囮の実力者になりたくて!Return15 作:ボルメテウスさん
奥の部屋は、店先とは別の空気を持っていた。
木の扉一枚隔てただけで、店主の洗剤の匂いと喧騒が消える。代わりに蝋燭の灯りと、壁沿いの棚に並べられた書類の束。整然としている。整然としすぎている。菓子屋の奥に事務所があっても不思議ではないが、問題はその事務所が事務所すぎることだ。
「こちらへどうぞ」
案内してくれたのは、さっきの青い髪の女性だった。今は店員のではなく、落ち着いた足取りで俺たちを奥の部屋へ導いている。姿勢が変わった。接客の姿勢から、迎える姿勢へ。切り替わりが一瞬だった。
俺は知っている。この女を。
「いや、待て」シドが先に歩きながら、何でもないように言った。「アンケートの部屋ってここかい」
「はい。ご案内します」
アンケート。そうだった。俺たちはアンケートに来た。チョコレートの感想を述べに来た。そのはずだ。だが案内する女の背中は、アンケートの担当者にしては真っ直ぐすぎる。真っ直グすぎる背中には覚悟がいる。菓子の感想に覚悟はいらない。
部屋に入った。長机が一つ。椅子が二つ。壁に小さな窓が一つ。書類が積まれた棚が一面。
シドが椅子に座った。座り方が自然だった。自然すぎた。初めて来た場所に自然に座る人間は、ここに座ったことがある人間か、ここが自分の場所だと思っている人間だ。
女がシドに向き直った。
「主様、本日もお越しくださいましてありがとうございます」
主様。
俺の思考が一瞬止まった。止まった分だけ反応が遅れた。遅れた反応が口から出た。
「アンケートの担当者って、そういう呼び方されるのか」
シドが俺を見た。視線が平らだ。何でもないことを見る目だ。何でもないことではない。
「地域によって違うんじゃないかな」
「どこの地域だよ」
「離島とか」
「離島のアンケート担当者が『主様』って呼ぶのか」
「僕に聞かないで」
「お前にしか聞いてない」
女が両手を膝に添えて、少しだけ上体を伸ばした。伸ばした角度が、さっきの接客の時より深い。深い角度には敬意が乗る。敬意の角度調整ができる人間は、敬意を用意している人間だ。
「お客様のご質問は後ほど承ります。まずは主様にご報告を」
ご報告。
俺はシドを見た。シドは窓の外を見ていた。窓の外には何もない。壁があるだけだ。壁を見る人間は、目を合わせたくない人間だ。
「いや俺も聞いていいのか、その報告」
「え、あ、はい。もちろんでございます」
女が俺の方へ向き直った。向き直ったが、一瞬だけシドの方を見た。見た目は「この人に話していいのか」という確認に見えた。見えたが、確認の先がシドだった。シドが小さく頷いた。
頷いた。
俺は頷いたシドを見た。シドはもう窓の外を見ていない。俺を見ている。何でもない顔で俺を見ている。
「じゃあ報告するわね」
女が机の上の書類を一枚取った。取る手が速い。速いが丁寧だ。丁寧で速い。事務の基本だ。この手つきは訓練されている。
「ミツゴシ商会、今月の売上は前月比八割増。チョコレートが牽引してる。これ一本で月商の三割を占めるわ」
報告が始まった。
正確に言えば、報告が始まった。アンケートは始まらなかった。
俺はシドを見た。シドは頷いていた。頷き方が「よくやった」だった。
「すごいね」
シドが言った。言い方が軽い。軽いが、軽い中に一つだけ硬い音がある。硬い音は「続きを言え」だ。
「それでね、商品の回転率なんだけど」
女が書類をめくった。めくる手が少し速くなる。速くなるのは、シドの前だからだ。俺の前じゃない。シドの前で報告している。俺はその横にいる。横にいるだけ。
「チョコレートは在庫回転が十二日。想定より三日短い。作る方が追いついてない」
「作る方が」
俺が口を挟んだ。口を挟んだが、女は止まらなかった。
「はい。生産体制を見直す必要があるわね。人数を増やすか、工程を分けるか。主様、ご指示を」
