原作ウマ娘に告白されるモブウマ娘(短編集)   作:雅媛

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11 ライスシャワー
眠り姫へ


 椅子を少し寄せて、布団から出ている貴女の手に触れる。

 指先は温かかった。両手で包むと、いつも手をつないでいたときと同じくらいの温かさになる。

 

「今日ね、学園に行ってきたの」

 

 貴女は目を閉じたまま、返事をしない。

 呼吸に合わせて胸元の布団がゆっくり動いている。枕の上に広がった髪を、空いている手で梳いて直した。

 

「みんな、貴女のこと聞いてたよ。また一緒に走りたいって」

 

 ライスも、と言おうとしてやめた。

 

 窓の外は晴れている。

 こんな日は、よく貴女に連れ出された。

 練習が休みだと言うと、待ってましたとばかりにお出かけの相談が始まって、ライスが着替える前から寮の入口で待っていた。

 最初は、どうしてこの人はライスに構うんだろうと思っていた。

 

 入学して間もない頃だった。

 教室を出ると貴女がいて、食堂へ行くと隣に座って、放課後には一緒に帰ろうと声をかけてきた。

 

「今日は図書室に行くから……」

「じゃあ、ボクも行こうかな」

「でも、ライス、ずっと本を読んでるよ?」

「うん。ボクも読む」

 

 向かいの席に座って、本を開く。

 ときどき顔を上げると目が合って、そのたびに笑ってくれた。読んでいる本の話をすると、閉館まで聞いてくれた。

 

 次の日も、その次の日も、貴女はライスを見つけた。

 

「ライスと一緒にいると、悪いことが起きるから」

 

 何度か、そう言ったことがある。

 仲良くなってすぐの頃から、貴女の制服にはよく染みがついていた。飲み物をこぼしたり、通りがかった車に泥をはねられたり。

 ライスと一緒にいるときばかりだった。

 

「今日も、ジュース……」

「洗えば落ちるよ。それより、ライスの本が濡れなくてよかった」

 

 落ちてくるはずだったジュースは、ライスの本の上で向きを変えたように見えた。

 隣に座っていた貴女の膝だけが濡れて、本には一滴もついていなかった。

 おかしいと思うことは、それからも続いた。

 ライスの足元にあった小石で貴女が転び、ライスが開けようとした扉で貴女が指を挟んだ。出かける前に降り始めた雨は、貴女が傘を取りに戻っている間だけ強くなった。

 

 ライスは濡れずに済んだ。

 貴女は濡れた前髪をかき上げて、傘を差し出した。

 

「ほら、行こう」

 

 離れたほうがいい。そう思っているのに、差し出された手を見ると断れなかった。

 その手を取ると、貴女は嬉しそうに指を握ってくれた。

 ライスも、嬉しかった。

 

 

 メイクデビューを終えて、少し経った頃。

 貴女は階段から落ちて、病院に運ばれた。

 

 ライスはそのとき、同じ階段を下りるところだった。

 上から物音がして、顔を上げる前に貴女が落ちていった。運ばれていた荷物が崩れたのだと、後になって聞いた。

 ライスには何も当たらなかった。

 病室へ行くと、貴女の腕には包帯が巻かれていた。片方の脚も固定されていて、顔には擦り傷が残っていた。

 それなのに、ライスを見ると、ベッドの上で身体を起こそうとした。

 

「来てくれたんだ」

「動いちゃだめ……」

 

 慌てて近づくと、貴女は素直に枕へ戻った。

 その手前で、ライスの脚を確かめるように見ていた。

 

「ライスは、大丈夫だった?」

「……うん」

「よかった」

 

 よくないよ、と言いたかった。

 でも、貴女の顔を見ると泣いてしまって、声が出なかった。

 貴女は無事なほうの手を伸ばした。

 いつものように頭を撫でようとして、届かなくて、ライスが近づくのを待っていた。

 その手の下へ、自分から頭を寄せてしまった。

 包帯の端が頬に触れた。貴女がこんな怪我をしているのに、撫でてもらうと少し安心した。

 

「ごめんね」

「ライスが謝ることじゃないよ」

 

 貴女は何度もそう言った。

 退院したらまた一緒に出かけよう、とも。

 ライスは頷いてしまった。

 もう離れなきゃと思っていたはずなのに。

 

 

