神社の祭りが終わってからも、アルタイルは以前ほど毎日姿を見せなくなった。
別に避けているわけではない。
神社の跡継ぎとして修行へ呼ばれることが増えたうえ、学園で妙な噂が立てばそちらへ首を突っ込むからだ。
夜の旧校舎からピアノが聞こえる、誰もいない教室で机が動く、寮の鏡に知らないウマ娘が映る。そんな話を聞けば、授業が終わった頃にはもういなくなっている。
以前なら、静かになって喜んでいたと思う。
今は。
「……妹」
『なに?』
「アルタイル、今日は?」
『聞くようになったね』
「質問に答えなさい」
『旧校舎』
「また?」
『三階の音楽室。夕方になると勝手にピアノが鳴るんだって』
「そう」
『行く?』
「どうして私が」
『行かないの?』
「……トレーニングが終わってから考えるわ」
『行くんだ』
「考えるだけよ」
その日のトレーニングを終えた頃には、空がもう赤くなっていた。
寮へ戻る道とは逆へ歩く。
『お姉ちゃん』
「なに?」
『こっち旧校舎だよ』
「知っているわ」
『考えた結果?』
「近くまで来たからよ」
『トレーニングコースからは寮の方が近いよ』
「うるさいわね」
旧校舎の三階まで上がると、廊下の奥からピアノの音が聞こえてきた。
途切れ途切れではあるけれど、誰かが適当に鍵盤を叩いている音ではない。ちゃんとした曲だった。
『いるよ』
「見えているわ」
音楽室の扉は少しだけ開いていた。
中を覗く。
窓際の古いピアノの前に、一人のウマ娘が座っていた。
制服は見覚えのない古い型。半透明の身体。耳も尻尾も透けていて、夕陽がその向こう側まで見える。
怪異。
ただし。
「……」
『かわいいね』
「そうね」
本当に可愛らしい子だった。
長い髪を後ろで一つにまとめ、少し垂れた目でアルタイルを見上げている。
アルタイルはピアノの横に立っていた。
「だから夜中に弾くのはやめた方がいいって。寮まで聞こえるらしいよ」
『でも昼は人がいるもの』
「放課後なら?」
『見られるの恥ずかしい』
「今私に見られてるけど」
『あなたは霊が見える人だから別』
「どういう基準?」
楽しそうに話している。
随分近い。
『あの子、お義姉ちゃん気に入ってるね』
「そう?」
『うん』
「怪異でしょう」
『悪い子じゃなさそうだけど』
「怪異よ」
『お姉ちゃん?』
「何」
『なんでもない』
アルタイルが譜面台へ身を寄せる。
「これ、ここ間違えてない?」
『どこ?』
「ここ」
『見えない。もっと近く』
「ここだって」
アルタイルがさらに顔を寄せた。
「……」
『お姉ちゃん』
「何よ」
『入るの?』
「危ないから」
『何が?』
「怪異でしょう」
扉を開けた。
「あ」
アルタイルがこちらを見る。
「ベガちゃん!?」
『こんにちは』
ピアノの怪異までこちらを見た。
「どうしてここに?」
「妹に聞いたわ」
『お姉ちゃんが自分から聞いたんだよ』
「妹」
「会いに来てくれた?」
「違うわ。危ない怪異なら放っておけないと思っただけよ」
『私、危なくないよ』
「怪異が自分で言っても信用できないわ」
『そっかあ』
素直に納得された。
アルタイルが笑う。
「この子は大丈夫だよ。夜にピアノ弾いてみんな怖がらせてただけ」
「そう」
『悪気なかったの』
「そう」
「ベガちゃん?」
「何よ」
「なんか怖い」
「気のせいよ」
怪異が首を傾げながらアルタイルを見る。
『この人、あなたの恋人?』
「違うよ」
早い。
「妹」
「え?」
「私の大事な妹だよ」
「……」
『へえ』
怪異が私を見る。
妹も私を見る。
二人とも、妙に生温かい目をしている。
「何よ」
『なんでもない』
『私もなんでもないよ』
「怪異と息を合わせないで」
アルタイルだけが分かっていない。
「とにかく、今日は話がついたから大丈夫。夜は弾かないって」
『うん。放課後だけにする』
「ならいいわ」
