めぐみんが念願の爆裂魔法を習得してから、数日が経った。
それを境に、魔王領・紅魔郷では一つの怪現象が話題になり始めていた。
「エクスプロージョン!」
夜の山間を切り裂くように、少女の声が響き渡る。
直後、遠く離れた山肌が白く染まった。遅れて轟音が押し寄せ、大地が僅かに揺れる。天へ向かって立ち昇った爆炎は夜空すら赤く染め上げ、やがて巨大な煙となって風に流されていった。
そして翌朝。
「昨夜も出たらしいぞ」
「ああ、謎の爆発だろう?」
「これで三日連続か……」
「もしや、魔王様より我らへ何らかの啓示が?」
「どう考えても違うよ!」
学校へ向かう道すがら、真剣な顔で語り合っていた紅魔族たちへ、ゆんゆんは思わず大声で突っ込んだ。
そんな彼女の隣では、めぐみんが何食わぬ顔で歩いている。
「何をそんなに騒いでいるのですか」
「………めぐみん。昨日の夜、森の方へ行ったよね」
「散歩です」
「杖持ってたよね」
「紅魔族の魔法使いが杖を携帯して歩く。それの何がおかしいのです?」
「その直後に爆発したよね」
「偶然でしょう」
「三日連続で!?」
「世の中には不思議なこともあるものです」
微塵も悪びれることなく言い切るめぐみんに、ゆんゆんはじっとりとした視線を向けた。
「じゃあ今日、魔王様に聞くね」
「…………」
めぐみんの足が止まった。
「何故そこで魔王様が出てくるのですか」
「だって魔王様なら知ってそうだし」
「人へ疑いを向けるのは良くありませんよ、ゆんゆん」
「さっきまで全然動揺してなかったのに!」
「私はいつでも平静です!」
「じゃあ聞いていいんだよね?」
「…………」
数秒の沈黙の後、めぐみんはどこか責めるような目でゆんゆんを見た。
「……友人を売るような真似は感心しませんよ」
「やっぱり犯人なんだね!?」
爆裂魔法を習得したことで、どうやら里には新たな頭痛の種が生まれたらしい。
もっとも、頭を悩ませているのはゆんゆんくらいのもので、当の本人には別の悩みがあった。
◇◆◇◆
「また不採用でした……」
その日の夕刻。
ゆんゆんの家の食卓へ突っ伏しためぐみんは、朝までの威勢が嘘のように深々と項垂れていた。
対面では、いつものように漆黒の玉座へ腰掛けた魔王が、里の菓子屋から献上された焼き菓子を優雅に摘んでいる。
「また?」
「またです」
「今日は何処へ行ったの?」
「道具屋です」
「何て言われたの?」
「『店内で爆裂魔法を撃たれたら困る』と」
「普通だね」
「失礼な!」
「面倒なものよのう」
菓子を齧りながら、魔王がさして興味もなさそうに口を挟んだ。
「何故雇われぬ」
「爆裂魔法しか使えないからです!」
「ならば当然であろう。雑貨を売るのに爆裂は要るまい」
「その通りだけど!」
思わずゆんゆんまで同意すると、めぐみんは勢いよく顔を上げた。
「ゆんゆんはどちらの味方なのですか!」
「常識の味方だよ!」
むっと頬を膨らませためぐみんは、椅子へ座り直しながら大きく息を吐いた。
「私は旅費を稼がなければならないのです」
「旅費?」
それまで菓子にしか興味を向けていなかった魔王が、僅かに視線を上げる。
「はい。この里を出て、まずはアルカンレティアへ。その後はいずれアクセルという街へ向かうつもりです」
「何故じゃ」
「冒険者になるためです!」
めぐみんは胸を張った。
「そして、私の爆裂魔法を世界へ轟かせるのです!」
「そっちが本音でしょう!?」
「どちらも本音です!」
自信満々に言い切るめぐみんを、魔王は扇子越しに暫し眺めた。
「好きにせよ」
「そのためにはお金が必要なのです!」
「知らぬ」
「もう少し応援してくれてもいいではありませんか!」
「何故我が貴様の金策を心配せねばならぬ」
「薄情です!」
めぐみんが机へ身を乗り出すが、魔王はどこ吹く風で茶器へ手を伸ばした。
