「というわけで、昨日、あのミスターシービーに告白されました」
ボクがカメラに向かってそう宣言すると、画面の右側をものすごい勢いで流れていたコメントが、一瞬だけピタリと途切れた。
よしよし。狙い通りだ。驚いているな。
ここは寮の自室。机の上には配信用のマイクと飲み物、それから途中まで食べた割れせんべい。
年明け最初の定期配信は、引退後のいかに堕落した素晴らしい生活を送っているかという雑談から始まり、ついに本日の目玉となる特大の話題へ突入した。
何しろ、あのミスターシービーである。
クラシック三冠ウマ娘。天衣無縫。ターフの常識を置き去りにして駆け抜ける自由気ままな大スター。
そんな雲の上の彼女から、しがない一般引退ウマ娘のボクは告白されたのだ。
つい昨日、シービーの部屋でみかんを食べながら。
「いやあ、びっくりしたよね。ボクもまったく予想してなくてさ。あの人、趣味が変わってるというか、ボクの他にもっとこう、ふさわしい相手がいるだろうというか」
笑い話にするつもりで軽い調子で続けながら、コメント欄へ目を向ける。
〈やっとか〉
〈おめでとうシグレちゃん!〉
〈え、今?〉
〈まだ付き合ってなかったの???〉
〈結婚の報告じゃなくて?〉
〈遅すぎる春〉
「……ちょっと待って。反応がおかしい」
ボクは手に持っていたせんべいを皿に置いた。
想定していたのは、もっとこう、「嘘でしょ!?」という驚愕とか、「どうせドッキリだろ」という疑惑とか、詳しく聞かせろという野次馬的な反応だった。
少なくとも、待ちくたびれましたとでも言いたげな祝福の嵐ではなかった。
〈えっ本当に昨日告白されたの?〉
〈むしろ今まで何だったんだよあの距離感〉
〈ずっと付き合ってると思ってたわ〉
〈現役中はライバルだから公表してないだけかと〉
〈シグレちゃん、まだ籍入れてなかったんだ〉
「籍入れてたと思ってる人、さっきから気が早すぎるでしょ。付き合ってないよ。ボクは昨日初めて知ったんだよ、向こうがそういうつもりでボクにちょっかいを出してたって」
〈昨日〉
〈初めて〉
〈嘘だろシグレちゃん……〉
単語を切り取って呆れたように復唱するのはやめてほしい。
ボクはマグカップを持ち上げ、ぬるいお茶を一口飲んだ。落ち着こう。視聴者というものは、配信者が予想外の事態に慌てれば慌てるほど喜ぶ生き物なのだ。
普段はボクも、その習性を利用して再生数を稼がせてもらっている。今日もそのつもりだったのだが、どうも話の転がり方がボクの書いた台本と違う。
「だって、釣り合ってないでしょ。向こう三冠だよ? ボク、重賞未勝利だよ? 並べてプロフィール紹介されたら、ボクの主な勝ち鞍のところだけ、数秒ですぐ読み終わっちゃうんだよ?」
〈恋のダービーの出走にも獲得賞金が必要と思っていらっしゃる?〉
〈GⅠ出走数なら勝ってるじゃん〉
〈CBいないレースにも皆勤賞で出てたもんな〉
〈賞金あるところにシグレあり〉
〈最強の一勝馬〉
〈三冠ウマ娘とGⅠ皆勤賞ウマ娘〉
「皆勤賞じゃない。ちゃんと出走するレースは選んでたから。賞金の額とか、世間の注目度とか、出走手当とか、いろいろ総合的に考えて」
〈否定できてなくて草〉
〈シグレちゃんには「ちぬううう!!」の伝説の悲鳴があるから〉
「最後の人、出禁にするよ」
コメント欄に大量の草が流れる。
ようやく普段のいじられキャラの調子に戻ってきた。ボクはせんべいを一枚つまみ、少しだけ肩の力を抜いた。
GⅠへの出走回数なら、確かにボクの方が多い。シービーが走るレースには大体いたし、シービーが走らないレースにも貪欲に顔を出していた。
大舞台は賞金も大きいし、テレビにも映る。出走できる権利があるのに、指をくわえて見ている理由がないのだ。
その結果が、重賞未勝利のGⅠ常連といういびつな戦績である。頑張って走った分がそのまま勝ち星になっていたら、今頃ボクの名前を冠した記念レースができていてもおかしくない。
