1 免許とバイクと
ウオッカが何かを隠していることには、随分前から気づいていた。
隠し事が下手なのだ。
昔からそうだった。子供の頃は悪戯をすればこちらと目を合わせなくなり、何か欲しいものがあればそれとなくこちらの視界へ入る場所をうろうろし始める。
トレセン学園へ入って多少は器用になったかと思っていたが、根っこの部分はあまり変わっていない。
最近は私のところへ来る回数が少し減った。
代わりに、来たときにはやたらとバイクの話をする。
「なあ姉ちゃん、最近の教習車ってさ」
「知らん」
「知らねえの?」
「私が免許を取ったのは何年前だと思っている」
「そうだけどよ。じゃあさ、一本橋って大型だと――」
「少年」
「なんだよ」
「教習所へ通っているのか?」
「…………」
露骨に目を逸らした。
「別に」
「そうか」
「いや、別にっていうか……友達から聞いただけで」
「そうか」
「本当だぞ?」
「分かった」
そんなやり取りが一か月ほど前にあった。
それからも少年は、妙に新しいグローブを持っていたり、教習所の予約画面らしきものを慌てて閉じたり、私の工具棚の前で四百の話をしたりしていた。
こそこそやっているつもりなのだろう。
かわいいものだ。
もちろん何も言わなかった。
十六歳になった。
トゥインクル・シリーズも引退した。
なら次に何をしたがるかなど、小さい頃から少年を知っている私には考えるまでもない。
少年が初めて私のバイクへ乗ったのは、まだ片手で数えられるような歳だった。
正確には、乗ったというより乗せた。
あの日は仕事帰りだった。
日が傾き始めた住宅街の端で、小さなウマ娘が一人、道端に立っていた。
耳は伏せているくせに、泣いてはいない。
泣きそうではあった。
「どうした、少年」
「…………少年じゃねえ」
第一声がそれだった。
今思えば、あの頃から面倒な子供だった。
「では少女」
「……そっちもなんか嫌だ」
「難しいな」
「迷子じゃねえからな」
「そうか」
「ちょっと道が分かんなくなっただけだ」
「それを世間では迷子と言う」
「違う!」
元気はあった。
なら大丈夫だろうと思った。
名前を聞き、家の場所を聞き、近所の人間にも確認した。
歩いて送ってもよかったのだが、距離がそこそこあった。
私は自分のバイクを見る。
当時から乗っていた、大柄な大型ネイキッドだった。
黒い車体に太いタイヤ。大きなエンジンがむき出しになっていて、子供から見れば随分と威圧的に見えたはずだ。
ところが少年は、泣きそうだった顔を一瞬で忘れた。
「これ姉ちゃんの!?」
「そうだ」
「すっげえ!」
耳が立った。
目が輝いた。
分かりやすい子供だった。
「乗るか」
「いいの!?」
「家まで送るだけだ」
「乗る!」
念のためいつも以上にゆっくり走った。
それでも後ろから聞こえてくる声はずっと楽しそうだった。
信号で止まるたび、
「なあ姉ちゃん! 今何キロ出てた!?」
「法定速度だ」
「もっと出んだろこれ!」
「出るが出さない」
「なんで!」
「少年を落としたら困る」
「少年じゃねえって!」
家へ着いた頃には、迷子だったことなど完全に忘れていた。
「オレもでっかくなったらバイク乗る!」
「そうか」
「姉ちゃんみたいなやつ!」
「免許を取れたらな」
「取る! 絶対!」
あれから何年経ったのだろう。
今日、その少年がやたらと大きな音を立てて工場の扉を開けた。
「姉ちゃん!」
「聞こえている」
「見ろ!」
「今エンジンを触っている」
「いいから見ろって!」
「油まみれの手で触っていいなら」
「それはやめろ!」
私は作業台の上へ工具を置き、布で手を拭いた。
工場といっても立派なものではない。
町外れに借りている小さなガレージだ。
決まった会社には所属せず、荷物を運んだり、知り合いから回ってきた車やバイクを直したりして食べている。世間的にはフリーの運び屋兼整備工ということになるだろう。
今日も午前中に一件荷物を届け、午後からは整備仕事をしていた。
目の前には満面の笑みを浮かべた少年がいる。
「ほら!」
カードを突き出された。
免許証だった。
取得したばかりなのだろう。
普通自動二輪。
「ほう」
「取ったぜ!」
「そうか」
「一発で!」
「偉いな」
「へへっ」
尻尾が揺れている。
本人は気づいていない。
「それだけ?」
「何が」
「もっと驚かねえの?」
「何に」
「オレが免許取ったことに決まってんだろ!」
「少年なら取ると思っていた」
「なんだよそれ」
「何年も前から乗ると言っていただろう」
「覚えてたのかよ」
「記憶力は悪くない」
少年が少し嬉しそうにする。
こちらからすれば、忘れる方が難しい。