 菊花賞に勝った日、貴女は誰よりも大きな声でライスを呼んだ。

 ブルボンさんより先にゴールして、息を整えているときだった。

 変な空気が流れ、喜んでいいのかわからなくて、顔を上げられずにいたライスの耳に、よく知っている声が届いた。

 

「ライス! おめでとう!」

 

 振り向くと、貴女が両手を振っていた。

 何度も跳ねて、そのたびに持っていた袋が揺れる。隣にいた人に笑われても気にせず、またライスの名前を呼んだ。

 さっきまで聞こえていた言葉が、少し遠くなった。

 

「すごかった! 最後まで、ずっと見てたよ!」

 

 そんなことを言われたら、ライスだって笑ってしまう。

 小さく手を振り返すと、貴女はもっと大きく振ってくれた。

 控室に戻ったライスを待っていたのは、花束を抱えた貴女だった。

 

「渡すときのこと、ちゃんと考えてたんだけど」

「うん……?」

「ライスを見たら、全部忘れちゃった」

 

 花束を渡しながら、貴女はまた、おめでとうと言った。

 花の間に小さなカードが挟まっていた。開くと、同じ言葉が丁寧に書かれていた。

 ライスはそれを、何度も読んだ。

 貴女が隣で、お祝いのご飯をどこで食べようかと話している間も。

 

 

 約束したご飯には、行けなかった。

 帰り道で貴女は事故に巻き込まれ、また大きな怪我をした。

 病院へ駆けつけると、さっきまで花束を持っていた手が、布団の上に置かれていた。

 痛み止めが効いているから平気だと、貴女は笑った。

 

「お祝い、少し待っててね」

 

 ライスは、頷けなかった。

 持ってきたカードを握ったまま、ベッドの横で泣いていた。

 勝って嬉しかった。

 貴女に喜んでもらえて、もっと嬉しかった。

 その続きを、貴女と過ごしたかっただけなのに。

 

 

 初めて天皇賞の春を勝ったときも、貴女はライスを待っていた。

 マックイーンさんの三連覇を止めてしまった。

 レースのあと、そう言われるたびに、貴女はライスより先に口を開いた。

 

「ライスも、この日のために頑張ってきたんです」

 

 怒鳴ったりはしなかった。

 でも、ライスの肩を抱いて、そこから動かなかった。

 人の少ないところまで来て、ようやく肩から手が離れた。

 ライスが立ち止まると、貴女も立ち止まった。

 

「……勝たないほうが、よかったのかな」

「ボクは嬉しかったよ」

「でも」

「ライスが勝つところを見たかった。今日、見られてよかった」

 

 貴女の胸に額をつけた。

 そっと背中を撫でられて、制服を握ったまま、しばらく離れられなかった。

 その夜、貴女は熱を出した。

 翌朝になっても下がらず、やがて入院することになった。

 お見舞いに行くたびに、貴女は眠っていた。

 起きていても長くは話せなかった。食事もあまり食べられないらしく、手をつないだとき、前より細くなっているのがわかった。

 

「やっぱり、ライスのせいなんだね」

 

 返事をしようとした貴女に、首を振った。

 

「違うって言わないで。ライスといるときばっかり、悪いことが起きるの。ライスに何かありそうなとき、いつも貴女が……」

 

 そこで言葉が止まった。

 貴女はつないでいた手を、少しだけ握り直した。

 

「ライスが、無事でいてくれたらいいんだよ」

 

 貴女はライスの顔を見て、そう言った。

 いつもと同じ、優しい声だった。

 

 やっぱり、そうなんだ。

 

 ライスに起こるはずだったことが、貴女のところへ行っている。

 ライスが怪我をせずに済んだとき、貴女が怪我をした。

 ライスが喜べるようにしてくれたあとで、貴女が病院へ運ばれた。

 貴女はそれを、ライスよりずっと前からわかっていたんだ。

 

「貴女が無事じゃなかったら、ライスは嫌だよ」

 

 握っていた手に、少し力を込めた。

 貴女の指は細くなっていた。こんなに痩せてしまうまで、ライスのそばにいてくれた。

 何度も怪我をして、そのたびにライスの心配をしていた。

 

「ライス、貴女に元気でいてほしいの」

 

 貴女は何か言おうとして、口を閉じた。

 少し困ったように笑って、ライスの手を撫でた。

 

 その指に触れていたかった。

 もう少しここにいて、貴女が眠るまで話をしたかった。退院したら、また一緒に帰りたかった。

 

