魔王軍にとって、紅魔族という種族は長年にわたる頭痛の種であった。
生まれながらに強大な魔力を宿し、魔法に対する適性も極めて高い。一人一人が並の魔法使いなど比較にもならないほどの実力を持ち、そのうえ揃いも揃って魔王軍に対して敵対的である。
それだけならば、まだ単なる強敵として扱えた。
問題は、それ以外の部分だった。
「我が名は――!」
戦場だろうと構わず名乗る。
「見るがいい! これこそ我が編み出した――!」
攻撃するたび、いちいち技名を叫ぶ。
「くっ……この程度で我が右腕に封じられし力を解放することになろうとは……!」
別に何も封じられていない。
要するに、頭がおかしいのである。
ならば殺してしまえばいいかと言えば、話はそう単純でもない。
下手に刺激すれば高火力魔法が雨のように降ってくる。かといって放置しておけば、今度は向こうから勝手に魔王軍の拠点へ押しかけてきて、よく分からない名乗りと共に魔法を撃ち込んで帰っていく。
可能であれば関わり合いになりたくない。
しかし、人類側でも屈指の戦力を誇る集団である以上、無視することもできない。
魔王軍にとって紅魔族とは、そういう連中だった。
そんな紅魔族について、ある日突然、耳を疑うような報告が飛び込んできた。
『紅魔族、魔王へ臣従』
報告書を手にした魔王軍幹部ハンスは、しばらく無言のまま文字を眺めた。
やがて目を擦り、もう一度読む。
『紅魔の里、魔王領を宣言』
さらにその下。
『紅魔族一同、自らを魔王直属の民と称す』
紙を裏返したが、何もない。もう一度表へ戻す。書いてある内容は変わらない。
「……頭でも打ったのか、あいつら」
ハンスの第一声は、それだった。
これまで散々魔王軍を悩ませてきた連中である。何か裏があるのではないかと疑うのが当然だった。
だが、もしこの報告が事実なら長年にわたり敵対してきた紅魔族という巨大戦力が、一夜にしてこちら側へ転がり込んできたことになる。
それも戦いに敗れて降伏したわけではない、自発的な臣従。考えているうちに、ハンスの口元が緩んだ。
「なんだよ、話の分かる連中じゃねぇか」
こうしてハンスは生まれて初めて、紅魔族に対する評価を上方修正した。
その判断を後悔することになるまで、そう時間は掛からなかった。
◇◆◇◆
数日後。
紅魔の里があるはずの場所へ辿り着いたハンスは、入口に立てられた巨大な看板を見上げていた。
『魔王領・紅魔郷』
「マジじゃねぇか……」
ただの噂ではなく、本当に変えている。
あの紅魔族が。
魔王軍へ幾度となく煮え湯を飲ませてきた、あの頭のおかしい連中が。わざわざ自分たちの里の名前まで変えて、魔王への臣従を大々的に宣言している。
「殊勝じゃねぇか」
ハンスの口元に自然と笑みが浮かんだ。
「最初からそうしてりゃ、俺達だって苦労しなかったんだよ」
これまでの因縁くらい、水に流してやってもいい。そんな上機嫌のまま、ハンスは堂々と里へ足を踏み入れた。そして十歩も進まないうちに。
「止まれ!」
「ん?」
声と同時に、四方八方から杖を向けられた。前にも杖、横にも杖、振り返れば後ろにも杖。どう見ても歓迎の雰囲気ではない。
先ほどまでのハンスの笑顔が消えた。
「何だよ」
「貴様、何者だ!」
「名乗れ!」
「この魔王領・紅魔郷へ何用か!」
口々に叫ぶ紅魔族たちを眺め、ハンスは眉間を押さえた。
「お前らさぁ」
「なんだ!」
「俺、魔王軍幹部なんだけど」
「「「…………」」」
紅い瞳が一斉に瞬いた。どうやら本当に分かっていなかったらしい。ハンスは呆れながらも胸を張る。
