韓国に占領された日本 ✕ 車輪の国 作:minnie_remon
0-1 開戦前夜
20世紀後半、日本は敗戦の荒廃から奇跡的な復興を遂げ、世界有数の経済大国へと躍進した。それは日本にとって、紛れもなく「黄金の時代」だった。
しかし、栄華は長く続かない。21世紀に入ると、日本は急速に失速していった。
構造的な経済の停滞に加え、加速度的な少子高齢化による人口激減が追い打ちをかける。21世紀中旬頃にはマイナス成長が完全に定着。かつての技術立国・経済大国としての面影はみるみる失われ、日本は国際社会の中で急速にその存在感を減退させていった。
そんな沈みゆく日本とは対照的に、破竹の勢いで台頭したのが、隣国の大韓民国であった。
第二次大戦後長く途上国の座に甘んじていた韓国だったが、先端産業への集中投資によって急速な成長を遂げ、21世紀初頭には一人当たりGDPで日本を追い抜いた。そして一度ついた差は、二度と縮まることはなく開く一方だった。
日韓の国力の差を決定的にしたのが、2053年の「朝鮮半島統一」である。
休戦協定成立から100年の節目となるこの年、北朝鮮を吸収する形で悲願の統一を果たした韓国は、広大な北部の鉱物資源と莫大な労働力を一挙に獲得する。さらに旧北朝鮮軍が保有していた核兵器を継承・管理下に置いたことで自ずと核保有国となり、国際政治における絶対的な発言権を手にした。統一韓国は勢いを増し、やがてアメリカと肩を並べるほどの超大国へと君臨するに至ったのである。
完全に逆転した日本と韓国の立場。
しかし、どれほど国力に格差が生まれても、決して埋まらない溝があった。
歴史問題を巡る両国の隔たりである。
過去の謝罪と莫大な補償を要求し続ける韓国に対し、衰退の焦燥に駆られる日本側も「解決済み」の立場を頑なに崩さず、一切の歩み寄りを拒否した。国民感情の悪化も著しく、世論調査では互いに8割以上の国民が相手国に「強い嫌悪感」を抱くという事態が定着していた。
この対立関係を決定的な破局へと導いたのが、極右の政治家・南條秀樹(なんじょう ひでき)の首相就任であった。
自民党総裁選を制し政権を握った南條は、右傾化する世論の熱狂に背を押される形で、過激な反韓政策を矢継ぎ早に打ち出した。
だが、経済的現実が日本を打ちのめす。超大国となった韓国が対抗措置として発動した「最先端電子素材の全面禁輸」は、日本の産業構造の弱点を直撃した。当時の日本経済は韓国製の高度な基幹素材を輸入し、それを組み込んで製品化する加工貿易に依存しきっていたからである。代替不能な素材の供給を絶たれた日本経済は、一夜にして麻痺状態へと陥った。世論の喝采を浴びた南條の威勢とは裏腹に、その外交戦略は政権発足当初から完全に破綻していたのだった。
そんな困窮する社会と冷え切った冷戦状態の中、致命的な一撃が放たれる。
2089年12月8日。韓国の首都・ソウルの繁華街の中心部で、大規模な爆破テロが発生。
百人を超える死者を出したこの惨劇に対し、犯行声明を発したのは日本の過激派極右団体であった。
「経済制裁では生ぬるい。武力による対日報復を!」
怒りに震える韓国の世論は一斉に武力行使へと傾いた。
韓国政府は直ちに犯行声明を出した男の身柄引き渡しを要求したが、南條政権は両国間において犯罪者引渡し条約が未締結であることをを盾にこれを拒否。もはや、外交による解決の道は残されていなかった。
ソウルでの凄惨な爆破テロ以降、日本の報道機関は連日のように韓国の動向を報じ続けた。韓国国内で高揚する対日報復世論、軍事行動への準備を進める韓国軍…連日伝わる映像は、開戦の危機が眼前に迫っていることを雄弁に物語っていた。
だが、この期に及んでも日本国内を覆っていたのは、「まさか本当に戦争など起きるはずがない」という楽観論だった。
21世紀末のこの時代に国家間同士の本格的な戦争など起こる訳がない…それが大多数の日本人の本音だった。テレビのワイドショーに並ぶコメンテーターや自称有識者たちは、一様に知性的な笑みを浮かべながら似たり寄ったりの解説を繰り返した。
「韓国側の武力アピールは外交的カードに過ぎません。ここで怯めば相手の思うツボです」
「仮に万が一の事態になっても、日米安保条約に基づき米軍が抑止力として機能します」
しかしそんな平和ボケした世論の裏側で。
首相の南條秀樹は冷や汗に濡れた掌を激しく握りしめていた。
「そうか…韓国はそこまで本気でなのか…」
官邸の執務室で秘書官からの報告を受けた南條は、苦々しく呟いた。
政府の安全保障会議が精査の末に弾き出した結論は、あまりにも絶望的なものだった。韓国による日本本土への軍事侵攻の確率——90%超。
それは「威嚇」ではなく、「作戦発動秒読み」を意味する数値だった。