ご指示。
シドが頷いた。頷きながら、特に考えもせず言った。
「適当にやっといて」
適当に。
俺は机の下で自分の足を見た。足は動いていない。動いていないが、この会話は動いている。動いている方向が分からない。
「適当、でございますか」
「いいよ。ガンマに任せる」
ガンマ。
名前が出た。出た瞬間、俺の中で何かが繋がった。繋がったが、繋がった先が見えない。見えないが、繋がった。
「分かりました。お任せください」
女が深く頭を下げた。下げた角度が、さっきよりさらに深い。
「じゃあ次にね」
女が次の書類を取った。取る手が止まった。止まったのは、俺を見たからだ。俺を見て、止まった。
「あ、そうだ。お客様」
お客様。今の俺はお客様だ。アンケートの回答者だ。チョコレートを食べた感想を述べる人間だ。だが、さっきまでの会話はチョコレートの感想ではなかった。売上の話だった。在庫の話だった。ご指示の話だった。
「お客様の感想も、後で伺ってもよろしいですか。アンケートの件、忘れておりませんので」
忘れていない。忘れていないが、先に報告をした。報告を優先した。優先した理由は、シドがいるからだ。シドがいるから報告が先になる。シドがいるからアンケートが後になる。
俺はシドを見た。シドはまだ何でもない顔をしている。何でもない顔で、何でもないことを言う。
「エロゲ、アンケートは後でいいらしいよ」
「後っていつ」
「後だよ」
「後って今日の後か明日の後か」
「後の後だよ」
「後の後って何だよ」
シドが笑った。笑って、椅子の背に寄りかかった。寄りかかる動作が俺を排除している。排除というより、俺を会話の外に置いている。外に置かれたまま、中の会話を進めている。
「で、ガンマ。他には」
シドが女に向き直った。俺は置いていかれた。
置いていかれたが、俺は黙らなかった。
「シド」
「何」
「お前、ここ来たことあるだろ」
「ないよ」
「ないならアンケート担当者に『主様』って呼ばれないだろ」
「地域によってはあるよ」
「離島の話はもういい」
「じゃあ半島」
「半島でもない」
女が書類を置いた。置いてから、俺を見た。見る目が接客の目に戻っている。戻ったが、完全には戻らない。完全に戻らない目の端に、シドが映っている。
「お客様、ご案内の件ですが。アンケートはこちらの部屋で、後ほど。今は少しご報告を終えさせていただけますか」
報告を終えさせてくれ。頼む。報告を終えさせてくれたら、アンケートに戻る。戻る約束だ。約束なら守る。守るはずだ。
「・・・分かった。終わったら呼んでくれ」
「もちろんでございます。ありがとうございます」
女が頭を下げた。下げた角度が、俺に対してはさっきより浅い。浅いが、礼儀は尽くしている。礼儀を尽くしているが、敬意の量が違う。量が違うのは、俺とシドの間に差があるからだ。差の中身を俺は知っている。知っているが、今は言わない。言わない方がいい。
シドが俺を見た。目が笑っている。笑っている目が「余計なこと言うな」と言っている。
言わないよ。言わない。
俺は椅子に座り直した。座り直して、壁の棚を見た。書類が並んでいる。並び方が整然としている。整然とした書類の背に、数字が見える。売上の数字だ。数字が正確だ。正確な数字を正確に並べられる人間が、この部屋にいる。
ガンマが報告を再開した。声がはっきりしている。はっきりした声で売上を伝える。伝える先がシドだ。シドは頷く。頷くだけでいい。いいが、それだけで通じている。通じているのがおかしい。おかしいが、通じている。
「来月は新商品を入れるわ。試作品はもう上がってる。主様に見てもらいたいんだけど」
「見るよ」
「いつがいい」
「いつでも」
「じゃあ今週」
「今週は・・・来週でいい」
シドが先延ばした。先延ばし方が自然だ。自然に先延ばしする人間は、先延ばしに慣れている。俺も慣れているが、こいつは俺より一枚上だ。
