「あの、遠山君。ちょっとお願いがあるんだけど……」
翌日の朝、朝練が休みだという梶とまたくだらないことを話していると、佐田さんから声がかかった。
「どうしたの?」
佐田さんは去年同じクラスだった子で、クラス委員長を務めていたとても真面目な女の子だ。俺たちは六組、彼女は俺の記憶が正しければ三組だったはずなのだが、こんな辺境の地にいったいどうしたのだろうか。
「あの、その、私今年も委員長やっててね。今、提出物を集めてるんだ。夏休みの前出したでしょ、進路希望調査票。私のクラスにまだ提出していない人がいてね」
そこまで言われて合点がいった。確か三組にはハルがいる。
「ハルがまだ出していないんだな」
「うん、そう。それで、あの、遠山君悪いんだけど……」
「了解。いいよ。次の休み時間にでも回収してくるよ」
俺がそう言うと、佐田さんは顔を輝かせ、お礼を言って走り去っていった。梶が呆れた目で俺を見ている。
「お人好しだな。昼休みもなんか頼み事されてただろ」
「ああ、ラクロス部の部室にロッカーを運び込むんだ」
「精が出ますねぇ。あ、いやらしい意味でなく。──と言うかなんで断らないんだ?」
「いつか僕が困ったときに、誰かを頼れるように」
「そうかよ」
そして一時間目の退屈な数学を何とか寝ずに聞いた後、三組の前までやってきた。
休み時間の教室は喧噪で満ちている。うわさ話に、昨日のドラマの話、誰かがだるいと言えば輪唱かのように皆だるいだるいと言い出す。
そんな中、そこだけぽっかりと空間があるように、誰も近づかない場所があった。その中心には、ハルがいる。肘をついて、つまらなさそうに窓の外を見ていた。孤独ではない、孤高だ。そんな言葉が頭に浮かんだ。
「ハル」僕は少し声を張って呼びかける。
──ガタッ。
ハルは、反射的に立ち上がり、きょろきょろと教室中を睨むように見回した後、僕を見つけて相好を崩した。
そんな無邪気な笑顔に至るまでに、教室中に殺意を振りまいていたので、あたりは静まり返っている。──あんなんじゃだめだよなぁ、どう考えたって。
「アキマサ! なんだなんだどうした? 珍しいじゃんかよ、お前から訪ねてくるなんて!」
ハルが、カカカと笑いながら、肩で風を切って近づいてくる。クラスの人たちは気まずそうに眼をそらしている。
「ようやく腹を決めたか。愛の告白か? ん?」
俺の前では本当に人懐っこい大型犬のようなのだ。いつでもそんな雰囲気を隠さずにいれば、俺たち以外とも友達になれるのになぁ。
「いや、違うよ。こんな衆人環視の前で告白なんてしないよ。するとしても、手紙とかで呼び出して、人気のないところでする」
「……じゃあ、何の用だ?」ハルが肩を落として言った。
「ハル、まだ進路調査票出してないでしょ。それを回収しに来た」
「はぁ? 何それ、私知らねぇぞ」
僕はため息をつく。
「そんなことだろうと思ったよ、どうせ机の中に入ってたりするんでしょ。探させてもらうよ」
俺は三組の中に入っていく。
「ああ、待て待て。自分で探すから待ってくれ!」
ハルが焦った様子で、俺の進路をふさぎ、大急ぎで自分の机の中を漁りだす。
少しすると、ハルがくしゃくしゃになった紙を差し出してきた。
「……何にも書かれてないじゃん」
「…………」ハルが気まずそうに眼をそらす。
「昨日も聞いたけど、ハルは高校卒業したらどうするの? 進学? それとも就職?」
ハルは俯いて、地面を足で弄りながら黙っている。ここで甘やかしたら予後が悪くなる。俺は心を鬼にして、黙ってハルを見ていると、しびれを切らした彼女が後頭部をガリガリと掻いて言った。
「わかったわかった。書くよ、書くから怒らないでくれ。なっ」
「はい、これ」
俺はハルからくしゃくしゃの紙を受け取る。
そこには第一志望から第三志望まで書く欄があるが、第一志望の欄にだけ、角ばった文字で『誰も知らない国に行く』と書かれていた。
「…………」
俺は怪訝な目でハルを見る。
ハルは先ほどまでと違い、堂々としていた。顔には大きく、言ってやったと書かれている。
「あのね──」
「なんだよ。文句あんのか? 私にはこれ以外ないぞ。──ていうかそもそもマサが言ったんじゃないか」
「……俺が?」
「そうだ、まさか忘れたのか?」
