夕霧の両親は見えはするが、祓えはしない。実力主義の藤沼において、それは最も軽蔑されることであった。父親は侮蔑され、侮辱され、ああはなるなと反面教師にされた。母親も同様に侮蔑された。殴られ、蹴られ、実の母親(つまり夕霧の祖母)からつばを吐かれたこともある。
二人はいとこだった。幼い頃から、慰め合うように生きてきた。そして、逃げた、藤沼家から。数年は平和に暮らしたが、学もよすがもない二人、逃げ出すときに盗んだ金品も底をつき、だんだんと生活は困窮していった。そんな中でも子供ができる。それが夕霧であった。
夕霧には才能があった。霊を見ることができるし、祓うこともできる。両親にはそれが分かった。腐っても藤沼だ。だから両親はまだ乳離れできていない夕霧を連れて、藤沼家に戻った。そうしたら、助かると思ったのだ。ひもじい思いをすることはないと思ったのだ。両親はお互いを愛しているだけで、夕霧のことなぞどうでもよかった。だって、自分たちとは違う、才能がある。だから、藤沼に、夕霧を売ったのだ。
夕霧は縛られて生きてきた。
家のこと、生まれのこと、体のこと。学校に行かせてもらえず、家庭教師を付けられた。体が弱く、陰陽師としての修業ができないので、代わりに習い事をたくさんやらされた。これらも精神的な修行であると。華道、茶道、香道、書道、全部つまらなかった。退屈だった。だから、あの時、マサアキの手を取ったのだ。
「久しぶりだね。学校通えるようになったんだ」
「ええ。おかげさまで。でもね、朗らかに挨拶してくれるのはいいんだけど、その前にこの状況を説明してくれない?」
夕霧はあの日、アキマサと出会った日から必死に努力した。
陰陽道を極め、両親や別派と共謀し現当主を殺した。陰陽寮からも認められるようにたくさん依頼もこなした。怨霊を祓って祓って祓った。そうして、実力を認められ、あの日から約一年、齢十一にして当主の座を手に入れて、自由を勝ち取ったのだ。
小学校の理事共に鼻薬を嗅がせ、必要とあれば脅し、アキマサと同じクラスに編入したその日の放課後、緊張と疲労によって動けなくなってしまった夕霧にアキマサは声をかけた。「少し付いてきてよ」。そしたらこの廃工場に連れてこられた。
「ああ、ああそうだ。忘れてた。君にはポチコをこれからどうするか、一緒に考えてほしいんだ」
「ワン!」ポチコが嬉しそうに尻尾を振りながら、子犬特有の慣れてない高音で吠える。
「…………なんで?」
夕霧にはアキマサが言っていることの意味が分からなかった。疑問点が多すぎてどれから処理すればいいのかわからない。もちろん彼からの頼みだ、手伝いたい。喜んで手伝おう。夕霧がこうして不愛想な、少し低い声で返答してしまったのにも訳があって、久しぶりに会ったアキマサがあの日見た時から少しも変わっていなかったからだ。それは成長していないとかいうわけじゃなくて、夕霧の脳内で過度に理想化されたであろうアキマサが、現実にそのまま存在したのだ。その利発そうな顔つきに、優しさがあふれかえっているタレ目気味な瞳に、夕霧は緊張してしまって、直視できないでいた。
「まず、ここはどこ? その子犬は何? この前あなたと一緒にいた女の子は?」
「ここは秘密基地。この子犬、ポチコはあるりが助けた迷い犬。あ、あるりってのはこの前も一緒にいた女の子ね。あるりはポチコを助けるために道路に飛び出したんだ。そこで轢かれちゃって、たくさん手術をした。まだ病院にいてしばらく退院できないらしい。だからさ、それまで俺がポチコの面倒を見てるんだけど、少し厳しくなってきちゃって……」
「……経緯は分かった。それで、私にどうしてほしいの?」
「ポチコの為にも飼い主を探してやりたい。色々調べたんだけど、ポチコは捨て犬らしいんだ。だから新しい飼い主」
「……なんで私?」
「そうだなぁ」
アキマサは少し考える。夕霧にはそれがすでに答えはあるが夕霧のために言葉を選んでいるように見えた。
「君なら手伝ってくれるかなって」アキマサは屈託のない笑みを浮かべて言った。
ズキューン。この時の夕霧の心に生じた感情を正確に音にするならこのような音になる。──アキマサは自分を心配してくれているのだ。変な時期(この時は十月の半ば)に編入してきて、不愛想でぶきっちょでつっけんどんな、何か質問されてもうまく答えることができず黙ってしまう自分のことを気にかけてくれているのだ。クラスを支配しているルールや力学を読み取れずにいる自分を。少なくとも夕霧はアキマサの返答までの少しの勘考をそう捉えた。
