ハルに人を殺すことの罪悪感はない。
ただ道端の石を蹴るように、庭の景観を損ねる雑草を抜くように、赤子の腕をひねるように、殺すことができる。ハルにとって殺しは手段で、目標を達成するための最短距離でしかない。同種殺しの嫌悪感や倫理観を幼い頃からの教育で取り払われている。
ハルは雲南省の貧しい農家のもとに生まれた。二人目だった。一人っ子政策真っ只中の当時の中国では二人目は高額な罰金が科せられる。そもそも夫婦で暮らすのも難しい実状で、その上罰金なんて、とても払えたもんじゃない。だから売られた。当時、そういった弱みに付け込んだ人身売買ブローカーは多くいたのだ。
ハルの記憶にある一番最初の光景は、イギリス領時代の香港の、ごみごみとしながらもどこかモダンな街並みだった。
ギラギラとしたネオン、五香粉を効かせたヤギの串焼きの香り、怒鳴りつけるように客を呼ぶ老婆、潮風。
自分と同じような境遇の子供たちをぎゅうぎゅうに詰めたトラックの荷台、どんどんと後ろに流れていく街並みをハルは今でも覚えている。
トラックは、すでに廃校になった山奥の学校へとやってきた。そこは香港マフィア直轄の殺し屋育成機関で、物心つくかどうかの子供のうちから、徹底的に組織に都合のいい殺し屋を育てる施設だった。
ハルが今それによって受けている恩恵を加味しても、新鮮な怒りが湧いてくるくらいの酷い毎日だった。そこでは徹底的に殺しを仕込まれる。基礎身体能力、観察、柔軟、道具の扱い方、感情の制御の仕方、人の騙し方。
子供は掃いて捨てるほどいるし、どんどんと追加されるので、死んだら死んだでそれでいいと、死んだほうましと思える訓練をさせられた。
皮膚が裂け、骨が折れ、血反吐を吐いてまでもハルが訓練したのに、立派な理由はない。やらないと殺されるからだ。理由や意味を考える暇もない、余裕もない。
ハルが七つになるころには、あれだけいた子供の数も十を切っていた。
ハルがそこまで生きてこられたのは、適応力と言った才能もあるが、どちらかと言うと運の比重の方が大きい。教官の機嫌によって殺される奴が何人もいた。劣悪な環境で病気を患い死んだやつも、心を病み自死を選んだやつも、爆弾を背負わされ宅配されたやつもいた。
だからハルは今でもその人生が幸運に満ちていると思っている。
神に選ばれたのだ。自由に生きて、何が悪い。
十残った幸運な子供たちは、その時点で仮免を習得したようなもんで、子供だと有利な殺しをやらされる。
ハルはダマシは不得手だが、コロシは抜群にうまかった。
だからトラウマを背負った無口な子供として、活躍の機会が多々あった。三か月に及ぶ潜入任務を行ったこともある。
そこでハルは知った。普通の家族を、普通の優しさを、普通の愛を。理解はしていない、ただ知識として存在しているだけだ。殺しの腕以外何もないハルはそれらをより知りたくなった。だから生き残った子供たちに話しかけるようになった。ほとんどの子供はその時点で壊れているので気にも留めなかったが、一人だけハルの言っていることを理解してくれた子供がいた。
ハルが儷杏に優しさとは何かを問う。
「それは、無償の愛です」儷杏は祈りながら答えた。
「じゃあ愛ってなんだ?」
「愛とは、本当は誰も知りません。神だけが知っています」
「神は私を愛しているのか?」
「もちろん。私とあなたは神に愛されています。だからここにいます」
当時は訳が分からなかったが今ならわかる。
神の愛が今の自分を作った、神の愛が自分とアキマサを出会わせた。きっとハルの神と、儷杏の神は全くの別物であるが、酷い日々を生き抜くためのよすがとはなるのであった。
儷杏は常時架空の論客と戦い、独自の祈りと儀式をしていたが、子供たちの中で唯一会話ができる。たまに正気の時は、普通の友達同士のような会話が出来る。だからハルは儷杏を気に入っていた。
そして三年後、香港返還によって裏社会は混乱し、まともに機能しなくなり始めていた。
そんな中殺し屋はみな潜る。大人しく至福の時を過ごす。当然、ハルたちは放置された。
半人前の殺し屋など、蚕のようなもので、自立して生きていけるわけがない。日々、他の子どもたちは飢えて死ぬか、下手を打って死ぬ。だからハルは、儷杏と二人で中国脱出を決めた。
「これでやっと解放されるね」
「ああ、日本に着いたらどうしようか?」
「普通の暮らしをする。かわいい服を着て、学校に行って、たくさん勉強して、友達もたくさん作って……。春燕はどうするの?」
「そうだなぁ、私は愛を知りたいな」
「いいね。きっと幸せになろうね」
