1 知っているあの子、知らないあの子
ハルウララと直接会うのは、私がトレセン学園を卒業して以来だった。
連絡そのものは取っている。
『お姉ちゃん今日レースだよ!』
『知ってる。バイトなかったら見る』
『絶対見てね!』
『努力します』
とか、
『今日ね、後輩に走り方聞かれた!』
『ウララが教える側になったの?』
『なったよー!』
『大丈夫だった?』
『ひどい!』
とか。
そんなやり取りはちょこちょこしていたけれど、大学へ入ってからは講義とバイトで思っていた以上に時間がなく、実際に顔を見る機会はなかった。
そのウララから、数日前に連絡が来た。
『引退したから、お祝いしよ!』
『自分で自分の引退祝いするの?』
『する! お姉ちゃん空けといてね!』
相変わらずだなあと思いながら指定された店を調べたら、相変わらずではない値段が出てきた。
そして今日。
「お姉ちゃーん!」
待ち合わせ場所で手を振る桃色の髪を見つけた瞬間、考えるより先に両手を広げていた。
「ウララー」
「わーい!」
勢いよく飛び込んできた身体を受け止め、そのまま脇へ手を入れる。
「よいしょ」
「わっ」
持ち上げた。
「お姉ちゃん!」
「なに?」
「下ろして!」
「久しぶりなんだからいいじゃん」
「よくないよー!」
仕方なく地面へ戻す。
昔はこうすると喜んだのに。
「もう、いきなり抱っこする?」
「だってウララだし」
「理由になってないよ!」
「ちょっと重くなった?」
「それ絶対女の子に言っちゃダメなやつ!」
「あはは、ごめんごめん」
頭を撫でようと手を伸ばしたら、その手も両手で捕まえられた。
「それも!」
「撫でるのも駄目?」
「髪セットしてきたの!」
「あ」
言われて初めて気づいた。
今日のウララは、ずいぶん綺麗だった。
柔らかい色のワンピースは身体にきちんと合っていて、髪もいつもより丁寧に整えてある。首元にはアクセサリまであった。
「お洒落してる」
「今気づいたの?」
「かわいいかわいい」
「その言い方、絶対ちゃんと見てないでしょ」
「見てるよ」
頬をつつこうとしたら避けられた。
「お姉ちゃん、今日ずっとこんな感じ?」
「久しぶりだから」
「もー」
怒っているわりに笑っている。
やっぱりウララだった。
少し安心した。
店へ着くと、その安心が少しずつ怪しくなった。
「予約していたハルウララです」
まず受付が妙に自然だった。
案内されるときも長い裾を邪魔にならないよう軽く摘まみ、椅子へ座るときは尻尾をきちんと逃がす。
私よりよほどこういう店に慣れている。
「……ウララ」
「なに?」
「本当にここで合ってる?」
「合ってるよ」
「私、値段見て帰ろうかと思ったんだけど」
「帰っちゃダメだよ!」
「大学生には怖いの」
「お姉ちゃん昔から値段ばっかり見るよね」
「大事でしょ」
「今日は見なくていいの」
そう言ってメニューを開き、少し眺めただけで注文を決めてしまう。
「これと、こっち。お姉ちゃんは?」
「……同じので」
「苦手なもの入ってない?」
「ない」
「じゃあそれでお願いします」
店員への受け答えまで淀みがない。
こちらはまるで分らな過ぎて碌にメニューを読むことすらできなかったのに。
「慣れてるね」
「最近こういうところ来ること多かったから」
「誰と?」
「取材の人とか、イベントの人とか。あとこの前、後輩たちとご飯行ったときもちゃんとしたお店だったよ」
「ウララが後輩連れて?」
「うん! 相談したいっていうから」
「へえ」
「なに、その顔」
「ウララが相談されるんだなあって」
「されるよ!」
「ちゃんと答えられた?」
「お姉ちゃん!」
怒られた。
料理が来る。
ウララはナプキンを膝へ置き、カトラリーを迷わず使った。
昔、寮の食堂でオムライスを食べて口の周りを真っ赤にしていた子とは思えない。
「お姉ちゃん?」
「ん?」
「また見てる」
「ウララ、食べ方綺麗になったね」
「なったよー」
「前はひどかったのに」
「いつの話?」
「一年目。ミートソース食べて制服に飛ばしてた」
「あったっけ?」
「あったよ。私が洗ったんだから」
「えへへ。ありがと」
「あと頬にもついてた」
「それは覚えてない」
「こんなところに」
ちょうどソースをつけて食べる料理だったので、ナプキンを取って身体を乗り出す。
「ほら、じっとして」
「え?」
口元へ伸ばしたところで、ウララが私の手首を掴んだ。
「ついてないよ?」
「……ほんとだ」
「お姉ちゃん」
「癖で」
「もー!」
でも笑っている。
「昔はよく拭いてあげたでしょ」
「昔はね!」
「今もウララじゃん」
「今の私は自分で拭けますー」
「成長したねえ」
「その言い方!」
そう言いながら、ウララは魚料理を綺麗に切り分けて食べている。
なんだか変な感じだった。
話す内容も、昔とは少し違う。
最近入った後輩が最初のレースで緊張していた話。
最後の遠征でホテルの部屋を間違えそうになった話。
引退発表のあと、ずっと応援してくれていた子から長い手紙をもらった話。
「それでね、その子、小さい頃からずっと私の写真持ってたんだって!」
「すごいね」
「嬉しかった! お返事書いたんだよ」
