恋愛実験
アグネスタキオンが恋愛方面に恐ろしく鈍い、ということに私が気づいたのは、たぶん私が彼女を好きになってからかなり経った後のことだった。
入学してすぐの頃から、私はもうタキオンのことばかり見ていたのだと思う。最初は単純に変な子だったから目についただけで、授業中でも思いついたことがあれば急にノートへ何かを書き始めるし、研究の話を振ればこちらが理解できているかどうかなど気にも留めず延々と喋り続け、自分の身体まで平然と実験材料にしようとするので、放っておいたらいつか本当に倒れるのではないかと心配になり、それで何かと付き合っているうちに、研究の話をしている時だけ子供みたいに目を輝かせるところも、自分の興味にだけは驚くほど真っ直ぐなところも、普段は人を煙に巻くくせに意外と素直に世話を焼かれているところも、全部まとめて好きになっていた。
そこから何年も、私は自分なりにかなり分かりやすく好意を示してきたつもりだった。
実験を手伝う。
休日まで呼ばれれば行く。
頼まれていない物まで必要そうなら用意する。
食事を忘れていれば持っていく。
無茶をすれば怒る。
褒められれば自分でも分かるくらい嬉しそうにするし、近くに来られれば多少は挙動不審にもなる。
それでもタキオンは、私のことを「非常に献身的な友人」としか思っていなかった。
ここまでくると、私の伝え方だけが悪いとは到底思えない。
「タキオン、いる?」
「いるとも。入りたまえ」
放課後、頼まれていた消耗品を入れた袋を抱えて、いつもの部屋の扉を開ける。
この部屋はタキオンとマンハッタンカフェが共同で使っていて、片側にはタキオンの実験器具や資料が積まれ、もう片側にはカフェのコーヒー器具や私物が置かれているのだが、今日は机に向かっているタキオンより先に、奥のソファが目に入った。
「……またやってる」
「あ、来た」
ソファの中央には顔見知りのウマ娘が座っていて、その右側にはカフェが肩を寄せるどころか、ほとんど身体を預けるくらいの距離でくっついている。
そして左側には誰もいない。
私から見れば。
「今日はまた近いね」
「私もそう思う」
真ん中の子が困ったように言った直後、誰もいない左側へ顔を向ける。
「だから耳はやめてって」
「おともだち?」
「うん。たぶん今ものすごく楽しんでる」
「元気そうだね」
「見えないのにそういうこと言えるのすごいよね」
「だってカフェもあなたも普通に話してるし、いるんでしょ?」
「……います」
カフェが静かに答える。
私には、その「おともだち」とやらはまったく見えない。
声も聞こえないし、姿も分からないし、何かがそこにいるという気配すら察知できないので、私の世界だけを基準にするなら、ソファの左側にはただ空間があるだけだ。
けれど、カフェが昔からそういう存在について話しているのは知っていたし、今では真ん中に座っている彼女まで普通に見えて会話できるらしいので、なら私には分からないだけで、本当にそういう相手がいるのだろうと思っている。
別に否定する理由もない。
「それで、その状態は何?」
「告白された」
「へえ」
「二人に」
「……ああ」
一瞬だけカフェを見る。
次に、私には何も見えない左側を見る。
それからもう一度、中央の彼女を見る。
「やっとか」
「反応それ!?」
「いや、だってカフェは分かりやすかったし」
「そんなに?」
「かなり」
「……私は、そこまで露骨にしていたつもりはありません」
「してたよ。あなたが来るとちょっと嬉しそうになるし、帰るって言うと露骨に寂しそうになるし、最近なんてソファに座る場所まで決まってたじゃん」
「……」
「ほら黙った」
カフェが目を逸らした。
すると左側から何か言われたらしく、真ん中の彼女が笑う。
「おともだちが『私も』だって」
「じゃあそっちもやっとか」
「私だけ気づいてなかったのかな……」
「当事者ってそういうものじゃない?」
「そうかなあ」
「で、もう付き合ったの?」
「まだ。ちょっと考えさせてって言った」
私はカフェを見る。
相変わらずぴったりくっついている。
「その状態で?」
「……返事を急かしてはいません」
「カフェ、その距離で言っても説得力ないよ」
「……」
「また黙った」
「こっちも似たようなものだからね」
真ん中の子が左側から何かされて、また耳を押さえる。
「もう付き合ってるようにしか見えないけど」
「私もそう思う」
「……それは」
