姉上は恋愛音痴
余の姉、ドリームジャーニーは、大抵のことをそつなくこなす。
相手が何を求めているかを察し、言葉の裏を読み、その場に必要ならば微笑み、必要ならば引き、必要ならば相手が二度と同じ真似をしたくなくなる程度には圧をかけることもできる。
頭の回転は速く、交渉事にも強く、何か問題が起これば原因と対処を切り分けて考えることもできるし、妹である余から見ても、人との付き合い方について姉上が下手だと思ったことはほとんどなかった。
ただし、それは恋愛を除いての話である。
「姉上」
「何でしょう、オル」
「あの者と喧嘩でもしたのか?」
「……あの者?」
「先ほどから姉上が見ている幼馴染だ」
「見ていませんよ」
「見ていた。余が昼食を食べ始めてから、すでに三度はそちらを確認している」
「オル、食事中に人の視線を逐一数えるのは、あまり上品な振る舞いとは言えませんよ」
「姉上が分かりやすいからであろう」
昼休みの食堂、少し離れた席には一人のウマ娘がいて、友人たちと何やら楽しそうに話しながら食事をしている。特別目立つ容姿でもなければ、競走で大きな注目を集めるような者でもなく、学園の中だけを見れば大勢いる生徒の一人に過ぎないが、余にとっては昔からよく知る顔だった。
姉上の幼馴染である。
幼い頃は、それこそ家族の一員かと思うほど姉上と一緒にいて、姉上の家へ遊びに来れば日が暮れるまで残り、そのまま夕食まで食べて帰ることも珍しくなかった。姉上が何かを企めば最初に巻き込まれ、あの者が何かを失敗すれば姉上が横で呆れながら手を貸し、二人で本を読んでいるかと思えばいつの間にか外へ出て遊んでいたりして、余がまだ幼かった頃には、姉上といえばあの者が隣にいるものだと考えていたほどだった。
だから、余がトレセン学園へ来てから二人の距離が妙に遠いことには、早い段階から気づいていた。
「昔はいつも一緒にいたであろう」
「昔の話です」
「今は一緒に食事もしないのか?」
「お互いに友人もいますし、予定もありますから」
「帰りも別なのだな」
「そういう日もあるでしょう」
「休日も最近は一緒にいないと聞いたぞ」
「……誰から聞いたのです?」
「本人だ」
姉上の手が止まった。
「話したのですか」
「廊下で会ったゆえ、少しな」
「何を?」
「世間話だ。なぜそんなに気にする」
「別に気にしてはいません。ただ、オルが余計なことを言っていないか確認しただけです」
「余計なこととは?」
「例えば、私が彼女のことを気にしているとか」
「気にしているではないか」
「……」
姉上が黙り、紅茶へ口をつける。その間にも視線は一度だけ幼馴染へ向かい、向こうが隣の友人に何かを言われて笑った瞬間、ほんのわずかに眉が寄った。
「姉上」
「何です」
「機嫌が悪くなったな」
「なっていません」
「なったぞ」
「食事を続けなさい、オル」
分かりやすい。
姉上にしては、驚くほどに。
それから何日かして、件の幼馴染と廊下で会ったとき、余は直接事情を聞いてみることにした。本人も隠すような話ではないと思っていたらしく、最初こそ困ったように笑っていたが、話し始めると次々に出てきた。
「最近また言われたよ。姿勢が悪いとか、昨日寝るの遅かったでしょとか、朝ご飯もっとちゃんと食べなさいとか」
「姉上はよく見ているな」
「昔から妙なところでは鋭かったんだけどね。でも前は、そんなに何でも注意してこなかったんだよ」
「いつ頃から変わった」
「中等部に入ったくらいかな。急に厳しくなった気がする」
服装が乱れている、帰りが遅い、知らない者に簡単についていくな、練習の組み方が雑だ、試験前に遊びすぎている、食堂ではもっと栄養を考えろと、聞いているだけならどこの保護者だと思うような内容が次々に出てきて、余は姉上がそんなことまで口を出していたのかと少し呆れた。
