韓国に占領された日本 ✕ 車輪の国 作:minnie_remon
「じゃあ俺が先に登るから、紗千香は俺と同じ場所を通るんだ」
両手両足の四点のうち、必ず三点は突起や窪みに置いて体を安定させること、残りの一点で次のホールドを確保して徐々に移動させていくこと、俺がどこを掴んでどこを足場にしているかを片時も目を離さずしっかりと確認しておくこと…それらを確実に指示してから、いよいよ垂直の岩壁に手をかけていく。
幸いなことに、竪穴の壁面にはほとんど泥が付着しておらず、クライミングとしての何度は低めだった。だが岩肌が乾燥しているということは、脆くて崩れやすいという可能性も否定できない。
慎重に、手足を交互させて着実に登っていく。右手、左手、右足、左足、また右手……
「んっ……ふっ……」
紗千香も俺が登るルートを忠実に追い、ぴったりとついてきていた。
「はあっ…楽勝、だねっ…ふうっ…」
確かに紗千香が言う通り、今の所はハシゴが必要とは思えない程度の崖だ。もしかしたら「こっちが正解のルートだ」と知らせるために、敢えてアンカーを残したのかとさえ思ってしまう。
その時。
「…くっ!」
窪みに左腕を立てた時、まだ完治には程遠い左肩に激痛が走った。
傷が開いたのか、ズキズキと熱を持ったように痛む。
「どうしたの?」
「いや…何でもない」
とても無視できる痛みではなかったが、紗千香に心配を与えないためにも、気合いで無視してさらに上を目指す。
するとついに、ようやくゴールらしき岩盤がライトに浮かび上がった。
「もう少しだ、頑張れ」
既に10mは登ってきている。最後の最後で致命的なミスを冒さないよう、集中力を切らさぬように慎重に上を目指す。
だが…
「え…?」
あと少しでゴールの岩棚に辿り着こうかという時、確保点を探していた右手に嫌な滑り気を感じた。
岩全体が丸みを帯びていて、どれだけ探っても突起や窪みは確認できなかった。竪穴の縁がフローストーンと呼ばれる、極めて滑りやすくホールドできない岩で形成されていたのだ。
「どうしたの…早く行ってよ…」
下方から、紗千香が早く登れと促してくる。だが、ここをハシゴやロープ無しで登りきるには、トラバースという高度な専門技術が必要だった。それは紗千香に口で説明してすぐに実行に移せるものではなく、第一、俺自身にとっても未経験の領域だ。
…ここまで来たってのに、無理なのか?
冷酷な現実が脳裏をよぎる。諦めて引き返すしかないのか…
そう判断しかけた、まさにその瞬間だった。
「ん…?」
暗闇の中で、微かに金属光沢が反射した。確認してみると、鈍い光を反射させるそれは、コの字型の楔だった。
危険な場所に打ち込んだため、おそらく回収できなかったのだろう。手を思いっきり伸ばして握ってみると、岩肌にガチガチに固定されていた。
この楔を確保点として利用すれば、この厄介な竪穴の縁を通過できるかもしれない。
(だが、紗千香には……)
とはいえ、ここで引き返すと言っても素直に従わないのは明らかだった。そんな不毛なやり取りをやってる内に、姿勢を崩して滑落してしまうということも十分有り得る。
「…よし、ここからは、ちょっと筋肉を使うぞ」
「え…?」
「先に登りきるから、よく見とけよ」
そう言って俺は、右手で楔を掴んで一度大きく深呼吸してから、片手懸垂するように体を持ち上げながら思いっきり足場を蹴った。
空中へ躍り出ると同時に、岩棚の僅かなヘコみを目指して左手を伸ばす!
「……つ!」
激痛と浮遊感が交錯し、一瞬意識が飛びそうになるが、それを気合いでねじ伏せ、跳躍の勢いと両腕の筋力だけで強引に身体を岩棚の上へと引き引っ張り上げた――!
