手からあれを出したい。〜三十年、風呂場で構え続けた男の話〜 作:やっくん。
――麻草結(あさくさ ゆい)視点――
この会社の総務に入ってもうすぐ二年になる。
電話の取り方も覚えた。請求書の締めも、経費精算も、来客のお茶出しも、もう先輩に確認しなくてもできる。
少しは慣れてきたかな。
なんて思っていた矢先だった。
「……えっ」
共有フォルダを開いた画面が真っ白だった。
いや、正確には真っ白ではない。フォルダはあるけど中身がない。
先月分の請求書データ――八十七件が全部。
「……あれ?」
マウスを何度かクリックする。更新して、もう一度開いてみる。
やっぱり、ない。
背中がすうっと冷たくなった。
まずいよぉ……これ、私が消したんだ。たぶんさっき整理しようとしてドラッグしたときだ。
「どうしよう……」
社員共有のデータだから私だけの問題じゃない。経理の花田さんも、営業の人たちも、全員が見るファイルだ。
どうしよう。どう謝ろう。まず誰に言えばいいの。花田さんは今日、外出してる。じゃあ課長。でも課長、朝から機嫌が――
「どうかしたの」
振り返ると営業の大葉さんが立っていた。
「あっ、大葉さん……あの、請求書のデータが……」
彼は私の椅子の後ろに立って、モニターを覗き込んだ。
「消しちゃったんです、たぶん私……」
「うん」
それだけ言って大葉さんは私の横からマウスに手を伸ばした。
カチ、カチ。
ゴミ箱フォルダが開いた。
「あ」
あった、全部ある。
「先月の分だよね」
「は、はい」
カチ、カチ、カチ。
選択して、右クリックして、元に戻す。
終わり。
……十秒。たったの十秒だった。
私があれだけ絶望していたものが、ものの十秒で戻ってきた。
画面の中に、八十七件のファイルが何事もなかったみたいに並んでいる。
あぁ……。
助かったよぉ……。
肩から力が抜けて椅子の背もたれに寄りかかりそうになった。誰にも迷惑をかけずに済んだ。それだけで泣きそうになる。
「ゴミ箱、三十日は残るようになってるから。慌てなくて大丈夫」
大葉さんはそう言って、もう自分の席に戻ろうとしていた。
慌てて顔を上げる。
「……あ、ありがとうございます」
彼は軽く手を上げただけだった。
振り返りもしない。
……かっこいい。
いや、そうじゃなくて。
助けてもらったのに、私、ちゃんとお礼できてない気がする。今度お菓子でも持っていこう。あの人、甘いもの食べるのかな。
◇
時刻は十一時。
営業の島のほうがなんだか騒がしくなってきた。
「……納期、間に合わないっすわ」
受話器を置いた男の人が頭を抱えている。
ええっと、名前は――なんだっけ。
あ、そうだ。真庭くん。
私と同期で入ってきた人だ。何度か食事に誘われたけど、なんとなく軽い感じがして結局全部断ってしまった。悪い人ではないと思うんだけど。
その真庭くんのところに大葉さんが顔を向けた。
「どこの案件」
「西谷ホームさんです。来週の水曜に十台って言われて」
トラブルかな。
私はキーボードを打つ手を止めないまま、つい耳を傾けてしまった。
どうやら、注文が入ったのに近くの工場に在庫がないらしい。水曜までに十台。
「型番は」
「R-420です」
大葉さんは自分のモニターに向き直って、マウスのホイールを回している。
カラカラ、カラカラ。
三秒くらいだったと思う。
「九州に残ってるよ」
「えっ、でも九州からだと」
「今日中に手配かければ火曜の午前には着くかも。倉庫の田淵さんに直で連絡してみて。俺の名前出していいから」
……えっ、九州……
私、この会社の倉庫が九州にあることすら、今初めて知った。
真庭くんもぽかんとしている。
「……大葉さん、なんで在庫の場所まで覚えてるんすか」
「たまたまね」
たまたま?
たまたまで他県の在庫台数まで出てくるわけないじゃないですか。
大葉さんはもう次のメールを打ち始めている。今のやりとりが、彼の中では終わったことになっている。
すごい。なんかもう、単純にすごい。
うちの会社、大葉さんがいなかったら回らないんじゃないかな。営業成績で一番になったりはしないけど、誰かが困ってると、いつのまにか横にいていつのまにか解決してる。
みんな気づいてないけど、私だけは彼のすごさを知っている。
私も、いつかあんなふうになりたい。
落ち着いてて、涼しい顔で、必要なことだけ言って、さっと解決して、ありがとうも受け取らずに戻っていくような。
クールで、かっこいい、あんな――
あ。
目が合った。
私は慌てて画面に向き直った。
心臓が変な打ち方をしている。
……見てたのバレた?
いや、たぶん一瞬だし。たまたま顔を上げただけかもしれないし。
でも私、今どれくらい見てたんだろ……五秒? 十分?
変な女だと思われてないかな……
私はキーボードを打つふりをしながら、しばらく顔を上げられなかった。