「ちゃんと漢字間違えなかった?」
「お姉ちゃん!」
「あはは」
「私、もうそんなに間違えないもん」
「昔、便箋三枚書いて宛名間違えたでしょ」
「……それは覚えてる」
「泣いてた」
「だって全部書き直しだったんだもん!」
昔のことを言えば、昔のウララが顔を出す。
最近の話を聞けば、私の知らないウララがいる。
その繰り返しが、妙に楽しかった。
食後のデザートまで食べ終わったところで、私は財布を取り出した。
「じゃ、いくら?」
「いらないよ」
「いやいや」
「もう払ったもん」
「……は?」
「お姉ちゃんがお手洗い行ってるとき」
ウララが財布からカードを少しだけ見せた。
「いつの間に」
「こういうのは先に払っとくとスマートなんだって教えてもらった!」
「誰にそんなこと教わったの」
「秘密」
「ウララに奢られるのはちょっと……」
「今日は私が誘ったんだよ?」
「でも引退祝いでしょ。普通、私が払う側じゃない?」
「私がお姉ちゃんにご馳走したかったの」
「いや、でも」
「お姉ちゃん」
少しだけ声が低くなった。
「私、ちゃんとお仕事もしてたよ?」
「それは知ってるけど」
「じゃあ今日はご馳走させて」
「……はい」
「よろしい!」
にっこり笑う。
なんだろう。
今日はやたら負ける。
店を出ると、すっかり夜だった。
「じゃあ送るよ」
「大丈夫だよ?」
「駄目。暗いから」
「一人で何回遠征したと思ってるの」
「それとこれは別」
「また子供扱いしてる」
「してないよ」
「してるよー」
「ウララは昔から危なっかしいんだから」
「今は危なっかしくないもん」
「この前ホテルの部屋間違えそうになったって言ってたじゃん」
「それは番号が似てたの!」
「はいはい」
また頭へ手を伸ばす。
今度は撫でる前に避けられた。
「お姉ちゃん」
「なに?」
「私、もう子供じゃないんだよ」
「知ってるよ」
「知らない」
「いや、さっきから十分見せてもらってるって。服もちゃんとしてるし、こういう店も慣れてるし、お金だって」
「そういうことじゃなくて」
立ち止まる。
私も止まった。
ウララは笑っていなかった。
「お姉ちゃん、私のことずっとかわいい後輩だと思ってるでしょ」
「そりゃ、まあ」
「妹みたいな?」
「近いかな」
「やっぱり」
少しだけ頬を膨らませる。
「それ、嬉しいよ」
「嬉しいんだ」
「うん。お姉ちゃんにかわいがってもらうの好きだもん。昔みたいに世話焼いてくれるのも好き」
「じゃあいいじゃん」
「よくないよ」
「なんで?」
「それだけじゃ嫌だから」
真正面から見つめられた。
その顔は、さっきまでと同じはずなのに。
急に知らない女の子に見えた。
「私ね」
ウララが言う。
「お姉ちゃんが好き」
「うん」
「だからその返事やめて」
「え?」
「ルームメイトだったお姉ちゃんが好き、とかじゃないよ」
一歩近づく。
「私、お姉ちゃんの恋人になりたい」
「…………」
「ちゃんとそういう意味で好きなの」
頭が止まった。
「……私?」
「お姉ちゃん以外、ここにいないよ?」
「いや……そうだけど」
「卒業してからもずっと好きだったよ。会いたかったし、レースの前に連絡したのも、お姉ちゃんに見てほしかったから」
「それは……」
「でもお姉ちゃん、会ったら絶対昔と同じことすると思ってた」
「そんなに?」
「いきなり抱っこされた」
「……したね」
「口まで拭こうとした」
「……した」
「頭も三回撫でようとした」
「数えてたの?」
「数えた!」
「ごめん」
「謝らなくていいの」
ウララが少し笑う。
「嫌じゃないから」
「じゃあ」
「でもね」
もう一度、真面目な顔になる。
「それだけじゃなくて、一人のウマ娘として見てほしいの」
返事が出なかった。
今日、何度も感じた違和感を思い出す。
綺麗に着た服。
自然な裾捌き。
店員とのやり取り。
食事の仕方。
後輩の話。
私が席を外した隙に済んでいた会計。
全部知っていたはずなのに、知らないハルウララが居た。
「……ちょっと考えさせて」
「うん!」
即答だった。
しかも嬉しそうだ。
「なんで笑うの」
「嫌って言われなかったから!」
「まだ何も答えてないよ」
「知ってるよー」
そのまま自然に私の隣へ並ぶ。
「じゃ、帰ろ!」
「送るよ」
「うん!」
「そこはいいんだ」
「お姉ちゃんと一緒に帰りたいもん」
「さっき一人で帰れるって」
「帰れるけど、一緒に帰りたいの」
「……そう」
前なら、そこで頭を撫でていたと思う。
手を伸ばしかけて、止めた。
「お姉ちゃん?」
「なんでもない」
「撫でてもいいよ?」
「今は無理」
「なんで?」
「なんでも」
「顔赤いよ?」
「うるさい」
ウララが楽しそうに笑った。
その横顔を見て、また妙な感じがする。
かわいい後輩。
世話の焼ける妹分。
ずっとそうだったはずなのに、今はその言葉だけでは少し足りない気がした。
どうやら私は今日から、この子を見る目を改めなければならないらしい。
大学とバイトだけでも疲れているのに。
ずいぶん大変な宿題を、一つ増やされてしまった。
本日13時まで1時間おきに更新します。
ウララ編とアヤベ編です。