眠り姫へ
椅子を少し寄せて、布団から出ている貴女の手に触れる。
指先は温かかった。両手で包むと、いつも手をつないでいたときと同じくらいの温かさになる。
「今日ね、学園に行ってきたの」
貴女は目を閉じたまま、返事をしない。
呼吸に合わせて胸元の布団がゆっくり動いている。枕の上に広がった髪を、空いている手で梳いて直した。
「みんな、貴女のこと聞いてたよ。また一緒に走りたいって」
ライスも、と言おうとしてやめた。
窓の外は晴れている。
こんな日は、よく貴女に連れ出された。
練習が休みだと言うと、待ってましたとばかりにお出かけの相談が始まって、ライスが着替える前から寮の入口で待っていた。
最初は、どうしてこの人はライスに構うんだろうと思っていた。
入学して間もない頃だった。
教室を出ると貴女がいて、食堂へ行くと隣に座って、放課後には一緒に帰ろうと声をかけてきた。
「今日は図書室に行くから……」
「じゃあ、ボクも行こうかな」
「でも、ライス、ずっと本を読んでるよ?」
「うん。ボクも読む」
向かいの席に座って、本を開く。
ときどき顔を上げると目が合って、そのたびに笑ってくれた。読んでいる本の話をすると、閉館まで聞いてくれた。
次の日も、その次の日も、貴女はライスを見つけた。
「ライスと一緒にいると、悪いことが起きるから」
何度か、そう言ったことがある。
仲良くなってすぐの頃から、貴女の制服にはよく染みがついていた。飲み物をこぼしたり、通りがかった車に泥をはねられたり。
ライスと一緒にいるときばかりだった。
「今日も、ジュース……」
「洗えば落ちるよ。それより、ライスの本が濡れなくてよかった」
落ちてくるはずだったジュースは、ライスの本の上で向きを変えたように見えた。
隣に座っていた貴女の膝だけが濡れて、本には一滴もついていなかった。
おかしいと思うことは、それからも続いた。
ライスの足元にあった小石で貴女が転び、ライスが開けようとした扉で貴女が指を挟んだ。出かける前に降り始めた雨は、貴女が傘を取りに戻っている間だけ強くなった。
ライスは濡れずに済んだ。
貴女は濡れた前髪をかき上げて、傘を差し出した。
「ほら、行こう」
離れたほうがいい。そう思っているのに、差し出された手を見ると断れなかった。
その手を取ると、貴女は嬉しそうに指を握ってくれた。
ライスも、嬉しかった。
メイクデビューを終えて、少し経った頃。
貴女は階段から落ちて、病院に運ばれた。
ライスはそのとき、同じ階段を下りるところだった。
上から物音がして、顔を上げる前に貴女が落ちていった。運ばれていた荷物が崩れたのだと、後になって聞いた。
ライスには何も当たらなかった。
病室へ行くと、貴女の腕には包帯が巻かれていた。片方の脚も固定されていて、顔には擦り傷が残っていた。
それなのに、ライスを見ると、ベッドの上で身体を起こそうとした。
「来てくれたんだ」
「動いちゃだめ……」
慌てて近づくと、貴女は素直に枕へ戻った。
その手前で、ライスの脚を確かめるように見ていた。
「ライスは、大丈夫だった?」
「……うん」
「よかった」
よくないよ、と言いたかった。
でも、貴女の顔を見ると泣いてしまって、声が出なかった。
貴女は無事なほうの手を伸ばした。
いつものように頭を撫でようとして、届かなくて、ライスが近づくのを待っていた。
その手の下へ、自分から頭を寄せてしまった。
包帯の端が頬に触れた。貴女がこんな怪我をしているのに、撫でてもらうと少し安心した。
「ごめんね」
「ライスが謝ることじゃないよ」
貴女は何度もそう言った。
退院したらまた一緒に出かけよう、とも。
ライスは頷いてしまった。
もう離れなきゃと思っていたはずなのに。
菊花賞に勝った日、貴女は誰よりも大きな声でライスを呼んだ。
ブルボンさんより先にゴールして、息を整えているときだった。
