1 自称姉と自称妹と本物の双子の妹
それはトレセン学園へ入学して、まだひと月も経っていない頃の話。
新しい教室にも、寮にも、毎日のトレーニングにもようやく慣れ始めた頃だったと思う。
妹はその前からずっと私のそばにいた。
『お姉ちゃん』
姿は私にしか見えない。
声も私にしか聞こえない。
生まれることのできなかった、私の双子の妹。
私が生きている代わりに死んだ子。
だから、その子が何を言っても、私は受け止めなければならないと思っていた。
『今日も走るの?』
「ええ」
『楽しそうだね』
放課後。
トレーニングへ向かう途中だった。
『私のことなんか忘れて、楽しそうに走ってたね』
「……忘れてないわ」
『嘘』
「嘘じゃない」
『じゃあ、どうして笑ってたの?』
昼休み、クラスメイトと話したときのことだろう。
ほんの少し笑った。
それだけだった。
『私は走れなかったのに』
「分かってる」
『私は生まれることもできなかったのに』
「分かってるわ」
『本当に?』
妹が私の前へ回り込む。
私と同じ顔。
けれど、いつもどこか暗い。
『生きるのは私でよかったよね』
「……」
『死ぬのは貴女でよかったよね』
胸の奥が締めつけられる。
それでも私は歩いた。
「そうね」
『そうだよ』
「でも、今ここにいるのは私だから」
『ずるいね』
「……ええ」
何度も繰り返した会話だった。
私はこの子の人生を奪った。
なら、責められて当然だ。
走れる身体があるのなら、妹の分まで走るべきだ。
楽しむためではなく、背負うために。
そう思っていた。
『もっと走ってよ』
「走るわ」
『私の分まで』
「ええ」
『勝って』
「勝つ」
『もし――』
妹が笑った。
『走れなかった私のために走ってくれないなら、せめて私と同じところまで落ちてきて』
その言葉に、足が止まった。
そのときだった。
「見つけた」
知らない声がした。
顔を上げる。
少し離れたところに、一人のウマ娘が立っていた。
同じ制服。
たぶん同級生。
名前は知らない。
向こうは、なぜか真っ直ぐこちらを見ていた。
正確には私の隣を。
「……なに?」
問いかけると、その子は私ではなく妹を指差した。
「それ、誰?」
一瞬、意味が分からなかった。
「……見えるの?」
「見えるよ」
当然のように答える。
妹が私の腕へしがみついた。
『お姉ちゃん、この人嫌』
知らないウマ娘の眉が吊り上がる。
「ベガちゃん」
「……誰?」
「アルタイル」
「そう」
「あなたの双子の姉です」
「違うわ」
反射的に答えた。
「初対面よね?」
「今世ではね」
「今世」
「前世では双子の姉だった」
「……」
私はしばらく黙った。
妹も黙った。
「頭は大丈夫?」
「よく言われる」
本人はまったく傷ついていなかった。
「それより」
アルタイルと名乗った同級生が、また妹を見る。
今度は明確に敵意があった。
「そいつ、偽物だよ」
「……は?」
『お姉ちゃん』
「ベガちゃんの妹じゃない」
「何を根拠に」
「姉の勘」
「帰って」
「あと悪霊臭い」
「帰って」
『この人怖いよ』
妹が私の後ろへ隠れる。
私は一歩前へ出た。
「いい加減にして。あなたが何者なのか知らないけれど、この子は私の妹よ」
「違う」
「あなたに何が分かるの」
「分かる」
「だから何を――」
アルタイルの目が細くなった。
「妹っていうのは、お姉ちゃんに『死ぬのは貴女でよかった』なんて言わない」
息が止まった。
どうして
それを
「……聞こえていたの?」
「最初から」
『お姉ちゃん』
妹の声が震える。
私は振り返った。
そこには、いつもの妹がいる。
私と同じ顔。
私がずっと背負ってきた子。
『この人、嘘つきだよ』
「ベガちゃん」
「黙って」
「でも」
「黙りなさい!」
思わず声を荒らげた。
私自身驚いた。
「この子は私の妹なの。私が生きる代わりに死んだ。この子には私を責める権利があるわ」
『そうだよ』
