0 思い出(CB視点)
三冠ウマ娘になってから、あたしの次について話す人が増えた。
来年は春の三冠を狙うのか。
秋も三冠を目指すのか。
海外へ行く予定は。
歴代の名ウマ娘たちと比べてどう思うか。
次は何を勝つのか。
年度代表ウマ娘の発表会でも、それは変わらなかった。
「シービーさん、来年は春の主要GⅠをすべて?」
「どうだろ」
「では海外遠征も選択肢に?」
「さあ」
「三冠ウマ娘として、やはり次に目指すのは――」
「あたし、ちょっと飲み物取ってくるね」
「あ、シービーさん?」
笑ってその場を離れた。
別に怒ってはいない。
期待してもらえるのは嬉しいことだと思う。
あたしが走るところを見たいと言ってくれる人がいるのも、勝ってほしいと願ってくれる人がいるのも分かっているし、それを迷惑だと切り捨てるほどあたしは鈍くない。
だから余計に面倒だった。
誰も悪くない。
期待している人たちは、あたしのためを思って言っている。
応えられれば喜んでくれる。
でも、だからといって春三冠も秋三冠も海外も、今のあたしがやりたいことではなかった。
やりたいことは、まだ決めていない。
それだけなのに。
「……次、次、次って」
小さく呟きながら、人の少ない通路まで逃げてきた。
華やかな会場の音が、壁一枚向こうから聞こえる。
年度代表に選ばれた本人が消えたままではさすがに困るだろう。
分かっている。
分かっているから、戻りたくなかった。
「シービー」
「ん?」
振り返る。
おハナちゃんがいた。
普段はジャージか制服ばかりなので一瞬分からなかったけれど、黒い髪も小さな身体も見慣れたものだ。今日は淡い色のドレスを着ていて、いつもより少しだけ大人びて見える。
「おハナちゃん」
「こんなところにいた」
「探してたの?」
「ちょっと」
「どうして?」
「顔が嫌そうだったから」
「そんな顔してた?」
「してた。あと途中から返事が全部適当だった」
「いつもじゃない?」
「今日はいつもより」
おハナちゃんはあたしの顔を少し見上げる。
「ストレス溜めると身体に悪いよ」
「心配してくれてる?」
「少し」
「少しなんだ」
「あとボクも逃げたかった」
「……そっちが本題?」
「半分くらいは」
あっさり認めた。
「なんで?」
「ご飯がおいしくない」
「あははっ」
「笑い事じゃないよ。見た目はすごいけど、量少ないし、なんか味もおいしくないし」
「年度代表の発表会だよ?」
「だからって焼きそばよりおいしいとは限らないでしょ」
真顔だった。
おハナちゃんも、いくつかの部門に名前が挙がっていた。
年間を通してとにかくたくさんのGⅠへ出ていた。
勝ちこそないものの、何度も上位へ食い込んでいる。
そのせいで妙にいろいろな賞の候補に名前だけは載っていて、本人も今日の会へ呼ばれていた。
「おハナちゃん、まだ発表残ってるんじゃない?」
「残ってるよ」
「いいの?」
「たぶん取れないし」
「取ったら?」
「あとで聞く」
「いなくて怒られない?」
「怒られたら謝る」
「それでいいんだ」
「ダメ?」
「いや」
おハナちゃんがドレスの裾を少し持ち上げる。
「行こう」
「どこに?」
「外」
「この格好で?」
「シービーも同じでしょ」
「そうだけど」
「競バ場の外の売店、まだ開いてると思う」
「焼きそば?」
「焼きそばとモツ焼き」
「そこまで決めてるんだ」
「来る?」
なんだか可笑しくなった。
会場では、あたしの来年について大勢が話していた。
春三冠だ。
秋三冠だ。
海外だ。
あたしがどうするべきなのか、いろんな人が考えてくれている。
でも目の前のおハナちゃんは、そんなことを何も聞かない。
あたしがここにいる理由も詳しく聞かない。
ただ自分が焼きそばを食べたいから外へ行く。
ついでに、あたしも機嫌が悪そうだから誘う。
「行く」
「じゃあ早く。売店閉まる」
「年度代表ウマ娘を連れ出す言葉じゃないね」
「年度代表でも焼きそば食べるでしょ」
「食べるね」
二人で裏口から抜け出した。
ドレス姿で競バ場の通路を歩くのは変な感じだったけれど、おハナちゃんはまったく気にしていない。
途中ですれ違った人に二度見されても、そのまま売店の方へ歩いていく。
結局、焼きそばとモツ焼きを一つずつ買った。
