1 引退直後の部屋で
トゥインクル・シリーズという過酷な戦場を無事に駆け抜け、引退を迎えたトレセン学園のウマ娘たちが、その後、一体何をしているかご存じだろうか。
ドリームトロフィー・シリーズへの移籍?
なるほど、確かにそれはウマ娘にとって最高の名誉であり、一つの理想形かもしれない。だが、あれは無事に引退できたウマ娘の中でも、ほんの一握りの天才と怪物しか参加を許されないプロレースだ。最低でもGⅠクラスで勝ち負けになる実力と、これからも走れる健康な肉体が必要になる。そんなのは全生徒の1%にも満たない、雲の上のお話である。
では、それ以外の「普通の」引退ウマ娘たちが何をしているのか。
もちろん、進学や就職の準備に追われる者もいる。実家の稼業を継ぐために地元へ帰る子もいれば、学園に裏方として残るために資格の勉強を始める子もいる。それらは極めて健全で、まっとうな第二の人生のスタートだ。
ただ、それらの堅実な歩みと並行して、彼女たちが突如として異常なまでの熱を入れ始めるものがあるのだ。
婚活である。
世間では「トレセン学園は婚活会場」なんて言われることもある。純粋に年頃の女の子として恋愛を楽しみたいだけの子もいるので、必ずしも全員が全員、結婚を最終目的としているとは限らないが、とにかく引退した上級生たちの周囲は、むせ返るようなピンク色に染まり上がる。
食堂の隅でも、寮の談話室でも、聞こえてくるのは「誰と誰が付き合い始めた」だの「だれとだれがでテーマパークへ出かけただの」という、砂糖を煮詰めたような甘ったるいピンク色の話ばかりだ。
ちなみにお相手はというとウマ娘同士が多数派を占める。
トレーナーはどうなのかって?
計算してみてほしい。生徒が2000人近くもひしめき合っているというのに、トレーナーの数は100人程度しかいない。毎年300人ほどの新入生が入学しては卒業していく生徒に対して、トレーナーの入れ替わりは年に数人程度。しかも、その中には当然既婚者や、恋愛対象になり得ない年齢層も含まれている。結果として、フリーの優良物件を巡る争奪戦は、GⅠレースよりも熾烈で血生臭いものになる。
それに、血の滲むようなアピールの末に無事に結婚できたとしても、相手の職場は「毎日若くて才能あふれるウマ娘に囲まれている環境」なのだ。心配のあまり、自分も資格を取って夫のサブトレーナーになり、四六時中隣で目を光らせている……なんていう、笑うに笑えないエピソードを持つトレーナーもいる。
さて。ここまで前置きとして長々と学園の現状をお話ししてきたが、結局のところボクが何を言いたいかというと。
誰か、ちょっとボクを助けてくれないだろうか。
◇
「ねえおハナちゃんって、みかんの白いところ、取る派?」
「取らない派」
「アタシも」
「食べるときにいちいち気にならないしね」
「うん」
「むしろ皮ごと食べられるように品種改良されてほしいくらいだよ。ごみも出ないし」
「……食べてみる?」
「なんでそうなるの」
無邪気に差し出されたオレンジ色の球体を無言で押し戻すと、ミスターシービーは「あはは」と喉の奥で楽しそうに笑った。
年が明けて、まだ数日。
ボクはシービーの自室に上がり込み生産性のない時間を過ごしていた。
ふかふかのソファに深く腰を沈めてみかんを食べる。温かいお茶を飲む。
至極の時間である。
窓の外の景色は見るからに寒々しい冬の空模様だが、部屋の中は暖房がしっかりと効いていて春のように暖かい。年末の大一番まで、肺が焼け焦げるような思いをしながら必死にターフを走っていた身としては、これ以上ないほど素晴らしい環境だった。
ただ一つだけ問題があるとすれば。
