〈Prologue〉
男は女に背負われていた。
女は男を背負っていた。
二人は夜の中を歩いている。
軽トラック一台が何とか通れるくらいのあぜ道を歩いている。
ぽつぽつと淡く光る外灯には、それを太陽と誤認した虫がたかり、運がないものは小さな振動と共に爆ぜて死んでいった。
女は男に嘘をついていた。
男はそれに気づいていた。
しかし、明確にどれが嘘かはわからない。問い詰める気もない。それが女の判断ならば黙って信じるのみだった。
二人はもう何度も同じ道を繰り返し歩いている。
どちらともなく会話を始めようとするが、ため息が漏れるばかりで声にはならなかった。
夜の静寂に鈴虫が歌っている。
今宵の月は細く頼りない。
空には星々がわが世の春が来たとばかりに煌々と光っている。
男は女が好きだった。
女は男が好きだった。
夏が終わり、秋が始まろうとしていた。
〈Act1.再上映〉
人は一人では生きていけない。
ありふれていて、月並みで、陳腐な表現だが、だからと言って効力は失われているわけではない。あまりに当たり前すぎて、皆口に出して言うのが恥ずかしいだけだ。
でも、このことをしっかりと正しく認識して生きている人間が、この世にどれほどいるだろうか?
俺はとにかく優しくありたいと思う。
自分に、隣人に、他人に。
だって一人では生きていけないのだ。
どれだけ頑張ったって、人に迷惑をかけてしまう。それならさ、普段から皆に優しくして、迷惑をかけてしまっても笑って許してもらえる関係性を構築した方がいいじゃないか。きっと利他と利己は非常に近いところにある。利己を突き詰めると利他になるし、利他を突き詰めると、利己に見えてしまう。
だからさ、人と関わった方がお得なんだ。だってこんな弱い動物他にいないよ。頭を良くしたいがために二足歩行になって、内臓っていう弱点丸出しでさ。爪も歯も鋭くないし、体毛は少ないし、すぐに怠けようとする。ちょっと長距離が走れるだけだ。でも、ここまで繁殖した。生物として成功した。成功しすぎて凋落の兆候すらある。
知っているか、乳酸菌って自分らが産出した乳酸で死ぬんだぜ。
人間がここまで地球上を跋扈するようになったのには訳があって、集団を大きくすることができたからなのだ。そしてそれを可能にしたのはコミュニケーション。人間は考える葦であるって言葉があるけれど、俺に言わせれば、人間は考えて、喋れる葦であるわけだ。
そして、それは現代に至ってもあんまり変わっていなくて、結局生きるには他人と関わるのが肝要で、それを放棄するのは人間としての利点を放棄するのと同義なわけで、だから人に善くした方がいいよって、そう言うわけなんだ。
俺がそれを実践できているかは置いといてさ、積極的に善くあろうとは思っているよ。優しくあろうとは思っているよ。
困っている人がいたら助けてさ、頼みごとをされたら笑顔で引き受けて、寂しそうな人がいたら話しかけに行く。そんなことをさ、やってみているんだ。利己的な偽善だと自分でも思う。でもさ、これもまた月並みな言い方になっちゃうかもだけど、やらない善よりやる偽善なわけで、それに喜んでくれる人がいれば、それでいいんだ。
世界ってのは悪意で出来ているけど、世界を回しているのは善意なんだよ。
それなら俺はやっぱり善くありたい。善人でいたい。優しい人でありたい。困っている人に手を差し伸べたい。
そうしたらさ、きっと俺も彼女のように……。
◇
目が覚めると眼前に美少女の顔があった。
鼻孔をくすぐる菫の香りとそれに混じる若い女性特有の甘ったるい桃のような香り。いつも無骨で色気なんかない俺の部屋だけど、今は花が咲いているように思えるね。
眼前の美少女はここで俺が目を覚ますことが、まったくの想定外だったようで、蛇に睨まれた蛙のように固まってしまっている。