「とにかく、普通に友達だったんだって。ご飯食べたり、休みの日に遊びに行ったり、レースの後に理不尽な追い込みへの文句を言ったりする、そういう健全な」
〈前に配信中、後ろからぬるっと抱きつかれてなかった?〉
〈シグレちゃんの飲みかけのジュースを普通に飲んでたよね〉
〈あの距離感で『友達』は無理がある〉
「シービーは元々距離が近い人なの。そういう人いるじゃん。息をするように肩とか組んでくるタイプ」
〈お前にだけだぞ〉
〈ほかの子といる映像見てきなよ〉
〈去年の年末特番、CBずっとシグレちゃんのこと見てたよ〉
〈あれ惚気配信だと思って見てたんですが〉
ボクは、かじりかけのせんべいをそっと戻した。
なんだか急に胃が重くなって、食べづらい。
「……いや、ボクだって、君たちの知らないシービーを知ってるわけで。カメラ回ってないところでは結構あんな感じで」
〈その言い方よ〉
〈はいはい〉
〈ごちそうさまです〉
「違う! そういうマウントの意味じゃない!」
まずい。何を言っても燃料になっている。
天下のミスターシービーに告白された話を面白おかしく披露して、「物好きな三冠ウマ娘もいたものだ」と笑って終わるはずだった。それがいつの間にか、ボクの致命的な鈍感さをリスナー全員で検証する地獄の番組になっている。
しかも、なぜか同接、同時視聴者数がうなぎ登りに増えている。
こういうときに、つい数字を確認してしまうあさましい自分が嫌だ。いや、増えるのは配信者として最高にうれしいのだが。
「とにかく、まだ付き合ってないからね。昨日もちゃんと言ったから。ボクはずっと友達だと思ってたし、そんな急に恋人とか言われても困るって」
〈『まだ』いただきました〉
〈陥落間近〉
〈では次の話題は初デートですか?〉
〈明日の予定は?〉
「……ご飯」
コメントの流れる速度がさらに上がった。滝のようだ。
「肉を食べるの! おいしそうなお店に行くだけ! 木曜の映画と土曜の鍋もあるけど、それは普通に遊ぶ予定として先に入れちゃったやつだから!」
〈めっちゃ会うじゃん〉
〈三回分確保済み〉
〈外堀埋まってるぞ〉
〈CB仕事が早い〉
そこで、見慣れないアイコンのコメントが不意に目に留まった。
〈明日、楽しみにしてるね。おハナちゃん〉
「うん、ボクも……いや、だから明日は純粋に肉を食べるだけだからね!」
つい反射的に返事をしてから、固まった。
コメント欄が一斉に跳ね上がる。
〈本人?〉
〈その『おハナちゃん』呼びは本人では〉
〈今のシグレちゃんの反応w〉
〈CBさん、いつもシグレちゃんがお世話になってます〉
〈リスナーが保護者面するな〉
「本人かどうかは知らないよ。知らないけど、そういう名前でそういう匂わせ発言するの、よくないからね。君たちもすぐ騒がない」
その直後、机の上のスマホがブブッと震えた。
画面には『ミスターシービー』の名前。
短いメッセージが、一件。
『お肉、いっぱい食べようね』
ボクは無言でスマホを伏せた。
〈何来た?〉
〈顔〉
〈シグレちゃん顔真っ赤だよ〉
「……ゲームします。今日の雑談はこれで終わりです」
その日の配信は、普段の三倍はよく回った。
非常に不本意なことに。
◇
翌朝、ボクはクローゼットの前に立ち尽くしていた。
制服、体操着、勝負服。それから数着の飾り気のない普段着。
以上である。
圧倒的に少ないが、今までこれで特に困らなかった。学園では制服か体操着で大抵の用が済むし、休日に着る服なんて、ローテーションで洗濯が回ればそれでいい。勝負服だけはやたら華やかだが、さすがに昼からステーキを食べに行くために着るものではない。
ボクは手持ちの中では比較的きれいでマトモな、白いニットを取り出し、体に当てた。
鏡を見る。
悪くない。たぶん。
続いて別の上着を合わせ、首元を直す。寝癖で髪の跳ねているところが気になり、いつもより念入りに櫛を通した。