「デッドリーポイズンスライムのハンスだ。お前らが魔王様へ臣従したって話を聞いて、その確認に来てやったんだよ」
「…………」
「何だ、その顔」
一人の紅魔族が隣の者へ顔を向けた。
「魔王軍だって」
「ああ、魔王様の軍勢か」
「そういうことだ!」
ようやく話が通じた。ハンスは満足げに頷く。
「なら同胞ではないか!」
「おう!」
「歓迎しよう!」
「そうそう、それでいいんだよ」
やっと理解したかと機嫌を直した、その直後だった。
「我らの方が直属だがな!」
「…………あ?」
空気が止まった。ハンスはゆっくりと声のした方へ顔を向ける。
「待て。今、なんつった?」
「我ら紅魔族は魔王様直属の民だ」
「俺達だって直属だよ!」
「いや、貴様らは軍であろう?」
「だから何だ!」
「我らは民だ。つまり、より魔王様に近い」
「どういう理屈だよ!」
ハンスの怒声が里中へ響いた。
「何で昨日まで敵だったお前らに、今日になって俺達が下扱いされてんだ!」
「下などとは言っていない」
「言ってんのと同じだろ!」
「落ち着け。客人に失礼だぞ」
その声と共に人垣が割れた。奥から歩いてきたのは、紅魔族の族長であるひろぽんだった。
「おお!魔王軍からの使者か!」
「お前が族長か」
「如何にも!」
「ちょうどいい。話が早ぇ」
ハンスは懐へ手を入れ、一枚の書状を取り出した。
「お前らが魔王様への臣従を申し出たって話は聞いてる。俺はその確認と、正式に魔王軍へ編入するために来た」
「編入?」
「ああ」
「断る」
ハンスの動きが止まった。
「今、なんつった?」
「断る」
「何でだよ!」
「我らは魔王様の民であって、魔王軍の傘下ではない」
「同じだろうが!」
「「「違う!」」」
「何で全員そこだけ息ぴったりなんだよ!」
額に青筋を浮かべるハンスとは対照的に、ひろぽんは心底不思議そうに首を傾げている。
「そもそも、我らは魔王様直々に民として認めていただいたのだ。今更、魔王軍へ入る必要がどこにある?」
「魔王様直々に?」
「ああ」
「……魔王様が、ここに来たのか?」
「何を今更」
ひろぽんは呆れたように振り返った。
「今もいらっしゃるぞ」
「…………は?」
ハンスの目が見開かれた。
それならば話が違う。魔王本人がこの里へ赴き、紅魔族を直接傘下へ収めたというのか。
いや、そんな報告は受けていない。もし本当なら、そもそも自分が確認役として派遣された意味すら分からないではないか。
「どこだ」
「中央広場だ」
「案内しろ」
「よかろう!」
そして数分後。
ハンスは今日何度目かも分からない沈黙を味わっていた。
中央広場。その中央に置かれた、漆黒の玉座。そこへ腰掛ける一人の男。
純白の狩衣に、床へ届かんばかりの漆黒の長髪。側頭部からは人ならざる角が伸び、背には黒い翼が折り畳まれている。
片手には扇子。
そしてその隣では、紅魔族の少女が慣れた手つきで茶を淹れていた。
「はい、魔王様」
「うむ」
「今日はちょっと熱めですよ」
「構わぬ」
「お菓子もありますからね」
「殊勝」
「はいはい」
「…………」
ハンスは瞬きをした。
もう一度。さらにもう一度。何度見ても、知らない。
「…………誰だ、こいつ」
広場の空気が凍った。紅い光がハンスを四方から照らす。
「無礼者!」
「魔王様に向かって何という口を!」
「今すぐ詫びろ!」
「うるせぇ!」
四方から飛んでくる怒声を、ハンスはさらに大きな声で跳ね返した。
「俺が知ってる魔王様は、こんな奴じゃねぇ!」
「こんな奴とはなんじゃ」
