手からあれを出したい。〜三十年、風呂場で構え続けた男の話〜   作:やっくん。

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4話 クリアファイルに付箋が一枚

 俺は両手にハンドボールが一つ入るくらいの空間を作って構える。

 

 昨日の感覚を思い出す。

 

 腹の底にあった、あの熱くて重たいもの。あれが今もどこかにあるはずだ。

 

「うぅぅぅぅん……ッ」

 

 丹田に力を込める。

 

 奥歯を噛みしめて全身を絞る。

 

 両手の間に何かが集まってくるイメージ。周囲の空気を、光を、闇を、ぜんぶ手のひらに引き寄せる感覚。

 

「うぅぅぅぅぅぅん……ッ!」

 

 いける。

 

 集中できてる。

 

 指先が痺れてきた気がする。手のひらの間の空気が、わずかに震えているような気もする。

 

 今だ。

 

 俺は右足を踏み込み、両手を前に突き出した。

 

「猛虎・黒炎波――ッ!!!」

 

 

 

 ヒュルルル――

 

 

 

 葉が一枚、風で落ちた。

 

「いや、トリガー引かないと無理っしょ」

 

「うぉ!?」

 

 突き出した手をそのままに、俺は背後を振り返った。

 

 枝の上に黒いドレスの妖精が腰かけて、足をぶらぶらさせていた。

 

「いたのかよ」

 

「暇だから来てやったぜぇ」

 

「いつから」

 

「上着たたんでるとこから」

 

 最初からじゃねぇか。

 

「なんで黙って見てた」

 

「だって面白かったし」

 

 ケヒャヒャ、と笑いながらローラが枝から飛び降りて宙に浮く。

 

 

「つーかアレなんだ、あの構え。腰に手ぇ添えてよォ」

 

「居合抜きの構えだけど」

 

「なんで気功弾撃つのに居合の構えなんだよw」

 

 ……コイツにお決まりと言っても分からんだろうな……

 

「そもそもなんでここが分かった」

 

「いや、お前のマナの波長は分かりやすいから」

 

 マナ。波長。

 

 またよくわからんワードを出してきやがる。

 

 だが今は、そんなことより確認したいことがあった。

 

 俺はローラの正面に回り込んだ。

 

「なぁ」

 

「あぁ?」

 

「あの赤髪になったら、出せるのか」

 

「あ?」

 

「なぁ、出せるのか! 俺の必殺技ッ!」

 

 妖精の肩をつかむような距離まで顔を近づける。

 

「ち、近ぇよ」

 

「出せるのかっ!」

 

「いいから離れろッ! まぁ、出せるんじゃね? マナが高まれば放出もできる。過去のトリガニストたちもやってたし」

 

 ――出せる。

 

 こいつは今そう言った。

 

「ま、まじかぁ!」

 

 俺は両手を突き上げた。

 

「仕事終わりにもっかい挑戦だぁ!!!」

 

「うっせぇなァ、テンション上げすぎだろw」

 

 いいや、上がるね。これは上げていい場面だ。

 

 三十年近く生きてきて、何度風呂場で撃つ真似をしただろう。

 

 仕事なんてどうでもよくなってきた。いや、よくないんだが、それでも今は――

 

 ガサッ。

 

 左手側で枝の折れる音がした。

 

 俺は突き上げた両手をそのままの姿勢で止めた。

 

 ゆっくりそちらを向く。

 

 木の陰に誰かが立っていた。

 

 紺色のカーディガン。手にコンビニの袋。

 

 麻草さんだった。

 

 完全に目が合っている。

 

 彼女は袋を胸の前で抱えたまま微動だにしない。

 

 風が吹いて葉がざわざわと鳴った。

 

「おっ、女じゃん」

 

 ローラが俺の頭の上あたりまで飛んでいって身を乗り出した。

 

「知り合いかぁ?」

 

 黙れ。

 

 俺は視線だけを彼女に戻した。

 

 麻草さんの目は俺を見ている。ローラのほうは一度も見ていない。

 

 ……見えてない、のか。

 

 不幸中の幸い……か。いやどちらにしても最悪だ。

 

 俺は昼休みに、一人で会社の裏林に行き、上着をたたみ、居合抜きの構えを取り、二回にわたって唸り声を上げ、そして「黒炎弾」と叫んだ。

 

 何も出ないのに。

 

 ……これ、どこから見られてる?

 

「……あ、あの」

 

 麻草さんが口を開いた。

 

「お、お邪魔してすいませんっ!」

 

 彼女は勢いよく頭を下げた。

 

「あ、いや」

 

「わ、私、コンビニの帰りで、近道しようと思って、それで、あの」

 

 彼女の顔がみるみる赤くなっていく。

 

「見てません! なんにも見てませんから!」

 

 見たな。これは。

 

「じゃ、じゃあ失礼しますっ!」

 

 麻草さんはもう一度頭を下げると、来た方向とは逆へ小走りで去っていった。

 

 いや、そっち会社じゃないんだけど。

 

 林の中に、俺と、見えない妖精だけが残された。

 

「なぁ、今の女ってさ」

 

「黙れ」

 

「照れんなってw」

 

「そうじゃない」

 

 俺は上着を拾い上げて袖を通した。

 

 ネクタイを締め直す。まくった袖を戻す。

 

 午後の営業は三件。

 

 うち一件は、麻草さんに書類を用意してもらってから出る予定だった。

 

 ……気まずい。

 

 

 

 お昼を終えてオフィスに戻ったが彼女はいないようだ。

 

 俺の机の上に書類が一つ置いてある。

 

 ……俺のだ。

 

 書類の入ったクリアファイルに付箋が一枚貼ってあった。

 

『準備できてます! いってらっしゃい!』

 

 イメージ通りの丸っこい字で書いてある。

 

 ……明日以降、どんな顔して会えばいいんだ……

 

 俺は書類を受け取ってからそのまま会社を出た。

 

 

 その日の営業は我ながらひどかった。

 

 説明の途中で言葉が飛んだ。カタログのページを二回間違えた。三件目に至っては、駐車場で車を降りてから、資料を車内に忘れていることに気づいた。

 

 夕方、会社に戻って日報を書いているとチャイムが鳴った。

 

 定時。

 

「ふぅ、今日も終わったか……」

 

 結局、あれから麻草さんには会えず就業時間を終えた。

 

 俺はオフィスを出て駐車場へ向かう――いつもなら。

 

 だが、俺はやるべき最優先事項のため、敷地の裏の雑木林へと向かった。

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