このソファには大人二人が余裕を持って座れるだけの十分な広さがあるというのに、どういうわけかシービーが、ボクの右半身にぴったりと張り付くようにして座っていることだろうか。
肩が当たっている。さっきからずっとだ。
ボクがみかんの皮をむくために腕を動かすたび、彼女の肘もコツコツと当たる。
「ねえシービー、狭いんだけど」
「そう?」
「そっち、めっちゃ空いてるでしょ」
「おハナちゃん、小さいから大丈夫だよ」
「ボクの体の大きさと、君の座る位置の不自然さはまったく別の問題だよ」
少しだけ距離を開けようと左へずれると、シービーも当たり前のように同じ距離だけずれてきた。
なんなんだ、この空間を埋めようとする引力は。
抗議のために顔を見上げても、彼女はいつもの飄々とした笑顔を浮かべているばかりだ。
悪びれる様子など微塵もない。
まあ、邪魔でどうしようもないほどではないし、こうやってむやみやたら距離を詰めて来るのはいつものことだ。ボクは早々に追及を諦め、むき終えたみかんを半分に割った。
すると、割った片方へ、横からすっと白い手が伸びてきた。
ボクはその手首を、空いている手でがしりとつかむ。
「現行犯」
「えー、一個ちょうだい」
「そこにあるでしょ、まだ箱にいっぱい」
「だって、おハナちゃん、むくの上手だから」
呆れながらも半分渡してやると、シービーは「やった」と素直に受け取り、小動物のように口へ運んだ。
こういうところがあるのだ、この人は。
自分でいくらでもできることでも、ボクがやっていると横からちょっかいをかけて参加してくる。人が封を開けたお菓子をつまみ、人が見ているスマホの画面を横から覗き込み、人が自販機で悩んで選んだジュースを必ず一口欲しがる。
それでいて、ボクが同じことを彼女にやり返しても「いいよ」と普通に全部くれるため、文句の持っていきどころに困ってしまうのだ。
「ん、甘いね」
「ボクの皮むき技術のおかげだね」
「うん。さすがアタシのおハナちゃん」
「適当に相槌打って褒めるんじゃないよ」
シービーはころころと楽しそうに笑うと、今度はボクの肩へ、こつんと自分の頭を預けてきた。
重い、と文句を言うほどの重量ではない。ただ、みかんを食べるにはどう考えても不自然で窮屈な姿勢だ。
「眠いの?」
「ううん」
「じゃあ起きて」
「起きてるよ?」
「そういうことじゃなくて、頭の話」
彼女の頭を軽く押し返そうとすると、今度はボクの肩口にかかっている髪を、彼女の長い指がちまちまとつまみ始めた。
毛先を少し持ち上げて、すっと離す。
またつまんで、指に巻き付ける。
猫じゃないんだから。
「……暇なの?」
「暇だねえ」
「自分の髪で遊びなよ。ボクの何倍も立派で、いっぱいあるでしょ」
「おハナちゃんの髪、触り心地いいんだもん。さらさら」
好きにさせておくと、今度は指先で梳くように撫で始めた。
引っ張られて痛いわけでもないので、まあいいだろう。
ボクはテーブルから自分のスマホを取り上げ、スケジュールアプリの予定表を開いた。
美しい。
圧倒的な、空白。実に見事なまでの白い更地。
先月までは、トレーニングメニューやらトレーナーとの打ち合わせやらレースの遠征予定やらで真っ黒に埋め尽くされていた画面が、今や一片の雲もない青空のように澄み渡っている。
「見てよこれ。来週なんて、配信の予定が二つ入ってるだけ」
「ほんとだ」
シービーがまた横から覗き込んできた。顔が近いので、ボクはスマホの画面を少しそちらへ傾けてやった。
「こっち向けるから、そんなに身を乗り出して寄らなくていいよ」
「見えてるよー」
「じゃあ離れていいんだよ」
「何もない日、多いねえ」
「聞いてる?」