「分かったわ。来週ね。日程は後で伝える」
「よろしく」
ガンマが書類を閉じた。閉じて、俺の方を見た。見てから、一つ深呼吸をした。深呼吸の後に、声を切り替えた。
「お客様。お待たせいたしました。アンケートのご案内をいたします」
声が接客に戻った。戻った声が、さっきまで報告していた女と同じ人間だとは思えない。思えないが、同じ人間だ。
「じゃあアンケートか」
「はい。チョコレートの感想について、少しだけ」
「少しだけな」
「はい。少しだけです」
少しだけ。少しだけだが、俺が聞きたいことは少しじゃない。少しじゃないが、今は聞かない。聞かないでチョコレートの感想を述べる。感想を述べる人間に戻る。戻るしかない。
「何を答えればいい」
「三つだけ。味、値段、また買いたいかどうか」
「味は美味かった。値段は高い。また買いたいかは・・・」
「はい?」
「買いたいけど金がない」
「・・・正直ですね」
「嘘をついても五百ザニーは出ないだろ」
「出ませんね」
ガンマが笑った。笑い方が接客の笑いだ。接客の笑いの中に、一瞬だけ別の温度が混じった。混じった温度は「この人面白い」かもしれないし「この人面白い」かもしれない。どちらにしても面白い。
「ではアンケートは以上です。ありがとうございました」
「これだけか」
「はい。少しだけと言いましたので」
少しだけ。確かに少しだった。少しだけすぎて、俺が聞きたかったことは全部聞けなかった。聞けないまま、アンケートが終わった。終わったが、奥の部屋にはまだ報告書が並んでいる。並んだ書類の背に、俺が知らない数字がある。
シドが立ち上がった。立ち上がって、俺を見た。
「帰るよエロゲ」
「帰るか」
「帰ろう。ヒョロ君たちが待ってる」
待ってる。そうだ。外で二人が待ってる。待ってる間にジャガの手帳に記録が増えている。増えた記録の中に「エロゲとシドが奥の部屋に消えた」と書かれているかもしれない。書かれていたら訂正する。訂正する前に見せない。
「ガンマ。また来るわ」
シドが言った。言い方が「また来る」だった。「また来る」は客の言葉でもあるし、身内の言葉でもある。どちらか分からない。分からないが、ガンマは頷いた。
「お待ちしております。主様」
主様。また出た。出たが、俺はもう突っ込まない。突っ込む元気がない。
「エロゲ様も、またお越しくださいませ」
「ああ。また」
また来る。また来るが、次もアンケートか報告かは分からない。分からないまま、俺たちは奥の部屋を出た。出て、廊下を歩いた。歩いて、店先に戻った。店先にはヒョロとジャガがいた。
ジャガが手帳を閉じた。閉じる速さが怪しい。怪しいが、今は追求しない。
「お待たせ」
「遅いです。三十二分でした」
三十二分。記録されている。
「・・・アンケートは長かったんだ」
「三十二分のアンケート。参考になります」
「参考にするな」
シドが店の扉を開けた。開けて、外へ出た。俺も続く。続いて、ヒョロとジャガも続く。四人が大通りに並んだ。並んだ瞬間、シドが小さく呟いた。
「エロゲ」
「何」
「アンケートの感想」
「美味かったよ。チョコレート」
「そうじゃないよ。奥の部屋の」
「奥の部屋に感想があるのか」
「あるよ。ないかな」
「ないよ。アンケートしかなかった」
シドが笑った。笑って歩き出した。歩きながら何も言わなくなった。言わないのが、言いたいことがある証拠だ。だが俺は聞かない。聞かないで歩く。歩きながら、ヒョロの声が後ろから届く。
「で、奥の部屋どうだった」
「チョコレート美味かったぞ」
「チョコレートだけかよ」
「チョコレートだけだ」
ヒョロが「ちぇっ」と舌を鳴らした。舌の音が大通りに響いた。響いた音が日常に溶けた。
日常に溶けた音の下で、俺は一つだけ思った。
(主様ってなんだよ)