「それに」
「ん?」
「一か月前から教習所の話しかしていなかった」
「…………」
「グローブも買っていた」
「…………」
「教習所の予約画面も見えた」
「…………」
「あと先週、ヘルメットのサイズを聞いてきた」
「…………」
「かなり分かりやすかったぞ」
「マジかよ……」
少年の耳が伏せた。
「秘密でやってるつもりだったのに」
「そうだろうな」
「言えよ!」
「楽しそうだったから」
「何が?」
「隠している少年が」
「子供扱いすんな!」
「未成年だろう」
「十六だぞ!」
「少年ではないか」
「少年は男のガキだろ! オレ女だぞ!」
「少年という言葉は、本来若年者一般を指す」
「絶対それ言い訳だろ!」
昔から同じ話をしている。
私は呼び方を変えるつもりはない。
「まあいい」
「よくねえ!」
「免許取得、おめでとう」
「……おう」
「それから引退もな」
「そっちはもう結構前だろ」
「まとめて祝った方が効率がいい」
「祝いって効率で考えるもんか?」
「私の場合はな」
「ほんとかよ」
少年が笑う。
この顔を見ると、昔から少しくらい余計なことをしてもいいと思ってしまう。
「で?」
「何が」
「免許取ったなら、次はバイクだろ」
「おう!」
一瞬で食いついた。
「もう目星つけてんだ。中古でさ、四百で、結構いいのが――」
「買う必要はない」
「は?」
「もうある」
「何が?」
「少年のバイク」
「…………は?」
「こっちだ」
「何言ってんだ?」
「見れば分かる」
ガレージの奥へ歩く。
いつもは荷物置きに使っている一角を、ここ一か月ほど少年が来るたびに布と衝立で隠していた。
「そこ、入るなって言ってたとこじゃねえか」
「入るなと言ったな」
「仕事の部品置いてるって」
「部品は置いていた」
「嘘じゃねえのが腹立つな!」
衝立をどかす。
大きな灰色のカバーが一枚。
その下に車体がある。
「少年」
「……おう」
「引退と免許取得の祝いだ」
布を外す。
「…………」
少年が黙った。
珍しい。
作ったのは四百ccのネイキッドだ。
基礎にしたのは、状態のいい水冷二気筒エンジンとスチールフレーム。中古の車体を一台そのまま直したわけではない。使えるものを集め、悪いところは捨て、必要なところは作り直した。
排気量は三百九十九cc。
初めての一台として扱いやすいよう、低回転から素直に力が出るエンジンを選んでいる。四気筒ほど高回転まで回して遊ぶ種類ではないが、街中でも峠でも必要十分に走る。軽く、扱いやすく、それでいて安っぽく見えない。
見た目は黒を基調にした。
フレームもホイールも黒。
タンクだけは深いガンメタリックで、光の当たり方によって黒にも濃い銀にも見える。その両側へ、細い黄色と緑のラインを入れた。
派手すぎる装飾はいらない。
少年は格好いいものが好きだが、子供っぽい派手さは好まない。
丸い一灯のヘッドライト。
短めのフロントフェンダー。
むき出しのエンジン。
少しだけ跳ね上がった黒いマフラー。
シート後端はすっきり短くまとめた。
ただし見た目だけのカフェレーサーにはしていない。
ハンドルは低すぎず、自然に腕を伸ばせる高さ。
ブレーキは前後ABS付き。
クラッチも軽くなるよう調整してある。
タイヤも見た目だけ太いものではなく、初心者でも倒し込みやすい幅を選んだ。
少年ならもっと攻めた見た目を欲しがる可能性もあったが、最初の一台なのだ。
格好よさより先に、安全に帰ってこられることを優先した。
もちろん、本人には言わない。
「……これ」
「四百だ」
「オレの?」
「そうだ」
「マジで?」
「ここまでやって冗談なら性格が悪すぎるだろう」
少年がゆっくり近づく。
触る前に一度こちらを見る。
「触っていい?」
「お前のだぞ」
「……そっか」
タンクへそっと手を置く。
指先で赤い線をなぞる。
「やべえ……」
「気に入らないか」
「逆だよ! めちゃくちゃカッケえ!」
耳がぴんと立った。
「これ姉ちゃんが作ったの!?」
「一人ではない。エンジンは知り合いにも見てもらったし、塗装も外へ出した」
「でも組んだのは?」
「大半は私だ」
「いつから?」
「お前が教習所へ通い始めたあたり」
「最初からバレてんじゃねえか!」
「だから言っただろう」
「……マジかよ」
少年はまた車体を見る。
今度はしゃがみ込んで、エンジンやマフラーを眺め始めた。
「これ二気筒?」
「よく分かったな」
「勉強したからな」
「感心だ」
「音は?」
「かけてみるか」
「いいの!?」
「お前のだと言っている」
鍵を渡す。
受け取った瞬間、少年が止まった。
「…………」
「どうした」
「いや」