「ええ、ええ。いいよ。うん、一緒にどうにかしよう」
「ほんと? やったー!」
アキマサが万歳をして喜ぶ。ポチコがその足にまとわりついてじゃれついている。
「よし、それじゃああるりがいない分も頑張るか!」
それから日々は夕霧にとって、何よりも幸福であった。
放課後になると、アキマサは夕霧を連れて秘密基地である廃工場に行く。そこではポチコが待っていて、全員が満足するまでひとしきり遊んだ後、住宅街へ行く。裕福そうな、または既に犬を飼っていそうな家を訪ね、犬を飼えないか尋ねる。
その道中ではアキマサが自分のことを喋ってくれるし、夕霧のことも聞く。好きなことや嫌いなこと、家のことや学校のこと。夕霧はいくつも嘘をついたが、それは知られたくないことを隠すためで、感情には嘘をつかなかった。寒くなっていく季節、夕霧の心は何よりも温かく、満ち足りていた。
夕霧は常に着物を着用している。誰に言われたわけでもなく自発的に。彼女に世間のはやりすたりを解し、消化できるだけの思春期女子的感性は育つことなかったし、幼い頃から着物が慣れているという事も理由であったが、それよりも重要な理由があった。
それは、彼女にはそれしかないと言うことだ。夕霧はそれまでの十一年、陰陽師として生きてきた。陰陽師として自身が天才的であることを彼女は自覚していたし、自負もあった。だが、それをアキマサに打ち明けることはできない。陰陽寮の性質的にもそうであったが、夕霧の心情的にもできなかった。つまり、夕霧はアキマサに一人の人間として、女の子として見てもらいたいわけで、陰陽師なんて珍奇珍妙極まりないフィルターを介して見られたくはなかったのだ。
しかし、夕霧からそれを取ると何も残らない。
ただ実家がでかいだけの、痩せたチビでしかない。だからこそ、彼女が彼女であるための当たり障りない個性としての着物。アイデンティティを外に置くのは不健康極まりなく、成長と共に卒業しなければならないことではあるが、その生育の過程で親の愛情を受け取ることのできなかった夕霧にそんな情緒的発達が見込めるわけもなく、十七歳、高校生になっても着物を着ているわけだ。
立花の刺繍がされたベージュの着物の上に、濃紫の道中着を羽織った夕霧が雪駄をペタペタ言わせながらアキマサに問う。
「なんでさ、アキは人助けをしようとするの? ポチコだって、別にアキマサが悪いわけじゃない」
この幸福な数か月の中、学校でもどこでも、アキマサが積極的に人を助けようとしているのを、夕霧は見てきた。今こうして、ポチコの飼い主を探し、夕霧といるのもその人助けの一環なのだ。そのことに少し落胆(自分だけに優しいのではないこと)を覚えた夕霧であったのだが、その交じりっ気のない善性を抱えるアキマサだからこそ好きであった。
自分とは違う、そんな劣等感がありながらも。
「ん? あー、そうだなぁ。……少し恥ずかしいことなんだけど、笑わない?」
「もちろん」
「俺はさ、ヒーローに憧れているんだ。ヒーローになりたいんだ。皆を救って、助けて、笑顔にするヒーローに」そこでアキマサは夕霧の顔をちらりと確認したが、夕霧はいたって真剣な顔で聞いていた。「でもさ、俺にはそんな力も、勇気もなくて、そんなんでもできることがしたいんだ」
「うん、凄い。立派だ」夕霧は私なんかとは違うと付け足そうとしたが、やめた。
「全然そんなんじゃないよ。そう思っててもうまく動けない。だから自分にたくさん言い訳をして、合理的に考えて、それでようやく動けるんだ、俺は。だからさ、そんな不純な正義を掲げている俺は、数をこなさなきゃならない」
意気揚々と先を歩いていたポチコが、そんな悲哀を帯びた雰囲気を感じたのか、振り返ってくぅんと小さく鳴いた。
「俺は思うよ。皆、もう少しだけ人にやさしくすれば、もっと世界はうまく回るんじゃないかって。合理的に考えてもそうだ、人にやさしくして、人助けをして、悪いことなんてそう起こらない。みんながそうならさ」
青臭く、理想的過ぎる考えだと夕霧は思った。その根底には正しく健康的な家庭で生まれ育ち、真っ当な倫理観を身に着けた人間特有の鼻に付く感じがある。夕霧には生理的に受け付けない考えであるが、その恩恵を受けているため何も言えない。