そこで初めて、玉座の男がハンスへ視線を向けた。
「…………」
ただ見られただけだった。威圧されたわけでもない。魔力を叩きつけられたわけでもない。
それなのに、ハンスの身体が本能的に強張った。
「名乗ることを許す、申せ」
「……俺はデッドリーポイズンスライム、ハンス。魔王軍幹部だ」
「魔王軍」
魔王の眉がほんの少し動いた。
「またそれか」
「またって何だ」
「この世界には、我以外にも魔王を称する者がおるそうじゃの」
「称するじゃねぇ」
ハンスの声が自然と低くなる。
「あのお方こそ、俺達の魔王様だ」
「そうか、好きにせよ」
「……は?」
拍子抜けした。もっと怒るものだと思っていた。自ら魔王を名乗る者なら、同じ称号を持つ存在を認めない。そう考えていたからこそ、ハンスも多少なりとも身構えていたのだ。
だが、目の前の魔王は心底どうでもよさそうに茶器を傾けた。
「我は我」
静かな声だった。
「他者が何を名乗ろうと、それによって我が我であることが揺らぐわけでもない。王を名乗りたければ、好きに名乗ればよい」
「……随分余裕じゃねぇか」
「ただし」
茶器が置かれる。
小さなかちゃり、という音。
本当にそれだけだった。
それだけで、広場の空気が変わった。
「魔王を称するならば、魔王として在れ。己が民を守れ。敵を屠れ。己が名へ泥を塗るな」
ぱちり、と扇子が開かれる。
「その程度も出来ぬというならばーーー我が消す」
扇子の向こうで、魔王は薄く笑った。
「…………へっ」
暫くの静寂の後、ハンスが鼻で笑う。
「上等じゃねぇか」
「ハ、ハンスさん?」
魔王の隣からゆんゆんが不安そうに声を掛けるが、ハンスは止まらなかった。
「お前が何者か知らねぇ。どれだけ強ぇのかも知らねぇ………けどな」
拳を握る。
「俺が忠義を捧げてるのは、うちの魔王様だけだ!」
広場が静まり返った。
ひろぽんも、ゆんゆんも、周囲の紅魔族たちも。そして玉座の魔王だけがハンスを見つめて僅かに目を細め、ほんの少しだけ口元を歪めた。
「ほう?忠義を貫くか。悪くはない」
「だからなんだ!俺達の魔王様を消すだと?」
ハンスの身体がゆらりと揺らいだ。人の形を取っていた輪郭が崩れ、液状の肉体が一気に膨れ上がっていく。
「やれるもんならやってみろ!」
「ちょ、ちょっと!?」
ゆんゆんが慌てて後退った。
ハンスの肉体はなおも膨張する。
人の背丈を越え、家屋を越え、祭りのために組まれた舞台すら見下ろすほどの巨大な粘体へと姿を変えていく。
「デッドリーポイズンスライム……!」
誰かが息を呑んだ。
「我が名はハンス!」
巨大な身体の内側から、轟くような声が響く。
「魔王軍幹部にして、全身を猛毒で満たしたデッドリーポイズンスライムだ!」
「おお……!」
「巨大化したぞ!」
「なんという威圧感……!」
「ちょっと格好良い……!」
「めぐみん!?」
「少しだけです!」
「呑気に言ってる場合!?」
巨大な身体から毒液が一滴落ちる。
それが石畳へ触れた瞬間、白煙が上がり、じゅうと嫌な音を立てながら地面へ穴を穿った。
「全員下がって!」
紅魔族の一人が即座に杖を構える。
「触れただけで危険です!」
「魔王様!ここは我らが!」
周囲の紅魔族たちも続けて一斉に杖を掲げた。けれどーーー。
「退け」
その一言で、全員の動きが止まった。魔王は玉座へ腰掛けたまま、巨大化したハンスを見上げていた。
「我が目当てなのであろう?なぜ貴様らが相手取る」
「ですが!」
「二度も言わせるか?」
「……はっ!」
紅魔族たちは一斉に下がった。
