姉上よりは
余は、姉上の失敗から、非常に重要なことを学んだ。
好意というものは、胸の内にどれほど大切に抱えていようとも、言葉にしなければ相手には伝わらない。
好きだから心配する、好きだから放っておけない、好きだから他の者より厳しくしてしまうなどという理屈は、本人の頭の中だけではどれほど筋が通っていても、何も知らない相手から見れば「なぜか自分にだけ強く当たってくる嫌な相手」にしかならない。
姉上はそれを何年もかけて身をもって証明した末、ようやく自分の気持ちへ気づいた時には、相手から「昔は好きだったけれど、今は恋人にはなれない」と見事に振られた。
もっとも、そこで諦めるほど姉上の執念は浅くなく、現在は『恋愛関係改善計画』なる題名のノートを作り、「求められていない生活指導を行わない」「褒めた直後に欠点を指摘しない」「食事へ誘う頻度を相手の負担にならない範囲に抑える」など、余から見れば恋愛以前の問題ではないかと思う項目を一つずつ実践しながら、いつの日かもう一度好きになってもらうべく地道な努力を続けている。
余としては姉上を応援しているし、相手の意思を無視して無理に迫るのではなく、自分自身を改めながら関係を作り直そうとしている姿勢は立派なものだとも思う。
それはそれとして、ああはなるまいと強く思った。
だからこそ。
「貴様は、余にとって特別だ」
「うん」
「……」
「なに?」
なぜ伝わらぬ。
余とあやつが関わるようになったのは、高等部へ進み、初めて同じクラスになってからだった。
その頃には余はすでに三冠を手にしており、学園内を歩けば知らぬ者からも視線を向けられ、話しかけてくる者の多くは、尊敬か畏怖か、あるいはその両方を多少なりとも含んでいるのが普通だったのだが、あやつだけは最初から妙に普通だった。
名前も容姿も競走成績も、学園の中では特別目立つものではない、ごく普通のウマ娘であり、本人自身も自分をそう認識しているらしく、卑屈になるでも誇るでもなく、「まあ普通だよね」と言って笑うような女だった。
ただし、少々人がいい。
余が初めてまともに言葉を交わしたのも、それが原因だった。
「これ、オルフェーヴルの?」
放課後、あやつは余の机の横まで来ると、床に落ちていたらしい一冊のノートを差し出した。
「そうだが」
「落ちてたよ」
「そうか」
「はい」
受け取る。
「……」
「……」
「何だ」
「いや、終わり?」
「何がだ」
「ありがとうとか」
「余の物を余へ返しただけであろう」
「拾ったの私なんだけど」
恐れも遠慮もなく、ごく自然にそう返されたことが少し面白くて、余は一度ノートへ目を落としてから言った。
「……感謝する」
「どういたしまして」
それで満足したらしく、あやつは何事もなかったように自分の席へ戻っていった。
次に話したのは数日後で、教師に頼まれた教材を一人で運んでいた時だったと思う。
「持つよ」
「必要ない」
「でも多いじゃん」
「この程度、余一人で足りる」
「じゃあ半分」
「話を聞け」
勝手に上半分を取って歩き出し、振り返りもせずに聞いてくる。
「どこ?」
「資料室だ」
「じゃあ行こ」
「……貴様」
「なに?」
「余を誰だと思っている」
「オルフェーヴル」
「それだけか」
「三冠ウマ娘」
「他には」
「クラスメイト」
「……そうだ」
「急に確認してどうしたの?」
「なんでもない」
その「クラスメイト」という答えが、妙に悪くなかった。
それから気づけば、余はあやつを頻繁に呼ぶようになっていた。
「貴様、来い」
「どこに?」
「昼食だ」
「私もうパン買ってきたよ」
「ならばそれを持って来い」
「友達と食べる約束してる」
「そやつも連れて来い」
「なんで?」
「余がそう言っている」
「それ理由になってないよ」
文句を言いながら、結局は来る。
トレーニングを終えたあとに見つければ、
「帰るぞ」
「なんで私も?」
「方向が同じだ」
「寮だからみんなだいたい同じ方向だよ」
「ならば問題なかろう」
「そういうことなの?」
休日に街へ出る予定があれば、
「明日は空いているか」
「午前なら」
「ならば余と来い」
「どこに?」
「街だ」
「何するの?」
「見たいものがある」
「一人で行けば?」
「貴様も見たい」
「私を?」
「そうだ」
「荷物持ち?」
「違う」
「道案内?」
「違う」
「じゃあ何するの?」
「余と出かける」
「最初からそう言ってよ」
そうした付き合いがしばらく続いた結果、周囲はなぜかあやつを余の側近だと思い始めた。
「私、違うからね」