スタンド脇のベンチへ座る。
「こっちの方がおいしい」
一口食べたおハナちゃんが満足そうに言う。
「ほんとに?」
「うん」
「あたしは会場の料理も結構好きだったけど」
「じゃあ戻る?」
「戻らない」
「なら食べれば」
「そうする」
しばらく二人で黙って食べた。
会場からは遠くに拍手が聞こえる。
誰かの発表があったらしい。
「今頃、探されてるかな」
「シービーは探されてると思う」
「おハナちゃんは?」
「どうだろ」
「気にならない?」
「何が?」
「発表会抜けてきたこと」
「自分で抜けたから」
「怒られるかもよ」
「そのとき考える」
モツ焼きを一つ取る。
それだけだった。
「みんなさ」
「うん」
「来年はこれやれ、あれやれってすごいんだよね」
「そうなんだ」
「悪い人たちじゃないんだけどね」
「うん」
「期待してくれてるし」
「うん」
「それに応えないのも、なんか悪いなって」
おハナちゃんは少し考えた。
でも、こちらが期待していたような気の利いた答えは返ってこなかった。
「シービーはやりたいの?」
「何が?」
「春三冠とか海外とか」
「今は別に」
「じゃあ今はいいんじゃない?」
「……それだけ?」
「だって、まだ決めてないんでしょ」
「うん」
「じゃあ決めてから言えばいいと思う」
焼きそばを口へ運ぶ。
「みんなは期待するでしょ?」
「するんじゃない?」
「それでも?」
「期待したいならすればいいんじゃない?」
平然としていた。
期待するなとは言わない。
期待されたから応えろとも言わない。
期待する側には期待する側の都合がある。
おハナちゃんには、たぶんそれだけなのだ。
「……そっか」
「うん」
「簡単だね」
「難しくしたい?」
「したくない」
「じゃあいいじゃん」
あたしは笑った。
なんだか急に、肩の力が抜けた。
期待してくれる人たちが悪いわけではない。
だからといって、あたしが全部背負わなければいけないわけでもない。
あの人たちは自由に期待する。
あたしも自由に選ぶ。
それでいい。
「おハナちゃん」
「なに?」
「ありがと」
「何が?」
「なんでもない」
「そう」
本人は何も分かっていないらしい。
そこもおハナちゃんらしかった。
「あ」
そのときだった。
「どうしたの?」
「…………」
おハナちゃんが固まっている。
視線を追う。
ドレスの胸元より少し下。
焼きそばの一本が落ちていた。
正確には、落ちたあとだった。
淡い色の布地に、見事な茶色いソースの染みができている。
「おハナちゃん」
「…………」
「大丈夫?」
「大丈夫じゃない」
今まで見たことがないくらい真剣な顔になった。
「借り物?」
「借り物」
「そっか」
「これ落ちる?」
「どうだろ」
「水?」
「広がるんじゃない?」
「じゃあどうすればいいの?」
「さあ」
「シービー!」
「あははっ!」
「笑ってる場合じゃないよ!」
「だって、おハナちゃんさっきまで発表会とか全然気にしてなかったのに」
「借りたもの汚したのはボクの責任なんだから!」
慌ててハンカチを取り出し、染みを叩き始める。
「擦らない方がいいかな。叩く? これ叩くんだっけ?」
「知らない」
「なんで役に立たないの!」
「ふふっ」
「シービー!」
また笑った。
期待。
三冠。
年度代表。
周囲の評価。
そんなものは、自分が決めたことではないから必要以上に背負わない。
でも借りたドレスを自分で汚したことには、顔色を変えて本気で慌てる。
全部、自分で選んでいる。
「……あ」
「なに?」
ようやく分かった。
どうしてこの子を見つけると声をかけたくなるのか。
どうして併走相手が必要になると真っ先に顔が浮かぶのか。
どうして同じレースへ出ていると嬉しいのか。
どうして今日、ここへ来てくれたことがこんなに嬉しかったのか。
「おハナちゃん」
「今ちょっと忙しい」
「好きだなあ」
「焼きそば?」
「ふふっ」
「何?」
「なんでもない」
「ならティッシュ取って」
「はいはい」
まだ本人へ教える必要はない。
ドレスについたソースを必死にどうにかしようとしている横顔を眺めながら、あたしはもう一度笑った。
どうやらあたしは、ずいぶん前からこの自由な子が好きだったらしい。