一度開戦すれば、自衛隊単独で韓国軍の進撃を阻止することが不可能なのは火を見るより明らかだった。今やアメリカと肩を並べる世界最強の軍事大国・統一韓国。かたや、経済縮小と国民の平和ボケにより予算を削られ続けた自衛隊。防衛省の事前シミュレーションによれば、開戦から48時間以内に自衛隊の主要防衛線は壊滅し、続く48時間で首都・東京は全域が占領下におかれると予測されていた。
頼みの綱はアメリカだった。しかし外交ルートを通じて返ってきたワシントンの回答は、あまりにも冷たいものだった。
『日韓双方の懸案は二国間の対話によって解決されるべきであり、米国が介入する段階ではない』
それは体裁のよい「見殺し」の宣告だった。韓国と米国は相互防衛条約によって強固に結ばれており、実際に毎年合同軍事演習を行っている。それに対して日米安保条約は形骸化して久しい。アメリカにとって、安全保障上の最重要パートナーはもはや日本ではなく、超大国となった統一韓国だったのだ。
追い詰められた南條政権に対し、韓国政府から最後通牒に等しい外交公文書が突きつけられる。
内容は以下の三点だった。
1.テロ首謀者および関係者の即時身柄引き渡し
2.南條首相自身のソウル訪問と、テロ発生現場での公式な謝罪
3.国家の責任を認めた上での、破格の国家賠償金の支払い
「履行されない場合、我が国は自国市民の安全確保のため、軍事的措置を含むあらゆる選択肢を行使する」
これを受けて閣内からは「謝罪と賠償はともかく、せめてテロ首謀者の引き渡しだけでも受託し、開戦を回避すべきだ」との声が大勢を占めた。
12月24日、南條は水面下で「首謀者の身柄引き渡し」を条件とした手打ちを韓国側に打診した。しかし韓国側は打診を一蹴。「全条件の完全履行」を求め、そのタイムリミットを「12月31日 23時59分」と厳告した。
南條にとって、謝罪と賠償の受け入れは政権の終わりを意味していた。もし謝罪すれば、対韓強硬姿勢を売りに集めた支持層の離反は目に見えている、また突きつけられた賠償額は衰退した日本国家の国家予算を丸ごと吹き飛ばすほどの巨額であり、仮に支払いたくても支払える規模ではなかった。
そんな絶体絶命の窮地の中、致命的な裏切りが南條を襲う。
期限をわずか2日後に控えた12月29日。南條の「懐刀」と言われ、次期首相候補と目されていた外務大臣の松川洋一が、突如として辞任を表明したのだ。
しかも、衝撃はそれだけに留まらなかった。
翌12月30日の夕刻。韓国の国営放送KBSが緊急ニュースを全土に流した。
画面に映し出されたのは、ソウルのテロ現場の惨状の中、コンクリートの上に膝をつき、深く頭を擦り付けて土下座する松川の姿だった。
「私は閣僚を辞したので日本国を代表できる立場ではないが、私個人として、一人の人間として、尊い命が奪われたこの暴挙を心より深く謝罪致します」
日本国の事実上のNo.2とも言うべき人物の土下座謝罪に対し、韓国大統領府は即座に声明を発表した。
『我が国民の悲しみが癒えることはないが、松川前外相の払った勇気ある謝罪は敬意をもって受け止めたい。翻って、未だ誠意を見せぬ現日本政府および南條首相に対し、速やかな決断を強く促す』
南條は、血の気が引く思いでその映像を見ていた。最も頼りにしていた側近の寝返り。それも、韓国側とおそらく裏で密約を交わしてのパフォーマンスだった。最後通牒の期限まであと30時間を切っていた。
松川の電撃的な土下座謝罪は日本の報道でも衝撃をもって伝えられたが、その衝撃すらも「年末の喧騒」の中に急速に飲み込まれていった。
12月31日の大晦日。各テレビ局は通常通り、年末特番やバラエティ番組を垂れ流し続けた。NHKも日韓情勢そっちのけで通常通り紅白歌合戦を放映し、そこでは華やかな衣装を纏った歌手たちが踊り狂い、番組の最後には司会者が「来年が皆様にとって素晴らしい年になりますように!」と何とも能天気な言葉で締めくくった。そうして、国家の命運を分ける12月31日23時59分59秒というカウントダウンは、年越しそばを啜る日本人の頭上を、何事もなく静かに通り過ぎていった。
年が明け、三が日は嘘のように静かに過ぎた。
韓国が突きつけた期限の存在など知らない国民は、初詣に出かけ、新年の祝杯をあげた。まさに、絵に描いたような平和の泥酔だった。
そして、新年明けの1月4日。社会が再び動き出す早朝。
日本人は、自らがいかに平和ボケしていたかということを、最悪の形で思い知ることになる。
韓国政府は全メディアを通じて声明を発表。その内容は、「韓国国民に危険をもたらす勢力及び、その存在を容認するテロ国家に対する自衛権の発動」を名目に、日本への『特別軍事作戦』の開始を宣言。
その瞬間、大韓民国陸海空軍の先鋒部隊が、日本本土へ向けて進撃を開始した。