「っぁぁあああっ!!!」
直後。俺は岩棚の上で腹ばいになっていた。
「はあっ…はあっ…はあっ…」
命懸けの二段ジャンプ、何とか成功。荒い息と共に、ホッと胸を撫で下ろす。
「い、今のをやれっての?」
直下から、怯えた紗千香の声が響く。
覗き込むと、恐怖に引きつった顔でこちらを見上げていた。
「今…軽く空中を飛んだよね。一瞬、宙ぶらりんだったじゃんっ…!」
「大丈夫、俺が引き上げてやるから。紗千香はまず、右手で楔を掴め。そして思いっきりジャンプしたら。余ってる左手を差し出して俺の手を掴め」
そう言って俺は両足を岩の窪みに引っ掛けて右手を出来る限り伸ばし、紗千香を引き上げる体勢を整える。
「下は絶対見るな。大丈夫、ここまで来た紗千香の運動神経なら楽勝だ」
「う、うん、分かった」
紗千香は恐る恐る楔を握り締めた。
パラパラと小石が崩れ落ちていく音が響き、闇の底へと消えていく。崖の底にライトは届かない。見ているだけで気分が悪くなる光景だった。
「よし…いくよ………せーのっっ!!!」
紗千香が思い切りジャンプした、その瞬間―――
「きゃああああっっっっっ!!!!」
洞窟内に、ひときわ高い紗千香の悲鳴が突き刺さった。
何が起きたのか、瞬間的に判断することは不可能だった。だが、紗千香の左手が俺の右手に届かなかったことだけは理解できた。
すぐに状況を確認すると、紗千香の身体は完全に宙吊りとなり、楔を掴んでいる右手一本だけで崖っぷちにぶら下がる形になっていた。
「くっ……!」
右腕を思いっきり伸ばすが、紗千香には届かない。
「ひ、ああああっっ!」
紗千香は足をぶらぶらさせ、空中でもがいている。
「おい紗千香!ジタバタすんな!とりあえずそのぶらぶらさせた足をまず落ち着かせろ!そして冷静に足場を探せ!」
「ひっ!ダメッ!あああっ!」
紗千香はパニックに陥っている。だがそれも仕方なかった。何せ落ちれば10m分の衝撃を受けることになる。大怪我で済めばいい方だ。
「紗千香、俺の目を見ろっ!」
焦点の定まらない瞳に、怒鳴りつけるように言う。
「うっ…京介っ…!」
「よーし、よーし。そうだ、俺を見てろ。そんでもって、ゆっくりと足を滑らせてさっき自分が踏んでた場所を探せ。慎重に、ゆっくりだ。安心しろ、右手さえ離さなければ落ちることはないんだ」
「う、うん…」
じたばたしていた紗千香の身体が、俺の言葉で徐々に落ち着いてきた。瞳にも活気が戻る。
「な、ないよ、足場なんてないよっ…!」
「もう少しだけそのまま我慢するんだっ!」
俺は大急ぎでザックを開けてロングタオルを掴み取ると、紗千香に向けて勢いよく垂らした。
「左手でタオルをつかめっ」
すると紗千香が、救いの糸を求めるように、タオルを掴む。
「よし、引き上げるぞ!紗千香も思いっきり引っ張れ!」
「え、で、でも、破けちゃわないっ!?」
「金に糸目をかけず準備した超高級のハンドタオルだ。並のロープより丈夫だから安心しろ!」
もちろん嘘。ただの市販の綿タオルだ。
だが、その嘘こそが、今この瞬間の紗千香の命綱だ。
「ぐ……っ!」
支点となっている足首が、岩に擦れてギリギリと痛む。ついでに便乗するように、左の片口も悲鳴を上げていた。
だが、そんな痛みなど全て限界突破で振り切って…!
「…らぁああああああっっ!!」
ジワジワと引っ張ても紗千香の恐怖が増すだけ。俺は一瞬に勝負を賭けシャウトと共に全力を開放した…!
「あっ、きゃああああああーーーっ!」
その瞬間、紗千香の身体が浮いた。
ぐんと伝わる重みが軽くなった直後、舞い上がってきた紗千香の身体を、俺は全身で受け止めた。
「ひゃああああっ!!」
体と体が激しくぶつかり、、岩肌の上に折り重なるようにして転がり込む。
めちゃくちゃ痛かった。ただ、ギリギリのところで紗千香を引き上げるのに成功したことは分かった。
「はあっ…はあっ…はあっ…!」
「はあっ、はあっ…死ぬかと思った…死ぬかと思ったぁ……っ!」
胸を激しく上下させ、涙目になりながら叫ぶ紗千香。
俺も心臓が早鐘のように脈打っていた。
「言ったろ…このタオルは破けないってな…」
「うん、さすが京介、何でも準備してるんだね…」
普通のタオルだということにまだ気づいていない紗千香。まあ、今さら本当のことを言う必要あるまい。
「どうする?すぐに探索を再開するか?それともちょっと休むか?」
「ちょっとだけ休ませて」
そう言って起き上がろうとしない紗千香。正直俺も、すぐには動きたくない気分だった。
だが…タイムリミットが刻々と迫っていることもまた、重々分かっていた。