帰ろうとした。
そのとき、怪異が立ち上がった。
『じゃあ最後に一曲だけ』
「最後?」
『うん』
座り直し、鍵盤へ手を置く。
聞き覚えのある旋律が流れ始めた。
「……」
アルタイルが首を傾げる。
「これ何だっけ」
『結婚行進曲』
「へえ」
「……どうして今それを弾くの」
『なんとなく』
『いい曲だよね、お姉ちゃん』
「妹」
怪異が楽しそうにこちらを見る。
妹も笑っている。
なんだか腹が立った。
「アルタイル」
「なに?」
「こっちへ来なさい」
「え?」
「いいから」
腕を掴んだ。
そのまま引き寄せる。
「わっ」
気づけば、アルタイルの腕へ自分の腕を回していた。
身体ごと密着する。
「ベ、ベガちゃん?」
「動かないで」
「なんで?」
「危ないから」
『私?』
「怪異でしょう」
『危なくないよ』
「あなたの自己申告は聞いてないわ」
「でもさっき話まとまったよ?」
「怪異は怪異よ」
アルタイルをさらに引き寄せる。
怪異を見る。
怪異もこちらを見る。
『……』
「……」
『取らないよ?』
「何を」
『アルタイル』
「別に取られるなんて思ってないわ」
『うんうん』
「その顔やめなさい」
妹まで隣で頷いている。
『お姉ちゃん、怪異に威嚇してる』
「してないわ」
『お義姉ちゃん抱きしめながら』
「危ないから押さえているだけ」
「私が?」
「あなたはすぐ怪異に近づくでしょう」
「そうだけど」
『じゃあもう一回最初から弾こうかな』
「やめなさい」
結局、曲が終わるまでアルタイルを離さなかった。
別に意味はない。
怪異が可愛い女の子だったことも関係ない。
危険がないと確認できるまで拘束していただけだ。
そういうことにした。
帰り道。
「ベガちゃん」
「何?」
「今日はやけに近かったね」
「怪異がいたからよ」
「いつも怪異いるじゃん」
「今日は特に危険そうだったの」
『全然危なくなかったよ』
「妹はどちらの味方なの?」
『お姉ちゃん』
「なら余計なことを言わないで」
アルタイルが嬉しそうに笑っている。
「でも来てくれてありがと」
「別に」
「最近ベガちゃんの方から来てくれるね」
「あなたがいないことが増えたからでしょう」
「うん」
「今まで毎日のように現れていた人が急にいなくなれば、多少は気になるわ」
「そっか」
「それだけよ」
「うん」
素直に頷かれると、それはそれで落ち着かない。
そんな日が増えていった。
アルタイルが神社へ行けば、いつ戻るのか聞くようになった。
「今度何日?」
「三日」
「いつ戻るの?」
「月曜」
「そう」
「ベガちゃん寂しい?」
「予定を確認しただけよ」
そんな感じで、彼女が学園内で怪異を追っていれば、自分も様子を見に行くようにもなった。
「今日は?」
『北棟の倉庫』
「何が出たの?」
『恋人を閉じ込める怪異だって』
「……何それ」
『知らない』
「アルタイル一人で行ったの?」
『うん』
「馬鹿なの?」
『たぶん』
「行くわよ」
『うん』
北棟の倉庫へ着くと、アルタイルは扉の前で腕を組んでいた。
「あ、ベガちゃん」
「無事?」
「無事」
「ならいいわ」
「心配して来てくれた?」
「妹が一人で行ったと言うからよ」
『お姉ちゃん、私が何か言う前にすぐ立ったよ』
「妹」
倉庫の扉には、見慣れない札が貼り付いていた。
「これは?」
「怪異が作った結界」
「開かないの?」
「開くには開くんだけど、中に入ったら二人じゃないと出られないみたい」
「二人?」
「恋人同士」
「……」
「正確には、怪異が恋人だと認めた二人」
『面倒くさい怪異だね』
「恋愛好きなんじゃない?」
「それであなたはどうするつもりだったの」
「誰か誘おうかなって」
胸の奥が少しだけざわついた。
「誰を?」
「ベガちゃん」
「……私?」
「うん」
思ったより早く答えが返ってきた。
「どうして私なの」