「そもそも、夜な夜な山を吹き飛ばしておる暇があるなら働けばよかろう」
めぐみんの動きが止まった。
ゆんゆんも一瞬固まり、やがてゆっくりと隣へ顔を向ける。
「やっぱりめぐみんじゃん!」
「魔王様ぁぁぁぁぁ!?」
「事実であろう」
「こういう時だけ律儀に答えないでください!」
「我に指図するか?」
「すみません!」
めぐみんは即座に頭を下げた。
その切り替えの早さに、ゆんゆんは呆れながら額を押さえる。
「もう……夜中に撃つのやめなよ」
「爆裂魔法を覚えたのですよ?撃たずにいられると思いますか?」
「思わないけど!」
「なら仕方ありません」
「仕方なくないよ!」
「小娘、茶」
「今淹れますよ!」
すっかり日常となったやり取りの最中、開け放たれた扉の向こうから、小さな影がひょこりと姿を現した。
「にゃ」
「あ」
めぐみんの足元へ擦り寄ってきたのは、黒い毛並みに小さな翼を持つ猫だった。
「ちょむすけ!」
先ほどまで不採用を嘆いていたとは思えないほど、めぐみんの顔が明るくなる。
「何処へ行っていたのですか!」
「にゃあ」
「この子がちょむすけ?」
ゆんゆんがしゃがみ込むと、めぐみんは得意げにその黒猫を抱き上げた。
「はい!私の使い魔です!」
「いつ使い魔になったの?」
「今です」
「今!?」
「細かいことは良いのです」
さらりと言い切ると、めぐみんは腕の中のちょむすけを撫でながら、ふと魔王へ視線を向けた。
「そういえば、魔王様にはまだちょむすけをちゃんと紹介していませんでしたね」
その言葉を聞いた瞬間だった。めぐみんの腕の中で、ちょむすけの身体が不自然なほど強張った。
「にゃ……」
「?」
黒猫の瞳が、玉座に座る魔王へ向けられる。一目でわかる異形の存在。それが扇子の奥から静かにこちらを覗いていた。
「にゃっ!」
「こ、こら!」
突然ちょむすけが暴れ始めた。めぐみんの腕から滑り落ちると床へ着地し、そのまま彼女のローブの裾へ勢いよく潜り込む。
「ちょっ!?何処へ行くのですか!出てきなさい!」
めぐみんは慌ててローブの中へ手を突っ込むが、ちょむすけは奥へ奥へと逃げていく。
「何故そんなに嫌がるのですか!」
「別に構わぬ」
「魔王様も少しくらい興味を持ってください!」
しばらく格闘した末、ようやくめぐみんはちょむすけを引っ張り出した。
「ほら、ちょむすけ! こちらがーーー」
その顔が再び魔王へ向いた瞬間。
「にゃっ!?」
黒猫はまたしてもローブの奥へ消えた。
「ちょむすけぇ!」
ゆんゆんは、めぐみんのローブの中で震える小さな膨らみと、何事もなかったように菓子を摘んでいる魔王とを交互に見た。
「魔王様、何かしたんですか?」
「何も」
「ですよね……」
「ふむ」
魔王の瞳が僅かに細められる。
その瞬間、ローブの中で動いていたちょむすけが、ぴたりと静止した。
「どうかしたんですか?」
「別に」
「絶対何かある!」
「小娘、茶」
「答えてくれないやつだぁ……」
肩を落としながら、ゆんゆんは茶器を手に取った。
一方めぐみんは、未だローブの中へ手を突っ込んだまま、
「魔王様に失礼ですよ、ちょむすけ!」
「にゃあ……!」
などと見当違いの説教を続けていた。
◇◆◇◆
その翌日。
紅魔郷を遠く望む小高い丘の上で、一人の女が深刻な表情を浮かべていた。
褐色の肌に長い髪。人目を引く露出の多い装束を纏い、外見だけを見れば妖艶な美女と呼ぶべきだろう。
名を、アーネスという。
「どうするべきかしら……」
彼女の目的は、眼下に広がる紅魔郷の中にある。
否、正確にはそこにいる。
長きに渡って捜し求めてきた存在。
偉大なる自分たちの主人。
その御方が、どういうわけか紅魔族の少女に猫として飼われているというのだ。
本来ならば迷う必要などない。
迎えに行き、連れ帰る。
ただそれだけのことだった。
しかし、アーネスの脳裏へ、一人の悪魔の姿が浮かぶ。
