がり勉陰キャとギャル陽キャ
隣の席のあの子は、ノートを取らない。
先生が黒板に書いたものを、みんなが写している間も、机の上には開いた教科書があるだけ。
頬杖をついていることもあるし、窓の外を見ていることもある。
それなのに、指されるとすぐ答える。小テストも、いつも満点だった。
勉強の成績で入ってきた特待生だとは聞いていた。
走るほうは苦手で、体育のあとには疲れた顔で戻ってくる。
でも、教室にいるときは、何をやっていても余裕があった。
「アンタ、ノート取らなくて平気なの?」
気になって聞いたのは、席が隣になってしばらくしてからだった。
「うん。聞いていれば覚えるから」
「先生が言ったこと、全部?」
「うん。教科書も、もらったときに全部読んだし」
「……全部って、最後まで?」
「そうだよ。続きが気になったから」
あの子は、何でもないことのように言った。
それから教科書をめくって、さっき先生が説明していたところを開く。ページを探す様子もなかった。
へえ。
アタシが黒板を写している間、この子はもう、そこに書かれていることを全部わかっているんだ。
その日、解き方がわからなかった問題を、ついでに聞いてみた。
「これ、さっきの説明でわかった?」
「うん。どこまでできた?」
アタシのノートを見るために、あの子が椅子を寄せた。
途中まで書いた式を見て、ここまでは合ってるよと言ってくれる。
「ここで、何を求めたいか考えてみて」
言われたとおりにやってみると、さっきまで止まっていたところが進んだ。
どうしてその式を使うのかも、説明されるとわかった。
「……先生よりわかりやすい」
「シチーがどこで困ってるか、見ながら話せるからね」
休み時間が終わっても、次の問題が気になった。
放課後にも少し教えてほしいと頼むと、あの子はいいよと頷いた。
隣に座って、アタシの書くものを見てくれる。
間違えたらその場で教えて、わからない顔をすると、もう少し前から説明し直してくれた。
それから、勉強で困るとあの子に聞くようになった。
授業中も、あの子の手元は空いていた。
先生の説明が先へ進んでしまったとき、小さな声で聞くと、すぐに教えてくれる。
黒板を写しながら聞くアタシと違って、ノートを書くのに忙しくて返事ができない、ということがない。
教科書のどこを見ればいいか。
さっきの説明の、どこが大事だったか。
聞けば、ちゃんと答えてくれた。
そのうち、眠ってしまった授業の分まで教えてもらうようになった。
「……起こしてくれてもよかったのに」
目を開けたら、黒板が一度消されていた。
アタシのノートは途中で止まっている。
「昨日、仕事で遅くなったって言ってたから」
「言ったけど」
「疲れてるときは、少し寝たほうがいいよ。あとで教えるから」
甘いな、と思った。
休み時間になると、あの子は本当に、眠っていた間のところを教えてくれた。
アタシの教科書を開いて、必要なところを順番に指していく。
「ここまでで、わからないところある?」
「今のところは平気」
「じゃあ、次の問題やってみよう」
それで解けてしまうから、ますます甘えてしまう。
仕事や練習で疲れた日は授業中に少し眠って、合間にあの子へ教えてもらう。
あの子は呆れずに付き合ってくれた。
放課後も、帰る時間を確かめてから、できる分だけ教えてくれる。
遅れそうになると、先に教科書を閉じて、続きは明日ねと言った。
教室ではよく話した。
でも、付き合いはそれくらいだった。
休日に何をしているかは知らなかったし、連絡先も交換していなかった。
長めの前髪と、少し大きな眼鏡。
低い位置で結んだ髪に、少し丈の長いカーディガン。
説明するたびに前髪を耳へかけ直すのが、ちょっと気になっていた。
秋のファン大感謝祭で、アタシは髪を整えたり、メイクをしたりする出店をやっていた。
少し手が空いて、道具を並べ直していると、店の前にあの子がいた。
看板よりも、アタシの手元を見ていた。
「あれ、来てたんだ」
「うん。シチー、こんなこともするんだね」
並んだブラシや化粧品を、物珍しそうに眺めている。
髪型の見本には目も向けず、さっき使っていた小さなブラシを見ていた。
なるほど。
