引退することにした。
決めてしまえば、不思議なくらい静かなものだった。
走ることをやめるわけではない。明日から急に脚が動かなくなるわけでもない。
ただ、競走ウマ娘として次のレースを目指す日々が終わる。それだけのことなのに、手続きを済ませてトレーニングコースを眺めていると、昨日までとは少し違って見えた。
「ベガちゃん」
「何?」
「終わった?」
「ええ」
振り返ると、アルタイルがいた。
いつものようにいた。
「お疲れさま」
「まだ卒業するわけではないわよ」
「でも一区切りでしょ」
「そうね」
『お疲れさま、お姉ちゃん』
「ありがとう」
妹も隣にいる。
アルタイルは私の横へ座った。頼んでいないけれど、もう今さらそこを指摘する気にもならなかった。
「引退かあ」
「あなたがしみじみするの?」
「ベガちゃんのレース、ずっと見てたから」
「勝手についてきていただけでしょう」
「最初から最後まで見たんだから、立派な姉だと思う」
「姉ではないわ」
「最後まで否定された」
『これからも否定されると思うよ』
「妹ちゃんまで」
いつもの会話だった。
だから、少し安心する。
アルタイルがいる。
妹がいる。
くだらないことを言って、私が否定する。
競走をやめても、そこだけは変わらないような気がした。
「ベガちゃんはこの後どうするの?」
「まだ考えているところよ」
「学校は?」
「卒業までは普通に通うわ。その先も、いくつか話はあるけれど」
「そっか」
「あなたは?」
「私?」
「神社を継ぐのでしょう」
「ああ」
アルタイルが空を見る。
「たぶんね」
「まだたぶんと言うの?」
「まあ、ほぼ」
「ずいぶん曖昧な跡継ぎね」
「神様も細かいこと気にしないと思う」
「あなた基準で神様を語らないで」
『お義姉ちゃん、この前宮司さんに怒られてたよ』
「妹ちゃん」
「何をしたの?」
「ちょっと境内にいた霊と話してたら掃除忘れて」
「跡継ぎをやめた方がいいんじゃない?」
「ひどい」
笑ってしまう。
アルタイルも笑った。
「でも、これからは神社にいる時間増えるかな」
「そう」
「今までみたいに学園の怪異ばっかり追いかけてるわけにもいかないし」
「……そうね」
「ベガちゃんも引退するし」
「それが何?」
「ん?」
アルタイルが不思議そうに私を見る。
「いや、もう大丈夫かなって」
「何が?」
「ベガちゃん」
「私?」
「うん」
嫌な予感がした。
「妹ちゃんもいるし、昔みたいに変なのを妹だと思い込むこともないでしょ。最近は無茶も減ったし、怪異が出ても私のところまで来るくらいには慣れたし」
「……」
「だから」
アルタイルは、本当に何でもないことのように言った。
「私がずっと見張ってなくても大丈夫でしょ」
胸の奥がざわついた。
「……見張っていたの?」
「姉だから」
「姉ではないわ」
「うんうん」
「適当に流さないで」
「でも最初は心配だったんだよ。ベガちゃん、悪霊にあんなこと言われても全部受け入れてたし」
『ほんとにね』
「あなたまで」
『私ずっと怒ってたもん』
「……ごめんなさい」
『もういいよ』
妹が笑った。
アルタイルも笑っている。
私だけが笑えなかった。
「じゃあ」
「うん?」
「これからは、どうするつもりなの?」
「どうって?」
「私のところには来ないの?」
言ってから、自分でも驚いた。
アルタイルも目を丸くしている。
『お姉ちゃん』
「何よ」
『今のもう一回言って』
「言わないわ」
「ベガちゃん、私に来てほしいの?」
「質問に答えなさい」
「ええと……」
アルタイルが困ったように頬を掻く。
「会わなくなるわけじゃないよ」
「今までみたいには?」
「神社もあるし」
「……そう」
「それにベガちゃん、ずっと付きまとわないでって言ってたでしょ」
「……」
言っていた。
何度も
教室の前にいれば帰れと言った。
昼食に誘われれば嫌だと言った。