「ポチコのことは、あるりに頼まれたんだ。あるりは横断歩道にポチコが飛び出していったのを見てすぐに動いた。俺は動けなかった。情けないよ、本当に。だから、ポチコの飼い主探しは絶対にやらなきゃダメなんだ」
「…………」
そのアキマサの炯炯と輝く瞳の奥に、正義感に、優しさに溢れる瞳の奥に自分じゃない女の姿があることを察し、夕霧は非常に強い不快感を覚えた。
「そうだ、そろそろさ、あるりが退院できるんだ! 夕霧にも改めて紹介するけど、きっと仲良くなれるよ。うん、絶対そうだ」
「…………え」
そんなのは嫌だった。この幸福な時間が終わってしまうのは嫌だ。二人と一匹それだけの世界がよかった。もう終わってしまうのか。夕霧は絶望した。
「どうした? 暗い顔してるけど?」
「なんでもないよ」
あるりが夕霧の前に表れてから、ポチコの件は瞬く間に解決した。「じゃあさ、このままここで飼っちゃおうよ」。そんな簡単な一言で。
あるりはその言葉の責任を取るがごとく、犬小屋や毛布やらペットフードやらを瞬く間に用意した。そんな彼女の姿を羨望の目で見るアキマサの姿は、見るに堪えなかった。それから百合が来て、どんな時でも夕霧の傍に控えるようになった。
アキマサは夕霧にしたように百合のことも気にかけて、その心を氷解させた。日に日に笑うようになる百合のことが憎らしかった。そして、アキマサはまたどこから拾ってきたのか、ボロボロに汚れた子供を連れてきた。日本語を話せないその子を甲斐甲斐しく、辛抱強く世話をして、人間のようにした。
アキマサを中心に彼女たちは幼馴染となったのだ。
◇
朝、下駄箱を開くと、手紙が入っていた。
昨日の夜も手紙に不穏なんことが書かれていたので、夕霧は警戒したがどうやらそれ関連ではないらしい。
その手紙は昨夜のように仰々しい感じも、恭しい感じもなく、もっと言うと霊力の残滓すら感じない、クリーンな物だった。
便箋だって購買で買えるものだし(それも一番上等な奴、購買の中で上等と言ってもたかが知れているが)、何より差出人の欄に、『T・A』と書かれている。夕霧の心が弾んだ。はずんだどころではない、遥か天空まで飛んでいった。そのふわふわ浮足立った足取りで、二階東女子トイレの一番奥へと入る。
『夕霧へ 今日の夜十九時、昔の秘密基地に来てほしい。とても大事な話がある。』
その後には『From たたたあたきたたまたたさた(横に狸の絵が描かれている)』と書いてあった。こうやって大事な時にまで少しふざけてしまうのがアキマサなのだ。夕霧はそれを承知していた。だから、この手紙を本物だろうと思った。いや、本物であってほしいと願っていた。
昨夜あれからどれだけ考えても、いい方法は思いつかなかった。
夕霧は恋をするには精神が幼すぎたし、恋をするには力を持ちすぎている。だから、彼女が望む対等な関係ってやつにはなれそうにもなかった。ただ、一つを除いては。
それがアキマサの方から夕霧に愛を打ち明けてくれるというものだ。夕霧が証明しているように、恋は盲目で彼がその病にかかっているのであれば物事は非常にシンプルになる。その唯一が夕霧のもとに舞い込んできたのだ。期待せずにはいられなかった。興奮せずにはいられなかった。
その後の授業なんか夕霧の耳に一切入っておらず、頭の中は真っピンク。内訳はデートなんかの日常生活関連二割、セックス関連八割。ボケボケと学校生活を終え(昼休み一緒にご飯を食べた時は緊張しすぎて一言も話せなかった)、百合を置いて一足先に家に帰り、下着をよく吟味して、新しい着物を下ろし、あの頃のように歩いて廃工場までやってきた。誰にも行く先は伝えていない、しかし心配されないように書置きだけ残して。
そうやって一時間何をするでもなくそわそわと期待して待っていたら、ハルが現れた。
どうも夕霧は騙されたらしかった。夕霧は深い絶望と、怒りを通り越した呆れに包まれる。
そして、ハルは夕霧を殺すらしかった。
そんなことは絶対に嫌だし、大人しく殺されるわけにもいかないので夕霧は常に懐に持ち歩いている呪符を取り出す。
──そうだ、犬神(ポチコ)を呼び出そう。彼(あるいは彼女)だってこの場所が懐かしいに決まっている。犬神なら楽だ。主だった指示を出さずとも、ただじゃれつくように、遊びをせがむようにハルを殺すだろう。ハルだって殺し屋、今までたくさん人を殺してきただろうし、今だって自分を殺しに来ている。なら返り討ちに会って殺されても文句はあるまい。
