もう名前もわからない自称恋人さん
マーちゃんには、恋人さんがいました。
正確には、自称恋人さんです。
いつからそう名乗るようになったのかは、今となっては少し曖昧ですが、少なくとも彼女はずいぶん長い間、朝になると当たり前のようにマーちゃんのところへやってきて、隣の席でもないのに机へ寄りかかりながら笑っていました。
「おはよう、マーちゃん。今日もかわいいね」
「おはようございます。朝からお世辞ですか」
「恋人さんなので」
「恋人ではありません」
「自称恋人さんです」
「それならマーちゃんに止める権利はありません」
「やった」
「何も許可していませんよ」
昼になれば隣へ座り、放課後になれば一緒に帰ろうと言い、休日には何をするのか勝手に聞いてきます。
手を繋ごうとしてくることもありましたし、腕を組もうとしてくることもありましたが、マーちゃんはそのたびに断っていました。
「マーちゃん、手」
「嫌です」
「一回だけ」
「嫌です」
「恋人さんなのに」
「自称です」
「じゃあ自称恋人さん特権で」
「そのような特権はありません」
それでも恋人さんは懲りませんでした。翌日になればまた同じことを言い、三度断れば四度目に挑戦し、マーちゃんが本気で怒らないことをよく知っているように、いつも少しだけ踏み込んできます。
「マーちゃんって、私のこと本当は嫌いじゃないでしょ」
「どうしてそう思うのですか」
「嫌いって言わないから」
「わざわざ言う必要がありません」
「じゃあ好き?」
「違います」
「嫌い?」
「…………」
「ほら」
「何がほらなのですか」
マーちゃんは恋人さんに少し冷たくしていました。
それには理由がありました。
マーちゃんには、ずっと遠くから波の音が聞こえていました。
海から離れた場所でも、夜眠る前にも、昼間の教室でも、たくさんの人に囲まれたレース場でも、ざあ、と小さな音がしていて、それが少しずつ近づいていることも、その波がいつかマーちゃんを向こう側へ連れていくものなのだということも、いつからかなんとなく分かっていました。
だからマーちゃんは、記録を残しました。写真を撮って、映像へ映って、できるだけ多くの人に自分を知ってもらおうとしました。消えてしまうとしても、マーちゃんがここにいたことを、ほんの少しでも長く誰かの中に残せればいいと思っていたからです。
けれど、波は止まりませんでした。
最初は小さなことでした。授業の出席確認で先生がマーちゃんの名前だけを飛ばし、食堂では注文したはずなのに店員さんが次の人へ声をかけ、廊下を歩けば正面から来た人が、そこに誰もいないようにマーちゃんの肩へぶつかりそうになりました。
「あ、ごめん、マーチャン。いたのか」
「いましたよ」
「なんか最近、気づかないんだよな」
「マーちゃんは小さいですからね」
「そういう問題か?」
ウオッカさんも、スカーレットさんも、話しかければ普通に応じてくれました。ただ、こちらから声をかけなければ気づかないことが増えていき、教室へ入っても誰も振り向かなくなり、写真を撮ればマーちゃんの姿だけが妙にぼやけるようになりました。
始まったのですね、とマーちゃんは思いました。
予想していたことなので、不思議ではありませんでした。
ただ一人。
「マーちゃん」
恋人さんだけは、何も変わりませんでした。
人の多い廊下の向こうからでもマーちゃんを見つけ、食堂へ行けば当然のように隣の席を取っておき、放課後になれば迷わずマーちゃんの机へやってきます。
「今日も先生、マーちゃんのこと忘れてた」
「そうですね」
「そうですね、じゃないでしょ」
「先生も忙しいのでしょう」
「昨日もだよ」
「最近お忙しいのですね」
「マーちゃん」
「はい」
「なんか知ってる?」
「何をですか」
「最近のみんなのこと」
「知りませんよ」
嘘でした。
全部は知りません。でも、波がかなり近くまで来ていることくらいは分かっていました。
「恋人さん」
「はい、マーちゃんの恋人さんです」
「自称です」
「はい、自称恋人さんです」
「マーちゃんのことを、あまり気にしない方がいいですよ」
恋人さんの笑顔が止まりました。
「何それ」
「そのままの意味です」
「嫌」
「即答ですね」
「だって嫌だもん」
「マーちゃんに構っても、いいことはありませんよ」
「私はあるよ」
「何ですか」
「マーちゃんといられる」
「…………」
「それで十分」
困った人です。