白い仮面。
耳障りなほど陽気な笑い声。
他人の不幸や悪感情を飯の種にする、地獄の公爵。
『近付くのは構わぬ』
数日前、この里へ向かうと伝えた際、バニルは珍しく笑わずにそう告げた。
『会話するのもよかろう。商売をするならば、菓子でも持って行けば機嫌も良くなる』
『何よ。それなら大したことないじゃない』
『ただし、覗くな』
そこで、あのバニルが真顔になった。
『見通そうとするな。試すな。敵意を向けるな。余計なことはせず、用だけ済ませて帰ってくるがよい』
「……あのバニルがよ?」
どう考えても怪しい。
危険なものを見つければ面白がり、他人を焚き付けて悪感情を味わおうとするのが、あの悪魔である。
そのバニルが、近付くなとは言わないまでも、余計なことはするなと念を押してきた。
「何があったのよ……」
詳しく聞こうとしても、世には知らぬ方が幸せなこともあるなどと、らしくもないことを言う始末。
「絶対何かあるじゃない……」
とはいえ、だからといって引き返すわけにもいかない。
「でも、我が主を迎えに行かないわけにも……」
アーネスは腕を組み、慎重に考えた。
真正面から近付かず、まずは遠くから様子を窺う。
魔力を抑え、気配を消す。敵意も向けない。ただ確認するだけ。
「それなら問題ないでしょう」
「不躾に覗くな。不敬であるぞ」
「そうそう、向こうに気付かれないようにーーー」
不意に横から聞こえた声に、言葉が止まった。嘘であることを自らの主に祈りつつ、アーネスはゆっくりと、本当にゆっくりと首を横へ向けた。
そして、期待を裏切るかのようにそこに在った。
純白の狩衣、床へ届かんばかりの漆黒の長髪、側頭部より伸びる角、背に折り畳まれた黒羽。そして片手に扇子を持つ、噂通りの男。
何故か、すぐ隣に。
「なんか横にいるぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅっ!?」
「やかましい」
「いつから!? いつからそこにいたのよ!?」
「我が歩いた先に貴様がおっただけのことよ」
「絶対そういう問題じゃないわよ!」
思わず飛び退き、反射的に戦闘態勢へ入りかける。だがその瞬間、バニルの警告が脳裏を過った。
アーネスは即座に力を抜き、両手を上げる。
「あ、あの!私は敵対するつもりはありません!」
「見ればわかる」
何を言われたか一瞬理解できず、アーネスが瞬きをする。
「見れば?」
「うむ」
魔王は扇子越しに彼女を感情のない視線で眺めた。
「ほう?あの黒猫を欲しておるのか」
「なんでそこまで分かるの!?」
「見ればわかる」
「言葉通りだったの!?」
アーネスは思わず声を荒らげた。
「ちょっと待って!私、まだ一言もあの御方について話してないわよ!」
「随分と慕っておるようじゃの」
「そこまで!?」
「何ぞ不思議か」
「不思議しかないわよ!」
背筋へ冷たい汗が流れる。
思考を読まれているのか、記憶を覗かれているのか、何らかの魔法なのか。
だが、どうにも違う。目の前の存在は、本当に何もしていない。
ただ見ている。本当にそれだけだった。
バニルの忠告が、急激に現実味を帯びる。
「行くぞ」
「え?」
「黒猫へ用があるのであろう」
「あ、ちょっと!」
魔王は既に紅魔郷へ向かって歩き始めていた。
「待ちなさいよ!」
「遅い」
「誰のせいで混乱してると思ってるの!?」
結局、アーネスは慌ててその後を追うこととなった。
◇◆◇◆
「魔王様、お帰りなさーーー」
ゆんゆんの声が途中で止まった。
帰ってきた魔王の隣に、見知らぬ女性が立っていたからだ。
「……どちら様ですか?」
「知らぬ」
「一緒に来たのに!?」
「勝手についてきた」
「案内したでしょうが!」
アーネスが即座に突っ込んだ。
「あ、あの……」
「アーネスよ」
「どうも……」
ひとまずゆんゆんも頭を下げる。
