韓国に占領された日本 ✕ 車輪の国 作:minnie_remon
ぴくりとも動かなかくなった紗千香。こんな劣悪な環境下で活動停止薬を飲むのは、本来なら自殺行為だ。だから正直に言うと、今回は特別に見て見ぬふりをしてやりたかった。
だが俺がどうしても気になったのは、紗千香の胸元に輝く、新調された市民階級プレートだった。
あの恩赦祭の日、ユジンさんは俺を罰する一方で、義務違反の張本人である紗千香と香菜には階級プレートを新たなものに取り替えるよう命じただけだった。なぜそんな事をする必要があるのか?考えられる一つの推測として、新たなプレートには盗聴器のようなものが仕込まれている可能性がある。
もしそうだとすれば、今ここで紗千香の活動を許せば本格的にヤバいことになる。短期間に2度も義務違反を犯したなんてことをユジンさんが知れば、今度こそ強制収容所行きだろう
いずれにしても、紗千香は活動を停止した。ここからは、俺一人で何とかする必要がある。
動かなくなった紗千香を、俺はもう一度引っこ抜こうと試みる。だがやはり完全に嵌まってしまっているようで、ピクリとも動かすことはできなかった。
何より本人が痛みを訴えられない状況で強引に引き抜こうとすると、関節の脱臼や骨折、あるいは皮膚を激しく損傷させるといった危険性が高すぎる。無茶はできない。
「さて…」
状況を冷静に分析する。
通常、狭洞やクラックに嵌まり、身体と岩が接触している状態が続けば、血流障害や低体温症により人間はアッサリと死んでしまう。しかも水流が下半身を冷やしていて、なおかつ薬で強制的に眠りに落ちている。
このまま放置すれば、紗千香の命は明日の朝まで持たないだろう。
「…明日の朝、か」
俺はつなぎの下に着ていた服を脱ぎ、さらにザックからありったけの乾燥物を取り出して、脱いだ服と一緒に紗千香の身体を覆ってやる。そしてその下からロウソクに火を灯し、小規模な保温空間を作り上げる。
…紗千香を救うには、厄介な周囲の岩を削るしかない。
クラックには水が流れている。つまり紗千香を挟んでいるのは、浸食された脆い岩である可能性が高い。先端の尖った鉄製スコップやロックハンマーさえあれば、岩を削って隙間を拡げられるはずだ。
それしかない…そう判断した俺は、今来た道を急いで引き返す事にした。
つい先ほど命懸けで登った竪穴を、今度は可能な限り迅速に降りる。通常、登るよりも降りる方が事故率は上がる。だから時間を要して慎重に降りるべきだが、今はそんな常識には構っていられない。勝負はどれだけの短時間で道具を調達し、再びここまで戻って来られるかだ。
竪穴を力任せに降り切ると、暗闇の洞道を可能な限りのスピードで逆走する。ルートや地形は大体覚えているが、それでも洞窟内がほぼ一本道というのは本当に有難かった。
「洞窟内では絶対に走るな」というケイビングの鉄則を無視し、ヘッドライトの光を激しく揺らしながら入り口を目指す。
どれほど走っただろうか。やがて、湿った洞気の向こうから、蒸せるような草木の匂いと、虫の大合唱が聞こえてきた。
「よしっ…!」
思っていたよりかなり早く洞窟の外に出ることができた。やはり足元や周囲に気を使いながら慎重に進むのと、一度通ったルートを横目も触れずに急いで戻るのでは移動速度は段違いだ。
だが、本当の勝負はここからだ。歩いて2時間近くかかる漆黒の山道を、全速力で往復しなければならない。
トレイルランの覚悟を決めて、山道を駆け降りる。
すると僅か数分走った所で、闇の中から懐中電灯と思しき光が差し込んだ。
「京介さん!?」
「中島…?」
光の向こうに立っていたのは、紛れもなく中島だった。
だが、なぜ中島がこんな所に…?