髪をどうにかしたいんじゃなくて、アタシが何をしているのか見に来たんだ。
「せっかく来たんだし、アンタもやってきなよ」
「私も?」
「うん。ほら、座って」
「見てるだけでいいんだけど……」
「やってもらったほうが、何してるかわかるでしょ」
椅子を引くと、あの子は少し迷ってから座った。
鏡の中でこちらを見上げる。
「じゃあ、シチーに任せていい?」
「そのつもり。ちゃんとかわいくしてあげるから」
髪を結んでいたゴムを外して、櫛を通す。
柔らかくて、少し癖がある。梳かして結ぶだけでも困らないから、ずっとそうしてきたんだろう。
「前髪は、目にかからないくらいにするね」
「うん」
「結ぶときに横も少し残したいから、ここも整えるよ」
髪を指で分けて見せると、あの子は鏡を見ながら頷いた。
長さにも形にも、何も注文がなかった。
「眼鏡、外して」
あの子が眼鏡を外した。
髪をよけて、鏡越しに顔を見る。
へえ。
目、こんなに綺麗だったんだ。
いつも前髪と眼鏡で隠れているから、ちゃんと見たことがなかった。
眉も整えればいい形になるし、髪の流れを変えれば、頬のあたりもすっきり見える。
「シチー?」
「大丈夫。任せて」
前髪を少し短くして、全体を整えた。
あの子は櫛や鋏が動くのを、鏡越しに追っていた。
自分の髪型より、アタシがどうやっているかのほうが気になるらしい。
化粧を始めると、また手元を見る。
「今、塗ってるのは何?」
「下地。ファンデーションの前に塗るの」
「これも色がついてるんだ」
「肌の色を整えるのもあるからね」
説明すると、なるほどと頷く。
教室ではアタシがいつも言っている返事だった。
「勉強は何でもわかるのに、こういうことには弱いんだ」
「うん。興味なかったから、全然知らない」
「ちょっとは気にしなよ。これだけ綺麗な顔してるのに」
「……そうなの?」
本当にわかっていないらしい。
鏡を見て、それからアタシの顔を見た。
「そうなの。今日、覚えて帰って」
あの子が笑った。
「シチー、楽しそう」
「まあね。いつも教えてもらってるぶん、今日はアタシの言うこと聞いてもらうから」
「うん。お願いします、先生」
「何、それ」
笑いながらブラシを持ち直す。
教室では、アタシのほうがわからなくて、困った顔をしている。
今日はこの子がアタシを頼って、次に何をされるのか待っていた。
「じゃあ、目、閉じて」
「はい」
素直に目を閉じる。
薄く色を重ねながら、その顔を近くで見た。
知らないなら、アタシがやってあげればいい。
似合うものも、整え方も、この子よりずっと知っている。
仕上がる頃には、最初より熱が入っていた。
「できたよ」
手鏡を近くへ持っていく。
あの子は鏡を見て、すぐには何も言わなかった。
アタシも、その顔を見る。
うん。いいじゃん。
目元がよく見えるようになって、頬に少し色がついた。
髪も、ただ結んでいたときとは違う。
「……すごい」
「でしょ」
「シチー、ありがとう」
あの子が笑った。
さっきまで道具ばかり見ていたのに、今度は何度も自分の顔を確かめている。
その顔を見て、アタシも満足した。
店を出たあの子は、すぐに声をかけられた。
同じクラスの子が驚いて、ほかの子も集まってきた。
「かわいい。すごく変わったね」
「シチーにやってもらったんだ」
あの子がこちらへ手を振る。
アタシも軽く手を上げて、次のお客さんを椅子へ案内した。
近くで、写真を撮ろうという声が聞こえた。
髪を見せてと言われて、あの子が後ろを向く。
その髪に誰かが触れるのを見ると、ちょっと手を止めたくなった。
綺麗にできた。
本人も喜んでいる。
だから、それでよかったはずなのに。
店を片づける頃には、あの子はいなくなっていた。
どこへ行ったか聞こうとして、連絡先を知らないことを思い出した。
週明けのあの子は、いつもの眼鏡をかけていた。
化粧もしていない。
でも、前髪が短くなったぶん、前より目が見えた。
「この前、ありがとう。みんなに褒められたよ」
「知ってる。近くにいたし」
少しそっけなくなった返事を、あの子は気にしなかった。
「昨日、問題集進めた?」
「……ちょっと」
「どこまで?」
また、アタシの教科書を二人の間へ置く。
