天龍の咆哮が森へ響き渡ってから、しばらくの間、俺たちは洞窟の奥から動かなかった
外から聞こえてくる足音が減っていくたびに、少しずつ呼吸を取り戻していく
それでも完全に安心することはできなかった
いつまた、あの声が響くか分からない
いつ天龍がこちらへ向かってくるかも分からない
だから俺たちは、ただ待った
待って、待って、それでも何も起こらない時間が続いた頃、俺はようやく洞窟の入口へ顔を出した
外は酷い有様だった
草は踏み荒らされ、木の枝は折れ、地面には無数の足跡が残っている
それだけじゃない、魔物が逃げたことで、普段なら絶対に姿を見せない場所まで小さな生き物が飛び出してきていた
そして、その中には明らかに様子のおかしい奴もいた
一匹の小型魔物が、洞窟の前をふらふらと歩いている
目が合った
普通なら逃げる距離だ
だが、逃げない
足取りがおかしい
身体を左右に揺らしながら、何度も同じ場所を行ったり来たりしている
「……まだ混乱してるのか」
天龍の咆哮をまともに受けたせいなのか、完全に冷静さを失っているらしい
俺は少しだけ身を低くした
後ろの二匹も、俺の動きを見ている
「行くぞ」
俺が飛び出す
魔物がこちらを向いたが、反応が遅い
噛みつく
ガブッ
首に牙が食い込み、そのまま身体を捻って地面へ叩きつける
一度、二度と身体を打ち付けると、魔物は動かなくなった
「……」
あっけない
以前なら、この程度の相手でも追いかけ回していた
逃げられれば捕まえられず、反撃されれば怪我をする
だが今は違う
咆哮によって恐慌状態になった魔物は、こちらをまともに認識できていない
それだけで、狩りの難易度が大きく下がっていた
「食えるな」
兄弟が近づいてくる
三匹で分ければ、大した量ではない
それでも腹の足しにはなる
肉を裂き、噛み千切る
血の味が口の中に広がった
「……悪くない」
強くはない
だが、今の俺たちにとっては十分な獲物だった
それから数日、天龍はまだ巣跡地にいた
時々、森の奥から咆哮が聞こえる
そのたびに鳥が飛び立ち、獣が走り、遠くから木々が倒れる音が聞こえてくる
そして、そのたびに俺たちは洞窟の奥へ逃げ込んだ
何度経験しても慣れない
咆哮が響いた瞬間、身体が勝手に硬直する
心臓が跳ね、呼吸が浅くなり、脚に力が入らなくなる
それでも、咆哮が止まればまた外へ出られる
そして外には、恐怖に呑まれた魔物が残されていることがあった
俺たちは、それを狩った
一匹、また一匹
大きな獣ではない
小型の魔物や、逃げ遅れた獣、時には鳥や虫
どれも普段なら苦労する相手だった
だが、今は違う
「――そこだ」
飛び出した虫へ噛みつく
ガチッ
硬い外殻が牙に当たる
少し前なら、こいつを仕留めるまでに何度も攻撃を受けていた
今は硬化を使いながら真正面から噛みつき、動きが止まった瞬間にもう一度噛む
「……ふっ」
殺せる
以前より、明らかに簡単になっている
それは身体が強くなったからだけではない
狩り方そのものが変わった
無駄に追わない
無理に戦わない
相手の動きを見て、隙を待つ
そして、一度でも隙ができれば一気に仕留める
生き残るために必要なのは、強さだけじゃない
経験もまた、力になる
そんなことを実感し始めた頃だった
洞窟の前に、一匹のゴブリンが現れた
「……ゴブリン」
以前戦った奴とは違う
身体つきがよく、手には粗末な棍棒を持っている
そして何より、周囲を警戒しながら歩いていた
俺はすぐには飛び出さなかった
ゴブリンは一匹
こちらは三匹
正面から戦えば、勝てる可能性はある
