手からあれを出したい。〜三十年、風呂場で構え続けた男の話〜   作:やっくん。

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7話 もう一人の候補者

 定時のチャイムが鳴った。

 

 俺は日報を出して、パソコンを落として、鞄を持ってオフィスを出た。

 

 そして駐車場へ向かう――いつもどおりなら。

 

 だが今日の俺には、やるべき最優先事項があった。

 

 俺は社屋の角を曲がって、敷地の裏へ回り込んだ。

 

 夕方の林は昼とはまるで別の場所だった。

 

 日が傾いて、木々の影が地面に長く伸びている。空気がひんやりしていて、鳥の声がさっきより低い。

 

 昼にいたあの場所を目指して俺は枝を踏み分けていく。

 

 今度こそだ。今度こそ出す。

 

 ローラが言うには、あの赤髪モードになればエネルギーの弾を飛ばせるらしい。

 

 たしか怒りトリガーって言ったか。昼はなれなかったけど、何かきっかけが足りなかっただけだ。集中か、気合いか、あるいは腹の据わり方か。仕事を終えて、頭も切り替わっている今なら――

 

 ガサ。

 

 ……ん?

 

 俺は人の気配がして足を止めた。昼にいた場所のさらに少し奥。木の間からかすかに人影が見えた。

 

 俺はそっと近づいて、太い幹の陰に身を寄せた。

 

 女性が立っている。

 

 黒い装束。ところどころに赤いラインが入っていて、腰から下にはサイドスリット。体の線がはっきり出るタイトなシルエット。

 

 口元は布で覆っていて、見えているのは目元だけ。

 

 ……くノ一? コスプレか?

 

 こんな時間に、こんな場所で、随分と気合いの入った格好である。しかもクールでセクシーときた。悪くないな。

 

 彼女は何かをぶつぶつと呟いている。

 

 目を凝らして俺は気づいた。

 

 彼女の肩の上にもう一匹いる。白いドレスを着た手のひらサイズの何か。

 

 ……妖精だ。

 

「ありゃ、トゥルシーだな」

 

「うぉ!?」

 

 いつの間にか耳のすぐ横にローラがいた。

 

「静かにしろっての」

 

「お前が急に出てくるからだろ」

 

 声を殺して抗議する。

 

「あいつも今年のフェアグラには参加するってよォ」

 

 ……参加者なのか、あいつらも。

 

 というか、毎年こんなことやってんのかよ。

 

「妖精の方は知り合いか」

 

「まぁな」

 

 ローラが鼻を鳴らした。

 

「いい子ぶりっこの、いけ好かねぇやつよォ。すーぐ正論こねくり回してさぁ、『それは代理人の意思を尊重すべきよ』とか言うわけ。うっぜぇ〜」

 

 じゃあお前とは正反対だな。

 

 俺はもう一度、女性のほうを見た。あれが、俺と戦うかもしれない相手か。

 

 よく見ると、思っていたより若い。二十歳そこそこだろうか。俺より一回り近く下に見える。

 

 ……あんな子と、殴り合えと?

 

 無理だろ。倫理的にも、体力的にも。とりあえず退こう。見つかる前に、静かに――

 

「……いるわね」

 

 ぞくっとした。

 

 女性がこちらの方を向いていた。

 

「スズカ、気をつけて」

 

「えぇ、わかってるわ、トゥルシー」

 

 シュッ、と空気が鳴った。

 

「これでもくらいなさい!!」

 

 銀色が二つ、闇の中から飛んでくる。

 

「うぉっ! 危ねぇ!」

 

 考えるより先に体が動いた。腰を思いきり反らせる。

 

 ヒュンッ、ヒュンッ。

 

 鼻先を二本のクナイがかすめて通り過ぎていった。

 

 背後の幹に、ザクッ、と突き刺さる音。

 

「……」

 

 俺は反った腰をゆっくり戻して振り返った。柄まで埋まっていた。太い木の幹に、深々と。

 

 殺しにかかってんじゃん。

 

 急に膝が震えだした。

 

 今のはたまたま当たらなかっただけ。あと数センチ横だったら俺の顔面は今ごろ二枚おろしである。

 

 対話は無理だ。逃げよう。

 

 俺は鞄を抱えて全力で走り出した。

 

「おい、逃げんなっ!」

 

 ローラが横を飛びながら叫ぶ。

 

「あんな奴ら、トリガー引けゃ余裕で勝てっから!」

 

「いや、昼になろうとしたけど無理だったんだよ!」

 

「はぁ!? キレるだけの簡単なお仕事だろうがぁ」

 

「無茶いうな!」

 

 走りながら怒鳴り返す。

 

 キレるだけ、と言うが。

 

 俺は七年、社会人をやっている。理不尽を飲み込むのが仕事みたいなものだ。納期の無茶振りも、後輩の確認漏れも、取引先の急な仕様変更も、全部飲み込んできた。

 

 我慢強いからこそ七年も続いているのだ。

 

 つまり俺の性格はこの能力と絶望的に噛み合っていない。

 

 ……などと冷静に分析している場合ではない。

 

 枝が顔に当たる。革靴が落ち葉に滑る。スーツの背中が汗で貼りついている。

 

 そして何より息が続かない。

 

 三十手前。運動習慣なし。通勤は車。

 

「もう、無理……」

 

 俺は速度を落とした。

 

 地面が平らで少し開けた場所に出る。昼に構えていたあたりから、だいぶ奥まで来てしまったらしい。

 

 背後の気配がゆっくり近づいてくる。

 

「追いついたわ」

 

「はぁ、はぁ……あぁ、しんどい……」

 

 俺は膝に手を当てて肩で息をした。

 

 顔を上げると黒装束の女性が木の枝の上に立っていた。

 

 枝の上に人が立っている。

 

 ……あの、物理法則は……

 

「あなた」

 

 彼女の声が静かに落ちてきた。

 

「あたしのことナメてるわね」

 

「え」

 

「わたしはね――」

 

 スッ、と手が動いた。

 

「ナメられるのが、嫌いなのッ!」

 

 また銀色が飛んでくる。

 

「いや、まったくそんなつもりは――ないッ!」

 

 俺は横っ飛びに転がった。

 

 スーツの肘が地面を擦る。おろしたてじゃないのが救いだ。

 

 なんとか躱せたが、さっきから会話が成立していない。というかナメる以前にあなたが誰なのかも知らない。

 

「待って、スズカ」

 

 彼女の肩の上で白い妖精が身を乗り出した。

 

「あの男性の近くに妖精がいるわ――あなたはローラッ!」

 

 忍者の格好をした女の子は、スズカというのか。

 

「よォ、トゥルシー」

 

 ローラがやけに堂々と前に出た。

 

「アタシもフェアグラに出ることにしたぜぇ」

 

「あなたも出るのね……」

 

 白い妖精の声が少し硬くなった。

 

「アタシパートナーは――コイツだぁ!」

 

 大げさに俺に指を指してくるローラ。

 

「ちがいます」

 

 俺は即答した。

 

「おいっ! 大将そりゃねぇぜぇ」

 

 ねぇよ。こっちは命がかかってるんだよ。

 

 せめて、今はこいつらの誤解を解いてくれ。

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