指されたところを見ていたはずなのに、説明している顔へ目が行った。
やっぱり、近くで見てもかわいい。
「シチー?」
「聞いてる」
「じゃあ、これ解けそう?」
「……もう一回、説明して」
あの子は頷いて、嫌な顔もせずに教えてくれた。
問題集を最後まで終えた日に、アタシから誘った。
「今度の休み、空いてる?」
「うん」
「いつも教えてもらってるし。お礼に、どっか行かない?」
あの子は嬉しそうに笑った。
行きたいところを聞くと、少し考えてから、シチーがよく行くお店を見てみたいと言う。
「いいよ。じゃあ、連絡先教えて」
待ち合わせの場所を決めようとして、あの日の顔を思い出した。
何もしなければ、またいつもの髪型で来るんだろう。
「出かける前に、また髪やってあげる。朝、部屋においで」
そういうと、彼女はきょとんとした。
「いいの?」
「いいから誘ってるんでしょ」
「ありがとう。じゃあ、お邪魔するね」
当日、あの子は約束の時間に来た。
長めのカーディガンに、ゆったりしたシャツ。
膝下まであるスカートと、歩きやすそうな靴。
髪はいつものように低い位置で結んでいた。
うん。思ったとおり。ちょっとやぼったい。
「おはよう」
「おはよ。入って」
椅子へ座らせて、髪のゴムを外す。
服はきちんと洗ってあるし、髪も梳かしてある。でも、似合うものを選ぶとか、かわいく見せるとか、そういうことは一切考えていない。
「今日は化粧もするから」
「髪だけじゃないんだ」
「せっかく出かけるし。服も、お店で選ぼうよ」
「服も?」
「顔と髪をやったら、そっちも合わせたくなるでしょ」
あの子は少し戸惑っていたけれど、アタシが櫛を持つと、素直に前を向いた。
「……じゃあ、今日もお任せします」
「うん。任せて」
前髪をささっと整える。
服を変えることも考えて、髪はいつもと違う位置でまとめた。
顔を上げてもらって、化粧を始める。
あの子はもう、自分から眼鏡を外していた。
アタシが手を伸ばすより先に、次に使うブラシを見ていた。一度見ただけの手順も、覚えているらしい。
唇を塗るとき、近いところで目が合った。
あの子はじっとアタシを見ていた。
「動かないで」
「うん」
素直に口を閉じる。
アタシのほうが少し落ち着かなくなって、先に目をそらした。
鏡を渡すと、あの子の顔が明るくなった。
「今日も、こんなに変わるんだね」
「服を変えたら、もっとよくなるよ」
「……それ、ちょっと楽しみ」
その返事を聞いて、また少し得意になった。
今日はこの子を隣に連れて、似合う服も選ぶ。
それを着たところも、早く見たくなった。
最初に入った服屋で、あの子は入口のところに立ち止まった。
店内を見て、アタシを見て、それから自分の服へ目を落とす。
「入らないの?」
「……私、こういうお店、来たことなくて」
「今日はアタシもいるじゃん」
「うん。そうなんだけど」
鞄の持ち手を握り直したので、その手を取って店へ入った。
顔見知りの店員さんに挨拶をして、あの子に似合いそうな服を見せてもらう。
明るい色のトップスと、すっきりした形のスカート。
あの子の前へ合わせてみて、もう一枚、上に羽織るものを選んだ。
「これ、着てみて」
「……私が着て、大丈夫?」
「アンタに着てほしくて選んだの。ほら」
背中を軽く押して、試着室へ送り出す。
カーテンが開くと、あの子は服の裾に触れながら出てきた。
鏡を見るより先に、アタシの顔を見る。
「どう?」
「いいじゃん。そっちも見て」
鏡の前へ立たせる。
髪と化粧も含めて、今日のこの子に似合っていた。
「……私じゃないみたい」
「アンタだよ。似合ってる」
横から肩のあたりを少し直した。
あの子は鏡の中の自分を見て、それから隣に立つアタシを見た。
「このまま着ていけば?」
目を丸くしたあの子に笑いかけて、店員さんを呼ぶ。
お礼なんだからと言って会計を済ませると、あの子は何度もありがとうと言った。
いつもの服が入った袋を受け取って、新しい服のまま店を出る。
窓に映った二人を見ると、もう少しほかのところへも連れていきたくなった。
お昼に連れていった店でも、あの子は少し緊張していた。
案内された席へ座って、周りを見る。