「ふふ、どうしてここに?って京介さんは思ってるかもしれませんけど、誰かが洞窟の外でアタックチームをサポートするのはケイビングの基本でしょう?」
さも当然と言わんばかりの涼しい顔で中島は言って。
「それで…紗千香さんはどうした?」
一歩詰め寄って、彼らしからぬタメ口で聞いてきた。
「クラックに嵌まって脱出できない状態にある。ディギングが必要だ」
時間が無いから、わざと専門用語を並べて状況を伝えると。
「必要なのはレンチハンマー?それとも小回りの利くスコップ?」
「やけに話が分かるな」
「何たってバックアップメンバーですから」
こいつ…やるじゃねえか。
「スコップだ。俺の不注意で携帯していなかった」
すると中島は自分のザックから、削岩用に先端が鋭利に研ぎ澄まされた小型スチールスコップを取り出して、こちらに差し出しながら言った。
「京介さんが紗千香さんを見捨てて洞窟から出てきたのなら、僕はこのスコップであなたをブチ殺していた所ですよ」
「それも得意のギャグか?」
「どんな物語でも裏切り者は悲惨な末路を辿るものですよ」
「…覚えておこう」
「それで、スコップ以外に必要なものはありますか?」
「そうだな、サバイバルバックはあるか?」
すると中島は頷いて、ポリエチレン製の袋を手渡してきた。今は折りたたまれていて手紙大の大きさだが、拡げて頭からかぶってロウソクの火で暖めれば長時間の待機に耐えられる。レスキューの必須アイテムの一つだ。
「よくこんなマニアックなアイテムを持ってるな?」
「バックアップメンバーですから。森田三郎さんのファンだからって、逮捕しないで下さいね」
「しねえよ。そもそも俺にそんな権限は無い。ただ逮捕されたくないなら、俺の上司である韓国人の女の前では絶対にその名前は口にするな」
「一線は超えるな、というのが僕のモットーですから」
「…ありがとう。何にしても、マジで助かった」
「紗千香さんをよろしく」
俺は親指を立てて合図を送ると、再び洞窟へ向かって全力で駆け出した。
………………………………………
ぜいぜいと荒い息を吐きながら、ようやく紗千香の眠るクラックへと辿り着く。
すぐに覆っていた衣服をめくり、その首筋に指を当てて脈をとる。すると心なしか心拍が弱々しく感じられた。
このまま低体温症に陥れば、仮にクラックから救出できたとしても体力的にあの竪穴を降りることが不可能になる。そうなれば結局手詰まりだ。
「待ってろ、今引きずり出してやるからな…!」
俺は中島から受け取ったスチールスコップを握り直し、彼女の腰を圧迫している固い岩肌へと刃先を叩きつけた。ガチィンッ!と硬質で甲高い音が狭い洞内に鳴り響く。
予想通り、岸壁はそれほど硬いものではなかった。とはいえ、当然柔らかいものでもない。身をかがめた窮屈な姿勢で、紗千香の柔らかい身体を傷つけないよう極限まで神経をすり減らしながら、数ミリずつひたすら岩を削り起していく。
「ふうっ……はあっ……」
ボタボタと額から汗が滴り落ちて目に入る。左肩が悲鳴を上げ、激痛のあまり腕に力が入らなくなってきても、痛みを意識しないようにして一心不乱に岸壁を削り続ける。
そんな作業を延々と続けること、約3時間。
――ガキンッ!!!
鈍い衝撃と共に、手元から嫌な感触が伝わった。
見れば、硬い岩盤に当ててしまったのか、スコップの刃先が見事に欠けてしまっていた。
「……マジか」
思わず、見えない天を仰ぐ。
もうスコップ一向に岩に刺さらず、使い物にならない。力任せに叩きつけてみるが、全く無駄だった。
…どうするべきか?
他に岩を削れそうな道具は無い。当然、地上へ戻って代わりの道具調達に向かう時間など残されていない。
すがりつくような思いで紗千香の脇下に腕を差し込み、力任せに引き上げようとするが、彼女の身体はまるで岩と同化したかのようにピクリとも動かない。
すなわち…手詰まり。
(…俺は、紗千香を殺してしまうのか?)