そこで、ふと手が止まった。
……何をやっているんだ、ボクは。
肉だぞ。
ボクは今日、肉を食べに行くんだぞ。
熱々の鉄板から油が跳ねるかもしれない。ソースをこぼすかもしれない。においだって確実につく。そういう過酷な戦場へ、わざわざ数少ない「汚したくない服」を着ていくのは、どう考えても合理的ではないだろう。
ボクは白いニットをハンガーに戻し、洗いやすい、いつもの丈夫なトレーナーとパンツを引っ張り出した。
これでよし。
鏡に映るのは、いつも通りの色気のないボクだった。ただ髪だけが、いつもより少しきちんとしている。
もう整えてしまったものは仕方ないので、そこはそのままにした。
駅前の待ち合わせ場所では、シービーが珍しく時間通りに来た。
こちらに気づくと、顔をほころばせてぶんぶんと手を振る。
「おハナちゃん、おはよう」
「おはよう。珍しいじゃない」
「楽しみで少しだけ早く来た」
シービーはくすくす笑い、すっとボクの前髪へ指を伸ばした。
反射的に身を引きかけたが、その指はボクの毛先を軽く整えただけだった。
「髪、きれいにしてきたね」
「……寝癖を直しただけだよ」
「うん。すごくかわいい」
「寝癖がついてないだけで褒められるの、普段のボクの身だしなみ評価が心配になるんだけど」
軽口は返せた。
返せたが、その先が少々よろしくなかった。
シービーがあまりにうれしそうにボクを見るので、今朝クローゼットに戻したあの白いニットのことを思い出してしまったのだ。
あっちを着ていたら、何と言われただろうか。
いや、肉を食べるのだから、これで正解だ。絶対に。
「行こうか」
「うん」
歩き出すと同時に、シービーがボクの左手を取った。
自然すぎる。自動改札に切符を通すくらいの気軽さで、ボクの指の間に、彼女の細い指が滑り込んでくる。
「……手」
「冷たいね、おハナちゃん」
「今は末端冷え性の温度の話をしてない」
「お店まで手をつないで歩けば温まるかなって」
「だから」
ボクは一度、絡められたその手を見下ろしてから、諦めて前を向いた。
昨日の配信で、視聴者が言っていたことが頭をよぎる。
『お前にだけだぞ』
……まったく、余計な情報を仕入れてしまったものだ。
◇
「これは、いい肉だ」
「ふふ、まだ食べてないよ?」
「見ればわかる。長年レースで培ってきたボクの審美眼を信用して」
運ばれてきた皿を前に、ボクは無意識に背筋を伸ばしていた。
ネットの写真に偽りなし。分厚い肉に、見事な網目の焼き色。熱い鉄板の上ではガーリックソースがじゅうじゅうと暴力的な音を立て、付け合わせのポテトまでおいしそうな湯気を上げている。
一気に気分がよくなった。
やはり肉は偉大だ。あらゆる悩みを些細なものに変えてくれる。
「写真、撮らないの?」
「あっ、撮る。危ない。食欲に負けて記録を残し損ねるところだった」
スマホを構え、色々な角度から何枚か撮る。ついでに向かいのシービーの皿も撮らせてもらった。
彼女の頼んだものも、非常においしそうだ。
「そっちのソースもよさそうだね」
「一口食べる?」
「いいの?」
「うん。はい、あーん」
切り分けられた肉を刺したフォークが、そのままこちらへ向けられた。
ボクは自分の小皿を少し前へ出した。
しかしフォークは小皿の上を通過し、一直線にボクの口元へ来た。
「……そこに置けばよくない?」
「こっちの方が早いよ」
「食事の手順の効率を議論してるんじゃないんだよ」
周りの客の目が気になる。
しかし、目の前の肉の匂いも猛烈に気になる。
数秒迷ってから、ボクは身を乗り出して、フォークから直接肉をくわえ取った。
「……おいしい」
「よかった」
「でも、次は絶対にお皿に置いてね」
「じゃあ、おハナちゃんのも食べたいな」
聞いているのか、いないのか。