ふいに今まで頬にあった温い感触が離れた。彼女は俺の頬に手を添えていたらしい。そして彼女は何事もなかったかのようにスススと緩慢な動作で俺から離れ、折り目正しくこう言った。
「おはようございます、アキ様」
彼女がその身を包んでいるクラシカルなメイド服のスカートを持ち上げる。カーテシー。しっかりと訓練されたであろう綺麗な所作だ。
「おはよう、いい朝だね。俺の顔に何か付いてた?」
このいつもメイド服を着ている美少女は『白崎百合』と言って、俺の幼馴染だ。
少し青みがかった白銀の髪を肩のあたりで簡単に一つ括りにしており、遥か北の国のヴァージンスノーを思わせる。
前髪は緩く弧を描くようにばっちりと切りそろえられていて、百合の几帳面な性格が表れているように思えた。
はっきりとした二重瞼の瞳はキッと吊り上がっており、その不愛想も合わさって冷たい印象を受ける。手足はすらっと伸びており、モデル顔負けのプロポーション。女子の平均身長よりも少し高い身長も相まって、学校ではとても目立つ。
そんな彼女がほとんど毎朝起こしに来てくれるのだ。幼馴染冥利に尽きるね。あ、ちなみにメイド服は俺が着せたわけじゃないよ。もし俺が将来メイドを雇えるようになってもメイド服は着せない。だってそれはエロに値するからね。
「…………」
百合は俺の問いに答えることなく、「朝食ができていますので」とだけ言って階段を下りていてしまった。
その耳が真っ赤に染まっていることを俺は見逃さなかった。
俺は部屋で着替えを済ませた後、リビングに行く前に洗面所へと向かった。
歯を磨き、顔を洗って、寝癖を直す。
日課の笑顔の練習をしているときに、違和感を覚えた。
自分の顔が自分の顔でないように思えたのだ。──なんだ、いつもよりも少し青白い気がする。血色が悪い。それに頬が少しこけている。寝不足を疑って、昨日のことを思い出そうとするが、どれだけ頭をひねっても思い出せない。
強烈な不調和を感じながらも、心の底からは理不尽な納得がせりあがってくる。それが脳天まで達したとき、違和感はすでに消え去っており、思い出せない夢のように霧散してしまった。
俺は嫌な想像を振り払うようにもう一度顔を洗った。
リビングのドアを開けると、トーストのいい香りがした。テーブルの上にはすでに朝食が用意されており、コーヒーからは湯気が立ち上っている。
台所からはかちゃかちゃと音が鳴っていて、百合が洗い物をしていた。
俺が席に着くと、正面に座っていた夕霧と目が合う。
「おはよう」彼女が小さいながらもよく通る声で言う。
「おはよす」俺は笑顔で手を上げて、返事をした。
「……なにそれ?」
「さあ?」
俺は肩を竦める。夕霧は心底不思議そうな顔で俺を見た。ジョーク未満の軽いおふざけを説明する言葉を俺は持ち合わせていない。
目の前の彼女、『藤沼夕霧』は、俺の幼馴染だ。
曇り空を塗りこめたような灰色の髪を外側に何度もはねさせながら、腰のあたりまであるロングヘア―。
小柄で華奢だが、その瞳は炯炯としており、強い意志を宿しているように思える。彼女は旧家のご令嬢で、とてもお金持ちらしい。そのため、幼い頃からずっと百合が世話係として付き添っているわけだ。
俺は本来なら、夕霧のために用意されている朝食のおこぼれを頂いているのだ。両親が海外出張している身としてはありがたいとこの上ないね。百合が常時メイド服を着用しているように、夕霧もまたいつも着物を着用している。
旧家の銘家ってのはそういったところまで指定されるのだろうか? まあでも、柳があしらわれた濃藍色の着物が夕霧の儚げで幽玄な雰囲気にとてもよく似合っていた。
夕霧の視線が窓の方に向いていたので、釣られて目を向ける。
いつもと変わらない最低限しか手入れのされていない我が家の庭だ。
「……蝉」
「ん?」
「まだ鳴いている」
──ああ、なるほど。
俺はテレビに目を向けて日付を確認する。
『九月四日 火曜日 七時三十分』
もう、夏休みは終わったのだ。