ただ一人、ゆんゆんだけが心配そうにその場へ残る。
「魔王様!危ないですよ!」
「何がじゃ」
「何がって!」
その言葉を掻き消すように、ハンスの巨大な身体が大きく持ち上がった。
「舐めんなよ!」
やることは単純明快、その巨体で押し潰すだけ。家屋ほどもある巨大な質量にそして全身を満たす猛毒。普通の人間ならば、触れた瞬間に終わり、周囲の建物すら溶けて消える。
「死ねぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」
巨大な影が魔王を覆った。魔王はゆっくりと顔を上げる。そして、ほんの僅かに眉を寄せた。
「邪魔」
「ーーーあ?」
その瞬間、ハンスの周囲だけが歪んだ。
音はない、光もない、魔法陣すら現れない。
ただ、そこにある空間そのものが、見えない指で摘ままれたようにぐにゃりと捻じ曲がった。
「なーーー」
巨大だったハンスの身体が縮む。
「なんーーー」
家屋を越えていた巨体が見る見る小さくなり。
「だ、こーーー」
人よりも小さく。
「れぇぇぇぇぇーーー」
拳よりも小さく。
「ーーーぇぇ……!」
ころん、と。何かが石畳の上へ落ちた。
ゆんゆんが瞬きをする。ひろぽんも、めぐみんも、周囲にいた紅魔族たちも、全員が無言のまま足元へ視線を落とした。
そこには、小石ほどの大きさになったデッドリーポイズンスライムが、ぷるぷると震えていた。
「…………」
何か聞こえる。蚊の鳴くような、とても小さな声だった。
「……もどせぇぇぇぇぇ……」
ゆんゆんが恐る恐るしゃがみ込み、耳を傾ける。
「……もどせぇぇぇぇぇぇ……!」
「え⁉︎声まで小さくなってる!?」
どうやら身体だけではなく、声量まで等しく縮められてしまったらしい。
当の魔王はと言えば、足元で必死に自己主張を続けるハンスを一瞥しただけだった。
「ふん」
それ以上の興味はない。
そんな態度で視線を逸らすと、何事もなかったかのように茶器へ手を伸ばした。
「…………」
ゆんゆんは魔王と、小石ほどになったハンスを交互に見比べる。
「魔王様」
「なんじゃ」
「ハンスさん、戻してあげないんですか?」
「何故じゃ」
「何故って……」
そこで言葉に詰まった。
ハンスは敵だった。自分たちを襲い、猛毒を撒き散らし、魔王を押し潰そうとまでした。
どう考えても完全な被害者ではない。けれど、小石ほどの身体で必死に訴えている姿を見ると、どうにも哀れに思えてしまう。
「ほら、反省してるかもしれませんし……」
「してねぇぇぇぇぇ……!」
「あ、してないみたいです」
「殺すぞぉぉぉぉ……!」
「囀る気概はあるのう」
「そういう問題ですか!?」
ゆんゆんが頭を抱えた、その横からひろぽんが勢いよく身を乗り出した、
「魔王様!先ほどの御業!是非とも、この私めにお教えいただきたく!」
「嫌じゃ」
「即答!?」
「面倒」
「そこを何卒!」
「嫌じゃ」
「では術式だけでも!」
「知らぬ」
「知らないんですか!?」
ひろぽんが驚愕に目を見開く。
魔王は鬱陶しそうに扇子を弄びながら、さも当然のことのように答えた。
「我がそうあれと思えば、そうなる」
「…………」
沈黙。そして、ひろぽんの紅い瞳が、見る見るうちに輝きを増した。
「格好良い……!」
「お父さん!?」
「術式も詠唱も用いず、ただ御心のままに世界そのものを歪めるとは! 流石は魔王様!」
「そこまで分かって言ってる!?」
「では魔王様、先ほどの御業に名は!」
「ない」
「ならば我々で付けてもよろしいでしょうか!」
「好きにせよ」
「皆の者!緊急会議だ!」