テーブルに置かれたメニューを開いてから、なかなか決めなかった。
「食べたいのない?」
「どれもおいしそうなんだけど、想像がつかなくて」
「それ、ソースがおいしいよ。こっちは前に食べたけど、けっこう量がある」
「……シチーと同じの、頼んでもいい?」
頷くと、ほっとした顔をした。
店員さんを呼んで注文して、水を飲む。
あの子は、その間もアタシを見ていた。
「何?」
「慣れてるなって」
「何回か来てるし」
料理が運ばれてくると、ようやく肩の力が抜けた。
一口食べて、おいしいと笑う。
その顔を見ると、連れてきてよかったと思った。
でも、食事を終えてまた店を回ると、あの子は少しずつ口数が減った。
アタシが店員さんと話している間は、隣より半歩後ろにいる。
声をかければ笑うけれど、自分から話し始めることは少なかった。
通りへ出たところで、ファンの人に声をかけられた。
いつも見ていますと言ってもらって、お礼を返す。
写真を頼まれたので、今日は友だちと出かけているからと、笑って断った。
「またイベントで会えたら嬉しいです」
相手が頷いてくれたのを見て、手を振る。
振り返ると、あの子は少し離れたところで待っていた。
「何でそんなとこいるの」
「邪魔しちゃいけないかなって」
「友だちと来てるって言ったでしょ」
隣へ戻ってきたあの子と、また歩き出す。
人の少ない道へ入ると、あの子は買った服の袋を持ち直した。
「今日はありがとう」
「お礼で誘ったんだから、アタシが言われるのも変じゃない?」
「でも、楽しかったから」
少し笑って、それから目を下げた。
「……やっぱり、シチーとは住む世界が違うんだなって思った」
足が止まった。
「何、それ」
「あ、悪い意味じゃなくて。私、今日みたいなお店、全然知らなかったから」
あの子も立ち止まって、こちらを向いた。
「服も、食べるものも、何を選んだらいいかわからなくて。でも、シチーはすぐわかるでしょう。お店の人とも普通に話せるし、ファンの人に声をかけられても、ちゃんと笑って返せるし」
「だから?」
「すごいなって。教室で話してると、つい忘れちゃうけど」
買った服の袋へ、視線が落ちる。
「今日の格好だって、全部シチーに教えてもらったものだし。私がそのまま来てたら、隣にいるの、もっと変だったと思う」
褒めているつもりなのは、わかった。
さっきまで楽しそうだった顔が、今は少し遠慮している。
それが嫌だった。
「教室で一緒にいるじゃん」
「うん」
「今日も、朝からずっと一緒にいるし」
あの子が頷く。
「アタシがわからないところ、アンタに教えてもらってるんだけど。授業で寝ても、あとで教えてくれるからいいやって、甘えてるんだけど」
「それは、私ができることだから」
「アタシだって、できることをしただけでしょ」
あの子が黙った。
「違う世界とか、勝手に決めないでよ」
「……ごめん。そんなつもりじゃ」
「アンタと出かけたくて誘ったの。かわいくしたかったから、朝も来てもらったんだし」
言っているうちに、だんだん腹が立ってきた。
似合う服を探して、喜ぶ顔を見たくて、ずっと隣にいたのに。
「アタシはアンタのことが好きなんだけど」
あの子が目を見開いた。
自分で言った言葉を、少し遅れて理解した。
次に何か言おうとして、声が出なくなった。
「……ちょっと待って」
あの子は黙っていた。
手に持った袋が、少し揺れた。
「今の、そういう流れで言うつもりじゃなくて」
怒ったあとに言ったら、文句みたいじゃん。
もっと、別の言い方があったはずなのに。
「だから、一回待って」
あの子が、一歩近づいた。
何を言われるんだろうと思って、顔を見る。
頬が赤くなっていた。
アタシも、たぶん同じような顔をしていた。
「シチー」
いつも、わからない問題を教えてくれる声だった。
「ありがとう」
空いている手が、アタシの袖に触れた。
少しだけ引かれて、顔が近づく。
唇に、柔らかいものが触れた。
ほんの一瞬だった。
何か言う前に離れて、あの子が目の前にいる。
アタシが整えた髪と、少し赤くなった頬。
唇には、さっき塗った色が残っていた。
あの子は恥ずかしそうに、それでも目をそらさずに笑った。
「私も、シチーのことが好きだよ」