囮の実力者になりたくて!Return15 作:ボルメテウスさん
磨き上げられた床が靴の裏を滑らせる。天井が高い。調度品が並ぶ廊下の両脇に、値段の想像もつかない壺や絵画が等間隔で鎮座している。
(一つでも割ったら俺の生涯収入が消える)
カゲノー男爵家の屋敷。初めて足を踏み入れた瞬間、全身の筋肉が緊張した。戦場よりもここの方が危険だ。戦場なら殺されるだけだが、ここでは賠償請求が待っている。
「ようこそ。カゲノー家へお越しいただきありがとうございます」
応接室の扉が開いた。
現れたのは黒髪の少年だった。整えた髪、控えめな微笑み、恭しく差し出された手。
「…シド、お前今何の役を演じてる?」
扉が閉まった瞬間、俺は小声で尋ねた。
「失礼ですが、僕の何が不自然でしょうか」
シドは笑顔を崩さない。声のトーンが一段高い。姿勢がいい。目が合っていない。全てが作り物だ。
「全部だ。お前がそんな喋り方をする人間じゃないことくらい、前世から知ってる」
「あー…うん。まあね」
途端に背筋が曲がった。微笑みが消え、代わりに気の抜けた顔が戻る。椅子に座るなり足を組み、掴んだティーカップを両手で包む。あと五分で来る客の前では絶対に見せない姿だ。
「で、なんで俺が呼ばれたんだ?」
「食事会だよ。学園が始まる前に僕の友人を家族に紹介したいって言ったら、父が良いと言ってくれて」
「お前の友人って俺だけなのか」
「他に心当たりある?」
ない。否定できなかった。
「招待されても居心地が悪いだけだぞ。こんな豪華な屋敷で飯を食ったら、席を外す時に何か壊す気がする」
「壊すなよ」
「壊さないように気をつける。壊したらお前のせいにする」
「僕のせいにするな」
互いに遠慮がない。これが俺たちの普段の距離感だ。だがこの距離感を保てる場所は、人目のない時だけらしい。
「お前姉と両親の前ではあの調子でいくのか」
「当然だよ。僕は目立たない冴えない次男だからね」
「目立たないのと演技するのは違うだろ」
「同じだよ。目立たないキャラを演じ切ることも、陰の実力者の修行の一部だからね」
(全く筋が通っていない)
反論しようとした時だった。
カツン。
廊下から硬い靴音が響いた。
カツン、カツン、と規則正しい。音量は控えめだが、一歩ごとに床を確かめるような重みがある。
シドの背筋が一瞬で伸びた。組んでいた足が解かれ、両手が膝の上に揃えられた。
(速い。切り替えが速すぎる)
俺も口を閉じた。二人の会話が同時に止まる。
扉が開いた。
「シド。お客様かしら」
入ってきたのは、一人の女性だった。
腰まで流れる黒髪が歩みに合わせて揺れている。艶がある。整えられているが飾り気がない。実用性を優先した長さだと直感した。
赤い瞳が応接室を一瞥し、俺を捉え、次にシドを捉えた。意志の強さが色にまで滲んでいる。
隙なく伸びた背筋。細身だが無駄がない。肩から腕のラインが貴族の令嬢というより剣を握る者のそれだ。立っているだけで部屋の空気が整列する。逃げ道を測っているような圧がある。
上品なドレスを着こなしている。だが指先に剣胼胝が見え、姿勢の芯が衣装の下から透けて見えた。
(逆らってはいけない相手だ)
全身のセンサーが一斉に告げている。この女性は屋敷の主人より危険だ。
「姉さん。こちらエロゲ。僕の学園の友人だよ」
シドの声が一段高くなった。平凡な貴族の次男を演じる声。
「初めまして。クレア・カゲノーよ。シドのお友達になられたのね」
「初めまして。エロゲと申します。本日はお招きいただきありがとうございます」
一礼した。礼儀正しく。この女性の前で失礼があればそれが即座に何らかの罰に変わる気がしたからだ。
「堅苦しくしなくていいわ。今日は家族的な食事会よ」