楽しかった夏は過ぎ去ってしまって、これからはまた変わらない日常。
そんな夏を惜しむように、しがみつくように蝉が鳴いている。しゅわしゅわしゅわとサイダーが弾けるように。高校生活も折り返しなのだ。そろそろ、遊んでいるだけの子供ではいられない。夕霧はそんなことまで考えて、鳴いている蝉の声に耳を傾けているのだろうか。そのガラス細工のように繊細な横顔からは何もわからない。
「どうしたんですか? 二人してぼーっと外なんて眺めて」
洗い物を終えた百合が、エプロンで手を拭きながら席に着く。
「いやね、そろそろ俺も一皮むけようかなって」
「……はい?」
百合が呆れたような顔で俺を見る。テレビでは、府内でまた怪人が出たと報道されていた。
朝食を食べ終えた俺たちは、戸締りをして外に出た。ぎらぎらとした日差しが僕の全身を刺す。思わず遮った手の隙間から見える青が、どこまでも広大だった。
「暑いね、今日も」
「……はい」
主従の二人が肩を落としながら言い合う。
メイド服と着物だからだろう。昔から夏になったら指摘しているのだが、涼しい顔をするので(汗だくだくで)、俺はもう何も言わないことにしている。
俺は隣の家の玄関に目をやるが、期待した人物はいなかった。
「あれ? あるりは?」
「すでに学校に向かわれたそうです。お母さまからそう言付かっています」
「ああ、そう」
珍しいな。あの寝坊助なあるりがなぁ。いつもなら隣の家に住む河野あるりを俺ら三人が起こしに行くのだけど。何か学校でやることでもあるのだろうか?
俺達の通学路は田んぼばかりだ。
夏の間はあんなに青々と茂っていた稲たちも、そろそろ先端が黄金に色づいてきた。
まだ会釈くらいしか首を垂れていない稲たちを横目に、トラクターが通るために申し訳程度のコンクリート舗装がされた道を歩いて行く。
俺の家から五分ほどの場所には十字路があって、そこには防災無線が立っている。その根元に真っ黒で長身のシルエットが見えた。そのシルエットが僕らに気付き、ぶんぶんと大きく手を振る。
「おう! アキマサ! おはよう!」
そのハスキーな声の持ち主が、主人の帰りを待ちわびた飼い犬のように、走って近づいてきた。
俺よりも少し身長が高く、俺たちの中でも一番女性的な凹凸を持っている彼女は、スカートが嫌とかで男子生徒用のスラックスを着用している。
目に前髪がかかっていて、グネグネとうねったパーマのような艶やかな黒髪のショートカットの彼女は『
俺たちはハルと呼んでいる。
河野あるり、藤沼夕霧、白崎百合、そしてハル。──幼馴染が多すぎる! って程でもないか。俺合わせて五人だもんな。
ハルが俺の肩に腕を回してくる。
ジャスミンとローズに汗の香りが混じっている。
俺の背に接触する彼女の体はしっとりと濡れており、柔らかい。しかしこれに情欲を感じてしまってはダメなのだ。ハルは流し目の良く似合う美人ではあるが、その根幹を作っているのはあどけない少年のような顔立ちなのだ。
それにハルだって、俺のことただの仲のいい幼馴染にしか思っていないだろう。その証拠にほら、今だってとてもよくなついた大型犬のように体重を預けているだけだ。
「ねえ、やめなよ。嫌がっている」
どんな反応が正しいかわからず、硬直してしまった俺を見かねてか、夕霧が助け舟を出してくれた。
「うるせえ! ……なあ、アキマサ、迷惑か?」
ハルが夕霧に対して吠えた後、俺に向かって沈痛な面持ちで問う。やめてくれよ。そんな悲しそうな声を出さないでおくれよ。
「あはは……」
俺は曖昧に笑う。その言外に隠された意図を悟ってか、ハルは名残惜しそうに離れていった。その前に耳元で中国語で何事かを囁かれたが、俺には意味が分からなかった。
それからも通学路は続く。日常は続く。新しい出会いなんて滅多にないし、俺たちの青春ってのは日常の延長でしかない。それは楽しい。それは満ち足りている。でもさ、本当にこのままでいいのだろうか?