「カフェも否定できてないじゃん」
まあ、この三人はそのうちどうにかなるだろう。
そんなことを思いながら奥へ目を向けると、タキオンは机へ頬杖をつき、ずいぶん楽しそうな顔でこちらを眺めていた。
「何その顔」
「いやいや、実に興味深いねぇ」
「人の恋愛を研究対象みたいに見ないで」
「しかし実際、面白いとは思わないかい? つい先ほどまで友人として成立していた関係が、恋愛感情を言語化しただけで同じ接触にも異なる意味が付与され、当人たちの意識や行動まで変化しているわけだ。これはなかなか観察し甲斐がある」
「タキオンさん」
「安心したまえ、カフェ。まだ記録はしていない」
「まだ、なんですね」
「書くつもりだった?」
「少しねぇ」
「やめなよ」
タキオンは肩をすくめる。
どうせ数分後には忘れて別のことを始めるだろうと思い、私は持ってきた袋を机へ置いた。
「それより、頼まれてたもの」
「おや、もう手に入ったのかい? 売店では在庫切れだったと思うが」
「外まで行ってきた」
「そこまでしなくても明日で構わなかったのだがねぇ」
「でも今日試したかったんでしょ?」
「まあ、それはそうだ」
「じゃあいいじゃん」
袋の中から頼まれていた消耗品を並べていくと、その中に混ざっていた新品の作業用手袋を見つけたタキオンが、不思議そうに持ち上げた。
「これは?」
「この前使ってたの破れてたでしょ」
「頼んだ覚えはないが」
「頼まれてないよ。でも必要でしょ」
「それはそうだが……よく覚えていたねぇ」
「いつも見てるから」
「ほう」
「……実験してるところをね」
少しだけ期待した。
いつも見ている。
かなり分かりやすい言い方だったと思う。
「なるほど。研究協力者として実に優秀だ」
「……」
駄目だった。
「何だい?」
「なんでもない」
「妙な間だったねぇ」
「タキオンのせい」
「私は礼を言っただけなのだが?」
本人は本当に分かっていない。
「あと、これ」
もう一つの袋を机へ置く。
「今度は何だい?」
「ご飯」
「……」
「今日もまともに食べてないでしょ」
「まだ夕方だとも」
「朝は?」
「紅茶なら飲んだねぇ」
「それだけ?」
「それだけとは心外だな。砂糖もかなり入れてあるのだから、少なくとも糖質は十分に摂取しているし、脳の活動に必要なグルコースを速やかに補給するという観点から考えれば、朝の活動を開始するためのエネルギー源としては実に合理的な――」
「砂糖たっぷりの紅茶を朝ご飯って言い張らないで」
「私は朝食とは言っていないよ。必要なエネルギーを摂取したと言っただけだ」
「じゃあ朝ご飯は?」
「……紅茶だねぇ」
「ほら!」
「だから砂糖が大量に入っていると言っているだろう?」
「砂糖を入れたら食事になる制度ないから!」
「では固形物でなければ食事と認めないという科学的根拠を提示してもらおうか」
「そういう話してないの!」
机の端に積まれていた紙を勝手に寄せ、買ってきた軽食と飲み物を置き、そのまま箸まで押しつける。
「ほら、食べて」
「君は私の母親か何かかい?」
「違うよ」
「では栄養管理担当?」
「そんな役職になった覚えもない」
「だが、やっていることはほぼ同じでは?」
「タキオンが自分でちゃんと食べればやらなくて済むの!」
「なるほど。では今後ともよろしく頼むよ」
「改善する気ないじゃん!」
笑われて振り返る。
「何?」
「いや、分かりやすいなって」
「何が?」
「いろいろ」
「……」
嫌な予感がしてカフェを見ると、カフェまで少し気の毒そうな顔をしている。
「カフェ、その顔やめて」
「……私は何も」
「顔に出てる」
左側から何か言われたらしく、真ん中の彼女がまた笑う。
「おともだちも何か言った?」
「うん」
「言わなくていい」
「まだ内容言ってないよ」
「絶対私のことだから」
「正解」
「ほら!」
「何の話だい?」
タキオンだけが何一つ分かっていない。
「タキオンは食べてて!」
「理不尽だねぇ」
「食べなかったらもっと怒るよ」
「はいはい」
文句を言いながらもちゃんと食べるところが、また好きだった。
食事を終えるとタキオンはすぐ研究へ戻り、私はいつものように横へ立って補助を始めた。試料を渡し、器具を用意し、記録を取り、次に何を必要とするのかを考えながら動いていると、もう何年も続けているだけあって、最近では細かく指示される前に大半のことができる。
「次は?」
「そちらの試料を頼むよ」
「これ?」