クレアが微笑んだ。柔らかい笑みだ。だが目が笑っていないわけではない。むしろ笑っている分、観察の解像度が上がっている気がする。
「シド、あなたお客様にちゃんとお茶を出した?」
「出したよ。ほら、そこに」
「冷めているわ。淹れ直して」
「あ、うん。すぐ」
シドが立ち上がった。この男がこんなに素直に動くのを見るのは初めてだ。
(あいつ姉の前だと本当に弱いな)
待て。これは使える。
俺は心の中で小さく笑った。普段俺を外部電源扱いして平然としている男に、天敵がいる。しかもその天敵は今、目の前にいる。状況次第では俺の立場が逆転する可能性がある。
* * *
食事は豪華だった。
長いテーブルに並ぶ料理の数が多く、それぞれの皿が小さな芸術品のように整えられている。カトラリーが三種類並んでいて、どれから使うか分からない。俺はシドを盗み見て合わせた。
カゲノー男爵と夫人は上座に座り、穏やかに会話を楽しんでいる。二人とも品が良い。息子の友人を歓迎する温かさがある。
(普通の家族だ。少なくとも表面上は)
問題はクレアだった。
彼女は食事をしながら観察していた。俺の箸の持ち方、シドの姿勢、二人の間の距離感。すべてを見逃さない目で、静かに情報を集めている。
「エロゲさん。あなたとシドはどうやって知り合ったのかしら」
「…山歩きをしていて、道に迷った時に助けてもらったのが始まりで」
嘘ではない。ただし「助けてもらった」の内容が一般的とは異なるだけだ。
「まあ。シドが人を助けるなんて珍しいわね」
「姉さん、僕だって人のことは言えないけど一応剣士の端くれだよ」
「端くれね」
クレアの視線がシドの手を一瞥した。剣胼誌を見ているのだ。シドはそれを悟り、さりげなく手をテーブルの下へ隠した。
(隠しても無駄だ。あの人は絶対見てる)
「エロゲさんは剣をお稽古されているの?」
「いえ、全く。俺は剣術よりも事務方というか、書類仕事の方が得意で」
「事務方? 学園生の事務方?」
「ええと、家の書類整理を手伝っていまして」
「…そう」
クレアが小さく頷いた。納得していない顔だが追求は止まった。助かった。
会話が進むにつれ、緊張が少しずつ解けていった。カゲノー男爵は昔話を始め、夫人は料理を勧めてくれる。シドは平凡な次男を演じ続け、俺は無難な返事で乗り切った。
(終わった。これで無事に帰れる)
そう思った瞬間だった。
食事中、何かを取ろうと腕を伸ばした拍子に袖口がずれた。
手首から前腕にかけて、赤い痕が走っている。固定具の跡だ。数日前にゼータに回収された時の拘束痕ではなく、もっと古い、定期的に同じ箇所を締め付けられた痕だ。
正確に言えば魔力供給の際に腕を固定されていた痕だが。
空気が変わった。
クレアの箸が止まった。赤い瞳が俺の腕に吸い付いている。
(まずい)
袖を引こうとしたが遅かった。
「エロゲさん。その腕の痕は何かしら」
静かな声だった。問いかけではなく尋問だ。
俺は反射的にシドを見た。
なぜなら、その痕をつけたのは間違いなくこいつだからだ。
「あれはお前の弟に固定された」
口に出してから後悔した。出した。言ってしまった。
全員の視線がシドへ向いた。
シドの箸が止まった。一瞬だけ目が泳いだのが見えた。この男の目が泳ぐのを見るのは初めてだ。
「…姉さん、あれは魔力制御の練習を手伝っただけだよ」
「魔力制御の練習?」
「そう。僕とエロゲは魔力制御の自主訓練をしていて、安全のために腕を固定していたんだ」
シドの説明は的確だった。嘘ではない。だが真実の全部でもない。
「固定してから同意を求めるのは手伝いと言わない」
俺は反論した。シドだけ逃げるのは許さない。
「同意は求めたよ」
「固定した後に求めただろ。断れる状態じゃなかった」
「物理的には断れたよ」
「腕を固定しておいて物理的って言うな」
シドと俺が同時に睨み合った。クレアは黙って二人を見ている。