 教室でも食堂でも貴女と一緒に居た。

 面白い本を読んだときも、綺麗な花を見つけたときも、貴女へ話したかった。

 

 この人が好きなんだと気づいていた。

 だから、今度こそ離れなきゃいけなかった。

 次のお見舞いに来るとき、貴女がどんな怪我をしているか。そんなことを考えながら、一緒にいるのは嫌だった。

 

「もう、ライスに構わないで」

 

 貴女の指が止まった。

 

「一緒に帰らなくていい。お出かけも、もうしない。お祝いにも来ないで」

 

 声が震えた。

 一度言ってしまうと、取り消したくなった。やっぱり今のは忘れてと、手を握り直したくなった。

 貴女が黙っている間も、ライスはその手を離せずにいた。

 

「……会わないように、しよう」

 

 ようやく顔を上げた。

 貴女はライスを見ていた。少し口を開いて、それから、ゆっくり頷いた。

 

「わかった」

 

 ライスの手から指が抜けた。

 布団の上へ戻された手を、もう一度取ることはできなかった。

 

 立ち上がって、椅子を戻した。

 持ってきたお見舞いの品を机に置いて、扉へ向かった。

 

「ライス」

 

 呼ばれて、足が止まった。

 

「レース、頑張ってね」

 

 振り返れなかった。

 小さく頷いて、病室を出た。

 

 扉を閉めてから、廊下の壁に手をついた。

 貴女が追いかけてこられないことを、初めてよかったと思ってしまった。

 呼び止められたら、きっと戻ってしまうから。

 

 

 

 

 それから、貴女とは会わなくなった。

 図書室へ行く時間を変えた。食堂では、入口の見えない席に座った。

 廊下の先に貴女らしい姿を見かけると、顔を確かめる前に別の道へ曲がった。

 

 退院したと聞いたときは、嬉しかった。

 携帯を開いて、貴女の名前を見た。でも、何も送れなかった。

 返事が来たら、また話したくなる。話せば、会いたくなる。

 一度会ってしまえば、それきりにすることなんてできそうになかった。

 貴女からも、連絡は来なかった。

 

 ライスは走った。

 練習をしている間は、今やることを考えられた。

 でも、本を読み終えると隣を見てしまう。お店の前を通れば、貴女が食べたいと言っていたお菓子を思い出す。

 練習が早く終わった日は、空いた時間を持て余した。

 

 二度目の天皇賞の春を勝った。

 次の年には、三度目も勝った。

 

 たくさん、おめでとうと言ってもらった。

 ライスも嬉しかった。ありがとうございますと、前より顔を上げて答えられるようになった。

 でも、控室へ戻る前には、貴女の姿を探してしまった。

 花束を抱えて待っていてくれたあの日を、まだ覚えていた。

 

 貴女はいなかった。

 来ないでと言ったのは、ライスだった。

 

 

 引退のレースは、宝塚記念に決めた。

 もう走らなくなると知ったら、貴女は何と言ってくれるだろう。

 よく頑張ったねと、頭を撫でてくれるだろうか。これからお出かけする時間が増えるねと、笑ってくれるだろうか。

 

 そんなことを考えては、携帯を手に取った。

 会いたいと書いて、消した。

 レースの前日の夜も、同じだった。

 貴女と最後に話したときの文章が、まだ残っていた。

 病院へ行く時間を知らせたライスに、貴女がお礼を返していた。

 

『会えるの楽しみにしてる』

 

 その下には、何も続いていない。

 携帯を伏せて、布団に入った。

 目を閉じても、あの短い返事を思い出してしまった。

 ライスだって、会えるのが楽しみだった。明日でレースは終わってしまうのに、これからもずっと、貴女に会わずにいるのだろうか。

 

 もう一度、携帯を取った。

 今度は、消さずに送った。

 

『明日のレースが終わったら、会いたいです』

 

 送ってから、胸のあたりが苦しくなった。

 自分から会わないようにしようと言って、長い間、何も送らなかったのに。

 謝る言葉を書こうとしているうちに、返事が届いた。

 

『うん。ボクも会いたい』

 

 両手で携帯を持ったまま、しばらく動けなかった。

 こんなに長く離れていたのに、貴女も会いたいと思ってくれていた。

 明日、走り終えたら会える。

 そのときに謝ろう。それから、ずっと会いたかったと、ちゃんと伝えようと思った。

 

 

