手からあれを出したい。〜三十年、風呂場で構え続けた男の話〜 作:やっくん。
定時のチャイムが鳴った。
俺は日報を出して、パソコンを落として、鞄を持ってオフィスを出た。
そして駐車場へ向かう――いつもどおりなら。
だが今日の俺には、やるべき最優先事項があった。
俺は社屋の角を曲がって、敷地の裏へ回り込んだ。
夕方の林は昼とはまるで別の場所だった。
日が傾いて、木々の影が地面に長く伸びている。空気がひんやりしていて、鳥の声がさっきより低い。
昼にいたあの場所を目指して俺は枝を踏み分けていく。
今度こそだ。今度こそ出す。
ローラが言うには、あの赤髪モードになればエネルギーの弾を飛ばせるらしい。
たしか怒りトリガーって言ったか。昼はなれなかったけど、何かきっかけが足りなかっただけだ。集中か、気合いか、あるいは腹の据わり方か。仕事を終えて、頭も切り替わっている今なら――
ガサ。
……ん?
俺は人の気配がして足を止めた。昼にいた場所のさらに少し奥。木の間からかすかに人影が見えた。
俺はそっと近づいて、太い幹の陰に身を寄せた。
女性が立っている。
黒い装束。ところどころに赤いラインが入っていて、腰から下にはサイドスリット。体の線がはっきり出るタイトなシルエット。
口元は布で覆っていて、見えているのは目元だけ。
……くノ一? コスプレか?
こんな時間に、こんな場所で、随分と気合いの入った格好である。しかもクールでセクシーときた。悪くないな。
彼女は何かをぶつぶつと呟いている。
目を凝らして俺は気づいた。
彼女の肩の上にもう一匹いる。白いドレスを着た手のひらサイズの何か。
……妖精だ。
「ありゃ、トゥルシーだな」
「うぉ!?」
いつの間にか耳のすぐ横にローラがいた。
「静かにしろっての」
「お前が急に出てくるからだろ」
声を殺して抗議する。
「あいつも今年のフェアグラには参加するってよォ」
……参加者なのか、あいつらも。
というか、毎年こんなことやってんのかよ。
「妖精の方は知り合いか」
「まぁな」
ローラが鼻を鳴らした。
「いい子ぶりっこの、いけ好かねぇやつよォ。すーぐ正論こねくり回してさぁ、『それは代理人の意思を尊重すべきよ』とか言うわけ。うっぜぇ〜」
じゃあお前とは正反対だな。
俺はもう一度、女性のほうを見た。あれが、俺と戦うかもしれない相手か。
よく見ると、思っていたより若い。二十歳そこそこだろうか。俺より一回り近く下に見える。
……あんな子と、殴り合えと?
無理だろ。倫理的にも、体力的にも。とりあえず退こう。見つかる前に、静かに――
「……いるわね」
ぞくっとした。
女性がこちらの方を向いていた。
「スズカ、気をつけて」
「えぇ、わかってるわ、トゥルシー」
シュッ、と空気が鳴った。
「これでもくらいなさい!!」
銀色が二つ、闇の中から飛んでくる。
「うぉっ! 危ねぇ!」
考えるより先に体が動いた。腰を思いきり反らせる。
ヒュンッ、ヒュンッ。
鼻先を二本のクナイがかすめて通り過ぎていった。
背後の幹に、ザクッ、と突き刺さる音。
「……」
俺は反った腰をゆっくり戻して振り返った。柄まで埋まっていた。太い木の幹に、深々と。
殺しにかかってんじゃん。
急に膝が震えだした。
今のはたまたま当たらなかっただけ。あと数センチ横だったら俺の顔面は今ごろ二枚おろしである。
対話は無理だ。逃げよう。
俺は鞄を抱えて全力で走り出した。
「おい、逃げんなっ!」
ローラが横を飛びながら叫ぶ。
「あんな奴ら、トリガー引けゃ余裕で勝てっから!」
「いや、昼になろうとしたけど無理だったんだよ!」
「はぁ!? キレるだけの簡単なお仕事だろうがぁ」
「無茶いうな!」
走りながら怒鳴り返す。
キレるだけ、と言うが。
俺は七年、社会人をやっている。理不尽を飲み込むのが仕事みたいなものだ。納期の無茶振りも、後輩の確認漏れも、取引先の急な仕様変更も、全部飲み込んできた。
我慢強いからこそ七年も続いているのだ。
つまり俺の性格はこの能力と絶望的に噛み合っていない。
……などと冷静に分析している場合ではない。
枝が顔に当たる。革靴が落ち葉に滑る。スーツの背中が汗で貼りついている。
そして何より息が続かない。
三十手前。運動習慣なし。通勤は車。
「もう、無理……」
俺は速度を落とした。
地面が平らで少し開けた場所に出る。昼に構えていたあたりから、だいぶ奥まで来てしまったらしい。
背後の気配がゆっくり近づいてくる。
「追いついたわ」
「はぁ、はぁ……あぁ、しんどい……」
俺は膝に手を当てて肩で息をした。
顔を上げると黒装束の女性が木の枝の上に立っていた。
枝の上に人が立っている。
……あの、物理法則は……
「あなた」
彼女の声が静かに落ちてきた。
「あたしのことナメてるわね」
「え」
「わたしはね――」
スッ、と手が動いた。
「ナメられるのが、嫌いなのッ!」
また銀色が飛んでくる。
「いや、まったくそんなつもりは――ないッ!」
俺は横っ飛びに転がった。
スーツの肘が地面を擦る。おろしたてじゃないのが救いだ。
なんとか躱せたが、さっきから会話が成立していない。というかナメる以前にあなたが誰なのかも知らない。
「待って、スズカ」
彼女の肩の上で白い妖精が身を乗り出した。
「あの男性の近くに妖精がいるわ――あなたはローラッ!」
忍者の格好をした女の子は、スズカというのか。
「よォ、トゥルシー」
ローラがやけに堂々と前に出た。
「アタシもフェアグラに出ることにしたぜぇ」
「あなたも出るのね……」
白い妖精の声が少し硬くなった。
「アタシパートナーは――コイツだぁ!」
大げさに俺に指を指してくるローラ。
「ちがいます」
俺は即答した。
「おいっ! 大将そりゃねぇぜぇ」
ねぇよ。こっちは命がかかってるんだよ。
せめて、今はこいつらの誤解を解いてくれ。