トレーニングを見ていれば追い払った。
帰りについてくればストーカーと呼んだ。
なのに
いなくなれば探した。
神社へ行けば、いつ帰るのか聞いた。
怪異を追いかければ、どこにいるのか妹から聞き出して会いに行った。
可愛い怪異がアルタイルへ近づけば、危険だからという理由をつけて抱きついた。
妹と呼ばれれば腹が立った。
「……勝手ね」
「え?」
「あなたよ」
「私?」
「勝手に現れて、勝手に姉を名乗って、勝手に毎日付きまとって」
「ごめん?」
「謝らないで。まだ終わってないわ」
「はい」
姿勢を正した。
こういうところだけ素直なのも腹が立つ。
「勝手に私の日常に入ってきておいて、今度はもう大丈夫だから離れる?」
「離れるってほどじゃ」
「同じよ」
「でも」
「私はあなたに、もう来なくていいなんて言ってない」
「前は言ってたよ?」
「前は前よ」
「……」
アルタイルが黙った。
妹も黙っている。
「アルタイル」
「はい」
「私、あなたが神社へ行くと、いつ帰ってくるのか気になるわ」
「うん」
「学園で怪異を追いかけていれば、どこにいるのか聞く」
「うん」
「数日会えなければ落ち着かない」
「……うん」
「あなたが他の女の子と近いと腹が立つ」
「え?」
「妹と呼ばれるのも嫌」
「それは知ってる」
「意味が違うのよ」
「どう違うの?」
「本当に分からないのね」
「ごめん」
謝られて、ますます腹が立った。
『お姉ちゃん』
「何?」
『言っちゃいなよ』
「……」
『お義姉ちゃん、たぶん一生分からないよ』
「妹ちゃん、ひどくない?」
『だって分かってないじゃん』
「何が?」
『ほら』
確かに
この人に気づいてもらおうとするだけ無駄なのだろう。
悪霊がいれば殴りかかる。
怪異が出れば首を突っ込む。
根拠もないのに、自分を私の姉だと何年も信じ続けている。
そのくせ、こういうことだけはどうしようもなく鈍い。
なら
「アルタイル」
「なに?」
「恋人になりなさい」
「……」
アルタイルが止まった。
妹が笑った。
「…………え?」
「聞こえたでしょう」
「聞こえたけど」
「なら返事をして」
「ちょっと待って」
「待たないわ」
「いや、待って!」
両手を上げた。
「ベガちゃん、今なんて?」
「二度言わせる気?」
「確認したい!」
「恋人になりなさい、と言ったの」
「……私が?」
「他に誰がいるの」
『私?』
「あなたは違うわ」
『知ってる』
アルタイルが自分を指差したまま固まっている。
「でも私、ベガちゃんの姉だよ?」
「違うわ」
「そこはいつもの話として」
「いつもの話にしないで。あなたは私の姉ではない」
「うん」
「私はあなたの妹でもない」
「……うん」
「だから、姉妹として大事にされたいわけでもない」
「じゃあ」
ようやく
本当にようやく、アルタイルの顔が変わった。
「……恋愛?」
「最初からそう言っているでしょう」
「私と?」
「ええ」
「ベガちゃんが?」
「ええ」
「ほんとに?」
「しつこい」
「だって」
アルタイルの顔が赤くなった。
珍しい。
神楽を見ていたと告げたときより、ずっと分かりやすい。
「嫌なの?」
「嫌じゃない!」
即答だった。
「じゃあ返事は?」
「……」
「アルタイル」
「はい」
「恋人になりなさい」
「はい!」
大きな声だった。
「声が大きい」
「ごめん。でも、はい」
アルタイルが笑う。
「私もベガちゃん好き」
「……そう」
「たぶんずっと好きだった」
「姉だと思っていたくせに?」
「それはそれ、これはこれ」
「最低ね」
「違う違う! 妹だから好きだったんじゃなくて、ベガちゃんだから好きだったって今分かった!」
「今?」
「今」
「……本当にあなたは」
『遅いよ、お義姉ちゃん』
「妹ちゃん知ってたの?」
『ずっと』
「教えてよ!」
『面白かったから』
「妹ちゃん!?」
妹がけらけら笑う。
