手からあれを出したい。〜三十年、風呂場で構え続けた男の話〜 作:やっくん。
俺は両手にハンドボールが一つ入るくらいの空間を作って構える。
昨日の感覚を思い出す。
腹の底にあった、あの熱くて重たいもの。あれが今もどこかにあるはずだ。
「うぅぅぅぅん……ッ」
丹田に力を込める。
奥歯を噛みしめて全身を絞る。
両手の間に何かが集まってくるイメージ。周囲の空気を、光を、闇を、ぜんぶ手のひらに引き寄せる感覚。
「うぅぅぅぅぅぅん……ッ!」
いける。
集中できてる。
指先が痺れてきた気がする。手のひらの間の空気が、わずかに震えているような気もする。
今だ。
俺は右足を踏み込み、両手を前に突き出した。
「猛虎・黒炎波――ッ!!!」
ヒュルルル――
葉が一枚、風で落ちた。
「いや、トリガー引かないと無理っしょ」
「うぉ!?」
突き出した手をそのままに、俺は背後を振り返った。
枝の上に黒いドレスの妖精が腰かけて、足をぶらぶらさせていた。
「いたのかよ」
「暇だから来てやったぜぇ」
「いつから」
「上着たたんでるとこから」
最初からじゃねぇか。
「なんで黙って見てた」
「だって面白かったし」
ケヒャヒャ、と笑いながらローラが枝から飛び降りて宙に浮く。
「つーかアレなんだ、あの構え。腰に手ぇ添えてよォ」
「居合抜きの構えだけど」
「なんで気功弾撃つのに居合の構えなんだよw」
……コイツにお決まりと言っても分からんだろうな……
「そもそもなんでここが分かった」
「いや、お前のマナの波長は分かりやすいから」
マナ。波長。
またよくわからんワードを出してきやがる。
だが今は、そんなことより確認したいことがあった。
俺はローラの正面に回り込んだ。
「なぁ」
「あぁ?」
「あの赤髪になったら、出せるのか」
「あ?」
「なぁ、出せるのか! 俺の必殺技ッ!」
妖精の肩をつかむような距離まで顔を近づける。
「ち、近ぇよ」
「出せるのかっ!」
「いいから離れろッ! まぁ、出せるんじゃね? マナが高まれば放出もできる。過去のトリガニストたちもやってたし」
――出せる。
こいつは今そう言った。
「ま、まじかぁ!」
俺は両手を突き上げた。
「仕事終わりにもっかい挑戦だぁ!!!」
「うっせぇなァ、テンション上げすぎだろw」
いいや、上がるね。これは上げていい場面だ。
三十年近く生きてきて、何度風呂場で撃つ真似をしただろう。
仕事なんてどうでもよくなってきた。いや、よくないんだが、それでも今は――
ガサッ。
左手側で枝の折れる音がした。
俺は突き上げた両手をそのままの姿勢で止めた。
ゆっくりそちらを向く。
木の陰に誰かが立っていた。
紺色のカーディガン。手にコンビニの袋。
麻草さんだった。
完全に目が合っている。
彼女は袋を胸の前で抱えたまま微動だにしない。
風が吹いて葉がざわざわと鳴った。
「おっ、女じゃん」
ローラが俺の頭の上あたりまで飛んでいって身を乗り出した。
「知り合いかぁ?」
黙れ。
俺は視線だけを彼女に戻した。
麻草さんの目は俺を見ている。ローラのほうは一度も見ていない。
……見えてない、のか。
不幸中の幸い……か。いやどちらにしても最悪だ。
俺は昼休みに、一人で会社の裏林に行き、上着をたたみ、居合抜きの構えを取り、二回にわたって唸り声を上げ、そして「黒炎弾」と叫んだ。
何も出ないのに。
……これ、どこから見られてる?
「……あ、あの」
麻草さんが口を開いた。
「お、お邪魔してすいませんっ!」
彼女は勢いよく頭を下げた。
「あ、いや」
「わ、私、コンビニの帰りで、近道しようと思って、それで、あの」
彼女の顔がみるみる赤くなっていく。
「見てません! なんにも見てませんから!」
見たな。これは。
「じゃ、じゃあ失礼しますっ!」
麻草さんはもう一度頭を下げると、来た方向とは逆へ小走りで去っていった。
いや、そっち会社じゃないんだけど。
林の中に、俺と、見えない妖精だけが残された。
「なぁ、今の女ってさ」
「黙れ」
「照れんなってw」
「そうじゃない」
俺は上着を拾い上げて袖を通した。
ネクタイを締め直す。まくった袖を戻す。
午後の営業は三件。
うち一件は、麻草さんに書類を用意してもらってから出る予定だった。
……気まずい。
◇
お昼を終えてオフィスに戻ったが彼女はいないようだ。
俺の机の上に書類が一つ置いてある。
……俺のだ。
書類の入ったクリアファイルに付箋が一枚貼ってあった。
『準備できてます! いってらっしゃい!』
イメージ通りの丸っこい字で書いてある。
……明日以降、どんな顔して会えばいいんだ……
俺は書類を受け取ってからそのまま会社を出た。
◇
その日の営業は我ながらひどかった。
説明の途中で言葉が飛んだ。カタログのページを二回間違えた。三件目に至っては、駐車場で車を降りてから、資料を車内に忘れていることに気づいた。
夕方、会社に戻って日報を書いているとチャイムが鳴った。
定時。
「ふぅ、今日も終わったか……」
結局、あれから麻草さんには会えず就業時間を終えた。
俺はオフィスを出て駐車場へ向かう――いつもなら。
だが、俺はやるべき最優先事項のため、敷地の裏の雑木林へと向かった。