自責の念が激流となって脳内に溢れ出し、俺はたまらず目を閉じてしまう。
やっぱり、あの時強引に薬を飲ませるべきではなかったのか。
いや、そもそも竪穴を見つけた地点で、どんなに嫌がられても引き返すべきだったのか。
それとも、最初からこの洞窟探検に足を踏み出したこと自体が、取り返しのつかない致命的な間違いだったのではないのか…
(落ち着け…思考を止めるな! 何か…何か突破口はあるはずだ…!)
諦めそうになる心を振り払って、打開策を必死に探る。
ここで俺が折れてどうする。俺が諦めた瞬間に、紗千香の命はここで絶たれるのだ。
…待てよ?
その時、ひとつの閃きが駆け巡った。
(なぜ、スチール製のスコップが折れた…?)
強烈な違和感が脳裏を掠める。
この周辺の岩盤は、水流によって長年食破された比較的脆い石灰岩だ。本来なら鉄の刃先で根気よく削れば徐々に崩れるはずだ。だが先ほど鉄製のスコップが弾かれ、刃を粉砕させた場所は、まるで鋼鉄でも仕込まれているかのような異様な硬度を誇っていた。
…もしかしたら、スパレオテム(二次生成物)か?
洞窟内を流れる水は、大量の炭酸カルシウムを溶かし込んでいる。その水が落差や空気の対流に触れることで方解石の結晶として再沈殿し、長い長い年月をかけて硬質な岩石の層を形成することがある。壁面から突起状に成長するヘラクタイト(偏光鍾乳石)なんかもその一種だ。
単なる脆い岩肌の隙間にハマっているだけなら、3時間の掘削と牽引でわずかでも隙間ができるはずだ。だが、もしもクラックの狭小部に極めて硬質な方解石の結晶板…『方解石ブレード』や『カーテン』と呼ばれるスパレオテムが突起状に張り出しており、それが紗千香の装備や骨盤を楔のようにガッチリとロックしているとしたら…辻褄は合う。
だとすると、その狭撃の支点となっているたった一つの結晶構造を破壊することさえできれば、一発でロックが外れる可能性がある。
「叩き壊すことができればな…」
もし俺の推測が正しかったとしても、紗千香を固定するスパレオテムが数百年数千年といった年月をかけて形成た巨大なもので、岸壁の奥深くに根を生やしているのならば、爆薬でも仕掛けない限り破壊は不可能だ。
…だが、やるしかない。
無駄な努力になるかもしれないが、やるしかないのだ。
俺は周囲の崩落跡から、自分の両手でギリギリ掴めるほどの重く硬い角ばった転石を拾い上げた。
狙うは、紗千香の腰の右側に密着し、スコップの刃を打ち砕いた例の硬質部位だ。
「紗千香…」
生気を失いつつある寝顔に、俺は囁いた。
「待ってろ、もうすぐだ」
そして手にした岩を頭上高く振り上げ、紗千香の身体に岩が当たらないよう注意しながら…
――ガツンッッッ!!!
手ごたえはなく、強烈な打撃音が洞内に轟き、手首から肘にかけて激痛と痺れが駆け抜けるだけだった。
だが構わず、俺は泥振り投げのように何度も、何度も連続でその一点へ向けて石塊を叩きつけた。
――ガツンッ! ガツンッ! ガツンッッッ!!!
左肩の傷口から血が滲み、呼吸が狂う。それでも休まず、がむしゃらに打ち下ろし続ける。
ただ、腕を動かす。
紗千香を救うという強い意志を込めて。今、彼女を助けられるのは俺だけなのだ。
――ガツンッ! ガツンッ! ガツンッッッ!!!
それからは、何も考えることのない単純作業だった。
破壊する。
砕く。
助ける…紗千香を……!
――パキィンッ!
するとその時、それまでの不透明で鈍い打撃音とは明らかに異なる、乾いたガラスが割れるような美しい破砕音が暗闇に響いた。
岩と岩が織り成す音の反響に、劇的な変化が生じ始めていた。