俺は少し頭をひねって考えてみるが、思い当たることはなかった。そんな俺の様子に落胆したのかハルはため息をついた後、
「まあいい。もう少しだ。もう少し待ってくれ、そうしたら──」
チャイムが鳴る。間髪入れずに教師が入ってきたので会話を中断せざるを得なかった。
「それじゃ、ハルまたね」
ハルはまだ何かを言いたげにしていたが、俺は三組の教室から早足で出て行った。
昼休みに回収した調査票を佐田さんに渡すと、出さないよりかはマシという理由で教師との便宜を取り計らってくれるみたいだった。──誰も知らない国か。そんな場所は本当にあるのだろうか。
放課後、俺は実習棟の一階にある和室にやってきていた。
昔は授業で使われていたらしいが、今はほとんど廃部同然の茶道部の部室となっている。その茶道部ですら今はいない。いるのは、深緑で無地の着物を着た夕霧。彼女は今お茶をたてている。
久しぶりだな、と俺はそう思った。
夕霧は幼ない頃から、たくさんの習い事をしていた、らしい。
家から強制されてやっている習い事を彼女は心底憎んでいたが、そのくびきから解放された今では、純粋に趣味として楽しんでいるという。お茶もその一つで、夕霧の気の向いた時にこうして、お茶を飲ませてもらっているのだ。こういう時、彼女には相談したいことがあるっていうのもわかっていた。
俺の前にお茶が運ばれてくる。
作法はよくわからないし、夕霧も気にしないでいいと言ってくれている。
だから俺は見様見真似で茶碗を二回転させた後、口を付けた。
新緑がふわっと駆け抜ける。その後心地よい苦みがやってきて、その奥に仄かな甘みがある。俺の少ない語彙で表現するならば濃厚でクリーミー。
きっと夕霧のことだから、上等で完璧なんだろうな。
「……け、結構なお手前で」
「そんなに肩肘張らなくても大丈夫だよ。足も崩していいし、そこのお菓子も食べていい。お代わりは?」
「……お願いします」
教養、余裕。格の違いを見せつけられて、俺はちょっぴり自分が情けなくなった。
部屋の隅では乳香が焚かれていて、そのいい香りに胸が満たされる。
その香りをあえて表現するなら、レモン牛乳?
「今日、百合は?」
「……他の女の話するんだ」夕霧はからかうようにクスリと笑いながら言う。
まあ、話題に困って百合の名前を出したので、後に続く言葉が何もない。そんな様子を見透かしてか夕霧は、
「百合は用事があるとかで早く帰ったよ」
「ふ~ん、珍しいな。いつも夕霧にくっついている、夕霧大好きっ娘なのに」
夕霧が少し表情を曇らせた。
「あの子は、そんなんじゃないよ」
「そ、そう言えばさ。今日の朝頼まれて、ハルのところに進路調査票取りに行ったんだけど、なんて書いてあったと思う?」
「アキ、昔のことはよく思い出す?」
「え?」
夕霧には僕の問いなんて届いていなかった。
まあ大したことじゃないからいいんだけど。
夕霧はさっきからずっと何かを言おうとしては辞めていたが、ようやくその糸口をつかんだのだろうか。
「う~ん、そうだな。シャワー浴びてるときとか、夜寝る前とかにふと思い出すことはあるよ。廃工場で子犬を飼ってたことなんかだとか。ハルがめちゃくちゃ高い木に登ってさ、落ちて、死んだと思ったら、きれいに着地したこととかさ。まあ、色々」
「……私のことは?」
夕霧は視線を、正座の上に乗せている拳に集めていたので、その表情は分からない。
「ん? そうだぁ」俺は思い出をさかのぼる。「あ、初めて会った時のこと、あれはたまに思い出すな」
あるりと一緒に幽霊屋敷と呼ばれている場所を探検しに行ったときだ。
その屋敷の縁側でつまらなさそうに庭を眺めていた夕霧と出会った。その物悲しそうな表情をどうにかしたくて、俺は彼女を屋敷から連れ出したのだ。何もかもに新鮮に驚いてくれる彼女と街中を歩き回ったのは今でもたまに思い出す。
「そう。……良かった」夕霧はほっと胸をなでおろす。
「夕霧はどうだ? 何か覚えてることはあるか?」
「……全部覚えてる。あなたと過ごした日々は全部」
──すごくうれしいことを言ってくれるな。
あの時、勇気を振り絞って手を差し出した甲斐があった。
「あのさ。……えっと、なんて言ったらいいか。これはとても迷ったんだけどね」
夕霧は普段の上品の所作とは打って変わって、視線を四方八方にまき散らし、あたふたとまた何かを言いあぐねている。