だが、俺たち三匹で一匹を相手にしても、兄弟のどちらかが死ぬ可能性がある
勝てるとしても、無傷で済む相手ではない
なら、答えは決まっている
「待つ」
俺は地面へ身体を伏せた
兄弟も同じように伏せる
ゴブリンが洞窟の入口へ近づいてくる
足音を立てないようにしているつもりらしいが、俺には聞こえる
少しずつ近づいてくる
そして、洞窟の中を覗き込んだ
「今だ」
三匹で飛び出した
ゴブリンが驚いて振り返る
「ギャッ!?」
棍棒が振り上げられるが、もう遅い
俺の牙が腕へ食い込み、兄弟が脚へ飛びつく
もう一匹が背後から首へ噛みついた
ゴブリンが身体を捻る
「ギィッ!」
棍棒が地面を叩いた
外した
その隙に俺は喉へ噛みつく
ガブッ
ゴブリンが暴れる
腕を振り回し、俺の身体が一度地面へ叩きつけられた
痛い
だが、離さない
兄弟も脚へ食らいついている
そして数秒後、ゴブリンの力が抜けた
「……」
倒れた
正面からやれば、かなり苦戦しただろう
勝てた可能性はある
だが、兄弟のどちらかが死んでいたかもしれない
俺自身が大怪我をしていたかもしれない
だから不意打ちを選んだ
「やっぱり、不意打ちが一番だな」
この一件で、俺の中でもゴブリンに対する認識が少し変わった
一匹なら、三匹で戦えば勝てる
だが、それは誰も傷つかずに勝てるという意味じゃない
一匹相手でも、兄弟が一匹死ぬ可能性がある
そして、もし二匹になれば話は変わる
二匹のゴブリンを相手に正面から戦った場合、俺たちが勝てる確率は四割程度
つまり、半分以上は負ける
三匹以上なら、もう正面から戦う意味がない
勝ち目が薄すぎる
だから俺たちは、ますます無理をしなくなった
勝てる相手でも、正面から戦う必要がなければ隠れる
隙があれば襲う
逃げられそうなら追わない
その繰り返しで、少しずつ狩りの効率が上がっていった
虫もよく獲れるようになった
蜘蛛の巣を見つければ蜘蛛を狙い、飛んでいる虫は影を利用して近づく
甲殻の硬い虫には硬化を使い、動きの速い虫には危険察知で攻撃の瞬間を読む
時々失敗する
噛みついた瞬間に毒針を刺されたり、脚を噛まれたり、逆に逃げられたりもする
それでも以前とは違う
失敗しても次に活かせる
そうやって日々を過ごしていたある日、洞窟の外から声が聞こえた
「……何だ?」
人の声
いや
人ではない
「ゴブリンか」
一匹ではない
二匹でもない
複数いる
俺はすぐに兄弟を見る
「奥へ行くぞ」
俺たちはすぐに洞窟の奥へ向かった
入口から聞こえてくる足音が増えていく
一匹、二匹、三匹、四匹、五匹、六匹
そして――
七匹
「七匹か」
俺は岩陰から慎重に様子を窺った
先頭にいるゴブリンは、他の奴らより少し大きい
腰には粗末な布、手には金属製の剣
いや、剣と呼ぶには歪みすぎている
何かの金属片を削って刃物にしたような代物だ
身体には金属板を紐で結びつけただけのような鎧を身につけている
粗末ではある
だが、間違いなく金属だ
「……あれが指揮官か」
他の六匹とは明らかに違う
歩き方も違う
周囲を見る目も違う
仲間へ指示を出し、洞窟の中を確認している
「ギャッ」
「ギャギャ」
指揮官らしきゴブリンが短く声を出す
すると他のゴブリンが散開した
「……」
俺は息を潜めた
こいつらは、ただの集団じゃない
ちゃんと役割を持っている
一匹が前を確認し、一匹が周囲を警戒し、残りが荷物を運ぶ
しかも全員が武器を持っている
「これは、正面からは無理だな」
さっきの一匹とは違う
七匹
しかも指揮する個体がいる