シービーの細い指が、ボクのスマホの画面、その空白部分をトントンと指した。
「火曜日も空いてる」
「空いてるね」
「水曜日も」
「そう。そこが素晴らしいんだよ」
「何するの?」
「起きてから、その日の気分で考える」
何しろボクは、ついに引退したのだ。
長くて苦しかった競走生活にきっぱりと別れを告げ、完全な自由を手に入れたのである。
重賞タイトルには手が届かなかったが、GⅠレースには何度も出走した。賞金と人気を求め、出られる大レースには片っ端から登録して、そのたびに今隣でボクの髪を弄っている彼女をはじめとする「化け物」たちに、手も足も出ないほどこてんぱんにされた。
皇帝シンボリルドルフと、天衣無縫のミスターシービー。ターフを支配する二人がバチバチに競り合い、その圧倒的な覇気と芝の飛び交うの真ん中で、ボクが「ちぬううう!!」と情けない悲鳴を叫びながら必死に食らいついている映像は、SNSで今でもよくおもちゃとして回っている。
冗談抜きで、あの時は本当にプレッシャーで死ぬかと思った。両側から巨大な怪獣に挟まれた一般人の気分だった。
後でそれをネタにして「伝説のレース振り返り動画」を作り、きっちり広告収入は稼がせてもらったけれど。
「昨日は何してたの?」
「お昼過ぎに起きた」
「うん」
「ご飯食べて、溜まってた動画見て、お腹いっぱいになって眠くなったからまた寝た」
「ふふ。忙しいね」
「夜は深夜までゲームした。労働意欲が完全に消え失せたよ」
「配信はするんでしょ?」
「あれはする。生活の足しになるお金は欲しいから」
「おハナちゃんだねえ」
シービーが、くすくす笑いながらボクの頬を指でつついた。
そのいたずらな指をつかんで、下へ下ろさせる。
「ボクの顔に何かついてる?」
「ううん、何にも」
「では触らないように」
「だって、お餅みたいで柔らかいから」
「実際に柔らかかったかどうかの報告もいらないからね」
軽口を叩きながら、ボクは真っ白な予定表をもう一度、うっとりと眺めた。
寮に帰ったら、セールの時に買ってそのまま積んでいるゲームを片っ端から始めてもいい。
昼間から映画を見に行ってもいい。朝ご飯を食べた後、二度寝どころか三度寝しても誰にも怒られない。
無限の夢が広がっている。
「シービーは? 何か予定あるの」
「うーん、今のところほとんどないかな」
「君もか。まあ、君の場合は引退関係なく気まぐれそうだけど」
「だから、おハナちゃんと何しようかなって思って」
「……ボクと遊ぶことは、君の中で決定事項なんだ」
「うん」
実に迷いのない、晴れやかな返事だった。
まあ、ボク自身もこうして居心地の良さに負けて彼女の部屋に入り浸っているのだから、今さら文句を言う筋合いもない。
「ご飯でも行く?」
「いいね。何食べたい?」
「肉」
「昨日も食べてなかった?」
「昨日の肉は昨日のボクが食べたんだよ。今日のボクはまだ肉を摂取してない」
「あはは、そっか。それなら仕方ないね」
シービーは自分のスマホを手に取ると、手慣れた様子で何やら調べ始めた。ボクも自然とその画面を覗き込む。
検索結果の画面に、いかにも美味しそうな分厚いお肉の写真が出てきた。
絶妙な焼き色。溢れる肉汁。横に添えてあるポテトも、細すぎず太すぎず、絶対に外れのない信用できる形をしている。
「ここ、前から行ってみたかったんだよね」
「へえ。いいじゃん、めっちゃ美味しそう」
「じゃあ、火曜日にしようか」
「いいよ。お昼?」
「うん」
「じゃあ、火曜の朝ごはんは軽めにして胃を調整しておく」
シービーが自分のスマホにササッと予定を入力した。ボクも自分の更地の予定表へ、店の名前を入れる。
一日くらい予定が入るなら構わないだろう。