その日も恋人さんはマーちゃんの手を握りました。
いつもなら外していました。
でも、その日は外しませんでした。
「マーちゃん?」
「何ですか」
「今日、いいの?」
「嫌なら離してください」
「離すわけないじゃん」
「そうですか」
少しだけ安心しました。
それが、とても嫌でした。
自分が薄くなればなるほど、恋人さんの存在が大きくなっていきました。
教室へ入れば最初に彼女を探してしまい、姿を見つければ安心し、休みの日には何をしているのだろうと思い、彼女が別の子と楽しそうに話していれば、理由も分からないまま少しだけ面白くない気分になりました。
だからマーちゃんは、もっと冷たくしなくてはいけないと思いました。
マーちゃんはいなくなります。
残される恋人さんが悲しまないようにするなら、今のうちに離れてもらう方がいいのです。
「マーちゃん、一緒に帰ろ」
「今日は一人で帰ります」
「じゃあ途中まで」
「来ないでください」
「……マーちゃん?」
「恋人さんのことは嫌いです」
口にした瞬間、胸が痛みました。
恋人さんはしばらく黙っていましたが、やがて小さく首を横へ振りました。
「嘘」
「嘘ではありません」
「嘘だよ」
「どうしてですか」
「マーちゃん、本当に私のこと嫌いだったら、とっくに追い払ってる」
「…………」
「最近、手も振りほどかないし、私が休んだら朝から探してるし、私が他の子と話してるとこっち見るし」
「見ていません」
「見てるよ」
「見ていません」
「じゃあ好き?」
「違います」
「私は好きだよ」
「知っています」
「大好き」
「知っています」
「じゃあマーちゃんは?」
答えられませんでした。
好きです、と言えば、恋人さんはきっともっとマーちゃんを好きになります。
そのあとマーちゃんが消えたら、きっともっと悲しみます。
「マーちゃんは、恋人さんの恋人にはなりません」
「……そっか」
恋人さんは少しだけ寂しそうに笑いました。
「でも私は勝手に恋人さんでいるから」
「ご自由に」
「うん」
波の音が、すぐ近くまで来ていました。
その頃には、もうほとんどの人がマーちゃんを見つけられなくなっていました。
教室の席へ座っていても誰も気づかず、廊下では避けてもらえず、呼びかけても二度三度と名前を呼ばなければ振り向いてもらえません。
それでも恋人さんだけは、毎日変わらずマーちゃんを見つけました。
「マーちゃん」
「どうして見つけられるのですか」
「え?」
「みんな、マーちゃんが見えなくなっているのに」
「私は見えるよ」
「どうしてでしょう」
「恋人さんだからじゃない?」
「恋人さんではありません」
「まだ言うんだ」
「事実です」
「じゃあ自称恋人さんパワー」
「便利ですね」
「でしょ?」
その笑顔を見るたび、マーちゃんは苦しくなりました。
「恋人さん」
「ん?」
「もしマーちゃんがいなくなっても、探さないでくださいね」
「嫌」
「忘れてください」
「嫌」
「マーちゃんのことなんて、すぐ忘れますよ」
「忘れない」
「みんな忘れます」
「私は忘れない」
「そのうち」
「絶対忘れない」
恋人さんは珍しく、少し怒った顔で言いました。
「マーちゃんが勝手に消えようとしても、私は絶対忘れないから」
「マーちゃんが決めていることではありませんよ」
「じゃあ余計に嫌」
「困りますね」
「困ればいいよ。二人で困ろ」
その夜、夢の中でマーちゃんは海にいました。
暗い波の向こうから呼ばれていて、一歩、また一歩と水の中へ進むたびに、自分が世界からほどけていくような感覚がしました。
もうすぐなのですね。
そう思って、さらに一歩進んだところで、後ろから手を掴まれました。
『マーちゃん』
振り返ると、恋人さんがいました。
『どうしているのですか』
『それ、私の台詞』
『帰ってください』
『マーちゃんも帰ろ』
『マーちゃんは帰れません』
『帰れる』
『無理です』
『無理じゃない』
恋人さんの手だけが、妙に温かく感じられました。
『私はマーちゃんがいなくなるの嫌だよ』
『忘れますよ』
『忘れない』
『みんな忘れます』
『私は忘れない』
『恋人さん』
『大好きだから』
マーちゃんは、やはり言えませんでした。
マーちゃんも好きです、と。
『マーちゃんは、恋人さんの恋人ではありません』
代わりに、いつもの言葉を言いました。
恋人さんは困ったように笑いました。
『知ってる』
そこで夢は終わりました。
翌朝、目を覚ますと、波の音が消えていました。