「それで、何の用で?」
「ある方を迎えにーーー」
「魔王様!」
そこで玄関から元気な声が響いた。遠慮なく開かれた扉から顔を出すのはめぐみんだ。
「今日こそ仕事を見つけてきました!」
「本当!?」
「いえ、不採用でした!」
「じゃあ何でそんな言い方したの!?」
「気持ちの問題です!」
堂々と胸を張る。
その足元から、小さな黒猫が顔を出した。
「にゃっ」
「…………!」
アーネスの瞳が大きく見開かれる。
「我がーーー!」
叫びかけた、その瞬間。ちょむすけが魔王を見た。
「にゃっ!?」
即座にめぐみんのローブの中へ潜り込む。
「またですか!こら、ちょむすけ!出てきなさい!」
「にゃあ!」
「魔王様に失礼でしょう!」
「構わぬ」
「魔王様が甘やかすからです!」
「知らぬわ」
めぐみんは何も分かっていない。
だが、アーネスには分かった。
違う、あれは魔王を嫌っているのではない。
「……我が主が」
自分たちが長年捜し求めていた存在。崇め、迎えに来たその御方が、怯えている。
「…………嘘でしょ」
「何がです?」
「いえ……」
アーネスはゆっくり魔王へ視線を向けた。
当人はもうこちらに興味を失ったように玉座へ腰掛け、菓子へ手を伸ばしている。
「……ねえ。まさか、あの子が何者なのかも?」
「知らぬ、どうでもよい」
即答だった。
「小娘、茶」
「また答えないやつだ!」
ゆんゆんが肩を落とした。
そしてアーネスへ、少し申し訳なさそうな目を向ける。
「あの、こうなったら何も教えてくれませんので、諦めた方がいいですよ」
アーネスはゆんゆんを見る。そこに同情が含まれているのは気のせいではないだろう。
「いつもこうなの?」
「大体こうです」
「聞いても?」
「答えてくれる時は答えてくれます」
「答えてくれない時は?」
「お茶を要求されます」
「今まさにそれね……」
「はい……」
しばしの沈黙。
「…………苦労してるわね、アナタ」
「言わないでくださいぃ……」
「聞こえておるぞ」
「「ひっ!?」」
二人揃って肩を跳ねさせた。そして互いに顔を見合わせる。ゆんゆんの表情に、どこか同族を見つけたような歓喜があるのは気のせいではないだろう。
「……ですよね!この反応が普通ですよね!」
「本当に苦労してるわね……」
「小娘」
「今淹れてます!」
アーネスは何とも言えない顔になった。
恐ろしい。間違いなく恐ろしい。
なのに、何故こんなにも生活感があるのだろう。
そんな二人の間へ、めぐみんがずいと割り込んできた。
「ところで、先ほどから何なのですか?ちょむすけを見て、我が主だの何だのと………ちょむすけに何か用が?」
アーネスは僅かに迷った。
魔王を見る。菓子を食べており、こちらへの興味は完全に失われている。
「……そうね」
ならば、当初の目的を果たすだけだ。
「単刀直入に言うわ。その猫を、私に譲って」
「嫌です」
「即答!?」
「ちょむすけは私の使い魔です」
「そこを何とか‼︎」
「絶対嫌です‼︎」
アーネスは額を押さえた。
「とにかく、返してほしいの」
「何度でもいいますよ。嫌です。ちょむすけと私は既に固い絆でーーー」
「お金なら払うわ」
「いくらです?」
「めぐみん!?」
今度はゆんゆんが叫んだ。
「何ですか。私は現在、旅費が必要なのです」
「ちょむすけ売るの!?」
「金額次第です」
「にゃあ!?」
ローブの中から抗議するような声が上がる。
「安心してください。安売りはしません」
「そういう問題じゃないよ!」
「三十万」
「…………」
アーネスが告げた。
「三十万エリス」
「…………」
めぐみんの紅い瞳が輝く。三十万は間違いなく大金。旅費に宿代、食費を合わせても多少のお釣りは出てくる。
「めぐみん、顔が怖いよ⁉︎」
「にゃあああ!」
「落ち着きなさい、ちょむすけ!まだ売るとは言っていません!」
「まだ!?」