何しろ美味しいお肉を食べる予定だ。これはボクの尊い自由が侵害されるわけではない。
「木曜日はさ、映画にしない?」
「何見るのさ」
「おハナちゃん、前に『これ見たい』って言ってたでしょ?」
見せられた画面には、確かにボクが以前から気になっていた新作映画のタイトルがあった。
一緒にテレビで予告編を見たとき、ぽろっと「面白そう」とこぼしたやつだ。よくそんな些細なことを覚えているものだ。
「ああ、これ。まだ上映してたんだ」
「見に行こうよ」
「上映時間、早朝とかじゃない? 早起きは嫌だよ」
「大丈夫、午後もあるよ」
「じゃあいいけど」
ボクの予定表に、また一つ予定が入った。
シービーはなぜか、さっき肉の予定を入れた時よりも嬉しそうだ。ふんふんと機嫌のいい鼻歌まで聞こえてくる。
そんなにその映画が楽しみなのだろうか。
「土曜日はさ」
「待って。ちょっと予定増えるの早くない?」
「まだ二つだよ?」
「ボクの来週の予定、元々配信の二つしかなかったんだよ。もう倍に膨れ上がってるんだけど」
「土曜日、ここに来ない?」
「ここ? シービーの部屋に?」
「うん。一緒にご飯作ろうよ」
「君、ボクに作らせて、横からつまみ食いするつもりじゃないよね?」
「ちゃんと手伝うってば」
「みかんすらボクにむかせた人が、よく言うよ」
「みかんは、おハナちゃんが持ってるやつのほうが、美味しそうだったから」
さっきと同じ、まったく論理的ではない理屈を持ち出された。
ボクはわざとらしく、深いため息をついてみせる。
「まあ、鍋とかでいいなら。具材を切って入れるだけだし」
「決まりね」
「まだ決まってない。何の具材を入れるかで血みどろの抗争になる可能性がある」
「何入れたい?」
「肉」
「うん」
「肉団子」
「うん」
「あと、追加の肉」
「スーパーに買いに行くところから一緒にしようね」
シービーがスマホへ予定を打ち込みながら、するりとボクの左腕に自分の腕を絡めてきた。
あまりにも自然な動作だったため、一瞬そのまま受け入れかけた。
……いや、待って。なんで?
「シービー」
「ん?」
「腕。スマホ操作しにくいんだけど」
「アタシが代わりに入れようか?」
「そういう頓珍漢な解決策を求めてるんじゃない」
絡められた腕を抜こうと軽く力を入れると、シービーは抵抗せず少しだけ力を緩めた。ただ、完全に離れるつもりはないらしく、ボクの腕をホールドしたまま、肩は相変わらずくっついている。
ボクは仕方なく、片手で不器用に予定表を操作した。
火曜日、肉。
木曜日、映画。
土曜日、鍋。
おかしい。さっきまであんなに眩しいほど白かったスケジュール画面が、急速に黒い文字で侵食されている。
「君、引退したからって、そんなに暇なの?」
「うん」
「ほかの同級生とか、後輩の子と遊ぶ予定とかないの?」
「入れようと思えば入れられるけど」
「けど?」
「おハナちゃんとデートしたいから、先にこっちの予定を埋めたの」
ボクの指が、ピタリと止まった。
画面には、入力途中の『鍋』という一文字。
その隣で、カーソルを示す縦棒がちかちかと無機質に点滅している。
「……今、何したいって言った?」
「デート」
「誰と?」
「おハナちゃんと」
顔を上げると、すぐ目の前にシービーの顔があった。
近い。
さっきからずっと近かったのは分かっていたけれど、今、改めてとんでもなく近い距離にいることを思い知らされた。彼女の長いまつげの影までくっきりと見える。
「ウマ娘同士で遊びに出かけるのを、ファッション感覚でそういうふうに言う場合もあるよね」
「アタシは、恋人になりたい相手を誘ってるつもりだよ」
カーソルが、ちかちか。