 宝塚記念は、最後まで走れた。

 直線に入っても脚は動いた。

 ゴールを過ぎると、拍手が聞こえた。ライスの名前を呼んでくれる声に、顔を上げて手を振った。

 

 貴女も、見ていてくれただろうか。

 会ったら最初に、どうだったと聞きたかった。

 着替えを終えて、携帯を確かめた。

 連絡は来ていなかった。

 ライスから、走り終わったよと送った。

 

 少し待って、もう一度見た。

 まだ、読まれていなかった。

 

 貴女が交通事故に遭ったと知らされたのは、その日の夕方だった。

 レース場へ向かう途中だったという。

 

 

 

 

 病院で貴女に会ってから、何度もあのレースを思い返した。

 

 ライスには、何も起きなかった。

 転ぶことも、脚を痛めることもなく、最後まで走って帰ってこられた。

 

 貴女がそばにいるようになってから、ライスの周りで起きていた悪いことは、貴女に起きるようになった。

 今度も、同じだったのだろう。

 きっと今まで以上にひどいことが起きる運命があり、それをきっと貴女が肩代わりしてくれた。そんな確信があった。

 

 眠っている貴女の顔を見る。

 病院へ運ばれてから、一度も目を覚ましていないと聞いた。

 あの日、ライスは帰ってこられないはずだったのだろう

 レースの途中で、脚を壊して、もう走れなくなって。

 貴女に会いに行くことも、次の日を迎えることも、できなくなっていたのだろう。

 

 そう思うと、あの病室で言われたことが、何度も浮かんだ。

 

 ライスが、無事でいてくれたらいいんだよ。

 

 最後のレースにも来てくれた。

 ライスは無事に帰ってきて、貴女はここで眠っている。

 

「……ライスだけじゃ、嫌だよ」

 

 指先を撫でても、握り返してはくれなかった。

 会いたいと送ったら、貴女も会いたいと言ってくれた。

 今も何度も読み返している。あの返事をくれた貴女に、まだ、何も伝えられていなかった。

 

「ライスね、ずっと貴女に会いたかったの」

 

 握っている手を、頬へ寄せた。

 

「離れたら、元気でいてくれると思ったんだよ。でも、ずっと寂しかった。ご飯を食べてても、本を読んでても、貴女がいたらいいのにって思ってた」

 

 最後に話したときは、貴女のほうから手を離してくれた。

 ライスが離せずにいたことも、きっとわかっていたんだと思う。

 

「本当は、一緒にいたかったの」

 

 指の付け根に、涙が落ちた。

 ハンカチで拭いて、もう一度、両手で包み直す。

 

「貴女が怪我をするの、嫌だった。病気になるのも嫌だった。ライスのことより、自分のことを大事にしてほしかった」

 

 額にかかった髪をよけた。

 ライスが貴女にもたれて眠くなったときは、いつもこうしてくれた。

 頭を撫でて、起きなくてもいいよと言ってくれた。

 今は、起きてほしかった。

 

「好きだから、離れなきゃって思ったんだよ」

 

 初めて、口にした。

 貴女が起きていた頃には、一度も言えなかった言葉だった。

 

「ライス、貴女のことが好き」

 

 食堂で隣に座ってほしい。

 読み終えた本の話を聞いてほしい。

 お休みの日には、一緒に出かけたい。

 

 特別なことがなくてもいい。

 レースに出なくなったライスとも、何でもない話をしながら、一緒にいてほしい。

 

「友だちとしてじゃ、足りないの」

 

 手を持ち上げて、その甲に唇をつけた。

 顔を上げると、貴女はやっぱり眠っていた。

 

「起きたら、もう一度言うね。今度は、ちゃんと聞いてね」

 

 目元を拭いて、貴女の顔を見た。

 名前を呼んで、笑ってくれた顔を思い出す。

 ライスも、こんなふうに笑って貴女を迎えたかった。

 

「好きだよ」

 

 握った手をそっと撫でながら、微笑んだ。

 面会の終わりを知らせに来た看護師さんへ、頷く。

 椅子から立って、貴女の手を布団の中へ戻した。肩まできちんとかけてから、枕元の髪をもう一度梳いて整える。

 

「また明日、来るね」

 

 扉の前で立ち止まった。

 あの日は振り返れなかったけれど、今日は貴女のほうを向いた。

 

「ずっと待ってるからね」

 

 眠っている貴女にそう伝えて、ライスは病室を出た。

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