俺たち三匹では勝負にならない
一匹でも怪我をする可能性があるゴブリンが七匹いる
二匹相手でも勝率四割程度なのだから、三匹以上になれば戦う理由そのものがない
だから戦わない
ゴブリンたちは洞窟の表層を気に入ったらしい
火を起こし、食料を並べ、寝床を作る
まるで自分たちの住処であるかのように振る舞い始めた
俺たちはさらに奥へ移動した
幸い、洞窟は深い
入口から離れれば、ゴブリンたちの声も少しずつ遠くなる
それでも時々、奴らが奥までやってくる
そのたびに俺たちはさらに奥へ逃げた
戦わない
まだ戦う必要はない
そして、そんな生活が数日続いた
ゴブリンたちは狩りへ出て、戻ってくる
獲物を持ち帰る
俺たちはそれを見ていた
奴らは弱くない
小型の魔物なら、一匹でも被害を出しながらも仕留めている
時には7匹がかりでアエロスミスを倒している
指揮官個体が指示を出し、他のゴブリンがそれに従う
「……なるほど」
俺は少しだけ見方を変えた
ゴブリンは、弱いだけの魔物じゃない
一匹でも正面から戦えば危険だ
武器を持ち、知恵を使い、集団になればさらに強くなる
俺たちが一匹を不意打ちで殺せたからといって、ゴブリンそのものが弱いわけじゃない
ただ、俺たちの方が狩り方を知っていただけだ
そして――
そのゴブリンたちが、ある日突然ざわめき始めた
「ギャ?」
「ギャギャッ!」
外から何かが近づいている
ゴブリンたちも気づいたらしい
武器を手に取る音がする
「何だ?」
俺は岩陰から少しだけ顔を出した
その瞬間
ズンッ
地面が揺れた
もう一度
ズンッ
ズンッ
足音
重い
一歩ごとに地面が沈むような音がする
ゴブリンたちが一斉に入口を見る
指揮官個体が前へ出る
金属の剣を構える
他のゴブリンも武器を構える
そして――
洞窟の入口に、その姿が現れた
「……豚頭」
それは、かつて天龍の咆哮から逃げているのを見たことがある種だった
豚のような頭部
太い首
巨大な肩
ゴブリンとは比較にならないほど分厚い身体
手には巨大な棍棒
その姿を見た瞬間、俺は息を殺した
豚頭は洞窟へ入ってくると、ゴブリンたちを見た
その目には迷いがない
怒りもない
ただ獲物を見る目だった
「……狩りに来たのか」
俺の呟きと同時に、指揮官が叫んだ
「ギャアアッ!」
七匹のゴブリンが一斉に動く
先頭の二匹が左右から挟み、指揮官が中央から突っ込む
その動きには迷いがない
「……!」
思わず息を呑んだ
速い
さっきまでのゴブリンとは動きが違う 俺と同じように、指揮スキルを持っているのかもしれない 指揮官の金属剣が豚頭へ振り下ろされる
ガキィンッ!!
金属音が響いた だが、浅い
豚頭の皮膚を少し裂いただけだった
「ギィッ!」
ゴブリンが驚く
その隙を逃さない
豚頭の腕が振り抜かれた
ドゴッ!!
指揮官が吹き飛ぶ
だが死んでいない
壁へ叩きつけられながらも、すぐに立ち上がろうとする
「……強い」
ゴブリンがだ
豚頭の攻撃を一度受けて、まだ動いている
他のゴブリンも武器を叩き込む
棍棒、石槍、短い刃物
次々と攻撃が入る
豚頭の身体から血が流れる
だが、それでも止まらない
一匹のゴブリンを掴む
「ギャッ!」
そのまま振り回し、別のゴブリンへ叩きつける
二匹がまとめて倒れる
残ったゴブリンが後ろから攻撃する
指揮官も立ち上がり、再び突っ込む
「ギャアアアッ!」
金属剣が豚頭の肩へ食い込む
「――!」
豚頭が初めて大きく身体を揺らした
効いている
だが次の瞬間、豚頭の棍棒が指揮官を捉えた
ドゴンッ!!