ボクは無言で『鍋』の文字を消した。
そして、もう一度『鍋』と打ち直した。
何をしているんだ、ボクは。現実逃避にもほどがある。
「おハナちゃん?」
「待って。今、極めて単純な文字入力に失敗してる」
「うん」
「君のせいで」
「ふふ。ごめんね」
口では謝っているのに、シービーの顔は余裕たっぷりに笑っている。
しかも、ボクの腕をぎゅっと抱え直した。
「好きだよ、おハナちゃん。アタシと付き合ってほしいな」
ストレートに、はっきりと言われた。
聞き間違いの余地も、冗談として聞き流す逃げ道も、一切用意されていない言葉だった。
ボクはとりあえず、持っていたスマホをそっと自分の膝の上へ置いた。
驚きのあまり手放して画面を割るのだけは避けよう。そのくらいの冷静な判断力は、まだ辛うじて残っていた。
「……ボクを?」
「うん」
「この、しがないウマ娘のボク、だよ?」
「うん。ターフでずっと一緒に走って、いっぱいいっぱい遊んだ、アタシの、アタシだけのおハナちゃんが」
どうやら、相手を間違えているわけではないらしい。
そうですか。
いや、そうですかじゃない。
「なんで」
「好きになったから」
「それは今聞いた。もう少し、その、順序立てた説明というか、理由を」
「一緒にいるとすっごく楽しいし、会ってないとすぐに会いたくなる。今日も、部屋に来てくれてすごく嬉しかったよ」
するすると、よどみなく言葉が出てくる。
ボクの処理能力が一つに追いつく前に、次から次へとまっすぐな感情がぶつけられる。
「これからは『レースの前だから』って色んなこと我慢しなくていいし。もっとずっと、一緒にいたいなって思って」
「ちょっと待って。今まで、我慢してたの?」
「してたよ」
「……これで?」
思わず、がっちりと絡め取られている自分の腕へ目を落とした。
シービーも釣られてそちらを見て、悪戯っぽく笑った。
「くっつくくらいは、いいかなって思って」
「その『くっつくのはOK』って基準、まったくボクと共有されてないんだけど」
だから今日、やたらと距離が近かったのか。
いや、今日だけだろうか? 思い返してみれば、前から彼女は結構ボクとの距離が近かった気がする。
息をするように肩を組まれたり、無意識のように髪を触られたり、冬場は「寒いから」と言ってマフラーごと抱きつかれたり。
すべて「ミスターシービーという自由人は、そういうスキンシップの激しい人だから」で片づけていた。
実際、そういう性格なのだと疑わずに信じ切っていたのだ。
前世が男だったボクには、ウマ娘同士の距離感というものが、いまだによくわからないところがある。「仲が良い親友同士なら、これくらい普通にくっつくんだろう」と、そういう大雑把な理解で第二の人生を生きてきたツケが、ここにきて一気に回ってきたらしい。
「ボクは、ずっと普通の友達だと思ってたんだけど」
「うん、知ってる」
「恋愛とか、そんなベクトルのこと全然考えてないんだけど」
「じゃあ、これから考えて?」
軽い。
言い方が、「次にどのお菓子を開けようか」と選んでいる時くらいの軽さだ。
でも、ボクを見つめるその大きな瞳は、絶対に的を外さないハンターのように、あるいは最終コーナーを回って獲物を射程に捉えた三冠ウマ娘のように、鋭くボクを捕らえて離さない。
正直GⅠで一緒に走っていた時の何倍も怖い。
「そんな、急に言われても」
「だから、まずは火曜日」
「火曜日」
「ご飯、食べに行こうね」
ボクは膝の上のスマホを見下ろした。
肉。
さっき自分でウキウキしながら入れた予定だ。
「これは、普通に美味しいご飯を食べるだけのつもりで入れたんだけど」
「うん。美味しいご飯、一緒に食べよう」