学校に着いてみんなと別れる。
今年は皆クラスが離れてしまった。今までは最低誰か一人とは一緒だったのに。寂しいね。
俺の教室は靴箱から一番遠いところにある。始業前の喧騒にまみれた廊下を歩いていると、視線を感じた。あけ放たれた教室の扉から奥、窓際に近い席に座って、あるりがこちらを見ている。その目は大きく見開かれており、驚愕を隠そうともしていない。そして、声は聞こえなかったが、口の動きで何を呟いているかが分かった。
『なんで』
俺が手を上げてあいさつをすると、あるりがすっ飛んできた。
「マサ君‼」
「おお、なんだあるり元気だな。それに早起きだ。午後からは雹か?」
あるりが俺の全身を、実在を確かめるようにペタペタと触る。
あるりはセンター分けのおしゃれなおさげで、目に光はあまりないけど普段はとても明るい奴なのだ。
それがこんなに憔悴している。あるりは俺の瞼や後頭部、口の中まで調べた。
それでも納得しないのか、俺の周りをくるくると回る。しかし、しばらくそうやっていると、だんだん落ち着いてきたのか、最後には笑顔でおはようと言ってくれた。
「ごめんね。なんか勘違いしてたみたい」
そこで予鈴が鳴ったので、あるりと別れ、教室に向かった。あるりはぼそぼそと何かを呟いていたが、遅刻はしたくないので気にしないことにした。
教室に入り、自分の机に目をやると花が飾られていた。
「…………」
五つの花弁が割れた紙風船のように開く紫の花、桔梗。ほっそりとしたくびれのあるつぼ型の花瓶に、いやらしくなく、それでいてはっきりと活けられている。
またか、俺はそう思った。
夏休みが始まる前もこういうことがよくあった。嫌がらせ、と言うのかな。表立って何かをされるわけでななかったが、靴箱に呪いの札みたいなのが入れられていたり、体操服がなくなったり、シャーペンがなくなっていたり、そういうことが多々あった。理由はよくわからない。
俺が美人の幼馴染と、それも四人といつも行動を共にしているからだろうか。
別にそういう勘繰りされるような関係ではないんだけどな。
でもさ、それは一義的な物の見方で、その実、俺を思っての行動かもしれない。何か、俺の知りえない危険から守ってくれているとか。……さすがに無理があるか。どう考えても想像が嫌な方向にしか行かない。俺はとても悲しかった。
「おう、遠山。久しぶりだな」
俺が花瓶をどかし、授業の準備をしていると後ろから声がかかった。振り返るとガタイの良い、やけに色気のある坊主がそこにいた。
「梶、おはよう」
この坊主は『梶雄大』と言う名前で、中学のころからの知り合いだ。野球部でピッチャーをしている。梶からギャツビーの汗拭きシートの匂いがした。朝練帰りだろうか。梶は俺が机の端にどかした花瓶に目をやった。
「ああ、それな。昨日から置かれてたんだよ。ここで着替えてたから知ってる。俺もさ、気分わりぃからどかそうとしたんだが、その花、桔梗だろ? だから遠回しの告白なんじゃないかと思ってさ」
「告白? 何で?」
「だってよ、桔梗の花言葉『永遠の愛』だぜ」
「……よく知ってるなぁ」
「一応こんなでも花屋の息子なんでな」
梶が自嘲的に笑う。黒々と日焼けした肌に、汗の粒が浮かんでいる。そうか、告白か。だってもし嫌がらせするなら、置かれるのは菊なんかの仏花だもんな。そう考えると、目の前の桔梗がたまらなく愛おしく思えてきた。
「でも、誰が?」
「さあな、俺が知るかよ。あの四人のうちの誰かじゃねぇの?」
「……あいつらとはそういうのじゃないよ」
「はん、言ってろ。そうして機会を逃せ。青春を仕損じて一生後悔し続けろ」
俺はとても言い返したかったが、そこで本令が鳴ってしまったので、出かかった言葉を呑み込んだ。
「んでさ、結局お前は誰が本命なの?」