「つまり」
クレアが口を開いた。二人の会話が一瞬で止まる。
「あなたたち二人で勝手に危険な魔力制御訓練をしていた、ということかしら」
「危険じゃないよ。適切な管理の下で――」
「固定具の痕が残る管理?」
シドが口を閉じた。
「エロゲさん。あなたもあなたで、何度もその訓練に付き合っていたのね」
「付き合ったんじゃない。巻き込まれたんだ」
「巻き込まれたのに続けていたのね」
「…止めるタイミングを逃したというか」
「逃したのね」
クレアがゆっくりと箸を置いた。
「シド」
「はい」
「あなた、学園に入ったらもっと適切な指導者のもとで訓練しなさい。友人を巻き込んで怪我をさせるような自主訓練はもう禁止よ」
「僕は怪我させてない」
「痕が残っている時点で怪我よ」
正論だった。反論の余地がない。
「そしてエロゲさん」
「はい」
「あなたも無理な訓練に付き合わなくていいのよ。断れないなら私から言っておくわ」
「…ありがとうございます」
ここだけは素直に言えた。
クレアの視線が俺とシドを交互に往復した。
「二人とも。学園に入ったら私が監督するわ」
(監督)
食事会のはずが監督が始まった。
シドが横で小さく息を吐いた。その顔には「余計なことを言うな」と書いてあった。
お互い様だ。
腕の痕一つで、俺たちは共犯として並べられた。正しくないか。俺は被害者でシドは加害者だ。
だがクレアの前では、その区別はないらしい。
(せめて俺だけは無罪にしてほしかった)
食事は続いた。料理は美味しかった。ただし俺の手元から逃げ道を探める位置にクレアが座っている事実だけが、味を半分にしていた。
「二人とも座って」
クレアが言った。言い方は控えめだったが、声に逆らえば物理的に押し込まれそうな響きがあった。
食後の応接室。紅茶が三つ並んでいる。クレアは正面の肘掛け椅子に腰を下ろし、エロゲとシドは向かい側の長椅子へ並んで座らされた。
まるで裁判だ。
被告席が二つあるのが不公平だ。被告が二人いるからだ。
「改めて聞くわ。あなたたち、何をしていたの」
クレアの赤い瞳が固定具の痕を一瞥してから、俺の目へ移った。
「シドが俺を実験台にしたんです」
即答した。迷っていない。ここで迷ったら負けだ。俺は被害者だ。固定されたのは俺だ。痛かったのも俺だ。主犯はあいつだ。
横でシドの足が動いた。
ドン。
脛を踏まれた。
「君が自分の魔力を役立てたいって言ったんだよ」
シドが平凡な次男の笑顔を浮かべたまま、声のトーンだけ一段低い。姉の前では良い子を演じつつ、俺を小人足蹴にする。この男の二面性は前世から変わっていない。
「役立てたいと言ったのは事実ですけど、固定具まで使うとは聞いてません」
「暴れて器具を壊そうとしたからだよ」
「暴れたんじゃない。痛くて動いたんだ」
「それを暴れると言うの」
「言わない」
「言うよ」
「言わない!」
「エロゲさん」
クレアの声が割った。静かだ。だがその静けさが二人の口を同時に閉じさせた。
「順番に聞くわ。まず、この訓練を提案したのはどちら」
「こいつです」
「彼です」
同時だった。
クレアの眉が動いた。ほんの少し。だが確実に。
(まずい。同時に言うと共犯に見える)
「つまり、お互いに相手が始めたと」
「いや俺は――」
「エロゲさんが自分の魔力を制御できなくて困ってたから、手伝っただけだよ」
シドが俺の言葉を遮った。正確に言うと、俺の言葉を飲んでから新しい言葉を俺の口に放り込んだ。
「制御できなくて困ってたのは事実だ。でもそれはお前が俺の魔力を勝手に引っ張った時に――」
「いつもの基礎的な魔力循環訓練だよ。ね、エロゲ」
シドが俺の名前を呼びながら脛をもう一度踏んだ。今度は強めに。
(こいつ)
俺はシドの足を踏み返した。ギリッ。革靴の底が革靴の上で潰れる音がした。