俺は黙って待つことにした。
緊張感のある沈黙が茶室を満たす。すると夕霧は深呼吸をした後、覚悟を決めた顔でじっと俺の顔を見据えて、
「…………………………………………やっぱ何でもない」と蚊の鳴くような声で言った。
最終下校のチャイムが鳴ったので、魂の抜けたような夕霧の背中を押して、どうにか下駄箱までやってきた。
あれからも夕霧は何度も何かを言おうとしたが、結局は言うことができず。とりとめのない話題を俺に振ってきた。──昔のこと、最近読んだ本のこと、百合のこと。
それに付き合っているとあっという間にこんな時間になったのだ。最後の方には夕霧が泣き出しそうな顔になったので、こっちからも助け船を出したのだが、それでも言うことはできず、今はこうして呆然自失としている。
「ほら、夕霧。靴はいて」
「ん」
「今日は帰りどうするの? 送っていこうか」
「いや、迎え、来てるから」
校門には昨日と同じ黒いセダンが止まっていた。
俺が車に向かって歩き出すと、制服の裾を掴まれる。
「どうした?」
「アキ、もう少し待ってね。そうしたらきっと言うから」
「……うん、待ってるよ」
夕霧は「また明日」と言い残して、駆け足で去っていく。
途中で振り返って、大きく手を振った。夕焼けのせいでその影が何倍も大きくなっていた。
その夜。風呂に入って、課題をしているとチャイムが鳴った。
インターフォンを覗くと百合だった。
『あの、ご飯ってもう食べられましたか?』
百合は手に鍋を持っている。
ほっとくとカスみたいな食生活の俺を心配してきてくれたのだろう。家に上げるとさっそく鍋を火にかけてくれた。
「百合は今日何していたんだ?」
百合と夕霧は二人でワンセットみたいなところがある。いつも夕霧の傍には百合が控えているからだ。今日はよっぽど大事な用事があったんだろう。
「……それ、聞きます?」
「え、聞いちゃダメだった?」
「アキ様がお望みならお答えしますけど、多分気まずい空気になって終わるだけですよ」
「…………」
──下着の買い出しとかだろうか。
おっと無粋なことを考えるのは辞めろ、俺!
こうしてわざわざ夕食を作って持って来てくれているんだぞ、とても失礼だ!
俺が頭をぶんぶんと振って煩悩を追い出していると、目前にお椀が差し出される。中には具沢山の豚汁が入っていた。味噌の香ばしい匂いが食欲を誘う。
「いただきます」
俺は手を合わせて言った後、豚汁をほおばる。
ごぼうに、人参に、玉ねぎに、豚肉に、サトイモにと豚汁に入っていたら嬉しい具材が全部入っていた。
豚肉特有の甘さを邪魔することないように出汁が引かれており、白と赤の合わせみそも複雑なうまみを醸し出している。食べる人のことを考えた、とても丁寧な仕事だ。
「どうですか?」と答えは分かり切っているはずなのに、不安そうに百合が言う。
「うん、とてもおいしいよ。ありがとう」
そういうと百合はほっと一息ついた。それからニヨニヨと頬を緩ませ、慈愛の目で俺を見ている。
「百合も変わったよな。昔と比べて、良く笑うようになった」
「……今、私笑っていましたか?」百合が急に姿勢を正し、口元を手で覆いながら言う。
「うん。あ、いや攻めているわけじゃないよ。ただ嬉しいなぁって」
「嬉しい、ですか?」
「最初の頃の百合はさ、まったく笑いもしなかったし、全く喋らなかったよね。だからさ、こうして仲良くなれてうれしい」
「またその話ですか。昔の話はあまりしないでください。恥ずかしいです」
百合は顔を真っ赤にして、俺から目をそらす。
「その調子でさ、俺ら以外とも仲良くしてほしいな。もっと外に目を向けてさ、そしたらきっともっといいよ。百合は器用だから絶対うまくいく」
「それをして何の意味があるんですか?」
「──え?」
「私にはあなただけいればいいのです。それだけあれば生きていけます」
「いや、そんなことは絶対ないよ。生きていくには人の助けが必要だ。一人では生きていけない」
「いえ、私はずっと一人でした。一人で生きてきました」
「でも、夕霧は──」
俺は二人の関係をよく知らない。
どういった契約で、百合が夕霧に仕えているかは知らない。でも、少なくとも百合は夕霧の家に住んでいる。それは一人で生きているとは言えないんじゃないか?