ボクは自分の肉を一口分に切り、フォークで刺して持ち上げた。彼女の小皿へ置こうと、そのまま手を伸ばす。
すると、シービーの方が身を乗り出してきた。
ぱくり。
小皿へ到着する前に、空中で肉が消えた。
「……君さあ」
ボクの手には、空になった虚無のフォーク。
シービーは口元を押さえ、ゆっくりかんでから、とろけるように満足そうに笑った。
「こっちもすごくおいしいね」
「お皿に置こうとしてたんだけど」
「うん。ありがと」
「わかっててやってるよね」
「おハナちゃんが食べさせてくれたから、もっとおいしい」
「空中で強奪されたんだよ」
ボクはフォークを引っ込め、自分の皿へ目を落とした。
自分の肉を切る。
刺す。
そこで一瞬、手が止まった。
いや、今さらだ。
今までだって、飲み物を一口取られたり、お菓子を分け合ったりしてきた。昨日まで無自覚に許容していたことを、今日になって一々気にする方がおかしい。
ボクは肉を口へ運んだ。
向かいでシービーが楽しそうに笑っている気がしたが、見ないことにした。
食べ始めてしまえば、いつもの調子だった。
ポテトは最後まで取っておくべきか。肉とご飯の配分はどうするべきか。付け合わせのにんじんグラッセをお菓子のように甘くする必要があるのか。
実にくだらない話をしながら、鉄板の上が少しずつ空いていく。
「そういえば、昨日の配信」
「うん」
「ああいう話、ボクのリスナーに勝手にしてごめん。嫌だった?」
「ううん。アタシの話してるなって、うれしかった」
「ボクは途中から君のせいで大変だったんだけど」
「ふふ。見てた」
「見てたよね。途中でコメントで参加までしてきたもんね」
シービーは悪びれずに「えへへ」と笑った。
ボクは残っていたポテトを切り分けながら、少し声を落とす。
「……あの、釣り合ってないって話も、配信のネタじゃなくて、本当にそう思って言ったんだよ」
「レースの成績のこと?」
「それもそうだし。君、世間的にすごい人気者だし」
「おハナちゃんも人気あるでしょ」
「人気の種類が違う。そっちは伝説、こっちは面白配信者だよ」
ボクは、何なら転んでも「またやってる」と面白がられて再生数が伸びる方の人気だ。いや、それはそれでありがたいのだが。
「アタシ、おハナちゃんが重賞を勝ったら好きになろうって思ってたわけじゃないよ」
「……まあ、それはそうだろうけど」
「こうして一緒にご飯食べて、くだらない話してるのが一番好きなんだ。今日だって、何度も笑っちゃったし」
シービーが頬杖をついて、ボクの目をまっすぐ見た。
何でもないことのように、世界で一番大切な真実のように言われると、困る。
ボクは自分の皿へ視線を逃がした。ポテトが一つ残っている。今はこれに集中しよう。
「そのにんじん、食べないの?」
「食べるよ」
「ずっと残ってるから」
「好きだから最後にとっておいてるんだよ」
「そうなんだ」
「……欲しかった?」
「ううん。大事に食べて」
シービーが声を上げて笑った。
ボクはポテトを食べた。
結局、最後まで全部おいしかった。
◇
「この後、少し買い物していかない?」
「いいよ。何買うの?」
「服とか。これから出かけることも増えるし」
店を出てから、そんな流れるような手際で近くの商業施設へ向かった。
ここで「ご飯だけのはずでは」と思い至らなかった辺り、肉には確実に人の判断力を鈍らせる作用があるのかもしれない。
シービーに手を引かれ、ある服屋の前まで来たところで、ボクは少しだけ足を止めた。
「……ここ?」
「うん」
「君、こういうの着るんだ」
店頭には、ひらひらしたスカートや、大きなリボンのついたブラウスが並んでいた。
かわいい服だ。
いかにも、おしゃれの好きな女の子が、鏡の前で楽しそうに「どっちがいいかな」と選んでいそうな服だ。
ボクが服を買うときは、洗濯機でガシガシ洗えるか、動きやすいか、値段はいくらかを確認して数分で終わる。店先を眺めただけで、自分とは選び方が根本的に違う世界線であることがわかった。