「基礎的な、魔力循環」
クレアが復唱した。その声に「本当に?」という温度が張り付いている。
「そうです。基礎的なんです」
「ごく基礎的だよ」
「基礎的という割には固定具の痕が残っているのね」
「それはシドが強く締めすぎたからで」
「暴れたからだよ」
「暴れてない」
「暴れた」
「暴れてないって」
「エロゲさん。シド」
また止まった。クレアの声は制止音だ。
「訓練の内容を具体的に教えてくれるかしら」
横でシドが俺を見た。俺もシドを見た。目が合った。
ここだけは合わせる。合わせないと両方沈む。
「基礎的な魔力循環です。魔力を安全に流す訓練で」
「そう。基礎的な魔力循環。安全に、ね」
「安全でした。俺は一本も骨が折れてません」
「固定具で腕を固定されて、魔力を流した。それが安全?」
「……安全な方向でやりました」
「方向が安全なら結果も安全とは限らないわ」
反論の余地がない。この人は論理の刃を逆手で握っている。切らないのに刃先を向けられる。
「途中で止めようとしたことはある?」
クレアが俺を見た。
「あります。何度も言いました。止めてくれと」
「止めようとしたよ。実際」
シドが即答した。嘘だ。止めるふりをしただけだ。「休憩する?」と聞いておいて、俺が「最後までやれ」と言ったら即座に再開した男が何を言っている。
「止めようとしたの?」
「止めようとした」
「止まらなかったのはなぜ」
「エロゲが続けるって言ったから」
「俺が言ったのは、ここまでやったら最後までやれ、だ。最初から続けるつもりだったお前の都合を俺に押し付けるな」
「つまり二人とも止める気はなかったのね」
「ありました!」
「あったよ」
また同時だった。クレアの眉がもう一度動いた。
(同時に言うな。同時に言うと白々しくなる)
だが一人で答えればシドが補正を入れ、シドが答えれば俺が補正を入れる。結局同時になる。この構造は最初から壊れている。
「最後に一つだけ」
クレアが紅茶を一口飲んだ。カップを戻す音が小さく響く。
「この訓練、これからも続けるつもり?」
「」
「」
二人が同時に黙った。
続けるつもりか。続けるしかない。俺の魔力がシドの計画に必要だから。だがそれをクレアの前で言えるわけがない。
「続けない」
シドが先に答えた。平凡な貴族の次男の顔で、嘘をついている。
「俺も続けない」
俺も嘘をついた。
クレアが二人を交互に見た。
赤い瞳が、俺の腕の痕、シドの顔、俺の目、シドの手を順に往復する。
「信用できないわね」
「本当です」
「本当に」
「本当にだとしても、二人で自主訓練をしている事実は変わらないわ」
クレアがカップを置いた。
「固定具を使い、痕が残り、止めようとして止まらなかった。あなたたちの言い分はどちらも危険な訓練を正当化しているだけ」
「正当化じゃなくて、実際は安全で」
「エロゲさん。安全な訓練で痕は残らないの」
反論不可能だった。
「あなたたちが自分たちの判断で危険を管理できないなら、私が管理する」
クレアが立ち上がった。
「学園に入ったら、魔力制御訓練は私の監督の下で行う。二人きりでの自主訓練は禁止。いいわね」
「…はい」
「…分かったよ」
俺とシドが同時に頷いた。
クレアが背を向け、部屋を出ていった。
扉が閉まる音が裁判の終わりを告げた。
「お前のせいだ」
俺が先に言った。
「僕のせいじゃない。君が腕を見せたのが悪い」
「見せたんじゃない。ずれただけだ」
「ずれたのは袖の責任じゃなく、君の動きの責任だよ」
「お前、今どさくさに紛れて俺に責任を押し付けたろ」
「押し付けてない。事実を述べただけ」
「同じだ」
「同じじゃない」
「同じだ!」
「…声大きいよ。姉さん戻ってくる」
二人が同時に口を閉じた。
静かになった応接室で、冷めた紅茶が三つ並んでいた。