「あの人だって、別に、私には──いえやめましょう、こんな話は。……それより今日夕霧様とお茶していましたよね? 何か言われませんでした?」
「え? ああ、特に何も。ただいつもみたいに雑談をしてただけだよ」
百合が探るように俺を見る。
そのあまりの眼光に、首筋に冷たい汗が伝った。
「やはり、そうか」
「?」
「いえ、こちらの話です。──では私はそろそろお暇致します。夜分遅くに申し訳ありませんでした」
「いや、全然。あ、豚汁ご馳走様」
「お粗末様です。──また、その、次は出来合いのものではなく料理を作りに来てもいいでしょうか?」
「うん、もちろん。大歓迎だよ」
百合はにっこりと花開くように笑った後、原付に乗って帰っていった。
一人なわけないんだけどなぁ。
◇
今日も今日とてまだ暑い。始業前汗を拭いながら、机にぐでーと横になっていると、毎度のことながら梶から声がかかった。
「おい、遠山! お前藤沼さんから何か聞いてないか?」
「うるさいなぁ、何だよそんな騒いで。──何も聞いてないって」
「じゃあ聞いてきてくれ!」
「何を?」
「は? お前ニュース見てねぇの?」
「見てない」
今日の朝は百合が作ってくれたサンドイッチを食べながら録画していたアニメを見ていた。あ、エッチな奴じゃないよ。硬派な奴。
「大阪の山岡組の本部が一夜にして潰れたんだよ! 爆発と火事! それに激しい戦闘があったって!」
「……それが夕霧に何の関係があるんだよ」
「だって藤沼さんの実家ってヤクザ屋さんだろ? 噂じゃ、昨日の事件藤沼がやったって聞いたぞ。だから、真相を聞いてきてくれっ!」
──は? 何言ってんだこいつ。夕霧の実家がヤクザ? そんなの聞いたことないぞ。だってあいつの家は…………あれ? なんだっけ? 地主?
「なぁ、遠山頼むって! 俺仁義なき戦いめっちゃ好きでさ、こんな時代にこんなこと起こらないんだって!」
「知らねぇよ。聞きたいなら自分で聞け」
梶はだって怖いもんと頬を膨らした。ガタイのいい坊主がそんなことしても全く可愛くない。
放課後、帰る準備をしていると、あるりが訪ねてきた。
「マサ君、かーえろっ」
「おう。他のみんなは?」
「なんか急いで帰っちゃった」
「そうか」
俺は少しがっかりしたが、まあこういう日もあるかと思いなおす。
スクールバックを肩にかけ、あるりと共に下駄箱へと向かった。
自分の靴入れを開けると手紙が入っていた。あるりはクラスが違うので列の違う下駄箱にいる。俺は周囲を確認したのち、その可愛らしい便箋の封を開けた。
『今日の夜九時、いつもの廃工場で待っています』
署名はされていない。差出人不明。しかし、いつもの廃工場と書かれている。多分俺たちが小学生のころ使っていた秘密基地を指しているのだろう。ならばある程度予想は付く。俺の幼馴染、あの四人のうちの誰かだ。
俺の脳内な様々な感情が渦を巻く。
嬉さ、切なさ、困惑、歓喜、狼狽、焦燥。
いや、待てまだ告白されると決まったわけじゃない。俺の頭にいる冷静な人格が突っ込みを入れてきた。じゃあ、何だって言うんだ。悪戯だ、梶とかの。
しかし奴は中学のころからの知り合い、あの廃工場は知らないはず。じゃあ、なんだよ、他の可能性は? シめられるとか。それこそなんで? でもこういう場合、トホホってなるのが定石だろ。
でも、もし、マジで告白だとしたら? あの四人が俺に対して、悪い感情を抱いてないことぐらいは分かる。それを恋愛感情だと誤認して、告白してきたら? ──どうしよう。
「マサ君?」
あるりから不意に声がかかり、俺は思わず手紙をカバンに突っ込んだ。
「なに? 何見てたの?」
あるりが俺のカバンを覗き込もうとするのを体を使って阻止する。
「あ、いや、手帳見てた」
「じゃあ、何で隠すの?」
「それはぁ……」その先が続かない。
あるりがじぬろとした視線で俺を見てくる。
「…………えっち」
なんか、不名誉な方向に勘違いしてくれた! 一安心! 一安心?