「アタシのじゃなくて。おハナちゃんに似合いそうなの、見つけたから」
「……ボク?」
振り返ったシービーが、楽しそうにうなずいた。
ボクは店頭の服を見て、自分の着ている色気のないトレーナーを見た。
方向性が違いすぎないだろうか。
「ほら、これ」
彼女がラックから迷いなく手に取ったのは、青と黒のワンピースだった。
柔らかな青い生地に、黒いレースで縁取られた襟。胸元には存在感のある黒いリボンが結ばれ、少し膨らんだ長袖は手首のところで細く絞られている。
腰から下はふわりと広がり、裾には青いフリルと黒いレースが重なっていた。後ろ側にも腰を結ぶためのリボンがあるらしい。
前にもリボン。後ろにもリボン。
全方位、容赦なくかわいい。
「色、きれいでしょ」
「うん、綺麗だとは思う」
「おハナちゃんに絶対似合うと思うんだ」
「ボク、こういうの着ないよ」
「着てみない?」
「ボクの話を聞いてた?」
シービーはワンピースをボクの体の前に当て、少し離れて眺めた。
その顔が、やけに真剣だった。
冗談で着せようとしているなら、こちらも「似合わないって」と適当にあしらえる。しかし、本人はどうやら大真面目である。
「……これ、かなりかわいい子向けの装備じゃない?」
「うん」
「ボクだよ?」
「うん。だからおハナちゃんに似合うと思う」
会話が成立しているようで、していない。
少なくとも、ボクの魂の奥底に残っている「男の服選び」の感覚では、この服を自分用に手に取る日は一生来ないだろう。青も黒も好きな色だが、色さえ同じならフリルでも何でも着られるというものではない。
「このリボン、こんなに必要?」
「かわいいでしょ」
「後ろのリボンなんて、自分じゃ見えないけど」
「アタシが見えるよ」
なるほど。用途があった。
納得していいのかは、わからないが。
近くにいた店員さんまで「よろしければご試着をどうぞ」と、絶妙なタイミングで勧めてきた。
二対一だった。
「……着るだけだからね」
「うん。見せて見せて」
「似合わなくても笑わないでよ」
「絶対に笑わないよ」
観念して試着室へ入り、カーテンを閉める。
着慣れた普段着を脱ぎ、慣れない柔らかな服へ袖を通した。首元を整え、腰の辺りを直し、背中のリボンに少々手間取ってから、恐る恐る鏡を見る。
そこには、いかにも女の子らしい服を着たボクがいた。
短い黒髪の下に、レースの襟と大きなリボン。普段は適当な服で隠れている腰のくびれの位置がはっきりしていて、その下でスカートがふわりと丸く広がっている。
体を少し動かすと、裾のフリルも軽やかに揺れた。
……落ち着かない。
勝負服だって華やかではあったけれど、あれはあくまで「走るための衣装(ユニフォーム)」という認識だった。これを着て普通に街を歩くのだと思うと、まったく別の、背筋がむず痒くなるような気恥ずかしさがある。
「おハナちゃん、どう?」
「着たけど」
「見たいな」
ボクは小さく息を吐き、覚悟を決めてカーテンを開けた。
「……どう?」
シービーが、黙った。
いつもならすぐに何か言うのに、一言も発さない。
目が合ったまま、数秒の静かな時間が過ぎる。
「シービー?」
「あ……うん」
「何、その間。やっぱり変だった?」
「ううん。すごく……すっごく、かわいい」
今度は、声が少し静かだった。いつもよりトーンが落ちている。
シービーはゆっくりと近づいてきて、ボクの袖口のレースをそっと直した。それからまたボクの顔を見て、とろけるように笑った。
「後ろも見ていい?」
「どうぞ。自分じゃうまく結べなかったけど」
背を向けると、腰のリボンを丁寧に直される感触がした。
鏡越しに、シービーの顔が見える。
やけにうれしそうで、少しだけ頬が紅潮していた。
「うん。いいね」
「……君、こういう服が好きなの?」