「やらなくていい!」
ゆんゆんの叫びも虚しく、周囲の紅魔族たちは早くも真剣な面持ちで腕を組み始める。
「空間そのものを掌握した術……『極小世界』などどうだ!」
「いや、『天地縮界』!」
「『万象収束・零ノ獄』!」
「最後の人、絶対雰囲気だけで言ってるよね!?」
「……俺を戻す話はどうなったぁぁ……!」
ハンスの声は誰にも届かない。仮に届いていたとしても、今の紅魔族たちが聞く耳を持ったかは怪しかった。
そしてしばらく真剣な議論が続いたところで、ひろぽんが不意に手を打った。
「そうだ!」
「今度は何……?」
ゆんゆんの背筋を嫌な予感が走る。
ひろぽんは足元に転がる小さなハンスを見下ろし、何やら感慨深げに頷いた。
「このハンス、魔王様が自ら御力を振るわれ、この姿へ変えられたのだな」
「まぁ、そうだけど……」
「ならば、これは!魔王様自らがお作りくださった、我らが里の新たなる名物ということでは!?」
「違うよ!?」
「なるほど!」
「その発想はなかった!」
「乗らないで!」
一瞬にして紅魔族たちが盛り上がった。
「魔王領・紅魔郷への改名記念にも相応しい!」
「魔王様の御威光を直接示すことができる!」
「しかも生きている!」
「動く!」
「喋る!」
「名物として完璧ではないか!」
「ハンスさんを何だと思ってるの!?」
「魔王軍幹部」
「そこ分かってるならもっと丁重に扱って!」
「俺の意思を聞けぇぇぇぇぇ……!」
もちろん、誰も聞いていなかった。
紅魔族たちの目は、完全に新しい玩具を見つけた子供のそれである。
ゆんゆんは最後の望みを託し、魔王へ顔を向けた。
「魔王様からも何か言ってくださいよ!」
「川にでも流しておけ」
「もっと酷かった!」
「待てぇぇぇぇぇぇ……!」
小さなハンスが激しく震える。
今の言葉だけは、どうやらはっきり聞き取れたらしい。
ひろぽんがしゃがみ込んで耳を近づけた。
「む? 何か言っているな」
「戻せぇぇぇぇぇ……!」
「どう?」
「よく聞こえん」
「ちゃんと聞いてあげて!」
ひろぽんは少しだけ考えた末、勢いよく立ち上がった。
「まあ、よい!」
「よくない!」
「皆の者! 展示場所を決めるぞ!」
「「「おおっ!」」」
「俺の意思を聞けぇぇぇぇぇ……!」
こうして。
魔王軍幹部ハンス本人の意思など一切考慮されることなく、魔王領・紅魔郷に新たな名物が誕生することとなった。
◇◆◇◆
翌日。
ゆんゆんは里の中央通りで、遠い目をしていた。
里の入口から中央広場へ向かう、人通りの多い一角、昨日までは何もなかったその場所へ、妙に立派な台座が設置されている。
黒曜石を思わせる漆黒の石材に、金色の装飾。そして、その中央に置かれた透明な箱。
「……出せぇぇぇぇぇ……!」
中には、小石ほどのハンス。
台座の前には、無駄に達筆な文字で説明まで刻まれていた。
『魔王様御手ずから封ぜられし魔王軍幹部』
『猛毒魔獣デッドリーポイズンスライム・ハンス』
『魔王領・紅魔郷名物』
「本当にやったんだ……」
昨日の話し合いは、てっきり宴の勢いによる冗談だと思いたかったが、甘かったらしい。
ゆんゆんの隣では、ひろぽんが満足そうに腕を組んでいる。
「どうだ、この仕上がり」
「どうだじゃないよ」
「魔王様の御力で、空間から毒が漏れる心配もない!」
「そこまでして展示する必要ある!?」
「これなら子供でも安心して見られる!」
「安心して見せるものじゃないよ!」
その時だった。
「わぁ!」
背後から子供の声がした。振り返れば、数人の紅魔族の子供たちが目を輝かせながら駆け寄ってくる。