「私が走るのも、この子のためよ」
『そう』
「私が苦しむのも――」
「それはおかしい」
アルタイルが言った。
「何が」
「全部」
「あなたに何が――」
「知らないけど」
知らないのか。
「知らないけど、そんなの妹じゃない」
『うるさい』
「本物の妹なら、ベガちゃんに幸せになってほしいはずだ」
『うるさい!』
「死ねなんて絶対に言わない」
『黙れ!』
妹の姿が歪んだ。
「……え?」
初めて見る変化だった。
顔が崩れる。
同じだったはずの輪郭が黒く滲み、身体の周囲から煤のようなものが溢れ出す。
『お姉ちゃんは私のものなの』
声も変わった。
『私のために苦しんで、私のために走って、最後は私のところに来るの』
「……あなた」
『邪魔しないで!』
黒い腕のようなものが伸びた。
「危ない!」
アルタイルが私を突き飛ばした。
直後、彼女の身体が宙を舞った。
「っ……!」
地面へ転がる。
「アルタイル!?」
「いったぁ……」
起き上がった。
口元に血が滲んでいる。
それでも笑った。
「ほら、悪霊」
「笑っている場合!?」
「ベガちゃんが私の名前呼んでくれた」
「今それ!?」
『消えろ!』
また黒い腕が飛ぶ。
アルタイルは避けた。
そのまま妹――だったものへ飛びかかる。
「ちょっと!?」
「偽物!」
『誰が偽物よ!』
「お前!」
『私がお姉ちゃんの妹なの!』
「違う!」
『何が違うのよ!』
「私が姉だから!」
「そこは関係ないでしょう!」
思わず叫んだ。
意味が分からない。
本当に何も分からない。
入学して一か月も経っていない。
名前も知らなかった同級生が突然現れ、自分は私の双子の姉だと言い始め、その直後に妹を偽物だと断定し、今その妹と取っ組み合いをしている。
どんな状況なの。
『離せ!』
「嫌だ!」
『死ね!』
「ベガちゃんから離れろ!」
アルタイルが殴る。
黒い影が弾ける。
妹が爪を振るう。
アルタイルの制服が裂け、肩から血が出る。
「やめなさい!」
「ベガちゃんは下がってて!」
「あなたも下がりなさい!」
「姉としてそれはできない!」
「姉じゃない!」
『お前なんか姉じゃない!』
「悪霊と意見が一致した!」
「喜ばないで!」
本当に、わけが分からない。
それでも
妹だったものが叫ぶたび、私の中の何かが崩れていった。
『お姉ちゃんは幸せになっちゃ駄目なの!』
『私が死んだんだから!』
『私より楽しそうにするな!』
『私のところまで落ちてきて!』
ずっと聞いてきた言葉。
当然だと思っていた言葉。
私が受け止めるべきだと思っていた言葉。
でも今、第三者へ向けて吐き出されるそれを聞くと
あまりにも
醜かった
「……妹は」
声が震えた。
「妹は、そんなことを言うの?」
黒いものがこちらを見る。
『言うよ』
「……」
『だって、お姉ちゃんが憎いもん』
即答だった。
『生きてるお姉ちゃんが嫌い』
「……そう」
『だから早く――』
「ベガちゃん!」
アルタイルが叫んだ。
次の瞬間、彼女は黒い影へ真正面から突っ込んだ。
「お前が妹を名乗るなぁぁぁぁぁっ!」
『何なのよお前はぁぁぁっ!』
「姉だぁぁぁぁっ!」
「違うわよ!」
最後までそこだけは否定した。
光が弾けた。
音が消えた。
黒いものが、粉々に砕ける。
『お姉ちゃ――』
最後の声だけが耳に残った。
そして、何もいなくなった。
「…………」
静かだった。
アルタイルが立っている。
「……勝った」
ふらついた。
「アルタイル」
「ベガちゃん」
こちらを見る。
妙に満足そうだった。
「大丈夫」
「全然大丈夫に見えないわ」
「姉は強し……」
「だから姉じゃないって――」
そのまま倒れた。
「アルタイル!」
慌てて駆け寄る。
気を失っていた。
制服はぼろぼろ。
あちこちに傷。
でも呼吸はしている。
「……本当に、何なのよ」
答えはなかった。
その後は騒ぎになった。
先生が来て、医務室へ運ばれて、何があったのか何度も聞かれた。