そ の道中で儷杏は死んだ。
当局の追っ手から逃げている最中、車にひかれて死んだ。
なんともまああっけないもんだ。ハルの心は微塵も動かず、ただ冷静に状況を俯瞰し、二人で立てたプランを一人用へと組み立てなおす。
しかし頭のどこかでは儷杏の声が響いていた。
『きっと幸せになろうね』
ハルは命からがら日本にたどり着き、何日も山をさまよい、精も魂も尽き果てた死の淵で、マサアキと出会った。
「──大丈夫?」
ハルにとってその声は福音に他ならなかった。
◇
ハルが指定されたレストランに着くとすでに山田はいた。
どこかのビール会社が直接経営しているドイツ風の店内。だだっ広いホールでは、丸いテーブルを縫うように、ディアンドルを着た店員がせわしなく動いている。
ハルは山田の前にドカッと座ると、懐から割れた眼鏡を取り出し、テーブルに置いた。
それを見た山田のこめかみに大粒の汗が浮かぶ。
「私をずっとつけていた奴のだ。あと、私から見て十時の方向にいるOL風の中年女。その隣に座るハゲ。バーカンの茶髪。後ろから私に水を運んできてる店員」
「…………な、なにがです」
「白々しい。ここで私を殺すんだろ。いいぜやってみろよ。外囲んでる坊主ども含め返り討ちにしてやる」
「見えない、あなたがですか? 方法をお聞かせ願っても?」
「やだね。誰が好き好んでイニチアチブを手放す? それになぁ、私は勘がいいんだよ。見えなくったって感じる。お前らの手の動き、瞳孔、筋肉の収縮を見りゃあある程度予想は付くね。ほら、なんだ? 式神か? 方術か?
「な、何が望みですか?」
「金。約束してた金額を払え今日中に。私はやらなきゃいけないことがある」
「……その前に、私たちに手を出さないことを誓ってくれませんか?」
「嫌だね。陰陽寮の野郎どもの前では何も誓わない。約束しない」
「…………」
山田は携帯を取り出し、電話を掛ける。言葉少なに何かを指示し、しばらくするとゆっくりと懐にしまった。
「振り込みましたよ。この度はお疲れさまでした」
「ああ、それでいいんだ。お前らが余計なことしなきゃ私もなんもしねぇよ」
「……聞き出した、能力者殺しの術、いくらですか?」
「時価。プライスレス」
「それでは、その、教えてくれなくても構いません。ですので、もう一つだけ依頼を受けていただけませんか?」
「断る」
ハルは立ち上がり、店を出ようとする、
「あなたが望んだ金額をお支払いいたします。半分は前払いです」遠ざかる春の背中に山田は毅然として声をかけた。
本来は無視する案件だ。
しかし、現状手掛かりの一切ない金の行方を追うのと、完全に優位性を取った相手との仕事。耳を傾けてしまった。少し心が揺れてしまった。だから、ハルは踵を返し、席に座りなおす。
「内容は?」
「『能力者』殺しです。報酬を受け取った後、聞いた殺しの術を誰にも漏らさない、そして日本から出て行くことが条件です」
ハルは思案する。どうせこの国は出て行くと決めてある。だから後者は条件としてないに等しい。十分な金をもらえ、今後陰陽寮と関わらないのであれば、前者も問題ではない。ハルを殺すのに、実力が足らないものばかり差し向ける組織だ、そもそもリスクではない。だから、考えるべきは──
「十二億だ。半分はドルに、もう半分はウォンに変えろ」
「ありがとうございます」
「まだ受けるとは言っていない。出せるのか?」
「もちろん、二言はありません」
ハルは驚愕したが、その感情は一切表に出さなかった。──もう少し吹っ掛けられたな。
「で、標的は誰だよ。どんな奴の首に十二億もついてんだ?」
「あなたもよく知っているお方ですよ」
山田はニヤリと口角を吊り上げて、牛皮のビジネスバックから取り出したファイルをハルに手渡す。その銀縁の眼鏡の奥がきらりと光った。
「…………こいつ、お前らのボスじゃないのか?」
ファイルを見たハルが、今度は驚愕を隠さずに言った。
「我々も一枚岩ではないのです。それにどうせ二年後には死んでしまう。なら、それを少し早めてもいいはずです」
ファイルの上部、その不愛想な顔写真の人物は、夕霧だった。
◇
翌日、ハルは昼休みに学校を出た。
朝からふけてもよかったが、登校と昼食はアキマサと共に過ごしたかった。
それに夕霧の様子も確認しておきたい。しっかりと裏を取り、背後関係まで洗ったが、依頼の理由は山田が説明した以上のことが出てこなかった。だから実際に会って、目で見て確認する。
夕霧はいつも通り、アキマサのことをずっと目で追っており、心なしかそわそわしていたこと以外不審な点は見つからなかった。