変な空気が流れ、喜んでいいのかわからなくて、顔を上げられずにいたライスの耳に、よく知っている声が届いた。
「ライス! おめでとう!」
振り向くと、貴女が両手を振っていた。
何度も跳ねて、そのたびに持っていた袋が揺れる。隣にいた人に笑われても気にせず、またライスの名前を呼んだ。
さっきまで聞こえていた言葉が、少し遠くなった。
「すごかった! 最後まで、ずっと見てたよ!」
そんなことを言われたら、ライスだって笑ってしまう。
小さく手を振り返すと、貴女はもっと大きく振ってくれた。
控室に戻ったライスを待っていたのは、花束を抱えた貴女だった。
「渡すときのこと、ちゃんと考えてたんだけど」
「うん……?」
「ライスを見たら、全部忘れちゃった」
花束を渡しながら、貴女はまた、おめでとうと言った。
花の間に小さなカードが挟まっていた。開くと、同じ言葉が丁寧に書かれていた。
ライスはそれを、何度も読んだ。
貴女が隣で、お祝いのご飯をどこで食べようかと話している間も。
約束したご飯には、行けなかった。
帰り道で貴女は事故に巻き込まれ、また大きな怪我をした。
病院へ駆けつけると、さっきまで花束を持っていた手が、布団の上に置かれていた。
痛み止めが効いているから平気だと、貴女は笑った。
「お祝い、少し待っててね」
ライスは、頷けなかった。
持ってきたカードを握ったまま、ベッドの横で泣いていた。
勝って嬉しかった。
貴女に喜んでもらえて、もっと嬉しかった。
その続きを、貴女と過ごしたかっただけなのに。
初めて天皇賞の春を勝ったときも、貴女はライスを待っていた。
マックイーンさんの三連覇を止めてしまった。
レースのあと、そう言われるたびに、貴女はライスより先に口を開いた。
「ライスも、この日のために頑張ってきたんです」
怒鳴ったりはしなかった。
でも、ライスの肩を抱いて、そこから動かなかった。
人の少ないところまで来て、ようやく肩から手が離れた。
ライスが立ち止まると、貴女も立ち止まった。
「……勝たないほうが、よかったのかな」
「ボクは嬉しかったよ」
「でも」
「ライスが勝つところを見たかった。今日、見られてよかった」
貴女の胸に額をつけた。
そっと背中を撫でられて、制服を握ったまま、しばらく離れられなかった。
その夜、貴女は熱を出した。
翌朝になっても下がらず、やがて入院することになった。
お見舞いに行くたびに、貴女は眠っていた。
起きていても長くは話せなかった。食事もあまり食べられないらしく、手をつないだとき、前より細くなっているのがわかった。
「やっぱり、ライスのせいなんだね」
返事をしようとした貴女に、首を振った。
「違うって言わないで。ライスといるときばっかり、悪いことが起きるの。ライスに何かありそうなとき、いつも貴女が……」
そこで言葉が止まった。
貴女はつないでいた手を、少しだけ握り直した。
「ライスが、無事でいてくれたらいいんだよ」
貴女はライスの顔を見て、そう言った。
いつもと同じ、優しい声だった。
やっぱり、そうなんだ。
ライスに起こるはずだったことが、貴女のところへ行っている。
ライスが怪我をせずに済んだとき、貴女が怪我をした。
ライスが喜べるようにしてくれたあとで、貴女が病院へ運ばれた。
貴女はそれを、ライスよりずっと前からわかっていたんだ。
「貴女が無事じゃなかったら、ライスは嫌だよ」
握っていた手に、少し力を込めた。
貴女の指は細くなっていた。こんなに痩せてしまうまで、ライスのそばにいてくれた。
何度も怪我をして、そのたびにライスの心配をしていた。
「ライス、貴女に元気でいてほしいの」
貴女は何か言おうとして、口を閉じた。
少し困ったように笑って、ライスの手を撫でた。
その指に触れていたかった。
もう少しここにいて、貴女が眠るまで話をしたかった。退院したら、また一緒に帰りたかった。
教室でも食堂でも貴女と一緒に居た。