まともに説明できるはずがない。
アルタイルは眠ったままだった。
医師には命に別状はないと言われた。
それだけ確認して、私は寮へ戻った。
部屋が静かだった。
今までなら、帰ってくれば必ず声がした。
『お姉ちゃん』
それがない。
「……」
偽物だった。
そう思うと、胸の奥に穴が開いたような気がした。
偽物でも私は妹だと思っていた。
ずっと。
「馬鹿みたい」
ベッドへ腰を下ろす。
「何をしていたのかしら、私」
『ほんとだよ』
声がした。
全身が硬直した。
顔を上げる。
「……まだ」
『違うよ』
知らない声だった。
いや似ている。
私に。
でも、さっきまでいたものとは全然違う。
柔らかい。
そして少し怒っている。
『お姉ちゃんのばか』
「…………」
目の前に、一人の少女がいた。
私とよく似た顔。
でも黒くない。
歪んでもいない。
ただ、泣きそうな顔をしていた。
「あなたは……」
『妹』
胸が強く鳴った。
「……本当に?」
『本当に』
「でも、今まで」
『いたよ』
「見えなかった」
『あれが邪魔してたから』
妹が頬を膨らませる。
『ずっと言ってたのに』
「何を」
『違うって』
「……聞こえなかったわ」
『知ってる』
少しだけ寂しそうに笑った。
私は言葉が出なかった。
『お姉ちゃん』
「なに」
『私が、お姉ちゃんに死んでほしいなんて思うわけないでしょ』
「……」
『私のために苦しんでほしいなんて思わないよ』
「でも、あなたは」
『死んじゃった』
「……ええ」
『それは悲しいけど』
妹が近づく。
『お姉ちゃんのせいじゃないよ』
「でも」
『違う』
「私は生きて」
『生きていいよ』
即答だった。
『走っていい』
「……」
『楽しくていい』
「……」
『私のこと忘れるくらい楽しい日があってもいい』
「それは嫌」
初めて、考える前に言った。
妹が目を丸くする。
「忘れたくはないわ」
『……そっか』
「ええ」
『じゃあ、たまに思い出して』
「毎日でも」
『それは重いよ』
「……妹なのに」
『妹でも重いものは重いよ』
少し笑ってしまった。
本当に、少しだけ。
妹も笑った。
『でもね、お姉ちゃん』
「なに」
『あの人にはちゃんとお礼言ってね』
一瞬、誰のことか分からなかった。
「……アルタイル?」
『うん』
「自称姉の?」
『自称姉の』
「あなたのお姉さんでもあるとおもうんだけど」
妹の顔がものすごく嫌そうになった。
『違う』
「そう」
『絶対違う』
「そうでしょうね」
『知らない人だもん』
「でしょうね」
『前世の記憶とかもないって言ってたよ』
「……何の根拠で姉を名乗っているの、あの人」
『知らない』
「そう」
『でも、助けてくれた』
「……ええ」
それだけは否定できない。
名前も知らなかった同級生。
いきなり姉を名乗った変なウマ娘。
私の言葉などほとんど聞かず、勝手に悪霊へ殴りかかって、最後には自分が倒れた。
「……本当に馬鹿ね」
『うん』
「危ないし」
『うん』
「変な人だし」
『すっごく変』
「姉じゃないし」
『絶対違う』
妹と意見が一致した。
今日初めて会話をしたというのに。
でも。
「……明日、医務室へ行くわ」
『うん』
「起きていたら、お礼くらいは言う」
『ちゃんと言ってね』
「分かってる」
『あと、お姉ちゃん』
「なに?」
『あの人、たぶんこれからも付きまとうよ』
「……」
嫌な予感しかしなかった。
「どうして分かるの」
『だって最後まで姉って言ってた』
「……そうね」
『がんばって』
「何を?」
『追い払うの』
「あなたも手伝いなさい」
『私は見てる』
「守護霊なのでしょう?」
『恋愛とか人間関係は自分でやって』
「恋愛?」
『なんでもない』
「ちょっと待ちなさい」
妹は笑って答えなかった。
その夜私は初めて、本当の妹と話をした。
そして翌日から
私の学園生活には、本物の妹の守護霊と、自称姉のストーカーが一人ずつ増えることになる。