「これが昨日のスライム!?」
「ちっちゃーい!」
「本当に魔王軍幹部なの?」
「……てめぇらぁぁぁぁ……!」
「なんか言った!」
「動いてる!」
「かわいい!」
「かわいくねぇぇぇぇぇぇ……!」
ハンスが箱の中で激しく跳ねる。
だが、小さい。あまりにも小さい。
本人としては激怒しているのだろうが、外から見れば小さなスライムが箱の底でぴょこぴょこと飛び跳ねているだけだった。
「ねえねえ!」
一人の子供が透明な箱へ顔を近づける。
「デッドリーポイズンスライムなんでしょ?」
「……そうだぁぁぁ……!」
「ほんとに?でも小さいよ?」
「誰のせいだとぉぉぉぉ……!」
子供たちは互いに顔を見合わせた。
何やら目配せを交わし、一人がにやりと笑う。
「やーい!デッドリーポイズンスライム!」
「それただ俺の種族名だろうがぁぁぁぁぁ……!」
「デッドリーポイズンスライム(笑)!」
「なんで今(笑)付けやがったぁぁぁぁぁぁぁ!!」
もちろん、その声はほとんど聞こえていない。けれど怒っていることだけは、全身をぷるぷると震わせているので嫌でも伝わる。
「やーい、ちびスライム!」
「猛毒(笑)!」
「魔王軍幹部(笑)!」
「てめぇら全員覚えてろよぉぉぉぉぉ……!」
「こら!」
流石に見かねて、ゆんゆんが子供たちの間へ割って入った。
「皆、そんなこと言っちゃダメだよ!」
「「「はーい」」」
妙に素直な返事だった。子供たちは少し残念そうな顔をしながら、別の場所へ走っていく。
「まったくもう……」
ゆんゆんは小さく息を吐くと、その場へしゃがみ込み、透明な箱を覗いた。
「大丈夫ですか、ハンスさん?」
「この里でまともなのは、お前だけだぁぁぁぁ……!」
「何言ってるか分からないけど……」
聞き取れないので仕方がない。ゆんゆんは目を凝らし、改めて箱の中を覗き込んだ。
小さい。本当に小さい。
「こうして見ると、本当にちっちゃいですね」
「お前もかぁぁぁぁぁぁ!!」
ハンスが勢いよく跳ねた。
「あ、元気そう」
「元気じゃねぇぇぇぇぇ……!」
「何をしているんですか、ゆんゆん」
「え?」
聞き慣れた声に振り返る。
「あ、めぐみん」
そこには、いつもの黒いローブに身を包んだめぐみんが立っていた。
「噂の名物を見に来ました」
「もう噂になってるの!?」
「当然です。魔王様が魔王軍幹部を一瞬でこの姿へ変えたのですよ? 見ない理由がありません」
めぐみんは堂々と言い切ると、透明な箱の前へしゃがみ込んだ。箱の中のハンスと、紅い瞳が合う。
「…………」
しばらく、無言で見つめ合う。やがてめぐみんの口元が、ゆっくりと吊り上がった。
「おや?これはこれは、魔王軍幹部ハンス殿ではありませんか」
「……てめぇ……」
「随分と………小さくなられましたね」
「殺すぞぉぉぉぉ!!」
「すみません。声まで小さいもので。もう少し大きな声でお願いします」
「聞こえてんだろぉぉぉぉ!!」
めぐみんの口元がますます愉快そうに歪んでいく。
「めぐみん、絶対わざとでしょ」
「何のことでしょう」
「顔が楽しそうだよ」
「そんなことはありません」
そう言いながら、さらに箱へ顔を近づける。
「ハンス殿」
「なんだぁぁぁ……!」
「ひとつ、お聞きしても?ーーー今のお気持ちは?」
「ぶっ殺してやるぅぅぅぅぅ!!」
「なるほど、元気そうですね」
「めぐみん!」
「冗談です」
「絶対違う!」
「それにしても」
めぐみんは顎へ手を添え、まじまじとハンスを観察する。
