手からあれを出したい。〜三十年、風呂場で構え続けた男の話〜 作:やっくん。
翌朝、俺は普通に出勤した。
昨日、家に妖精が出た。髪が赤くなった。来週なんか大会があるらしい。
全部本当のことだが、だからといって会社を休む理由にはならない。それに有給は残り三日しかないのだから。
いつもの通勤路を歩く。
住宅街を抜けて、川沿いを進んで、工業団地へ。徒歩二十分。雨の日以外はこの道だ。
角を曲がったところで、ブロック塀の上にある虎の置物が目に入った。
陶器製で、口を開けて、片足を上げているやつ。色がだいぶ褪せている。
……虎か。
◇
「おはようございます」
オフィスのドアを開けて、いつも通り挨拶をする。
うちは一般家庭向けの浄水器とウォーターサーバーを作って売っている会社だ。社員は三十人ほど。決して大きくはないが、創業から四十年、堅実にやっている。
「おはよう、大葉くん」
「おはようございまーす」
返ってくる声の数を数えながら自分の席に向かう。
「おはよう、麻草さん」
総務の島の一番手前。事務の麻草結(あさくさゆい)さんに声をかけた。
「あっ、おはようございます、大葉さん」
パソコンから顔を上げて、彼女がぴょこんと頭を下げる。
入社二年目。まだどこか学生っぽさの残る子だが仕事は丁寧だ。
鞄を置いて、俺はホワイトボードを見上げた。
今日の予定はっと。
午前中は事務仕事、午後から営業回りが三件。
うん、いつも通りだ。
◇
九時半を過ぎたあたりで総務の島がざわつき始めた。
「えっ、あれ……?」
麻草さんがマウスを何度もカチカチやっている。
「どうしよう……」
俺は席を立って彼女の後ろに立った。
「どうかしたの」
「あっ、大葉さん……あの、請求書のデータが……」
画面を覗くと共有フォルダの中身が空になっている。
「消しちゃったんです、たぶん私……」
「うん」
俺はマウスに手を伸ばして、ゴミ箱フォルダを開いた。
「あ」
「先月の分だよね」
「は、はい」
該当ファイルを選んで元の場所に戻す。所要時間は約十秒。
「ゴミ箱、三十日は残るようになってるから。慌てなくて大丈夫」
「……あ、ありがとうございます」
彼女がぱっと顔を上げた。
三年前、実は俺も決算前日に全部消したことがある。あのときは冷や汗で背中がびしょ濡れになった。
◇
十一時。
今度は営業の後輩が電話を切ったあと頭を抱えていた。
「……納期、間に合わないっすわ」
「どこの案件」
「西谷ホームさんです。来週の水曜に十台って言われて」
……先週の時点で在庫確認しとけって話なんだよな。
言いかけて飲み込んだ。言ったところで台数が増えるわけじゃない。
俺は自分の画面を切り替えて在庫表を開いた。
「型番は」
「R-420です」
スクロールして確認するが、関東の倉庫は空。中部も空。
あ、九州の倉庫に十二台ある。
「九州に残ってるよ」
「えっ、でも九州からだと」
「今日中に手配かければ火曜の午前には着くかも。倉庫の田淵さんに直で連絡してみて。俺の名前出していいから」
後輩がぽかんとした顔でこちらを見ている。
「……大葉さん、なんで在庫の場所まで覚えてるんすか」
「たまたまね」
嘘だ。
入社した頃からの先輩、田淵さんが今は生産部門の統括をしていて、県外まで含めた在庫ファイルを俺に共有してくれている。
持つべきものは友だな。先輩だけど。
顔を上げると麻草さんがこちらを見ていた。
◇
十二時。
昼休憩のチャイムが鳴ってオフィスの空気が一気にゆるむ。
俺は席を立つ。
午後からは営業回りだ。今のうちに飯を食っておかないと、次に何か口に入れられるのは夕方になる。
でも、
今はそんなことより確かめないといけないことがあった。
俺は自販機でペットボトルの水を一本買って、社屋の裏手に回った。
うちの会社は工業団地の端にあって、敷地の裏がそのまま雑木林になっている。地権の関係で手つかずのまま残っているらしく社員も滅多に近づかない。
特に昼休みは誰もいない。みんな食堂か、コンビニか、車の中だ。
枝を踏み分けてから少し奥まで進む。
昨日、あの妖精は言っていた。俺はトリガーを引ける人間らしい。怒りが限界を超えると戦闘値が十倍以上に跳ね上がると。
だとしたら、
あれができるんじゃないか。
子供の頃から風呂場で手のひらを合わせて撃つ真似をした、アレが。
俺は周囲を見回した。人影なし。物音なし。
「……ここでいいか」
俺は水を一口飲んで、ペットボトルを地面に置いた。
上着を脱ぐ。丁寧にたたんで木の根元に置く。
ネクタイを緩めて、ワイシャツの袖をまくる。
そして、腰を落とす。
右足を引き、左足を前に。腰の位置に両手を添えて、まだ抜いていない刀の柄に手をかけるような――居合抜きの構え。
普段ならこんな恥ずかしいことはできないが、誰も見ていないなら真剣にやれる。
息を吸う。
深く、長く、肺の一番下まで。
「はぁぁぁぁぁ………っ!」