私も、少しだけ笑ってしまった。
「じゃあ」
アルタイルが少しだけ近づく。
「これからもベガちゃんのそばにいていい?」
「そのために告白したのよ」
「毎日?」
「毎日は多いわ」
「週六」
「一日しか減ってないでしょう」
「じゃあ五」
「交渉しないで」
「でも恋人なら会いたい」
「……好きにしなさい」
「やった」
その瞬間だった。
遠くからピアノの音が聞こえた。
「……?」
聞き覚えがある。
『あ』
妹が空を見上げる。
「これ」
結婚行進曲だった。
「……まさか」
振り返る。
旧校舎の三階。
音楽室の窓から、あのピアノの怪異がこちらへ大きく手を振っている。
『おめでとー!』
「聞こえていたの!?」
『ずっと見てた!』
「趣味が悪いわよ!」
「ベガちゃん、上!」
アルタイルが指差す。
空から花びらが降ってきた。
「……何これ」
『花吹雪!』
妹が嬉しそうに両手を広げる。
桜でもない。
季節も違う。
色とりどりの半透明の花びらが、どこからともなく風に乗って舞っていた。
コースの端。
校舎の窓。
木の陰。
いつの間にか、何人もの影がこちらを見ている。
アルタイルが今まで関わってきた怪異たちだった。
夜の階段にいた子。
鏡の向こうにいた子。
倉庫で私たちを恋人扱いしたあの怪異。
見覚えのないものもたくさんいる。
『おめでとう』
『やっとだね』
『遅ーい』
『アルタイルよかったね!』
「なんでこんなにいるの!?」
『お義姉ちゃん、学園中で知り合い作ってるから』
「知り合いって怪異だよ!?」
『友達でしょ?』
「まあそうだけど!」
今度はどこからか鈴の音が鳴った。
花びらがさらに増える。
ピアノの曲も盛大になる。
「ちょっと、やりすぎよ!」
『おめでたいからいいじゃん!』
ピアノの子が笑っている。
倉庫の怪異まで両手を叩いていた。
『ほら、ちゃんと恋人になった』
「あなたは黙ってなさい!」
『あの時から分かってたよ』
「……」
恥ずかしい。
ものすごく恥ずかしい。
隣を見る。
アルタイルは呆然と花吹雪を見上げていた。
やがて、私を見る。
「ベガちゃん」
「何?」
「すごいね」
「あなたの知り合いでしょう」
「うん。でも」
笑う。
「みんな祝ってくれてる」
「……そうね」
悪い気はしなかった。
『お姉ちゃん』
「何?」
妹が私の横へ来る。
『おめでとう』
「……ありがとう」
『お義姉ちゃんも』
「ありがとう、妹ちゃん」
『これで本当にお義姉ちゃんだね』
「ほら! やっぱり私、姉だったんだよ!」
「違うわ」
『違うよ』
「えっ」
「恋人でしょう」
「うん」
「ならそれでいいじゃない」
「……そうだね」
アルタイルが私の手を取った。
今度は振り払わなかった。
「ベガちゃん」
「なに」
「私の織姫になってくれる?」
「……」
ずっと勝手に呼ばれてきた名前だった。
でも今は、少しだけ意味が違う。
「恋人としてなら、好きに呼びなさい」
「ほんと?」
「何度確認するの」
「じゃあ、私の織姫」
「はいはい」
『照れてる』
「妹」
『顔赤いよ』
「黙りなさい」
花びらが降る。
ピアノが鳴る。
あちこちから拍手と歓声が聞こえる。
ずいぶん騒がしい告白になってしまった。
でも
隣で笑うアルタイルの手を握り返しながら、私は思う。
勝手に姉を名乗る、変な同級生だった。
いつの間にか、いないと落ち着かない人になった。
そして今日からは
「ベガちゃん!」
「何よ」
「好き!」
「知ってるわ」
「ベガちゃんは?」
「……好きだから恋人にしたのよ」
「もう一回」
「言わない」
『お義姉ちゃん、しつこい』
「だって嬉しいんだもん」
「仕方のない人ね」
姉ではなく
私が自分で選んだ恋人として
これからも、私の隣にいる。
ひとまずここまでです
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