「昔はね、一緒に馬鹿なことして、失敗したら二人で怒られて、私がやらかした時には『仕方ないですね』って手伝ってくれたんだよ。でも今は、失敗する前から止められるというか、何をしても先に怒られる感じで」
「嫌になったか」
「うん。というより、疲れちゃった」
そう言った彼女は姉上を嫌っているようには見えず、それがむしろ厄介だった。
「最初は、私のこと嫌いになったのかなって思ったんだよ。だから聞いたこともあるんだけど、『あなたがあまりにも無防備だからです』って言われて、それ以上はよく分からなくて。今はもう、近づかなければ怒られないし、それでいいかなって」
「嫌ってはいないと思うぞ」
「そう?」
「少なくとも姉上は、どうでもいい者を食堂で三度も確認しない」
「それちょっと怖くない?」
「余もそう思う」
その日の夕方、姉上へ問いただしてみた。
「姉上、あの者を嫌っているのか?」
「誰をです?」
「幼馴染だ。分かっているだろう」
「嫌いなわけがないでしょう」
即答だった。
「なら、なぜあれほど強く当たる」
「強く当たっているつもりはありません」
「本人はそう感じている」
「……彼女が?」
その瞬間、姉上の表情が曇ったので、やはり嫌っているわけではないのだと余は確信した。
「あの子は昔から危なっかしいのです。生活は適当ですし、頼まれれば何でも引き受けますし、人を疑うということを知りませんし、放っておけば夜更かしをした翌日に無理なトレーニングまでしかねない。見ていれば注意したくもなります」
「他の者が同じことをしていれば?」
「程度によります」
「同じ程度なら?」
「……」
「言わぬのか」
「私には関係ありませんから」
「では、なぜあの者は関係がある」
「幼馴染だからでしょう」
姉上は何の疑問もないように答えた。
余は少し考えてから、どうにも口にせずにはいられなくなった。
「姉上」
「何でしょう」
「余も恋愛について語れるほど経験があるわけではないが」
「急に何の話です?」
「姉上は、余以上に向いていない気がしてきた」
「失礼ですね」
まったく分かっていない顔だった。
それからも二人の距離は少しずつ開いていき、幼馴染は姉上を見つけても自分から近寄ることがなくなり、姉上もそれを追いかけるようなことはしなかった。ただし、姿があれば見るし、いなければ探す。
「オル」
「何だ」
「今日、彼女を見ませんでしたか」
「知らぬ」
「そうですか」
「連絡すればよいだろう」
「そこまでの用件ではありません」
それから十分も経たないうちに、
「オル」
「見ておらぬ」
「まだ何も聞いていませんよ」
「では何だ」
「……いえ」
本当に何をしているのだろう、この姉は。
決定的だったのは、その年の冬である。
放課後、余と姉上が校門へ向かっていると、件の幼馴染が見知らぬウマ娘と並んで歩いていた。二人は随分楽しそうに話しており、相手が何かを言えば幼馴染が笑い、それを見た相手もまた笑っている。
ただそれだけの光景だった。
「……誰でしょう」
隣から、低い声がした。
「知らぬ」
「随分親しそうですね」
「そうだな」
「最近、よく一緒にいるのでしょうか」
「余に聞くな」
「……そうですね」
二人の姿が校門の向こうへ消えても、姉上はしばらくその場から動かなかった。
「姉上」
「何です」
「顔が怖い」
「普通です」
「普通の者は、幼馴染が友人と帰るだけでその顔はせぬ」
「友人とは限りません」
「なら何だ」
「……」
姉上は答えず、少ししてから、いかにも何でもないことを聞くような口調で言った。
「オル。仮の話ですが、もし彼女に恋人ができた場合、幼馴染である私はどの程度まで相手について意見を言っても許されると思います?」
「何も言うな」
「即答ですね」
「なぜ姉上が口を出す」
「相手が良くない人物だった場合は困るでしょう」
「本人が選んだ相手だ」
「騙されているかもしれません」
「騙されていないかもしれぬ」