「三十五万なら………」
「値上げした!?」
「三十万!」
「四十万!」
「何でさらに上がったのよ!」
「商談ですから」
「その自信は何処から来るの!?」
しばらくの押し問答の末、結局アーネスは三十万エリスを提示したまま一歩も退かず、めぐみんもまた悩みに悩んだ末、その金額で一応の了承を示した。
「仕方ありませんね」
「売るの!?」
「明日、引き渡します」
「にゃああああああ!」
「ちょむすけが泣いてるよ!」
「大丈夫です。世の中には別れというものがあります」
「お金に負けたんでしょう!?」
アーネスはようやく安堵の息を吐いた。
「では明日」
「はい」
「約束よ」
その言葉を口にした瞬間、アーネスの笑顔が僅かに引き攣った。
「…………約束」
「どうしました?」
「いえ……最近、その言葉にはちょっと嫌な思い出があって……」
「?」
「何でもないわ」
翌日、その嫌な予感は見事なまでに的中することとなる。
◇◆◇◆
「嫌ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
アーネスが紅魔郷の通りを全力で走っていた。
「待てぇぇぇぇぇ!」
「止まれ、悪魔ぁぁぁぁ!」
「夜な夜な爆発を起こしていたのは貴様かぁぁぁ!」
「私じゃないわよぉぉぉぉぉぉぉ!」
背後から追いかけてくる紅魔族たちを振り返り、アーネスは心の底から叫んだ。
何故こうなった。
ほんの少し前までは、全て順調だったはずなのだ。
◇◆◇◆
「では、約束通り三十万エリス」
「確かに」
差し出された革袋を受け取り、めぐみんは中身を確かめた。
「めぐみん、本当に売るの……?」
「人聞きの悪い。正式な商取引です」
「にゃああああ!」
「暴れないでください、ちょむすけ!」
「嫌がってるよ!」
「別れが辛いのでしょう」
「絶対違うよ!」
「では、その子を」
アーネスが両手を差し出す。
「我が主。ようやくお迎えにーーー」
「にゃああああああ!」
「ちょっ!?」
ちょむすけが猛烈に暴れた。
めぐみんの腕へしがみつき、アーネスが手を伸ばせば引っ掻き、飛び退き、再びローブの奥へ潜り込む。
「我が主!私です!アーネスです!」
「にゃあ!」
「何故逃げるのですか!」
「嫌われているのでは?」
「そんなはずないでしょう!」
必死になるあまり、アーネスの魔力が僅かに漏れた。
「……む?」
そこへ通り掛かったぶっころりーが足を止めた。
「この魔力………貴様、悪魔か?」
「悪魔だと!?」
「魔王領・紅魔郷へ何用だ!」
「待ちなさい!私は敵対するつもりなど………」
ぞろぞろと集まってくる男たち。なんとか誤魔化そうとするアーネスの顔から、さっと血の気が引いた。
「男がいっぱい……」
脳裏を駆け巡るのは騙されたり、約束を破られたり、変な男に付きまとわれたりと、散々な目に遭った記憶。無意識のうちに腕輪を擦る。
「うわぁぁぁぁぁ!ダメ男の気配がするぅぅぅぅ!」
「誰がダメ男だ!」
「失礼な悪魔め!」
「来ないでぇぇぇぇ!」
「そうです!」
その瞬間だった。めぐみんがびしりとアーネスを指差したのは。
「最近、夜な夜な里の近くで発生していた謎の爆発!犯人はきっとこの悪魔です!」
「知らないわよ、そんなの‼︎」
「何だと!」
「やはり敵か!追え!」
「何で信じるのよぉぉぉぉぉぉ!」
そして現在。
「嫌ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
アーネスは紅魔郷の通りを、全力で逃げ回っていた。しかし、やはり身体能力は高いのだろう。あっという間に里の出口が見えてくる。
「ここを出れば!」
目的の出口はあと少し。目的は達成できなかったが、生きていれば機会は訪れるはず。そんな期待を込め、紅魔郷の外へと全力で駆け抜ける。
そして次の瞬間、視界が切り替わった。