学校を出た後は、難波に向かい、借りていた倉庫をすべて周り、対陰陽師装備を構築する。
情報屋を当たり、陰陽師崩れを脅して情報を聞き出し、足りない装備はどうにか手に入れ、その間にも対陰陽師戦を何度もシミュレートする。
依頼の内容を聞いたとき、正直ハルは丁度いいと思ってしまった。
アキマサを連れていくとき、もっとも障害になるのはどう考えても夕霧だ。
陰陽師の奴らは得体が知れない。それに死後の呪いという厄介な呪いがあって、殺してもただでは済まない。──それにあのメイドも明らかに素人じゃない。ハルは昨日の山田の言葉を思い出す。
「藤沼夕霧は、一人できます。誘き出します」
好都合。邪魔な二人のうち一人を殺しておけば、あとがスムーズだ。
夕霧とハルは友達ではない。特別な感情も持ち合わせていない。殺しをためらうほどではない。だが、知らない仲ではない。
ハルは高揚の中に隠れている、今まで感じたことのない感情に蓋をした。
夜、ハルは準備を終え廃工場へとやってきた。
一時期ここで暮らしていたこともある。難波のチャイニーズマフィアに自分を売り込み、戸籍を得る前のことだ。そこではマサアキが、飯を与えてくれ、服や寝袋を与えてくれ、根気強く日本語を教えてくれた。たくさんの優しさを貰った。たくさんの愛を貰った。
だから返さねばならない。マサアキがいつか言っていた『どこか知らない国に行きたい』という願いを叶えてやらねばならない。
生まれが不幸だった分は、これから取り返す。
二枚のサビた鉄板でできた分厚い扉の前、ハルはもう少し、もう少しと心の中で呟く。ほとんど声に出ていたかもしれない。最後にもう一度戦いのシミュレーションをして、六秒待ち、大きく息を吐く。扉をくぐると、すでに夕霧がいた。アウトドア用のランプを片手で持っている。
「…………だれ?」警戒心の強い猫のような声で夕霧が言う。
「よお、ご当主さんよ」
ハルはしっかりと夕霧を目で見据えながら言ったが、その感覚は廃工場内の気配を探っていた。
──一人隠れている奴がいるな。ここに向かってきている奴も一人。
「ハル? 何であなたがここにいるの?」
ベルトに挟んだ拳銃の安全装置は外れている。
その真っ白い額に照準を定め、トリガーを弾くのに一秒もいらない。マッハ二を超える初速は瞬く間に彼女を貫き紅い花を咲かせるだろう。
少しの判断も躊躇も必要とせず、ハルにはそれができたが、あえてしなかった。少し声を聴きたいと思ったからだ。
「夕霧よぉ、あんたの首に十二億の値が付いた。恨みを買い過ぎた自分を呪うんだな」ハルは拳銃を見せつけるように取り出して言う。
「……はぁ」夕霧はハルの拳銃をちらりと見て、大きくため息をついた。
「溜息? 余裕だな。お前これから殺されるんだぜ?」
「あのね、ハル。あなたが私になったつもりで考えてみて? 私は今日の朝下駄箱に入っていた手紙によってここに呼ばれた。差出人はアキ。ね? 私はあなたがここに来るまですごいドキドキしてた。すごい緊張してた。とても、期待してた。で、蓋を開けてみたらこれ。ハル、わかる? 私今すっごい気分が悪い。気が萎えてる」
「…………それは何というか、ごめん。私もまさかそんな名目で呼ばれたとは思ってなかったよ。あんたの心中を察するに余りある」
「……まあ、いいわ。それで? 私を殺すの? あなた前から何か後ろ暗いことやっているとは思っていたけど、殺し屋だったとはね」
「まあな。あ、拳銃で死にたくなかったら、薬とかで楽にやってやってもいいけどどうする?」
「本気なのね。でも、ごめんね。抵抗させてもらう。いや、正当防衛ね。あなたも私を殺そうとしてるし、殺されても文句ないわよね?」
夕霧は懐から呪符を取り出し、眼前に持ち上げた。
──式神使いか、少し面倒だな。
ハルはそう思うが、事前に練ってきた対処法の通り、サスペンダーポーチから薬瓶を取り出す。中身はシンナーだ。ハルが聞いた話では能力者ってのはその異能を使う際、眉間にあるアジナを活性化させる。どうやらシンナーの香気はそれを阻害するらしかった。陰陽師も超能力者もその指向性、先天的か後天的かは異なるが、仕組みは同じなのだ。
ハルの戦闘状態の過敏になった感覚に、小さな足音が引っかかったが、気にせず拳銃の照準を合わせる。そこで夕霧の表情に気付いた。
言葉にするなら不意、驚愕。
いつ殺されてもおかしくないのにハルの方を見ていない。ハルは夕霧の視線を追った。
「……アキ」
その音をハルの脳みそが理解するのと、ハルがアキマサの顔を認識するのはほとんど同時のことであった。