廊下へ出れば、すれ違った子が普通に挨拶をします。
「おはよう、マーチャン」
「……おはようございます」
教室へ入ればウオッカさんがすぐに気づき、スカーレットさんもこちらを見ます。
出席確認でも先生は迷わず名前を呼び、試しに撮った写真にもマーちゃんははっきりと映りました。
戻っていました。
マーちゃんが、世界の中へ。
それはずっと望んでいたことのはずでした。
なのに。
「……遅いですね」
恋人さんが来ませんでした。
朝になれば必ずマーちゃんのところへ来る人です。
一時間目が終わっても来ません。
昼になっても来ません。
マーちゃんは彼女の教室へ向かおうとして、足を止めました。
「…………?」
教室が分かりません。
何度も行ったはずなのに。
ウオッカさんへ聞きました。
「ウオッカさん」
「ん?」
「恋人さんを知りませんか」
「恋人?」
「マーちゃんといつも一緒にいた人です」
「そんな奴いたか?」
スカーレットさんも知りませんでした。
名簿に名前はありません。
寮にも部屋はありません。
スマートフォンにも連絡先はなく、写真にも映っていません。
世界のどこにも。
恋人さんがいた痕跡はありませんでした。
「……そういうことですか」
そのとき、ようやく分かりました。
マーちゃんを呼んでいた波は消えました。
マーちゃんは戻りました。
そして、最後までマーちゃんを見つけ続けていた恋人さんが、代わりにいなくなりました。
「頼んでいませんよ」
声が震えました。
「マーちゃんは、そんなこと頼んでいません」
返事はありません。
「勝手な恋人さんですね」
昔からそうでした。
勝手に隣へ座り、勝手に手を握り、勝手に恋人さんを名乗り、最後まで勝手にマーちゃんを置いていきました。
放課後、マーちゃんは一人で海へ行きました。
波打ち際に座り、普通に寄せては返していく海を見ながら、恋人さんのことを思い出しました。
『好き』
『違います』
『付き合って』
『嫌です』
『恋人さんです』
『自称です』
何度も断りました。
好きではないと言いました。
恋人ではないと言いました。
忘れてくださいと言いました。
本当は、全部逆でした。
教室へ入れば恋人さんを探しました。
隣に来れば安心しました。
手を握られれば嬉しかったです。
誰にも見つけてもらえなくなったとき、恋人さんだけがマーちゃんを見つけてくれることが、どうしようもなく嬉しかった。
「マーちゃんは」
声に出しました。
「恋人さんのことが、好きでした」
少し考えて、首を振ります。
「違いますね」
もう間違えないように。
「好きです」
返事はありません。
「マーちゃんは、恋人さんが好きです」
今さら、ようやく言えました。
顔は覚えています。
声も覚えています。
笑った顔も、怒った顔も、握ってくれた手の温度も覚えています。
なのに。
「……お名前」
そこだけがありませんでした。
「マーちゃん、恋人さんのお名前を忘れてしまいました」
涙が一つ、頬を伝いました。
「みんなも忘れています」
もう一つ。
「マーちゃんしか、覚えていません」
恋人さんは言いました。
絶対忘れない、と。
本当に最後までマーちゃんを忘れませんでした。
今度は、マーちゃんの番なのでしょう。
「だから、マーちゃんが覚えています」
名前はありません。
写真もありません。
記録もありません。
誰も恋人さんを知りません。
それでも。
「恋人さんは、いました」
マーちゃんの隣に。
「マーちゃんのことを好きでいてくれました」
涙を拭っても、また次が落ちました。
「マーちゃんも、恋人さんが好きでした」
また首を振ります。
「……好きです」
本当なら、もっと早く言うべきでした。
いなくなるのは自分だと思っていたから。
残されるのは恋人さんだと思っていたから。
傷つけないためには、遠ざける方がいいと勝手に決めていました。
「恋人さん」
返事はありません。
「マーちゃんも、恋人さんの恋人になりたかったです」
それだけは、彼女がいるうちに言いたかった。
一度くらい、自称ではなくしてあげたかった。
「……ごめんなさい」
マーちゃんは、泣かないキャラクターです。
カメラの前では笑って、みんなに覚えてもらわなければなりません。
だから今日だけです。
誰も見ていない海辺で、誰も覚えていない恋人さんを思いながら、名前さえ呼べなくなってしまった大好きな人を思いながら。
マーちゃんは一人で、静かに泣きました。