「でも」
「姉上」
余はそこでようやく聞いた。
「なぜ、そんなに嫌なのだ?」
「……」
姉上は答えなかった。
だが翌朝、食事をしている余の向かいへ座った姉上は、しばらく黙って紅茶を眺めたあと、唐突に口を開いた。
「オル」
「何だ」
「私は、あの子が好きなのかもしれません」
「今さらか」
「……」
「何だその顔は」
「もう少し驚いてください」
「余は姉上がいつ気づくのかと驚き続けていたところだ」
姉上は珍しく絶句した。
「好きな相手に嫌われるための努力を、毎日あれほど熱心に続けているのだから、何か深い考えでもあるのかと思っていた」
「嫌われるつもりなどありませんでした」
「結果の話だ」
「……耳が痛いですね」
「それでどうする」
「どう、と言いますと?」
「好きだと分かったのだろう」
「ええ」
「なら本人へ言えばよい」
「……言うのですか」
「なぜそこで怯む」
大抵の相手ならば顔色一つ変えずに要求を通し、自分より大きな相手を前にしても平然としている姉上が、たった一人の幼馴染へ好意を伝えることだけで、見たこともないほど深刻な顔をしていた。
結局その日の放課後、姉上は彼女を呼び出した。
なぜ余まで近くにいるのかといえば、姉上から「遠くにいてください。ただし、帰らないでください」と頼まれたからであり、茂みの陰から姉の告白を見守るという行為が王たる者としてどうなのかについては、この際考えないことにした。
「話って何?」
幼馴染が来る。
昔なら、もっと姉上の近くまで寄ったのだろう。しかし今は、二人の間には自然に数歩分の距離ができていた。
「少し、伝えておきたいことがありまして」
「うん」
姉上が一度だけ息を吸った。
「私は、あなたのことが好きです」
「……」
「幼馴染としてではありません。あなたが他の誰かと親しくしていると不快で、姿が見えないと気になって、離れていかれることが嫌だと気づいて、それでようやく自分の気持ちが分かりました」
「……そっか」
「ですから、もしあなたさえよければ――」
「ごめん」
早かった。
姉上が止まった。
「……」
「ごめん、ジャーニー。私は無理」
「理由を、聞いても?」
「うん」
幼馴染は少し迷ってから、それでも姉上の目を見て答えた。
「昔はね、私もジャーニーのこと、好きだったと思う」
「……」
「一緒にいるの楽しかったし、ジャーニーが他の子と仲良くしてると少し嫌だったし、たぶん、そういう意味で好きだった」
「なら――」
「昔の話だよ」
静かな声だった。
「ジャーニーが急に厳しくなってから、だんだん一緒にいるのが怖くなった。私が何かすると注意されて、何かする前にも止められて、服もご飯も友達も練習も全部気にされて、ジャーニーと一緒にいると、自分がまた何か間違えるんじゃないかって考えるようになった」
「それは、あなたが心配で」
「うん。今ならそうだったのかもって分かるよ」
「では」
「でも、その時の私には分からなかった」
姉上が黙る。
「嫌われたと思ったし、私ってそんなに駄目なのかなって思った。だから少しずつ離れたの。離れたら、楽だった」
その一言は重かった。
「今のジャーニーが嫌いなわけじゃないし、昔のことだって楽しかった。でも、恋人にはなれない」
「……そうですか」
「ごめんね」
「謝る必要はありません。答えてくれて、ありがとうございます」
姉上は笑った。
相手を困らせないための、いつもの綺麗な笑顔だった。
幼馴染が去ってからしばらくして、余はようやく茂みの陰から出た。
「姉上」
「いましたか」
「頼まれたからな」
「そうでしたね」
姉上はまだ笑っていたが、耳も尻尾も隠しようがないほど沈んでいた。
「振られてしまいました」
「見ていた」
「昔は私を好きだったそうです」
「そうだな」
「それを自分で終わらせた」
「そうだな」
「オル」
「何だ」
「そこは少しくらい否定してもよいのでは?」