「好きだよ。おハナちゃん、すごく似合ってる」
否定する隙もないくらい、素直で重みのある返事だった。
ボクは鏡へ視線を戻す。
さっきより、自分の顔が赤い気がする。試着室は狭いから、熱がこもるのかもしれない。
「これ、着てほしいな」
「待って。値札、まだちゃんと見てない」
裏返して確認すると、買えない値段ではなかった。
ただ、普段のボクなら服一着には絶対に出さない金額ではあった。洗いやすい普段着が何枚買えるだろう、と考えかけてやめる。
何枚もいらない。今ある数着で十分に足りているのだから。
「アタシが買うよ」
「いや、自分の服くらい自分で買うけど」
「アタシが選んだし、着てほしいってお願いしたから。アタシから贈らせて?」
「……でも」
「だめ?」
ボクは、シービーの顔と、鏡に映るワンピースを交互に見た。
こういうとき、彼女は逃げ道を塞ぐようにまっすぐこちらを見る。
強引に押し切るつもりの顔なら、まだ「嫌だ」と反発して何とかなるのに。ボクが受け取れば心底喜ぶのだと一目でわかる顔をされると、どうしようもなく弱い。
「……じゃあ、木曜日の映画で、飲み物とポップコーンはボクが全部買う」
「うん」
「一番大きいサイズのやつでもいいよ」
「二人で分けっこして食べようね」
話がまとまってしまった。
ボクは着替えるためにカーテンを閉めた。
鏡の中のフリルを、もう一度見る。
似合う、のだろうか。
少なくとも、シービーは好きらしい。
◇
寮へ帰り、立派な紙袋を机の上へ置いた。
部屋は朝出かけた時と何も変わっていない。ベッドには今朝着なかった白いニットがあり、机には配信用の機材。クローゼットの中も相変わらず、制服と体操着と勝負服、それから数着の色気のない普段着だけだ。
そこへ、フリフリが一着増えた。
袋から出し、そっと広げてみる。
青いスカートの裾を縁取る黒いレース。胸元のリボン。手首のフリル。
店で見たときは、周りも似たような服ばかりだったので多少感覚が麻痺していたが、こうしてボクの殺風景な部屋に持ってくると、とんでもなくかわいらしい服であることがよくわかる。
少なくとも、いつものグレーのトレーナーの隣に並べておくものではない気がした。
スマホが震えた。
『今日はありがとう。楽しかった』
シービーからだった。
ボクも楽しかった、と手短に返す。少し迷い、服のお礼も付け足した。
すぐに返信が来る。
『着てくれるの、楽しみにしてるね』
ボクはベッドへ腰を下ろした。
机の上には、青と黒のワンピース。
試着室のカーテンを開けたとき、シービーは一瞬、言葉を失うように何も言わなかった。
それから、あの熱を帯びた顔で笑った。
ボクはスケジュールアプリを開いた。
木曜日、映画。
次に会う日だ。
映画なら、肉の油も跳ねない。
ポップコーンは少し気をつければいいし、飲み物だって、普通に持てばこぼさない。
それに、わざわざ買ってもらった服をずっとクローゼットにしまっておくのは、贈ってくれた相手に対して失礼だろう。一度くらいは着て見せるべきだ。
うん。
何もおかしな判断ではない。
ボクはメッセージの画面へ戻った。
『木曜日に着ていく』と打ってから、少し考えてバックスペースで消した。
先に教えて、当日まで楽しみにされるのも、何だか落ち着かない。
『木曜日、何時に待ち合わせる?』
代わりにそれだけ送る。
返信を待つ間に、ワンピースをハンガーへ掛けた。
制服と体操着を少し横へ寄せ、その隣の空間へ収める。服の少ないクローゼットなので、青と黒のフリルがやけに鮮やかに目立った。
……やっぱり、ボクにはかわいすぎないだろうか。
袖口のレースを指でつまむ。
でも、シービーはあんなに喜んでいた。
木曜日は、これを着ていこう。
映画を見に行くだけだけど。
デートでは、ないけれど。
ボクはクローゼットを閉めかけて、もう一度だけ中を見た。
次の予定が、少しだけ、待ち遠しくなっていた。