一時間目が終わり、二時間目の移動教室の準備をしていると、先ほどの続きだと言わんばかりに梶から声がかかった。
「あのだなぁ、梶以外にもよく言われるけど、本当にそういうんじゃないんだって。男女が仲良くしているとそういうふうにしか考えられないのは思春期の悪いとこだよ。昔から仲のいい友達がたまたま、異性だっただけだ。俺にも、あいつらにも恋愛的な感情はないよ」
「でもなぁ、お前があのうちの誰かと早く付き合ってくれないと困るんだよ」
「は? 何で?」
「だってだぜ、こんな田舎の高校にとびきりの美人が四人いるんだ。あんなの目を惹かれない方が嘘だろ。他の女が掠んじまう」
「うわぁ、いやだなぁ。そんな言い方。まるで女性をモノ扱いしているみたいだ」
「黙れ。とにかくお前には、四人のうちの誰かを選んで、他の三人をリリースしてもらわなきゃ困る。そしたら俺らが手を出せるから。傷心ってのは付け込むチャンスがあるんだよ」
「最低だな。それにそもそも前提がおかしい」
俺たちは音楽室に入る。これは選択授業なので、二クラス合同授業だ。なので、隣のクラスの百合もいる。音楽室の右端に座っている彼女を見つけたら、彼女もこちらの方を見ていたらしく、笑顔で小さく手を振ってくれた。
「ほらな」
「何が」
「白崎さんは、お前ら以外と話さないんだよ。いつも無口無表情で、話しかけてもピクリとも動かない。笑顔なんてもってのほかさ。ずりぃよ」
百合は人見知りなのだ。ただそれだけ。
「というか、河野さん以外全員、お前ら以外と話さないんだぜ。白崎さんと藤沼さんには無視されるし、朱さんに至っては近づくだけで睨まれる。殺されるんじゃないかってくらいの眼光でな。河野さんだって、表面上は明るくて、人懐っこいがどこかでは一線引いている。それがお前の前じゃ皆笑顔で楽しそうなんだ。これで誰もお前に思いを寄せていないなんて嘘だろ」
こいつはよく人を観察しているなと、思わず感心してしまったが、その観察眼も行動力もすべて下心が原動力なので、素直に称賛できない。──でもそうか。外からはそう見えてしまっているか。問題だな。
俺はあいつらにもっと広い視野で物事を見てほしいと思っている。
だけども、そうできないのはあいつらの過去も関係しているから、軽はずみに言うことはできない。ただ自然に外に興味を持ってもらいたい。そうしたら僕の役目はようやく終わる。それは寂しいことではあるが必要なことなのだ。
◇
すべての授業が終わって、校舎が暮色に染まる。
帰る準備をしていると、窓の外からバッドの芯にボールが当たった甲高い音が響いてきた。カナカナカナと日暮も鳴いている。
周りに人はもういない。先生に頼まれて、倉庫の片づけを手伝っていたので、こうして少し遅い時間に下校することになったのだ。
靴を履き替えて、正面玄関を出ると、校門のあたりに見覚えのあるシルエットが四つあった。──待っていてくれたのか。
「お疲れさま」夕霧が労ってくれる。
「先に帰っててもよかったのに」
「そんなんじゃ学校に通っている意味がないだろ」ハルが僕の背中をバンバンと叩きながら言った。痛い。
「まあ、いいじゃん。日課っていうかさ、みんなで一緒に帰らないと、学校が終わったって感じがしないんだよね」あるりが後頭部に手をやって言う。
「…………」百合は夕霧から一歩引いたところで、淑やかに立ちながら、小さくコクコクと頷いていた。
「……そうか。皆、ありがとうな。じゃあ一緒に帰ろうか」
皆が示し合わせたように、同時に頷いた。とびっきりの笑顔と共に。
これが僕たち四人で一緒に下校する最後の日となった。
帰り道。
行きと同じ田んぼ道だが、打って変わって少し不気味に映る。