面白い本を読んだときも、綺麗な花を見つけたときも、貴女へ話したかった。
この人が好きなんだと気づいていた。
だから、今度こそ離れなきゃいけなかった。
次のお見舞いに来るとき、貴女がどんな怪我をしているか。そんなことを考えながら、一緒にいるのは嫌だった。
「もう、ライスに構わないで」
貴女の指が止まった。
「一緒に帰らなくていい。お出かけも、もうしない。お祝いにも来ないで」
声が震えた。
一度言ってしまうと、取り消したくなった。やっぱり今のは忘れてと、手を握り直したくなった。
貴女が黙っている間も、ライスはその手を離せずにいた。
「……会わないように、しよう」
ようやく顔を上げた。
貴女はライスを見ていた。少し口を開いて、それから、ゆっくり頷いた。
「わかった」
ライスの手から指が抜けた。
布団の上へ戻された手を、もう一度取ることはできなかった。
立ち上がって、椅子を戻した。
持ってきたお見舞いの品を机に置いて、扉へ向かった。
「ライス」
呼ばれて、足が止まった。
「レース、頑張ってね」
振り返れなかった。
小さく頷いて、病室を出た。
扉を閉めてから、廊下の壁に手をついた。
貴女が追いかけてこられないことを、初めてよかったと思ってしまった。
呼び止められたら、きっと戻ってしまうから。
それから、貴女とは会わなくなった。
図書室へ行く時間を変えた。食堂では、入口の見えない席に座った。
廊下の先に貴女らしい姿を見かけると、顔を確かめる前に別の道へ曲がった。
退院したと聞いたときは、嬉しかった。
携帯を開いて、貴女の名前を見た。でも、何も送れなかった。
返事が来たら、また話したくなる。話せば、会いたくなる。
一度会ってしまえば、それきりにすることなんてできそうになかった。
貴女からも、連絡は来なかった。
ライスは走った。
練習をしている間は、今やることを考えられた。
でも、本を読み終えると隣を見てしまう。お店の前を通れば、貴女が食べたいと言っていたお菓子を思い出す。
練習が早く終わった日は、空いた時間を持て余した。
二度目の天皇賞の春を勝った。
次の年には、三度目も勝った。
たくさん、おめでとうと言ってもらった。
ライスも嬉しかった。ありがとうございますと、前より顔を上げて答えられるようになった。
でも、控室へ戻る前には、貴女の姿を探してしまった。
花束を抱えて待っていてくれたあの日を、まだ覚えていた。
貴女はいなかった。
来ないでと言ったのは、ライスだった。
引退のレースは、宝塚記念に決めた。
もう走らなくなると知ったら、貴女は何と言ってくれるだろう。
よく頑張ったねと、頭を撫でてくれるだろうか。これからお出かけする時間が増えるねと、笑ってくれるだろうか。
そんなことを考えては、携帯を手に取った。
会いたいと書いて、消した。
レースの前日の夜も、同じだった。
貴女と最後に話したときの文章が、まだ残っていた。
病院へ行く時間を知らせたライスに、貴女がお礼を返していた。
『会えるの楽しみにしてる』
その下には、何も続いていない。
携帯を伏せて、布団に入った。
目を閉じても、あの短い返事を思い出してしまった。
ライスだって、会えるのが楽しみだった。明日でレースは終わってしまうのに、これからもずっと、貴女に会わずにいるのだろうか。
もう一度、携帯を取った。
今度は、消さずに送った。
『明日のレースが終わったら、会いたいです』
送ってから、胸のあたりが苦しくなった。
自分から会わないようにしようと言って、長い間、何も送らなかったのに。
謝る言葉を書こうとしているうちに、返事が届いた。
『うん。ボクも会いたい』
両手で携帯を持ったまま、しばらく動けなかった。
こんなに長く離れていたのに、貴女も会いたいと思ってくれていた。
明日、走り終えたら会える。
そのときに謝ろう。それから、ずっと会いたかったと、ちゃんと伝えようと思った。