(学園に入ったら監督)
俺の腕の痕が、監督つきの訓練へ昇格していた。
(やっぱりお前と関わるとロクなことがない)
横のシドが、平凡な貴族の次男の顔に戻って紅茶を啜っている。
この男の顔の切り替えだけは、本当に前世から変わらない。
クレアが部屋を出ていった。
扉が閉まる音が、開始の合図だった。
俺とシドが同時に動いた。俺は窓へ、シドは扉へ。
窓の鍵を確認する。閉まっている。留め具が錆びついていて硬い。無理だ。時間がかかる。
「窓は?」シドが扉から顔を半分出して聞いた。
「無理。鍵が固い」
「裏口は廊下の突き当たりを左。使用人が二人巡回してる」
「知ってるのか?」
「この家で育ってるからね」
当然だ。だがその当然が腹立たしい。
「お前が先導しろ」
「無理。姉さんが戻ったら僕がいないと目立つ」
「俺がいない方が目立らないだろ」
「客人が消えた方が目立つよ」
「どっちだよ」
「どっちも」
どっちもダメという結論に至った。
足音が遠ざかる。クレアが訓練着を取りに行った時間は、往復で五分程度と見積もっている。猶予は少ない。
「行くぞ」
俺が先に立ち上がった。シドが後に続く。
廊下へ出る。磨き上げられた床が靴音を拾む。静かに歩こうとしても、この家の床は歩くこと自体を宣告する。
(カツン。カツン。まるで自分の居場所を全村放送してるみたいだ)
角を曲がった所で、前方に使用人の背中が見えた。
「止まって」
シドが俺の腕を掴んで壁際へ引っ張った。
「なんで俺が隠れなきゃならないんだ」
「声が大きい」
小声だ。小声で言った。だがシドの耳には届いていないらしい。
使用人が角を曲がって消えた。
「今だ」
二人が同時に動いた。
廊下を半分駆け抜けた時、前方から別の使用人が現れた。
「!」
俺とシドが同時に立ち止まる。
使用人が一瞬立ち止まった。そして会釈をして通り過ぎようとした。
「あの、お客様お忘れ物で――」
「大丈夫です。何も忘れてません」
即答した。速すぎた。使用人の目が点になった。
「ああ、いえ、トイレを探しておりまして」
シドが補足した。補足になっていない。トイレは逆方向だ。
使用人の視線が廊下の奥へ向く。トイレはあっちです、と言いかけて、口を閉じた。困惑している。
「ありがとう」
俺は歩き出した。シドも歩き出した。背中に視線が刺さっている。
(トイレ。トイレかよ。この家で育ったお前がトイレの方向を間違えるのか)
横でシドが小さく肩をすくめた。見えている。聞こえている。だが訂正はしない。訂正すれば状況が複雑になるだけだ。
裏口が見えた。
扉の前に使用人が一人立っている。巡回中だ。背中を向けているが、いつ振り向くか分からない。
「おい。どうする」
「君が囮になって」
「なんで俺が」
「僕は姉の弟だ。この家で不自然に動くのは君だけ」
「お前が不自然に真面目な顔して歩いてるのが一番不自然だろ」
「不自然じゃないよ。これが僕の普段の顔だ」
「それが一番不自然なんだよ」
使用人が振り返る頻度は、大体十五秒に一度だと見積もった。背中を向けている時間は十分だ。
「同時に通る。音を立てない」
シドが提案した。妥協案だ。
「足が遅いぞ俺」
「知ってる」
「知ってるなら考慮しろ」
「考慮した。君が遅い分、僕がゆっくり歩く」
「お前がゆっくり歩くと不自然だろ」
「じゃあ君が速く歩いて」
「速く歩けないから言ってるんだろ」
会話だけで猶予が消えていく。使用人が振り返るまで残り十秒。
「行くぞ」
俺が動いた。シドが動いた。
裏口まで五歩。四歩。三歩。
使用人が振り返る気配がした。
二歩。
「! あのお客様どちらへ」
「ごめんなさい急用が」
俺が口を開いた。同時にシドが俺の背中を押した。
ドン。
押された勢いで裏口の扉へ倒れ込む。扉が開いた。外の空気が流れ込む。