「…………は?」
そこは、中央広場だった。目の前には漆黒の玉座があり、その上で魔王が悠々と茶を飲んでいる。
「ふむ………」
「何でぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!?」
アーネスの絶叫が響き渡る。
「逃げたはずなのに何でここに戻ってるのよ!何したのよ⁉︎」
「何も?」
「絶対嘘でしょ!」
詰めようとするアーネスに一瞥もくれず、魔王は何でもないことのように菓子を摘んだ。
「背後はよいのか?」
「え?」
魔王に言われ背後を振り向けば、アーネスの存在に気づいた紅魔族が迫っていた。
「いたぞぉぉぉぉ!」
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
嫌な記憶が蘇り、そしてまた走りだす。その背中を見送りながら、ゆんゆんが叫んだ。
「魔王様!何かしてますよね⁉︎」
「はん、多少空間をいじっただけよ」
「そんなちょっと散歩みたいなノリで⁉︎」
その間にも、アーネスは別の出口を目指していた。
「今度こそ!」
角を曲がり、通りを抜け、今度こそ里の外へ出た、そのはずだった。けれど、目の前に広がるのはまた中央広場。
玉座に座る魔王と、その横で頭を抱えるゆんゆんがいる。
「またここぉぉぉぉぉぉぉぉ!?」
「クハ」
蹲るよりも早く、再び走り出したアーネスの姿を眺め、魔王は薄く笑う。いつもと違うその笑みが、ゆんゆんは本当に怖かった。
そしてそれが三周、四周と続き、その度に魔王はアーネスを観察する。扇子を開き口元を隠しているが、どう見てもその口元は歪んでいる。
「あの、魔王様………?」
「クハ………なるほど」
「何がなるほど、なんですか?教えてください。ねぇ、本当に教えてください!魔王様⁉︎魔王様ァ‼︎」
ゆんゆんの叫びはさておいて、再び現れたアーネスの足取りが目に見えてふらつき始めた。息も絶え絶えになりながら、目には涙を浮かべている。
「もう、何なのよぉおお‼︎ 主は帰ってこないし、ここからは出られないし‼︎ 何よ‼︎これ以上私をどうしたいのよ‼︎ もういやなの‼︎ 逃げ回るのも、なんかダメ男の気配がするアイツらに追いかけ回されるのも‼︎ もういやぁあああ‼︎」
ついには魔王に懇願するように泣き崩れるアーネス。不憫に思いながら、ゆんゆんはちらりと魔王に視線を向ける。
先ほどまでの笑みはどこへやら、扇子が歪んでないかのチェックをするだけの魔王。既にアーネスへの興味など失っているようだ。
「あ、あの、魔王様………」
「ん?なんぞ、まだおったのか」
「アンタが出してくれないんでしょぉおおお‼︎」
「もうよい。好きにせよ」
「………へ?」
魔王はそちらを一瞥することなく、扇子を開く。魔王の言葉の真偽はわからない。しかし、今は藁にも縋る気持ちで、最後の力を振り絞って走り出す。
背後から紅魔族たちの叫びが聞こえる。それに焦燥を覚えながらも、アーネスは里の外へと一歩踏み出す。
景色は、変わらない。
ようやく脱出できたことに安堵の涙を溢しながら、アーネスは更に脚を進める。
「あは、あはははは!自由!自由よ!」
「アーネスさん!三十万エリス、ありがとうございました!」
「どういたしましてー‼︎‼︎」
晴れやかな心で背後から聞こえた声に返答を。一歩足を進めるたびに景色が変わることのなんと素晴らしいことか。
まるでスキップでもするかのように姿を消すアーネス。目的の事など、既に頭にないのであった。
しばしそちらへ憐れみの視線を向けたゆんゆんは、ちらりと隣のめぐみんを見る。
「お金、返さないの?」
「既に受け取りました」
「ちょむすけ渡してないよね!?」
「向こうが勝手に帰ったのです」
「その理屈通る!?」
「商談とは厳しいものなのです」
「そんな話なのかなぁ⁉︎」