宝塚記念は、最後まで走れた。
直線に入っても脚は動いた。
ゴールを過ぎると、拍手が聞こえた。ライスの名前を呼んでくれる声に、顔を上げて手を振った。
貴女も、見ていてくれただろうか。
会ったら最初に、どうだったと聞きたかった。
着替えを終えて、携帯を確かめた。
連絡は来ていなかった。
ライスから、走り終わったよと送った。
少し待って、もう一度見た。
まだ、読まれていなかった。
貴女が交通事故に遭ったと知らされたのは、その日の夕方だった。
レース場へ向かう途中だったという。
病院で貴女に会ってから、何度もあのレースを思い返した。
ライスには、何も起きなかった。
転ぶことも、脚を痛めることもなく、最後まで走って帰ってこられた。
貴女がそばにいるようになってから、ライスの周りで起きていた悪いことは、貴女に起きるようになった。
今度も、同じだったのだろう。
きっと今まで以上にひどいことが起きる運命があり、それをきっと貴女が肩代わりしてくれた。そんな確信があった。
眠っている貴女の顔を見る。
病院へ運ばれてから、一度も目を覚ましていないと聞いた。
あの日、ライスは帰ってこられないはずだったのだろう
レースの途中で、脚を壊して、もう走れなくなって。
貴女に会いに行くことも、次の日を迎えることも、できなくなっていたのだろう。
そう思うと、あの病室で言われたことが、何度も浮かんだ。
ライスが、無事でいてくれたらいいんだよ。
最後のレースにも来てくれた。
ライスは無事に帰ってきて、貴女はここで眠っている。
「……ライスだけじゃ、嫌だよ」
指先を撫でても、握り返してはくれなかった。
会いたいと送ったら、貴女も会いたいと言ってくれた。
今も何度も読み返している。あの返事をくれた貴女に、まだ、何も伝えられていなかった。
「ライスね、ずっと貴女に会いたかったの」
握っている手を、頬へ寄せた。
「離れたら、元気でいてくれると思ったんだよ。でも、ずっと寂しかった。ご飯を食べてても、本を読んでても、貴女がいたらいいのにって思ってた」
最後に話したときは、貴女のほうから手を離してくれた。
ライスが離せずにいたことも、きっとわかっていたんだと思う。
「本当は、一緒にいたかったの」
指の付け根に、涙が落ちた。
ハンカチで拭いて、もう一度、両手で包み直す。
「貴女が怪我をするの、嫌だった。病気になるのも嫌だった。ライスのことより、自分のことを大事にしてほしかった」
額にかかった髪をよけた。
ライスが貴女にもたれて眠くなったときは、いつもこうしてくれた。
頭を撫でて、起きなくてもいいよと言ってくれた。
今は、起きてほしかった。
「好きだから、離れなきゃって思ったんだよ」
初めて、口にした。
貴女が起きていた頃には、一度も言えなかった言葉だった。
「ライス、貴女のことが好き」
食堂で隣に座ってほしい。
読み終えた本の話を聞いてほしい。
お休みの日には、一緒に出かけたい。
特別なことがなくてもいい。
レースに出なくなったライスとも、何でもない話をしながら、一緒にいてほしい。
「友だちとしてじゃ、足りないの」
手を持ち上げて、その甲に唇をつけた。
顔を上げると、貴女はやっぱり眠っていた。
「起きたら、もう一度言うね。今度は、ちゃんと聞いてね」
目元を拭いて、貴女の顔を見た。
名前を呼んで、笑ってくれた顔を思い出す。
ライスも、こんなふうに笑って貴女を迎えたかった。
「好きだよ」
握った手をそっと撫でながら、微笑んだ。
面会の終わりを知らせに来た看護師さんへ、頷く。
椅子から立って、貴女の手を布団の中へ戻した。肩まできちんとかけてから、枕元の髪をもう一度梳いて整える。
「また明日、来るね」
扉の前で立ち止まった。
あの日は振り返れなかったけれど、今日は貴女のほうを向いた。
「ずっと待ってるからね」
眠っている貴女にそう伝えて、ライスは病室を出た。