏まで届いた。眩しい。死因が眩しさなら笑えない。

 

「誘いを中指で返す男は初めてよ」

 

「初めては記念に残しておくといいよ」

 

「残さないわよ!」

 

「じゃあ中指も残さない」

 

「残すわよ! あなたの首に!」

 

「首に中指は合わないよ」

 

「中指じゃないわよ! 剣よ!」

 

「剣も首に合わないよ。斬るものだ」

 

「斬るわよ!」

 

シドが手すりから離れた。離れた動作が軽い。アレクシアが踏み込む。踏み込みが速い。シドが横へずれる。ずれ方が緩い。緩いくせに届かない。アレクシアの剣が空を切る。

 

「待て待て待て」

 

「待たない」

 

「交渉の余地は」

 

「ない」

 

「七分」

 

「三秒」

 

「短すぎる」

 

「斬られる方が短くなるわよ」

 

俺の足が限界を迎えた。限界を迎えた足が勝手に動いた。動いた拍子に給水塔の裏から体が出た。

 

「あ」

 

出た。見つかった。二人の目が俺に向いた。同時に。

 

「・・・エロゲ?」

 

シドの声が裏抜けた。珍しい。裏抜けるシドを初めて見た。

 

「・・・いつからいたの?」

 

アレクシアの剣が下がった。下がったがまだ抜いている。

 

「最初から」

 

「最初って」

 

「屋上に入った時から」

 

沈黙が降りた。沈黙の中で風が吹いた。吹いた風が俺の沈黙を運んでいった。

 

「聞いてたの」

 

アレクシアの声に鉄が混じった。

 

「聞いてない」

 

「いたんでしょ」

 

「いたけど聞いてない。寝てた」

 

「寝てたのに起きてるの」

 

「痺れて起きた」

 

「何が痺れてるの」

 

「足。給水塔の裏、狭いんだよ」

 

シドが笑い始めた。笑いながら俺の方へ歩いてくる。

 

「助けに来たの?」

 

「来てない。逃げようとした」

 

「逃げた先にいたのがここ」

 

「そう。最悪のタイミングで出た」

 

「最悪だね」

 

シドが笑った。笑って俺の肩を叩いた。叩いてからアレクシアの方を見た。

 

「アレクシア。彼は関係ないよ」

 

「関係ないけど全部聞いてたのね」

 

「聞いてない。寝てた」

 

「寝てた人は起きて逃げないわよ」

 

「起きた。痺れたから」

 

「痺れのせいにしないで」

 

アレクシアの剣が下がった。完全に下がった。下がった分、俺の脅威レベルが上がった。剣を持った王女に睨まれた。

 

「エロゲ。今の話、誰にも言わないで」

 

「言わない。ていうか何を言えばいいのか分からない」

 

「分からなくていいのよ。分かったら斬る」

 

「分からない。絶対分からない。誓う」

 

「誓うって何に誓うのよ」

 

「足の痺れに」

 

アレクシアが剣を鞘に戻した。戻す動作が速い。戻してから深呼吸をした。深呼吸してから俺とシドを交互に見た。

 

「二人とも、今日のことは忘れなさい」

 

「忘れる」

 

「忘れる」

 

俺とシドが同時に答えた。同時に答えたのがまずかったかもしれない。同時に答えるのは示し合わせたみたいだ。示し合わせていない。示し合わせる暇もなかった。

 

「嘘ね」

 

「本当だよ」

 

「嘘よ」

 

「本当だって」

 

「嘘」

 

「本当」

 

アレクシアが背を向けた。扉へ向かう。扉を開ける前に振り返った。

 

「シド」

 

「何」

 

「中指、忘れないわよ」

 

扉が閉まった。風が吹いた。吹いた風が屋上の静寂を運んでいった。

 

「・・・シド」

 

「何」

 

「中指はやりすぎだろ」

 

「明確な意思表示だよ」

 

「明確すぎるんだよ。王女に中指立てる奴があるか」

 

「あるよ。僕だ」

 

「お前だけだよ」

 

シドが手すりに寄りかかった。寄りかかって空を見上げた。青い空だ。青すぎる。

 

「エロゲ。一つ聞くけど」

 

「何」

 

「あの話、誰にも言うな」

 

「言わないって言っただろ」

 

「言ったけどもう一度言って」

 

「言わない。絶対に。足の痺れに誓う」

 