丁度いい。
ベタベタと馴れ馴れしく、アキマサとスキンシップを取る彼女を羨ましく、いや妬ましく、いや憎んでさえいたのだ。邪魔なのだ、殺そう、殺そう、殺そう。
でも安心してほしい、怨霊にならないよう、きちんと祓ってあげるから。夕霧は眼前に呪符を構え、呪を唱えようとする。──がその瞬間、分厚い鉄の扉の方からじゃりと音が聞こえた。そして聞きなれた、息遣いも。
「……アキ」そう呟きながら、音のした方を向くと、やはりアキマサだった。
彼は忍び足で近づこうとしており、二人の視線を浴びて、しまったという表情をしている。が、その視線が徐々に下がっていき、ハルの持つ拳銃まで到達したとき、彼はその顔を気の毒なくらい青くさせた。
「…………それ、本物?」
ハルが急いで後ろに隠す。
「い~や~、何のことぉ?」白々しい声。
「……二人はこんなところで何してるの?」アキマサは未だ、ハルを訝しんだ目で見ていたが、ひとまずは話を進めることにしたらしい。
「私は、この手紙に呼び出された。差出人はアキ。」夕霧が懐から今朝の手紙を取り出し言う。
「え? 俺も手紙で呼び出されたんだよ。ほらこれ」アキマサが内ポケットから夕霧が持っている手紙と同じ便箋の手紙を取り出した。「差出人は不明だけど、放課後に靴箱に入ってたんだ。ハルは?」
「私は、え~っと、あ、散歩!」
アキマサは懐疑の目で、夕霧は呆れた目でハルを見た。
「この手紙はアキが私の靴箱に入れたわけじゃないの?」
「いや、知らない。俺の手紙も二人のうちどっちかが入れたわけじゃないの?」
「違う」「違うわ」二人は首を横に振って答える。
夕霧は考える。ハル、もしくはハルに依頼した人物が自分に偽の手紙を出して呼び出すのは分かる。なぜアキマサがここにいる? なぜアキマサを呼び出す必要がある。そこに落とし穴がある気がしてならない。誰がこんなこと?
「チッ、めんどくせぇな。もう一人に聞こうぜ。おい、メイド! いるんだろ、わかってんだよ、出てこい!」
「メイド? 百合?」
暗い工場内にハルの怒号が響いた。それは反響し、やがてそれすら収まった時、カツカツと足音が聞こえてくる。
「さすが、殺し屋。分かりましたか」
「…………殺し屋」
「百合、来てたの? ……これあなた?」背後からやってきた百合に夕霧が振り返りもせず、手紙を見せながら問う。
「いいえ、違いますよ。今日ずっと夕霧様の様子がおかしかったので、つけていました」
「ああ、そう」
「どういうこと?」
「アキ様。驚かずに聞いてください。あの女、朱春燕は殺し屋です。すでに金のため、何十人も人を殺していて、今も依頼されて夕霧様を殺そうとしています」
「え? え?」アキマサが混乱のまま、百合とハルの顔を交互に見る。
「ちが、違うって! なんていうか、その、コラァ! メイド! テキトーなこと言ってんじゃねぇ‼」
「ね? でも、大丈夫です。私と夕霧様でやっつけちゃいますからね。そうですよね?」
「ええ、もちろん」
百合は近くのこぶし大の石を浮かせ、夕霧は再び呪符を構える。
「おい、マジか、
「お、おい! やめろって! 一旦落ち着けって!」
アキマサが力の限り叫んだが、それは工場内で虚しく響くだけにとどまった。アキマサが身を挺して三人の間に立とうとしたが、体が一切動かなかった。
まずはハルが動いた。発砲。大口径の物凄い反動がハルを襲うが、照準は一切ぶれていない。銃弾はまっすぐ百合に向かって行ったが、百合の前方四メートルの位置でぴたりと止まる。この結果を受けハルは舌打ちをした。──支配型。それも超強力な。
次に夕霧が呪を唱える。構えていた呪符が上から消えていき、半分ほどになったところで唐突に止まった。夕霧が冷たい驚愕と共に振り返る。
「……百合、何しているの?」
百合は、先ほどまで浮かせていた石で夕霧を攻撃したが、それはすでに発動していた結界術によって阻まれている。
「やはり不意打ちじゃ無理ですか」
「仲間割れかぁ?」ハルのその声は喜色に染まっている。
「アキ様、聞いてください。この人、藤沼夕霧は陰陽師です。今の藤沼の当主ですが、そのために前当主を殺したのです。今もどうやってアキ様を拉致しようかばかり考えています!」
「──は?」