街灯が等間隔に並んでいるが、道のすべてを照らせるほどの間隔には存在しない。丸い明りと丸い明りの間は闇だ。稜線に残る夕日が辛うじて、歩けるようにしてくれている。山から吹き下ろされる少し水分を含んだ風と、鈴虫の鳴き声が、暑さを忘れさせてくれた。
俺はそこでふいと『役目』と言う二文字が頭をよぎった。一度手を出したのなら最後まで責任を持て、最後に親父に会った時に言われた言葉を思い出す。
「……あのさ、皆は高校卒業したらどうするの?」
まだ遠くにある防災無線からドヴォルザークの『家路』が流れ出す。ローポポー。もう帰る時間だ。まあ帰り道なんだけど。
カツカツカツと四つの足音。誰も返事をしない。会話もない。それに皆どこか余所余所しい。
「え? 聞こえてない? あるり?」
あるりはこっちをちらりと見るが、その横顔に影を落とすばっかりで口は堅く結ばれている。
「その、俺は一応大学進学なんだけど……」
「ダメだ」
「──え?」
いつの間にか俺の隣を歩いていた、ハルがそう言った。
「な、なんで?」
「とにかくだめだ。……私こっちだから」
理由を言う前に、ハルは防災無線の十字路を横にそれる。その背中にはすさまじい覚悟が宿っているように見えた。──なんで?
「大学って、どこの大学?」夕霧が俺の瞳を真剣に覗き込みながら言う。
「ああ、まだ決めてないんだけど。多分、大阪の方の。東京ってことはないよ。うん」
「……そう」
夕霧はそう小さく呟いて、また黙ってしまった。
すると、前の方から二つの明かりが接近してくる。俺たちがいたんじゃ通れないだろうと端に避けるが、その車は俺たちの前で止まった。中から、スーツを着た顔に険のある長身の眼鏡をかけた男が出てきて、
「夕霧様。お車に。急ぎの要件がありますので」と言い後部座席のドアを開けた。
「……じゃあ、私たちはここで」
「お先に失礼します」
夕霧が残念そうに、百合が折り目正しく礼をして別れの言葉を告げる。二人にはときたまこうして迎えに来られるとことがあった。素封家特有のものなのだろうか。うちは貧乏ってわけじゃないがお金持ちって程でもないのでよくわからない。ノブレスオブリージュ? 大いなる力には大いなる責任が伴う?
「あ、そうだ」
夕霧が俺に手招きをする。俺が近寄って、腰をかがめると、耳元で、
「明日、放課後少し時間貰えない?」と囁いた。
──明日。俺は脳内にてスケジュールボードを開く。確か特に何もなかったはずだ。俺は頷くと、夕霧は俺の頬に手をやって「また明日」と笑顔で言った。
真っ黒い車が、闇に溶けていくように遠ざかっていく。そのテールランプが見えなくなるまで俺とあるりは立ち尽くした後、再び歩き出した。多分原付は明日取りに来るのだろう。
「多分さ」隣合う俺とあるりの家が見えたところで、あるりが思いついたかのように言う。「みんなまだ将来なんて考えたくないんだよ」
何のことかと思ったか、どうやらさっきの話の続きみたいだ。卒業後どうするかの話。
「でも、俺たちもう高二だぜ。夏休み前に進路調査票も出しただろ? 最低限方向性は考えなきゃならない。──あるりはなんて書いたんだ?」
あるりは空中のあちこちに視線を移し、「あ~」だとか「う~」だとか散々に唸った後、
「……お嫁さん」足元の小石を切りながらぼそりと言った。
「はぁ?」
「もう! べつになんだっていいでしょ。いいよね、マサ君は大学に行くなんて立派な目標があって! どうせ私には何もありませんよだ!」
あるりはあっかんべをして自分の家の方に走っていく。呆れてその背中を見ていると、彼女は玄関を開ける前に振り返って、
「マサ君! 明日からも楽しく……楽しくやろうよ! そのほうがきっと、ずっといいよ!」と向日葵のような笑顔で言った。
俺にはその笑顔がどうにも虚しく思えた。
だってその瞳の奥には深い悲しみが宿っていたから