ある日の昼休み、あやつが真顔でそう告げてきた時、何の話をしているのか分からなかった。
「何がだ」
「側近」
「誰が?」
「私」
「誰の」
「オルフェの」
「……」
「なんでそこで考えるの?」
「余は任命した覚えがない」
「だよね!」
なぜか嬉しそうだった。
「この前も後輩から『オルフェーヴルさんへこちらを』って手紙預けられたし、売店では『今日は王様と一緒じゃないんですね』って言われたし、最近友達から普通に『側近』って呼ばれるようになったんだけど」
「ならば否定すればよかろう」
「してるよ」
「なら問題ない」
「誰も信じてくれないの」
「余の近くにいつもいるからではないか」
「オルフェが呼ぶからでしょ」
「嫌なのか」
「ちょっと」
「……」
「ちょっとだよ」
胸の辺りがわずかに不快になったが、そこで無理に付き合わせれば姉上の二の舞であり、相手が嫌だと口にした時にその言葉を軽く扱ってはいけないことくらいは、姉上の惨状を見ていれば嫌でも分かる。
「分かった」
「え?」
「今後は貴様の意思を確認する」
「……なんでそんな大ごとになったの?」
「嫌がる者を無理に連れ回して、結果として距離を置かれるほど余は愚かではない」
「そこまで嫌じゃないって」
「どちらだ」
「だから、行きたい時もあれば行きたくない時もあるってこと」
「ならば毎回聞けばよいのだな」
「まあ……うん」
それから余は、きちんと尋ねるようにした。
「昼を共にするか」
「今日は友達と食べる」
「そうか」
「……怒らないの?」
「なぜ怒る」
「前なら『来い』って言ってたじゃん」
「貴様に選ばせると言ったのは余だ。断ったからといって不機嫌になれば、選ばせていることにならんだろう」
「……オルフェって、意外と話分かるね」
「意外は余計だ」
帰りも、
「今日は共に帰るか」
「うん」
「そうか」
「なんか嬉しそう」
「嬉しいからな」
「一人より二人の方が楽しいもんね」
「……」
この頃の余は、まだ自分の感情を正確には理解していなかった。
ただ、あやつと一緒にいるのは心地よく、姿が見えなければどこへ行ったのか気になり、他の者と笑っていると少し面白くなく、余のレースを見に来ていないと知れば機嫌が悪くなり、逆に終わったあと真っ先に駆け寄ってきて、
「今日すごかったね」
などと言われれば、他の誰から称賛されるより気分がよかった。
「最後、あそこから抜けると思わなかった」
「余を誰だと思っている」
「オルフェーヴル」
「三冠ウマ娘だぞ」
「知ってるよ。でもすごいものはすごいじゃん」
「……そうか」
「うん。今日すごくかっこよかった」
「……そうか」
「なんで二回言うの?」
「うるさい」
気づいたきっかけは、やはり姉上だった。
「オル」
「何だ、姉上」
「あの子とは最近どうなのです?」
「どう、とは」
「よく一緒にいるでしょう」
「気に入っているからな」
「そうですか」
姉上は紅茶を一口飲むと、随分と自然な調子で続けた。
「恋人になりたいのですか?」
「……」
考えた。
一緒にいたい。
他の者より自分の近くにいてほしい。
他の誰かの恋人になるところを想像すると、不快どころか腹立たしい。
できるならば卒業後も、学園を出たあとも、ずっと隣にいてほしい。
「なるほど」
「何がです?」
「余はあやつが好きらしい」
「今そこで気づいたのですか?」
「そうだ」
「……」
「何だ、その顔は」
「血でしょうかね」
「何が」
「いえ、何でもありません」
姉上が額を押さえる。
「よいですか、オル」
「何だ」
「気づいたのであれば、今度はちゃんと伝えなさい」
「当然だ」
「本当に分かっています?」
「姉上と同じ失敗はせぬ」
「一言余計ですよ」
「好きだから心配し、好きだから口を出し、好きだとは一度も言わず、その結果、相手には嫌われたと勘違いされて距離を取られ――」
「オル」
「何だ」
「もう十分です」
「余は同じ轍を踏まぬ」
「……それなら結構です」
余は、即座に実行した。
翌日の昼休み、中庭で二人きりになったところで、余なりにかなり分かりやすく伝えたつもりだった。
「貴様」
「なに?」
「余にとって、貴様は特別だ」
「うん」
「……」
「?」
「それだけか」
「側近みたいなものってこと?」
「違う」
「違うの?」
「余は貴様を側近に任命したことなど一度もない」
「じゃあ友達として?」
「それとも違う」
「親友?」
「もっとだ」
「……腹心?」
「なぜ役職に戻る!」
「だって特別って言うから」
伝わらなかった。