「一番気心知れてるし」
「そう」
「妹だから」
「……」
『あ』
妹が何かに気づいたような顔をした。
アルタイルは気づかない。
「妹なら恋人のふりしても変な誤解しないでしょ?」
「……そうかしら」
「それにベガちゃんとなら怪異も騙せそう」
「なぜ?」
「仲いいから」
「妹として?」
「うん」
「……」
『お義姉ちゃん』
「なに?」
『その辺にした方がいいよ』
「何が?」
『知らない』
分かっている顔だった。
「まあ入ってみようよ。駄目なら別の方法考えればいいし」
アルタイルが私へ手を差し出した。
「恋人っぽく手つないで」
「……」
「ベガちゃん?」
その手を見る。
以前なら断っていたと思う。
でも、ここまで来たのは私だ。
「仕方ないわね」
手を重ねる。
「おお」
「何よ」
「ベガちゃんから手握ってくれた」
「あなたが出したのでしょう」
「そうだけど」
扉を開け、中へ入る。
薄暗い倉庫だった。
奥に半透明のウマ娘が一人座っている。
『恋人?』
「恋人です」
アルタイルが即答した。
『ほんと?』
「妹だけど、今日は恋人役」
「……」
『妹?』
「うん。大事な妹」
怪異が首を傾げた。
『じゃあ恋人じゃない』
「今日は恋人のふり」
『妹なんでしょ?』
「妹だけど」
『じゃあ駄目』
扉が閉まった。
「なるほど」
「何がなるほどなの」
「設定が甘かった」
『恋人じゃないと出さないよ』
「じゃあどうしよう」
アルタイルが考え込む。
「ベガちゃん、もっと恋人っぽくしようか」
「どうするの」
「腕組む?」
「さっきもしたでしょう」
「じゃあ肩抱くとか」
「……好きにしなさい」
「いいの?」
「出るためでしょう」
アルタイルが恐る恐る肩へ腕を回す。
さっき私から抱きついたときより、ずっと意識してしまった。
『恋人?』
「うん」
『その子は?』
「大事な妹」
「……」
『違うね』
「なんで!?」
『妹だもん』
「でも大事なんだよ?」
『妹として?』
「もちろん」
「……」
何かが、ぷつりと切れた。
「アルタイル」
「なに?」
「さっきから」
「うん」
「妹、妹とうるさいのよ」
「……え?」
「私はあなたの妹ではないわ」
「それはいつもの――」
「いつもの話じゃない!」
思ったより大きな声が出た。
アルタイルが目を丸くする。
妹も黙った。
怪異までこちらを見ている。
「勝手に姉を名乗るのはもう好きにすればいいわ。でも、それで私まで勝手に妹にしないで」
「ベガちゃん?」
「私はあなたに妹として大事にされたいわけじゃない!」
言って
自分で止まった。
「……」
「……」
『……』
『……』
静かだった。
どうしてそんな言葉が出たのか。
自分でも分からない。
ただ、ずっと引っかかっていたものが、初めて言葉になってしまった。
アルタイルが恐る恐る聞く。
「じゃあ……何として大事にすればいいの?」
「……知らないわよ」
「ベガちゃん」
「自分で考えなさい!」
手を振りほどく。
その瞬間
『はい、合格』
「え?」
怪異が笑った。
後ろで扉が開く。
『そっちの方がよっぽど恋人っぽかったよ』
「…………」
私は怪異を睨んだ。
『怖い怖い』
「出るわよ」
「ベガちゃん待って」
「知らない」
『お義姉ちゃん、追った方がいいよ』
「う、うん」
倉庫を出る。
早足で廊下を歩く。
後ろからアルタイルの足音が追ってくる。
「ベガちゃん!」
「ついてこないで」
「でも」
「今日は嫌」
足音が止まった。
それにも少し腹が立った。
私はそのまま振り返らずに歩いた。
私はアルタイルの妹ではない。
そんなことは最初から分かっていた。
なのに今になって、どうしてこんなにも嫌なのか。
妹として大事にされたくないのなら。
私は一体、何としてあの人に大事にされたいのか。
その答えだけは、もうあまり遠くないところまで来ている気がした。