手からあれを出したい。〜三十年、風呂場で構え続けた男の話〜 作:やっくん。
「猛虎――黒炎――波――ッ!」
どぉぉぉぉん――――!
黒い柱が垂直に立った。
夜空に穴が開いたように見えた。雲を貫き、その上の雲も貫き、光の柱はどこまでも昇っていく。
空が明るくなる。まるで夜が昼になったように。
林も、田んぼも、遠くの山の稜線までが白く照らし出されて――そしてすぐに、また暗くなった。
遅れて、腹に響く重低音が降ってくる。
どこか遠くで、犬が一斉に吠えはじめた。
ペタン――
スズカと呼ばれている女性は、装束のまま土の上に膝をついた。
「こんなの、勝てるはずない……」
その声には悔しさよりも呆れが混じっている気がした。
わかる。俺も自分で撃っておいて呆れている。
両手がまだ痺れていた。指先が震えている。腕の付け根の感覚がない。
でも出た、出たぞ。三十年近く、風呂場でやってたあれが。
「すげぇじゃねぇか! こりゃマジで優勝できんぞっ!」
ローラが俺の肩の高さまで降りてきて耳元で叫んできた。
うるさい。余韻に浸らせろ。
でも……今だけは許してやるか。
◇
俺は咳払いを一つした。
髪の色が戻っていくのがわかる。指先の痺れが少し引いて、腹の底の炉が静かになっていく。
同時に冷静になって、今の状況を思い出す。
ここが会社の裏の林であること。今が金曜の夜であること。明日も土曜出勤ではないが、月曜には営業が四件入っていること。
そして、目の前に膝をついた女性がいること。
うん……気まずい。
俺は膝をついたままの彼女のほうへ歩み寄って、手を差し出した。
「あの……立てますか」
スズカが顔を上げ、布の上の目が大きく見開かれる。
差し出された手と俺の顔を交互に見ている。
「……」
「あと、さっきの話なんですけど」
俺は続けた。
「俺、本当に必殺技の練習をしに来ただけなんで」
「……敵情視察、じゃないの? 候補者を減らす目的でもない?」
「はい」
「……」
スズカが黙り込んだ。
そして、ゆっくりと俺の後ろを見た。
俺も釣られて振り返る。
ローラがすっと目をそらした。
「……ローラ、あなた」
白い妖精が静かに名前を呼んだ。
「あなた、この人に何を説明したの」
「……いや、まぁ、いろいろ?」
「大会のルールは」
「……ざっくりと」
「参加者の数は」
「……えーと」
「開催日は伝えたの」
「来週っつったし!」
ローラの声がだんだん小さくなっていく。
トゥルシーがため息をついた。
その隣でスズカが俺の手を見たまま口を開いた。
「……あなた、自分が何に登録されてるか、知ってる?」
「フェアリー・グランプリ、ですよね」
「うん」
「妖精が代理人を立てて戦う、最強決定戦」
「うん」
スズカは俺の手を取らずに、自力で立ち上がった。
土を払って、まっすぐ俺を見る。
「それだけ?」
「……それだけ、じゃないんですか」
彼女は答えなかった。
代わりに、俺の後ろに視線を投げた。
「ローラ」
返事がない。俺はもう一度振り返った。
ローラは少し高いところに浮いていた。腕を組んで、そっぽを向いている。
いつもの憎まれ口が出てこない。
「……なんだよ」
声が小さい。これはなにか隠してるな……
「別にいいだろ。今んとこ関係ねぇんだから」
「今んとこ?」
どういう意味だ……
「関係あるようになるってことか?」
「……」
ローラは答えなかった。
風が吹いて林の葉がざわざわと鳴る。
さっきまで空に穴を開けていたのが嘘みたいにあたりは静かだった。
「まぁ、いいわ」
スズカが装束の埃を払いながら言った。
「今日のところは引くわ……あなたの言い分、信じたわけじゃないけど」
「そうですか」
「でも、たぶん」
彼女は少しだけ目を細めた。
「本当に必殺技の練習しに来ただけの人だって、認めざるを得ないのは、なんか腹立つわね」
「それはすみません」
「謝らないでよ。余計に腹立つから」
スズカは踵を返して、数歩歩いてからこちらを振り返った。
「大会で会いましょう。次は本気でいくから」
「あの」
「なに」
「さっきも本気じゃなかったんですか」
「……」
彼女は答えずに、闇の中へ消えていった。
トゥルシーが一度だけ俺を見て、それから小さく会釈をして、後を追っていく。
◇
林の中に俺とローラだけが残された。
俺は鞄を拾い上げた。中身が飛び出していたので、一つずつ拾って詰め直す。
日報の控え。カタログ。折れたボールペン。
ローラはまだ何も言わない。
俺は鞄のファスナーを閉めて、立ち上がった。
「なぁ」
「……なんだよォ」
「腹減ったな……スーパー寄ってから帰るか」
「かし、買ってくれ!」
「二つまでな」