手からあれを出したい。〜三十年、風呂場で構え続けた男の話〜 作:やっくん。
「あなたたちの狙いは、わかっているわ」
スズカが枝の上から言い放った。
「グランプリが始まる前に敵情視察――あわよくば先に候補者を潰して、数を減らそうという魂胆でしょう」
「……」
だめだ。完全に誤解している。
「ええっと」
俺は両手を軽く上げた。敵意がないことを示すポーズ。
こういう時は敵意がないことを示してから、正直に理由を話すに限る。俺が社会人で身につけた処世術である。
「必殺技の練習をしようかと」
「見え透いた嘘を!」
だめだ、通じない。
本当に、それだけのために来たんだよ。定時上がりで、鞄も持ったまま、必殺技を撃ちに来ただけなんだよ。
だが、言えば言うほど嘘に聞こえる自覚はある。
「待って、スズカ」
トゥルシーが鋭く言った。
「こちらを油断させる罠よ!」
「わかってる」
わかってない。
本当に、ただのしょうもない理由なんだ。
「相手の戦闘値はいくつなの」
「すこし待って……アナライズッ!」
トゥルシーが持つ白いステッキの先端が光って、淡い光がこちらに向かって放たれた。
……解析されている。
なんだこれ。健康診断か。
「アナライズは相手のマナを読む魔法だァ」
ローラが耳元でささやく。
「今の大将は変身してねぇから数値は低いんじゃねぇかな。普段のお前は弱そうだしなw」
なるほどね。後で覚えとけよ。
俺は二人のやりとりを見ていてふと思った。
会話の呼吸がぴったり合っている。
スズカが聞けばトゥルシーが答え、トゥルシーが警告すればスズカが即座に構える。言葉が短くてそれで通じている。
……相棒歴、長そうだな。こっちは昨日会ったばかりだぞ。
いやいや、そんなことを考えている場合じゃない。
早く誤解を解かないと命に関わる。
「いや、本当に違うんだ、聞いてくれ!」
「あっちはやる気だ!」
ローラが叫んだ。
「ヤられる前にヤれ! コロせ! ぶっ殺せ!」
ローラ、お前、まじで黙れ。
「トゥルシー、相手の戦闘値は?」
「……解析完了」
白い妖精がこちらを見据えたまま告げた。
「戦闘値は……10よ」
「たったの10か――」
スズカの目が、すっと細くなった。
「ザコね」
カチン。
……ザコ……いま、俺のことをザコと……
二十歳そこそこの名前も知らない女の子に。
俺はこう見えて社会人七年目である。後輩から頼られているし、他部署からも相談が来る。先月は課長に名指しで礼を言われた。
その俺がザコ。
腹の底がじわりと熱くなった。
――待てよ。
俺は自分の手のひらを見た。
これだ。この感情だ。
昼に足りなかったものが、今まさに湧いてきている。キレるだけの簡単なお仕事だと、あの妖精は言った。だったら今、ここで――
この怒りを種火にしてトリガーを引けばいい。
我ながら妙案である。
「ザコ……だと」
俺は拳を握った。
「誰がザコだ――!!」
感情に身を任せて大声で叫ぶ。
思い出せ。今の屈辱を。見下されたこの瞬間を。腹の底に火を入れろ、俺!
枝の上の彼女がわずかに首を傾げた。
「何度でも言ってやろう、ザコめ」
布の下で彼女が息を吸うのがわかった。
「お前は戦闘値たった10のザコだ。ざ〜こ、ざ〜こ、ざ〜こ♪」
「………」
「おい」
ローラが俺の顔を覗き込んだ。
「もっと怒れよォ!」
「……努力はした」
「してねぇだろ今の! なんだその顔は! 完全に受け入れてんじゃねぇかァ!」
「……ふぅ」
俺は静かに息を吐いた。
「一つ、わかったことがある」
「なんだよ」
「俺は、たぶん、怒りのトリガーとは別の何かを引かれかけている」
「知るかァ!」
「会話は終わったかしら。じゃあ、こちらから行かせてもらうわ――ね!」
シュッ、と空気が鳴った。
銀色が二つ闇の中から飛んでくる。
「くっ!」
俺は転がるようにして躱した。
やっぱり逃げよう。
立ち上がって走り出す。もう体力の残量とか考えている場合じゃない。
「おい、逃げんなっ!」
ローラが横をついてくる。
「はやくトリガーを引けぇ!」
「無理だって言ってるだろ……」
息が上がって足がもつれる。革靴の底が湿った落ち葉を掴めずに滑る。
背後からクナイが飛んでくる音がする。木に刺さる音がする。
ああ、くそ。こんなはずじゃなかったのに。
「必殺技、出したくねぇのか!?」
「いや、俺だって出したいよ!」
そもそも会社の理不尽にもずっと耐えてきたこの俺に、すぐにキレろとか無茶振りがすぎる。
「なんか名前あったろ、あの技! なんつったっけ、たしか――」
ローラが思い出そうとして、指を鳴らした。
そして言った。
「――もっとうんこくえ――みたいなやつ」
「……は? いま、なんて言った?」