「そう、それだ」
「記録は?」
「お願いできるかな」
「もう書いてる」
「いやはや、実に優秀だねぇ。私が何を求めているのか、すっかり理解している」
「入学してすぐからずっと手伝ってるんだから、これくらいはね」
「もうそんなに経つか」
「経つよ」
そして私は、その入学してすぐの頃からずっとタキオンを好きだった。
最初からはっきり恋愛だと認識していたわけではないけれど、少なくとも最初の頃にはもうタキオンを目で追っていたし、頼まれれば嬉しかったし、他の誰より自分が彼女のことを分かっていると思えると少しだけ誇らしかったので、たぶんかなり早い段階で手遅れだった。
「タキオン、それ素手で触らない」
「この程度なら問題ないとも」
「手袋」
「濃度的にも――」
「手袋」
「はいはい」
さっき買ってきたものを押しつける。
タキオンはそれを受け取りながら、面白そうに私を見る。
「君は本当に心配性だねぇ」
「そりゃ心配するよ」
「なぜ?」
「……」
好きだから。
すぐそこまで出かかった。
「友達だから」
「なるほど」
即座に納得された。
「……はぁ」
「今度はどうしたんだい?」
「なんでもない」
「私を見ながらため息をつかれると、多少気になるのだが」
「タキオンのせい」
「私は何もしていないとも」
「そこなんだよ……」
しばらくすると、実験そのものより先ほどの三人の方が気になり始めたらしく、タキオンは器具を片づけながら再びソファへ顔を向けた。
「ところで」
「なに?」
「告白される前と後で、実際に何か変化はあったのかい?」
「変化?」
「例えばカフェが君へ触れた時だよ。昨日までなら単なる友人同士の接触として受け取っていたものが、恋愛感情を告げられた後では別の意味を持つのではないか?」
「……まあ」
その言葉を聞いて、カフェが少しだけ中央へ寄った。
「カフェ、今試した?」
「……少し」
「そういうの。昨日までだったら『近いな』くらいだったのに、今はなんか意識する」
「ほう」
タキオンの目が輝く。
「では、相手が自分を恋愛対象として見ているという情報一つで、同一の刺激に対する心理的反応が変化したわけだ」
「言い方が難しい」
「タキオン、完全に研究する顔になってるよ」
「いやいや、興味を持っただけさ」
「同じでしょ」
「では告白した側はどうだい、カフェ?」
「……私ですか」
「告白前後で感情の変化は?」
「……緊張しました」
「心拍数は測った?」
「測っていません」
「惜しい」
「惜しくありません」
「告白した後は?」
「……嬉しいです」
「まだ了承されていないのに?」
「はい」
「なぜ?」
「……言えたから、でしょうか」
「なるほど」
タキオンが顎へ指を当てる。
私は嫌な予感がした。
何か新しいものへ興味を持った時の顔だ。
「タキオン」
「何だい?」
「変なこと考えてない?」
「変とは失礼だねぇ。ただ、聞いているだけより実際に試した方が理解は早いだろうと思ってね」
「……何を?」
「告白だよ」
「誰に?」
タキオンがこちらを見る。
「君」
「……私?」
「ああ。ちょうどいいだろう?」
胸が跳ねた。
でも、顔を見れば分かる。
これは告白する顔ではない。
実験を始める時の顔だ。
「ちょうどいいって何」
「私と君は入学当初からの付き合いであり、関係性も安定している。見知らぬ相手へ突然告白して余計な混乱を生むより、告白という行為によって既存の認識がどの程度変化するのかを観察するには適した相手だと思うが?」
「……」
「タキオンさん」
カフェが珍しく少し強めの声を出した。
「何だい?」
「それは、やめておいた方が」
「なぜ?」
「……その」
「カフェ」
私は止めた。
「いいよ」
「……いいんですか?」
「うん」
だって聞きたい。
たとえ実験でも、タキオンの口から。
「ほう。相変わらず協力的だねぇ」
「いつもでしょ」
「確かに」
タキオンが私の正面へ立つ。
「では、少々真面目にやってみようか」
「うん」
「私は君が好きだ」
分かっている。
実験だ。
「友人としてではなく、恋愛対象としてね」
分かっている。
でも嬉しい。
「そして君さえよければ」
心臓が速くなる。
「私と付き合ってみるかい?」
「付き合う!」
「……」
「付き合う!」
タキオンの笑顔が止まった。
「……おや?」
「今日からでいい!?」
「ちょ、ちょっと待ちたまえ」
「なんで!?」
「いや、今のは実験としての仮定であって」