その日の夜、余は姉上と話し合った。
「姉上」
「どうでした?」
「伝わらなかった」
「何と言ったのです?」
「『余にとって貴様は特別だ』」
「……」
「何だ」
「オル、それで恋愛感情だと確信する方は、かなり自意識が強いと思いますよ」
「そういうものか」
「そういうものです」
「ならば、もっと直接言えばよいのだな」
「ええ。好きだと伝えなさい」
「姉上はそれで振られたが」
「オル」
「何だ」
「今の一言は必要でしたか?」
「事実だろう」
「私の場合、告白以前に何年分もの失点があったのです」
「なるほど」
「納得されるのも腹が立ちますね」
翌日。
「貴様」
「今度はなに?」
「余は貴様が好きだ」
「……」
あやつが目を丸くした。
今度こそ通じた。
そう確信した。
「私もオルフェのこと好きだよ」
「……本当か」
「うん。最初はちょっと怖かったけど、今は普通にいい友達だと思ってる」
「違う!」
「えっ」
思わず声が大きくなった。
「何が?」
「そうではない!」
「好きじゃないの?」
「好きだ!」
「じゃあ合ってるじゃん」
「友としてではない!」
「家族みたいな?」
「なぜそうなる!」
「だってずっと一緒にいろとか言うから」
「恋愛だ!」
「え?」
ようやく言った。
これ以上ないほど直接的に。
「恋愛?」
「そうだ」
「私と?」
「そうだ」
「オルフェが?」
「そうだ!」
「……私を?」
「貴様以外に誰がいる!」
あやつは本気で周囲を見回した。
「確認するな!」
「いや、だって」
「何だ」
「全然そういう意味だと思ってなかった」
「なぜだ!」
「だってオルフェだよ?」
「余だ」
「三冠ウマ娘の?」
「そうだ」
「私は普通だよ?」
「知っている」
「知ってるんだ」
「知らずにこれだけ一緒にいると思うのか!」
「いや、そういう意味じゃなくて……」
混乱しているのは分かる。
しかし余も混乱していた。
余は姉上の失敗を見た。
だから相手の意思を確認した。
嫌と言われれば引いた。
好意は言葉にした。
特別だとも伝えた。
好きだとも言った。
それでもなお、相手は「友達として」と理解した。
「……姉上」
「なんでそこでジャーニーさん?」
「少しだけ姉上の苦労が分かった」
「何の?」
「なんでもない」
だが、ここで終わるわけにはいかない。
「改めて言う」
「う、うん」
余はあやつの正面へ立ち、今度こそ誤解の余地を一つずつ潰していくことにした。
「余は貴様を恋愛対象として好きだ。友人でも、親友でも、側近でも、臣下でも、家族でもない」
「はい」
「余は貴様と恋人になりたい」
「はい」
「できるならば卒業後も、その先も、長く余の隣にいてほしい」
「それって」
「就職ではない」
「まだ何も言ってないよ」
「先に潰した」
「あ、うん」
「今度こそ分かったか」
「……分かった」
「本当に?」
「そこまで言われたら分かるよ!」
ようやくである。
「では返事を――」
言いかけて、止めた。
姉上から教えられていた。
自分がようやく気持ちへ気づき、一晩や二晩で告白する覚悟を決めたからといって、告白された側の気持ちまで同じ速度で変化するわけではないし、返事を急かしてはならない。
「いや」
「え?」
「今すぐでなくてよい」
「いいの?」
「余は貴様の答えを命じたいわけではない。貴様自身が考え、決めろ」
「……」
あやつがしばらく余の顔を見たあと、なぜか少し笑った。
「オルフェ」
「何だ」
「ちゃんと告白できるんだね」
「馬鹿にしているのか?」
「してないよ。ただ、もっと『余の恋人になれ』とか言うと思ってた」
「……」
言おうとした。
正確には、最初に思い浮かんだ台詞がそれだった。
姉上の顔が脳裏に浮かんだのでやめただけである。
「最初はそのつもりだった」
「やっぱり」
「だが、それでは命令になるだろう」
「うん」
「だからやめた」
「そっか」
あやつがまた笑う。
「じゃあ、ちょっと考えさせて」
「ああ」
「明日じゃなくてもいい?」
「構わぬ」
「一週間くらいかかるかも」
「……長いな」
「今ちょっと嫌そうな顔した」
「したが、待つ」
「三日くらいにする?」
「こちらに合わせる必要はない」
「でも待つの嫌なんでしょ?」
「嫌だが、待つ」
「頑張ってるね」
「余を何だと思っている」
「オルフェ」
「それだけか」
「三冠ウマ娘」
「他には」
あやつは少し考え、どこか照れたように笑った。
「私に告白してきた同級生」
「……そうだ」
悪くない。
少なくとも側近からは進んだ。