そんなやり取りの横で、めぐみんのローブからちょむすけが恐る恐る顔を出した。
「にゃ」
周囲を見渡し、そして魔王へと視線を向けると、再び引っ込んだ。
魔王はそれを気にするまでもなく、先ほどのアーネスの姿を思い出す。
「ふむ、存外悪くない」
「何がです⁉︎ 魔王様、私嫌な予感しかしないんですけど⁉︎ 答えてくださいよ、魔王様ぁあああ‼︎‼︎」
夕暮れの紅魔郷へ、今日もまた騒がしい声が響き渡った。
◇◆◇◆
その日の夜。
魔王城の長い廊下を、一人の女が重い足取りで歩いていた。髪は乱れ、服には土埃が付き、顔には隠しようもない疲労が浮かんでいる。
「…………最悪だったわ」
アーネスは力なく呟いた。今日は厄日であると、頭の中で先ほどまでの出来事がリプレイされる。
なにせ、主は連れ帰れなかった。三十万エリスは取られた。紅魔族の男たちには追い回された。自分ではない爆発の罪まで着せられた。
挙げ句の果てには、あの魔王に付き合わされて延々と里の中を逃げ回ることに。
解放された喜びで主のことを忘れていたのは、今思い返しても恥ずかしい。
「おお、これはこれは」
そんな彼女の前へ、今一番会いたくない相手が現れた。
白い仮面、愉快そうな声、地獄の公爵の一人、バニルである。
「随分と良い顔をしておるではないか。疲労、苛立ち、羞恥、理不尽への怒り、そして…………僅かな絶望」
仮面が楽しげに歪む。
「ふむ。中々に芳醇」
「アンタねぇ……!」
普段であれば避ける所だが、虫の居どころの悪いアーネスは勢いよく詰め寄った。
「何なのよ、あれ!何で遠くから見てただけで横にいるのよ!何で何も言ってないのに目的まで見抜くのよ!何で逃げても逃げても同じ場所に戻されるのよ!」
「ふはははは!」
「笑うな!」
「いやはや、吾輩も最初は驚いたものだ」
「だったらもっと詳しく言いなさいよ!」
「言っても信じぬであろう?現に今、吾輩が伝えた以上に酷い目に遭ったという顔をしておる」
「殺すわよ」
「おお、美味」
「食うな!」
ひとしきり笑った後、バニルはふと思い出したように首を傾げた。
「それで?主は連れ帰れたのか?」
アーネスの口が結ばれる。それだけで察したのだろう、バニルの口が歪んだ。
「ふはっ、ふははははははははは!」
バニルは腹を抱えて大笑いした。
「実に見事!これほど無様な帰還は久方ぶりに見たぞ!」
「誰の忠告が足りなかったと思ってんのよ!」
「吾輩はきちんと忠告した」
「もっと具体的に言いなさいよ!」
「『逃げても空間を曲げられて里へ戻されるかもしれぬ』など、吾輩にも予想できぬわ!」
「せめて『向こうが飽きるまで出られない可能性がある』くらい言って!」
「理不尽であるな!」
「アンタが言うな!」
「いやはや」
バニルは仮面の顎へ手を当てた。
「ハンスに続き、アーネスまで」
「…………?」
アーネスの眉が動く。
「ハンス?」
今度はバニルが止まった。
「今、ハンスって言った?」
「知らぬな」
「言ったわよね!?」
「気のせいであろう」
「アンタ、ハンスが何処にいるか知ってるの!?」
「知らぬ」
「絶対知ってる顔じゃない!」
「吾輩の顔は仮面である」
「そういう意味じゃないわよ!」
「ふはははは!」
アーネスは深々と額を押さえた。本当に、今日は最悪の日だ。
「もう、二度と!そう、二度とよ!あの魔王とは関わらない!」
「ふはははは!中々の怒りと羞恥の感情、美味である!」
「だから食うなぁあああ‼︎」
その夜、魔王城の一角では遅くまで一人の悪魔の怒声と、もう一人の悪魔の高笑いが響き続けた。
そしてその頃、遠く離れた魔王領・紅魔郷では。
「やーい、有毒中年ぷるぷる生物!」
「誰か俺を思い出せぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」
魔王軍幹部ハンスが、今日も元気に展示されていた。