「告白したよね!?」
「形式上は」
「恋愛で好きって言った!」
「言ったねぇ」
「付き合おうって言った!」
「それも言った」
「じゃあ付き合う!」
「ずいぶん食いつくねぇ!?」
「当たり前でしょ!」
もう止められなかった。
「私もタキオンが好きだから!」
「……」
「入学してすぐから、ずっと好きだった!」
「……ずっと?」
「ずっと! だから実験も手伝ってたし、休日まで来てたし、ご飯持ってくるのも心配だったからだし、必要な物を覚えてるのもタキオンのこといつも見てるからだし、危ないことを止めるのも好きな子に怪我してほしくないから!」
「……」
「褒められたら一日ずっと嬉しいし、近くに来られたら緊張するし、他の子と楽しそうに実験の話してたらちょっと嫌だったりもしたし、全部ずっとそうだったの!」
「……なるほど」
「今理解したの!?」
「ああ」
「遅いよ!」
後ろから盛大な拍手が聞こえた。
「やっと言った」
「……おめでとうございます」
見えない側からも何か言われたらしく、中央の彼女が笑う。
「おともだちも『やっぱり』って」
「見えない相手にまで気づかれてたの!?」
「らしいよ」
「タキオン!」
「何だい?」
「この部屋で気づいてなかったの、タキオンだけだよ!」
「それは……少々不名誉だねぇ」
「少々じゃない!」
何年だと思っている。
「そういえば」
タキオンが少し考える。
「君が毎日のように食事を持ってきていたのも?」
「好きだったから!」
「砂糖を大量に入れた紅茶で十分な糖分を摂取していると説明するたびに怒っていたのも?」
「好きな子が砂糖入りの紅茶だけで一日始めようとしてたら怒るよ!」
「手袋を勝手に補充していたのも?」
「怪我してほしくないから!」
「休日に実験へ付き合っていたのも?」
「一緒にいたかったから!」
「……」
「まだ聞く!?」
「いや。こうして一つずつ再解釈してみると、驚くほど整合性があると思ってねぇ」
「最初からそうだよ!」
タキオンは珍しく本気で感心していた。
こちらとしては全然嬉しくない。
「それで」
「何だい?」
「返事」
「返事?」
「タキオンの」
「告白したのは私だが?」
「実験だったんでしょ」
「まあ」
「私は本気で付き合うって言った。だからタキオンは?」
「……」
そこで急に怖くなった。
さっきまで勢いに任せて全部言ったけれど、本来これはタキオンが恋愛へ少し興味を持って始めた実験でしかない。
「やっぱりなし?」
「いや」
タキオンが少し考える。
「正直に言えば、私はこれまで恋愛というものに大した興味を持っていなかったし、君をそういう対象として考えたこともなかった」
「うん」
「だが、今日あちらの三人を見て、告白によって人間関係の認識そのものが変化する現象には興味を持った」
「……うん」
「そして実際に君へ告白してみたところ、予想を遥かに超える結果が返ってきた」
「私がずっと好きだったこと?」
「それもそうだが、君の行動の大半が私への好意に基づいていたと判明したことも含めてねぇ」
「今までの全部、意味変わった?」
「ああ。かなり」
「……そっか」
それだけで少し嬉しい。
「ならば」
タキオンが私を見る。
「その変化をもう少し観察してみたいと思う」
「実験として?」
「最初はねぇ」
「……」
思わず顔が曇ったのか、タキオンが少しだけ笑った。
「だが君を単なる被験者として扱うつもりはないよ」
「ほんと?」
「ああ。恋人として付き合った結果、私が君をどう見るようになるのか、君がどのように変化するのか、それを私自身の経験として確かめたい」
「それって」
「君さえよければ、という話だが」
「いい!」
「まだ最後まで言っていないとも」
「でも付き合うってことでしょ!?」
「まったく、先ほどから食いつきがよすぎるねぇ」
「何年待ったと思ってるの!」
「私は今日知ったのだが」
「そこが問題なんだよ!」
タキオンが苦笑しながら手を差し出す。
「では、改めて」
「うん」
「私と付き合ってみるかい?」
「付き合う!」
「即答かい」
「当然!」
すぐにその手を取った。
どれが好きでしたか?(10人かいたので人気投票)
-
ミスターシービー
-
ダイワスカーレット
-
ウオッカ
-
アストンマーチャン
-
ハルウララ
-
アドマイヤベガ
-
ドリームジャーニー
-
オルフェーヴル
-
マンハッタンカフェ
-
アグネスタキオン