「でも君、さっきデートって」
「アタシは、初デートのつもりで行くよ」
完全に退路を塞がれていた。
彼女の「追い込み」の足は、いつだって鮮やかで、そして残酷なまでに逃げを許さないのだ。
ボクは重いため息をつきながら、スマホを持ち上げた。
「じゃあ、これ、いったん全部白紙に……」
「あのお肉のお店、おハナちゃんも写真見てすごく気になったでしょ?」
「それは、まあ、そうだけど」
「木曜の映画も」
「ずっと見たいと思ってたけど」
「土曜日の鍋も、二人で買い出しから行ったら絶対楽しいと思わない?」
楽しそうだ。
そこが最大の致命的な問題なのだ。
ボクだって、シービーと一緒に遊ぶのは好きだ。美味しいお肉も食べたいし、気になっていた映画も見たいし、暖かい部屋でだらだら鍋をつつくのも最高に魅力的だ。
でも、それに急に「恋愛」という別の重い意味を付与されると、途端に身動きが取れなくなる。
「……まだ、付き合うって返事は、してないからね」
「うん」
「デートに三回行ったから、はい今日からもう恋人です、みたいな既成事実化もなしだからね。いい?」
「うん。ちゃんとおハナちゃんの口から『好き』って聞くまで待つよ」
シービーが嬉しそうに頷いた。
その言い方だと、いつかボクがそう言って陥落することが、彼女の中ですでに確定事項になっているように聞こえるのだが。
「それと、一旦ちょっと離れて。腕。考えにくい」
「はーい」
素直に腕がほどかれた。
ようやく物理的な自由を取り戻したはずなのに、妙にその空いた右半身が落ち着かない。さっきまでずっと彼女の体温で暖かかったところへ、冬の冷たい空気が入り込んだせいだろう。
ボクは姿勢を正して座り直し、スマホの予定表をじっと見つめた。
火曜日、肉。
木曜日、映画。
土曜日、鍋。
三つとも、全部シービーとの予定だ。
消そうと思えば、今すぐバックスペースキーで消せる。断ろうと思えば断れる。
ボクは今までだって、嫌なことは嫌だと彼女に対してはっきり言ってきたはずだ。
ところが、どれから予定を消そうかと考えた途端、指がピタリと動かなくなる。
肉は絶対に食べたい。
映画も、誰かと感想を言い合いたい。
鍋だって、まあ、二人で作ったほうが楽しいに決まっている。
「……火曜日、ボクは純粋に、お腹を空かせてご飯を食べに行くだけだからね」
「うん」
「木曜日は映画のスクリーンに集中する」
「うん」
「土曜日は鍋の具材の煮え具合だけを見る」
「ふふ。すっごく楽しみだね」
シービーは、心底嬉しそうに、花がほころぶような笑顔を見せた。
その屈託のない顔を見て、ボクは何となく、すでに勝負に負けたような気分になった。
いや、まだ何にも負けてなどいない。
予定を三つ入れただけだ。親しい友達と遊ぶ予定なんて、現役時代から数え切れないほど入れている。何もおかしなことはない。ボクは揺らいでいない。
「おハナちゃん」
「今度は何さ」
「顔、真っ赤だよ」
「……暖房の温度設定が高すぎるんだよ」
ボクは誤魔化すようにマグカップを手に取り、お茶をあおった。
すっかり冷めていて、ぬるい。
シービーはそれ以上余計な追撃はせず、にこにこしながら新しいみかんをむき始めた。少しして、白い筋まできれいに取られた完璧なみかんが、ボクの手元へ差し出される。
「はい、どうぞ」
「……ありがと」
「どういたしまして」
一房口に入れる。
甘い。
何か気の利いた反論をしてやろうと口を開きかけたが、
やめた。今のボクの動揺した頭では、何を言っても結局シービーを喜ばせてしまう結果になる気がしたからだ。
シービーの肩が、またボクの肩に触れた。
今度は、ボクも体をずらして逃げなかった。