「昨日はあれほど巨大だったというのに、今なら爆裂魔法の爆風だけで、遥か彼方まで飛んでいきそうですね」
「やってみろぉぉぉぉ!!」
「おお。気概だけはあります」
「煽らないで!」
「では」
めぐみんが立ち上がった。外套を翻し、いつものように妙に芝居がかった仕草で片手を掲げる。
「やーい、デッドリーポイズンスライム(笑)」
「めぐみぃぃぃぃぃぃん!!」
満足そうに胸を張るめぐみん。
ゆんゆんは頭を抱えた。
「子供と同じことしないでよ!」
「何を言いますか。私の方が煽りの完成度は上です」
「競わなくていい!」
「次は『魔王軍幹部(笑)』などもよろしいかと」
「やめてあげて!」
「いつか戻ったら絶対殺すからなぁぁぁぁぁ……!」
「その時は爆裂魔法で受けて立ちましょう」
「まだ使えないでしょう!?」
「いずれです!」
言いたいことだけ言い残し、めぐみんは満足そうに去っていった。その場へ残されたのは、ゆんゆんとハンスだけ。
「……大変ですね」
「誰の里だと思ってんだぁぁぁぁ……!」
「ご、ごめんなさい……」
何を言われたか正確には分からなかったが、何故か謝った方がいい気がした。
◇◆◇◆
三日後。
「魔王様」
「なんじゃ」
ゆんゆんの自宅。食卓の前には、いつものように漆黒の玉座がある。その上には、いつものように魔王。
いつの間にかそれらを「いつもの」と表現できる程度には見慣れてしまった自分に、ゆんゆんは若干の恐怖を覚えていた。
「どうぞ」
「うむ」
淹れたての茶を差し出すと、魔王は当然のように受け取り、一口飲んだ。
「悪くない」
「ありがとうございます」
もう、この程度では突っ込まない。
いちいち反応していては身が持たないということを、ゆんゆんはこの数日で嫌というほど学んでいた。自分の席へ座り、ふと一人の人物を思い出す。
「あの、魔王様。ちょっと聞きたいことがあるんですけど」
「申せ」
「ハンスさん」
魔王が茶器を置いた。僅かに眉を顰め、訝しげにゆんゆんを見つめる。
「誰じゃ?」
「え?」
「誰じゃと聞いておる」
「ハンスさんですよ!」
「知らぬ」
「忘れてる!?」
思わず椅子から立ち上がる。
「ほら!デッドリーポイズンスライム!魔王軍幹部の!巨大化して魔王様を襲おうとして!それを魔王様が『邪魔』って言って、こんな!」
親指と人差し指で小さな輪を作って見せる。
「こんなちっちゃくした人ですよ!」
「…………」
魔王は少しだけ目を細めた。
思い出そうとしている。少なくとも、ゆんゆんにはそう見えた。だから少し待った。そしてーーー
「知らぬ」
「本当に覚えてない!?」
「我が覚えておく必要がある者か?」
「少なくとも本人は絶対覚えててほしいと思いますよ!」
「知らぬ」
「うわぁ……」
ゆんゆんは力なく椅子へ腰を落とした。
最初は冗談なのかと思った。こちらをからかっているのかもしれないとも考えた。
だが、どうやら違う。魔王は本当に興味がなさそうに、皿の上に置かれた菓子へ手を伸ばしている。
「……あ、本当に覚えてない」
ぽつりと呟いた。
その頃、里の中央通りでは。
「やーい! デッドリーポイズンスライム(笑)!」
「魔王軍幹部(笑)!」
「ちびスライムー!」
「てめぇら覚えてろよぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
魔王軍幹部ハンスの小さな叫びが、今日も誰にも届くことなく、虚しく透明な箱の中へ響いていた。
なお、自分をこの姿にした張本人から存在そのものを忘れられていることを、ハンスはまだ知らない。