身体が宙へ浮く
壁へ叩きつけられる
それでも指揮官は倒れない
血を流しながら立ち上がる
「……」
俺は思わず見入っていた
こいつらは弱くない
七匹のゴブリンが全員で戦えば、かなりの相手を倒せる
指揮官個体も、粗末とはいえ金属製の武器と鎧を持っている 仮に俺達が戦ったとしても、勝率は万に一つもないだろう
それでも――
相手が悪すぎる
豚頭は一匹ずつ確実にゴブリンを潰していく
「ギャアッ!」
一匹
「ギィッ!」
二匹
「ギャアア!」
三匹
数が減るたびに、ゴブリンの動きが乱れていく
それでも指揮官だけは逃げなかった
最後まで仲間へ指示を出している
「ギャッ! ギャギャッ!」
残った二匹が豚頭の脚へ攻撃する
指揮官が正面から突っ込む
金属剣が振り抜かれる
だが、豚頭の腕が剣を受け止める
「ギ……」
そのまま握り潰す
金属が歪む
「……!」
俺は思わず息を呑んだ
武器を壊した
指揮官が一歩後ろへ下がる
だが、豚頭は逃がさない
棍棒が振り下ろされる
ドンッ!!
指揮官の身体が地面へ叩きつけられた
動かない
残った二匹も、すぐに倒された
そして――
静かになった
俺たちは洞窟の奥で息を殺している
豚頭は周囲を見回す
だが、俺たちの方へは来ない
目的は最初からゴブリンだけだったらしい
ゴブリンの死体を一通り確認すると、ゴブリンの死体から食べやすそうな部位をを剥ぎ取って豚頭はそのまま洞窟の外へ向かう
「……帰るのか」
本当に、それだけだった
ゴブリンを狩りに来て
ゴブリンを全滅させて
それで終わり
洞窟に居座ることもない
俺たちを探すこともない
豚頭の姿が森の奥へ消えていく
しばらく待ってから、俺はようやく息を吐いた
「……助かった」
兄弟も同じように身体を起こす
表層には、ゴブリンたちの死体だけが残っている
俺は少しずつ近づいていった
指揮官の死体を見る
金属製の武器
金属製の鎧
どちらも粗末だ
それでも、俺たちには作れない
そして、あれだけ装備を整えたゴブリンでも、豚頭には勝てなかった
「……」
俺は死体を見ながら考える
ゴブリンは弱くない
一匹なら、俺たち三匹で戦えば勝てる
ただし、兄弟が一匹死ぬ可能性がある
二匹なら勝率は四割程度
三匹以上なら、正面から戦うのは危険すぎる
そして七匹に指揮官まで加われば、俺たちにはどうしようもない
それでも、この世界には、その七匹をまとめて殺せる奴がいる
さらに、その上にはレッサーグリフォンがいる
そして、そのさらに上には――
「……天龍」
考えるだけで、背中が冷たくなる
俺はすぐに思考を切り替えた
今は考える必要はない
豚頭は去った
ゴブリンもいなくなった
なら、また狩りができる
俺たちは洞窟の表層へ戻り、残された食料を確認した
ゴブリンたちが集めていた肉や虫が残っている
「……しばらくは食べられそうだな」
俺たちはそれを持って洞窟の奥へ運んだ
そしてまた、生きるための日々へ戻っていく
狩る
食べる
隠れる
逃げる
必要なら殺す
それを繰り返す
強くなっている
少しずつ
確実に
だが、その先に何が待っているのかは、まだ俺には分からなかった