空は暮色蒼然。ウロコ雲。ノスタルジー。
温度自体は高いが、風は冷たい。周りが田んぼだからだろうか。遠ざかっていく夏が手を伸ばして、必死に世界にしがみつこうとしているみたいだ。鼻歌を歌いながら、調子よく歩いていたあるりが振り返って笑う。
「そういえばさ、マサ君。ポチコって覚えてる?」
「もちろん」
ポチコとは昔、秘密基地の廃工場で飼っていた子犬だ。
親からはぐれたのか迷い犬になっていたところをあるりが助けた。そのせいであるりはあわや死んでしまうところだったのだけど。
「結構長いこと飼ってたよね。みんなで餌とか持ち込んでさ。でも、最後にはいなくなっちゃったよね」
「あんなに懐いていたのになぁ。誰にも縛られず、自由になりたかったんだろう」
「……そうなのかぁ。それでね、急にこんな話をしたのは前に夢に見たからなんだ」
「夢?」
「そう、夢。その夢ではね、あの廃工場でポチタが走り回ってた、楽しそうに。尻尾をぶんぶん振っちゃってさぁ、よだれなんか垂れまくり」
「なんか、想像できるな」
ポチコはダックスフンドだった。
たれ耳でタレ目で穏やかで人懐っこい犬だった。俺たちが、廃工場に行くと嬉しそうに駆け寄ってきて、遊んでくれとせがむ。ボールを投げてやると、よだれをまき散らしながら一生懸命に取りに行く。そんな犬だった。
「そこにはさ、マサ君もいたんだ。ポチコと一緒に遊んでた」
「それはいいな、俺ももう一度遊びたいよ」
「うん、夢の私もそう思ってね、二人の元に向かったんだけどね、どれだけ走っても辿り着かなかったんだ。映画を見るように、ガラス越しに見ているように、私とマサ君たちには、絶対に超えられないラインがあった」
「…………」
「その夢を見たのが、三日前」
あるりが言わんとしていることが分からない。だけど、彼女はとても真剣な表情をしている。ただ、昔話や夢をしたいんじゃない、何か意味が含まれている、俺にはそう感じられた。
空ではカラスが鳴いている。山の方ではヒグラシが鳴いている。コオロギと鈴虫がかったるそうに鳴き始めた。田舎では、意識さえすればたくさんの音がある。あるりの顔には夕日によって影が差していた。
「マサ君はさ、結局誰が好きなの?」
「…………え?」
「家庭的で料理上手な百合ちゃん? 何でもできて家もお金持ちな夕霧? 闊達で気安いハル?」
「…………なんだよ急に」
「急にじゃないよ。問いはずっとあった。マサ君が答えなかっただけ」
「俺は──」
俺は、俺の顔を楽しそうに覗き込んでくるあるりから目をそらした。
あるりが俺の背の方に回る。
「まあ、いいよ。今は答えなくても、これは私のエゴだから。でもさ、マサ君今日秘密基地来るんでしょ? ならそれまでに何かしら答えは用意しておいてね」
「な、なんでそれを?」
俺が振り返るとあるりは姿を消していた。
まるで初めからいなかったみたいに。俺は辺りを見渡したが、一面に田んぼがあるだけであるりは見当たらない。
ただ、害鳥除けの、もんぺを着たかかしが夕日に照らされながら、風に揺れているだけだった。
夜、時間になったので俺は家を出た。
全身に虫よけスプレーをかけて、片手には懐中電灯を持って。俺たちの秘密基地であった、廃工場は今は使われていない旧街道から少し外れた道にある。
鉄くず買い取りますと書かれた看板を横目に細い道路を上っていく。
自販機の明かりに虫が集まっていた。辛うじて草に覆われていない、車のタイヤの間隔に剥げた道をしばらく歩くと、闇夜にそびえたつ廃工場が見えてきた。
なめ終わる寸前の飴みたいな、頼りない月が照らす廃工場はその全身がツタに覆われており、廃墟マニアにはたまらない風貌をしている。
かつては、自動車のフレームを作っていたのだろう。入り口のすぐ横にはその残骸が積みあがっていた。
赤錆色の頑丈な引き戸の扉は、どうにか人一人が通れるくらいに開いており、中からはかすかに光が見えた。──すでに誰かいる。
風に乗って話し声が聞こえる。一人ではないのか? 内容までは聞こえないが、どうやら言い争っているようだった。
俺はなるべく足音を立てないように工場に入る。
そのころには、解決したのか工場内は静まり返っていた。黒いシルエットの二人が向かい合っている。
それが誰なのか様子を覗こうと近づくと、地面にあったねじを踏んでしまい、じゃりと鳴った。
しまったと思う頃にはもう遅く、二つのシルエットが俺の方を向いている。
仕方ないので懐中電灯でそちらを照らすと、夕霧とハルだった。
思わず胸をなでおろすが、そこで違和感を覚える。ハルの手に持つものだ。
──鈍く光るそれは拳銃だった。