(出た)
地面が見える。草が見える。逃げられる。
その瞬間、俺の手がシドの襟をつかんでいた。引っ張る。引っ張って、こいつを中に残す。俺だけ外へ出る。その算段だった。
だが。
襟をつかんだ手と同時に、シドの手が俺の襟をつかんでいた。
引っ張った。引っ張られた。
二人が裏口の枠で挟まった。
「離せ」
「君が先に離せ」
「同時に離すか」
「同時に離す」
離さなかった。どちらも。
「離してないよ」
「お前も離してない」
「お前が離してないから離せない」
「お前が離してないからだ」
言い合っている間に、背後から靴音が近づいてきた。硬い音。規則正しい。聞き覚えがある。
二人が同時に振り返った。
クレアが立っていた。
訓練着を両腕に抱え、赤い瞳が二人を順に映している。怒鳴っていない。声を荒らげていない。ただ静かに、確実に、逃げ道を塞ぐ角度で立っていた。
「逃げたのね」
静かだ。静かすぎる。
「逃げたんじゃない。空気吸いに」
「トイレの後は新鮮な空気?」
トイレの嘘がここで刺さった。トイレは逆方向だった。クレアは知っている。
「どちらが主犯なの」
俺とシドが同時に指を伸ばした。
俺の指がシドを。シドの指が俺を。
「こいつです」
「彼です」
二人の声が重なった。
クレアが二人の指を交互に見て、ゆっくりと瞬いた。
「そう。共犯なのね」
「そうはならないだろ!」
二人が同時に叫んだ。
「主犯と被害者だ!」
「被害者と加害者だよ」
「お前が加害者だろ」
「君が自分から腕を出した」
「出したんじゃない。ずれただけだ」
「ずれたのも君の責任だよ」
「どっちの責任だ」
「二人とも」
クレアが割った。声は静かだ。静かなのに重い。
「どちらが始めたか、どちらが主犯か、どちらが被害者か。全部聞いたわ」
「で、結論は」
「共犯」
「だからそうはならないだろ!」
また同時だった。クレアの論理は、俺たちの主張を全部すくい取って一つにまとめてしまう。個人の弁明が成立しない構造だ。
「招待客への扱いじゃないですこれ」
俺が最後の抗議をした。
「家族同然なら遠慮はいらないわ」
クレアが訓練着を二着、俺とシドの目の前に差し出した。
「着て。訓練場へ行くわ」
「聞いてないんですが」
「聞く必要はないわ。あなたたちは自分たちの判断で危険な訓練を隠れてやっていた。そう判断したから、今後は私が安全に指導する。以上」
クレアの結論は簡潔だった。简潔すぎて、異議を挟む隙間がない。
「基礎的な魔力循環だと言ったはずです」
「基礎的な訓練で固定具の痕が残るなら、基礎が間違っているの。正しい基礎を教えるわ」
正論だった。痛いほどに正論だった。
「俺は本当に基礎しかしてないんです」
「嘘をつかないで。固定具を使う基礎なんて存在しないわ」
存在しない。確かに存在しない。だがあれは基礎ではなかった。俺の魔力を吸い出す装置だった。その名前は言えない。言えばクレアが「何の実験?」と聞く。聞かれたら答えなければならない。答えればシャドウガーデンに近づく。
近づきたくない。
「…分かりました。着替えます」
「僕も」
俺とシドが訓練着を受け取った。
「訓練着が二着、最初から用意してあったんですね」
「当然でしょう。あなたたちのサイズも調べてあるわ」
サイズを調べてある。招待される前から準備されていた。
(いつから用意してたんだこの人)
「着替えて。五分で」
クレアが背を向けた。
俺とシドが同時に着替えへ向かい、同時に振り返り、同時に小声で呟いた。
「お前のせいだ」「君のせいだ」
言い争う暇もなくクレアの足音が戻ってくる気配がした。
二人が同時に口を閉じた。
裏口から見える庭が遠い。もうすぐ夕暮れだ。
(明日から訓練)
(姉さんの監督付き)
俺とシドが同じことを考えながら同じ服を羽織った。