「姉上が本音を求めたのであろう」
「……そうでしたね」
姉上は少しだけ笑ったが、今度の笑みは先ほどよりずっと不格好だった。
それで終わるのだと思った。
少なくとも余は、普通ならそうなのだろうと思っていた。
だが姉上は、思った以上に諦めが悪かった。
翌日の夕方、姉上の部屋を訪ねると、机の上にはノートが広げられていた。
「姉上」
「何でしょう」
「それは何だ」
「改善案です」
「何の」
「彼女との関係の」
嫌な予感がした。
「振られたのであろう」
「ええ」
「なら終わりではないのか」
「告白への返事は受け入れますよ。ですが、今後一生好きになってもらえないと決まったわけではありません」
「……」
「少なくとも、彼女が私から離れた理由は分かりました。であれば、まずそこを改善して、もう一度一緒にいても苦痛ではない相手になるべきでしょう」
「姉上」
「何です?」
「その発想自体は悪くない気もするが、何を書いている」
ノートを覗く。
一、本人から求められない限り生活態度を指摘しない。
二、友人関係へ不用意に口を出さない。
三、褒める。
四、一週間に一度程度、負担にならない範囲で食事へ誘う。
五、断られた場合は理由を追及しない。
ここまではよかった。
その下。
六、好感度が十分回復した段階で再告白を検討。
七、好感度の測定方法を確立する。
八、自然な接触頻度の調査。
「姉上」
「何です?」
「恋愛を研究課題にするな」
「感覚でやって失敗したのですから、今度は分析するべきでしょう」
「そこがまずずれている気がするぞ」
「ではオルならどうします?」
「余に聞くな」
その後、姉上は本当に少し変わった。
廊下で幼馴染を見かけても服装を注意しない。
昼食で甘い物ばかり食べていても、口を出しかけて飲み込む。
帰りが遅くても理由を問い詰めない。
その代わり、
「今日の髪型、似合っていますよ」
「……ありがとう」
「では」
「え、それだけ?」
「はい。褒めた後に余計なことを言わない練習中なので」
「練習なんだ……」
正直すぎた。
別の日には、
「今度の日曜日、予定はありますか」
「午後なら空いてるけど」
「では、お茶でも」
「いいよ」
「……本当に?」
「なんで誘った方が驚いてるの?」
「成功率を低く見積もっていました」
「そういうこと言わない方がいいと思うよ」
「参考になります」
「メモ取らないで」
あまりうまくなっているようには見えない。
それでも幼馴染が以前より姉上と話すようになっているのも事実で、少なくとも姉上なりに、過去と同じ失敗を繰り返さないよう努力はしているらしかった。
「オル」
「何だ」
「昨日、一緒にお茶を飲みました」
「知っている」
「彼女から次は別のお店に行こうと言われました」
「よかったではないか」
「脈がありますかね」
「その言葉を本人の前で言うなよ」
「もちろん」
「ノートにも書くな」
「もう書きました」
「……」
恐らく姉上は、すぐには諦めないのだろう。
嫌われないようにし、また一緒に笑えるようになり、その先で改めて自分を好きになってもらうつもりらしい。
相手の返事を無視して迫るわけではなく、拒絶されたこと自体は受け入れているので止める理由もないのだが、それにしても「恋愛関係改善計画」と表紙に書いたノートを真剣に更新している姿を見ると、姉上は本当に恋愛だけはどうしようもなく下手なのだと思う。
それでも、今度は好きな相手を好きだと自覚したうえで行動しているだけ、以前よりはいくらかましなのだろう。
余はそんな姉上を眺めながら、ふと思った。
好きな相手だからこそ余計なことを言い、心配だからこそ相手の自由へ口を出し、そうして自分では愛情のつもりで相手を遠ざけてしまうことがあるのなら、恋というものは随分と面倒らしい。
姉上を笑ってばかりもいられない。
余も、もしそのような相手ができた時には気をつけよう。