鍵を見る。
車体を見る。
私を見る。
「なんか……マジなんだなって」
「今さらか」
「だってよ」
言葉を探しているらしい。
珍しい。
「とりあえず跨がってみろ」
「お、おう」
少年がシートに跨がる。
両足がきれいにつく。
「……うわ」
「どうだ」
「ちょうどいい」
「そうだろうな」
「ハンドルも」
握る。
「近すぎねえし、遠くもねえ」
「少年は腕が長いからな」
「レバーも握りやすい」
「手の大きさに合わせた」
「……なんで分かんだよ」
「何年知っていると思っている」
「いや、そうだけど」
少年がこちらを見る。
妙な顔をしている。
「何だ」
「姉ちゃん、オレの身体のサイズ覚えてんの?」
「おおよそは」
「怖えよ」
「整備する側なら当然だ」
「オレ専用で作るのは当然じゃねえだろ」
「祝いだからな」
「…………」
「嫌だったか」
「んなわけねえだろ」
少年が少し俯く。
「……めちゃくちゃ嬉しい」
「そうか」
「おう」
そのままエンジンをかける。
セルが回り、一拍置いてエンジンが目を覚ました。
ドドドド、と低く歯切れのいい音がガレージに響く。
「うおお……!」
「近所迷惑だから吹かすなよ」
「分かってるって!」
言いながら、ほんの少しだけアクセルを捻る。
回転が上がり、すぐ戻る。
「いい音……」
「うるさすぎない程度にはした」
「もうちょいデカくてもよくね?」
「却下」
「なんでだよ」
「少年の最初のバイクだ。まずまともに乗れ」
「乗れるって!」
「免許を取ったばかりの者が一番危ない」
「教習所じゃ上手いって言われたぞ」
「教習所と公道は違う」
「分かってるよ」
少し不満そうだが、反論はしない。
こういうところは少年のいいところだ。
格好いいものにはすぐ熱くなるが、危険を格好よさと勘違いしない。
「あと、今日は乗って帰るな」
「は?」
「保険と登録の最終確認がまだだ」
「できてねえの!?」
「明日終わる」
「今日見せた意味!」
「免許を見せびらかしに来ると思っていたからな」
「見せびらかしじゃねえ! 報告だ!」
「そうか」
「絶対思ってねえだろ!」
思っている。
半分くらいは。
「明日、装備を持って来い」
「明日!?」
「乗るんだろう」
「乗る!」
「なら朝六時」
「早くね?」
「最初は交通量の少ない時間に走る」
「姉ちゃんも来る?」
「当然だ」
「姉ちゃんの後ろ?」
「いや」
「?」
「少年が前だ」
少し驚いた顔をした。
「オレが?」
「初心者を後ろから私へついてこさせる方が危ない。お前は自分の速度で走れ。私は後ろから見る」
「…………」
「嫌か」
「いや」
少年がハンドルを見る。
それから、少し笑った。
「やっと自分で走れんだなって」
「そうだな」
「今まではずっと姉ちゃんの後ろだったから」
小さい頃から何度も乗せた。
近所だけではない。
休みの日には山へ行った。
海にも行った。
泊まりがけで遠くまで走ったこともある。
少年はいつも私の後ろにいた。
少年が笑う。
私も少し笑った。
「明日だな」
「ああ」
「六時」
「遅刻するなよ」
「しねえって!」
エンジンを止める。
急にガレージが静かになった。
少年はもう一度、車体を最初から最後まで眺める。
何度見ても飽きないらしい。
「姉ちゃん」
「なんだ」
「ありがとな」
「どういたしまして」
少年がまたバイクを見る。
「大事に乗る」
「傷はつくぞ」
「分かってる」
「倒すかもしれない」
「倒さねえよ」
「最初は誰でもそう言う」
「縁起悪いこと言うな!」
「壊したら直せばいい」
「姉ちゃんが?」
「金は取る」
「祝いじゃねえのかよ!」
「最初の一回だけ半額にしてやる」
「最初から倒す前提やめろ!」
また笑う。
その顔は、昔バイクを見て目を輝かせていた小さな子供とあまり変わらない。
ただ、随分大きくなった。
GⅠをいくつも勝った。
誰もが知るウマ娘になった。
それでも私の前では、免許証を自慢したくて仕方のない少年のままだ。
「じゃあ、また明日な!」
「ああ」
「八時だからな!」
「私が言った」
「絶対寝坊すんなよ!」
「誰に言っている」
「姉ちゃん」
「帰れ、少年」
「少年じゃねえ!」
ガレージの外まで声が響いた。
少年が帰ったあと、静かになった車体へ目を向ける。
少し考えて、明日確認する場所を頭の中でもう一度並べる。
ブレーキ。
タイヤ。
チェーン。
灯火類。
空気圧。
燃料。
問題はないはずだ。
それでも明日の朝、もう一度全部見る。
初めて一人で走る少年を送り出すのだから、そのくらいはしていい。
ずっと、私の後ろで走っていた。
明日は初めて、私がその後ろを走る。
少しだけ楽しみだった。