「変な誓い方だね」

 

「お前が笑うからだ」

 

シドが笑った。笑ってから屋上を見回した。見回してから俺を見た。

 

「血痕」

 

「何」

 

「床。見て」

 

俺は床を見た。見た。

 

血痕だった。

 

大量の血痕だった。

 

事件の痕跡だ。掃除が行き届いていない。行き届いていないというか、そもそも掃除の対象になっていない。

 

「これ、誰の血」

 

「知らない」

 

「知らないって」

 

「知らないよ。事件の痕跡だ」

 

「事件の痕跡が残ってるの、知ってたか」

 

「知ってた。今気づいた」

 

「今気づいたのか」

 

「屋上にはよく来るよ。血痕は今まで気にしたことがなかった」

 

気にするだろ普通。だがシドは気にしない。シドにとって屋上の血痕は風景の一部だ。

 

「あとで誰かが騒ぐよ」

 

「騒ぐね。死体がないから」

 

「死体は大事だな」

 

「死体のない血痕は 七不思議になるんだよ」

 

「なるのか」

 

「なる。学園七不思議の一つ。屋上の血痕。犯人も被害者も不明」

 

「不明って。お前が一番詳しいだろ」

 

「詳しくないよ。僕はモブだ」

 

「モブが中指立ててるだろ」

 

「モブも時に意思表示をする」

 

「王女に対してするな」

 

シドが笑った。笑って屋上を見回した。血痕が風景に溶けている。溶けているが赤い。赤すぎる。

 

「死体のない殺人事件」

 

「事件じゃないだろ」

 

「事件だよ。血が出てる」

 

「血が出てるのは事実だが事件かは別だろ」

 

「事実は事実だよ。事実は事実として語る」

 

「お前の口癖だなそれ」

 

「口癖じゃない。事実だ」

 

「事実だ事実って。事実の中身は誰も知らないだろ」

 

「知らない事実は七不思議になる」

 

「なるのかよ」

 

「なるよ。後で生徒が騒ぐ」

 

「騒ぐか」

 

「騒ぐ。そして噂が広まる。屋上に血が出た。死体はない。犯人はいない。被害者もいない」

 

「被害者がいない殺人事件って何だよ」

 

「七不思議だよ。不思議は説明しちゃいけない」

 

シドが手すりから離れた。離れてから俺を見た。

 

「エロゲ」

 

「何」

 

「足、治った?」

 

「治った。何とかな」

 

「治ったなら帰るよ」

 

「帰るのか」

 

「帰る。屋上は風が強い」

 

「風が強いのは分かった」

 

「分かったなら帰る」

 

「一緒に帰るか」

 

「いや別々に帰る」

 

「何で」

 

「同時に帰ったら怪しまれる」

 

「何が」

 

「何も。ただのモブの帰宅だ」

 

シドが屋上の扉を開けた。開けてから振り返った。

 

「中指の話、忘れて」

 

「忘れない。アレクシアも忘れないって言ってたぞ」

 

「忘れてるよ。忘れるつもりだ」

 

「忘れるつもりと忘れるは違うだろ」

 

「同じだよ。僕にとっては」

 

「同じじゃない」

 

「同じだ。さよならエロゲ」

 

シドが扉を出ていった。足音が遠ざかっていく。遠ざかって、消えた。

 

俺は屋上に残された。

 

血痕が残された。

 

風が吹いた。血痕は動かない。動かないが、赤い。

 

俺は血痕を見下ろした。見下ろしてから空を見上げた。青い空だ。青すぎる。青い空の下に赤い床。赤い床の上に誰もいない。誰もいない屋上で俺一人が中腰の足を伸ばしている。

 

「・・・死体のない殺人事件か」

 

独り言が風に乗った。

 

乗った独り言は誰にも届かなかった。

 

俺は立ち上がった。足の痺れは引いていた。引いていたが、屋上の階段を降りる時、まだ少しだけ残っていた。

 

後にこの屋上は「死体のない殺人事件現場」として学園七不思議の一つに数えられることになる。

 

犯人は不明。被害者も不明。経緯も不明。

 

ただ血痕だけが残った。

 

残された血痕と、その場に居合わせた三人の記憶だけが、この事件の全てだった。

 

記憶は風化する。血痕は残る。

 

そして俺の足の痺れは、その日の夜には消えた。

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