リリカルなのはSSの「届かぬ叫び」に脳を焼かれた者が送る鎮魂歌 作:ゆーの。
それからしばらくして、時空管理局は大騒ぎになった。
高町なのはを筆頭に、彼女と同世代の関係者達が次々と管理局を辞めていったのだ。
局としても実力者である彼女達を手放したくないと必死に説得したが、誰もそれを聞き入れることはなかった。
高町なのはに関しては、完全に心身が不安定であったと、説得に赴いた局員は後に語っている。
◆
辞表を出したのは、あの誕生日から三週間後のことだった。
三週間、なのはは普通に過ごそうとした。
訓練をこなした。書類を処理した。ヴィヴィオの朝食を作って、学校へ送り出した。フェイトの連絡に返事をした。はやてと顔を合わせた。
何でもないふりをすることには、昔から慣れていた。前に進むことが得意だった。笑顔でいることが、誰かを守ることだと信じていた。
でも今回は、うまくいかなかった。
訓練中、ふとした拍子に手が止まった。
書類を読んでいると、文字が頭に入らなくなった。
ヴィヴィオが「お母さん」と呼ぶたびに、胸の奥で何かが疼いた。
あの日記の言葉が、消えなかった。
眠れない夜に、ふとした瞬間に、繰り返し頭の中に浮かんだ。
『なのはが笑ってくれる要因の一つになれて嬉しかった。』
『その言葉こそが、僕を無限書庫へと向かわせる最大の理由だ。』
『何の事は無い。僕の誇りは、なのは達にとって適当に流せる程度のものでしかなかったのだ。』
読んでいなかった。
ユーノが届けてくれていたものを、なのはは読んでいなかった。
それだけじゃない。読まなかったことすら、気にしていなかった。事件が解決したことに安心して、ユーノが夜通し作っていた資料のことを、ひとかけらも考えていなかった。
なのははずっと、「ユーノはそこにいる」と思っていた。
書庫の中に、いつでもいる。連絡すれば返ってくる。会いに行けば迎えてくれる。
それを当たり前だと思っていた。
当たり前だから、特別に何かをしなくてもいいと、どこかで思っていた。
でも、ユーノはそこにいながら、ずっと遠くにいた。
なのはが気づかない場所で、ひとりで積み上げて、ひとりで諦めていた。
誇りが傷つくたびに、それでも続けて、最後には誇りごと手放して、なのはの笑顔のために消えていった。
三週間、考え続けた。
何が間違っていたのか。何をすべきだったのか。
でも、そのどちらにも意味がないことに気づいた頃、辞表を書いた。
局の上官は引き留めた。フェイトも、はやても、心配そうな顔でなのはを見た。
なのははただ、「ごめんね」とだけ言った。
説明できなかった。説明する言葉が、まだ見つからなかった。
◆
第97管理外世界、地球。
あの星には、昔の記憶がたくさんある。
なのはが魔法と出会った場所。ユーノと出会った場所。フェイトと戦って、フェイトと友達になった場所。
懐かしい、という感情より先に、胸が痛くなった。
林の中は静かだった。
土の匂いがした。木の葉が風に揺れる音がした。
なのはは、バリアジャケットも展開せずに、ただ歩いていた。
なぜここに来たのか、自分でも完全には分かっていなかった。
ただ、来なければいけない気がした。あの日記を読んでから、ずっとそう感じていた。
ユーノが最後に見た空は、どこの空だったのだろうと、何度か考えた。虚数空間に落とされる前夜、夜が明けていく空を見ていたと書いてあった。ミッドチルダの空が地球に似ていると書いてあった。
きっと、ユーノは地球の空を思いながら、ミッドの夜明けを見ていたんだろう、となのはは思った。
あの日の記憶が蘇る。
初めて会ったとき、ユーノはフェレットの姿だった。怪我をして、必死で何かを伝えようとしていた。なのはは、その眼を見て助けようと思った。
あの眼の意味を、今更になって考える。
あのとき、ユーノはもう全部を抱えていたのかもしれない。誰かの役に立ちたいという気持ちと、自分には力が足りないという諦めを。
空を見上げた。
青かった。
透き通った、何の変哲もない青空だった。
こんな空を、ユーノはずっと好きだと思っていてくれたのか。
なのはが飛ぶ空を、美しいと思っていてくれたのか。
胸の奥で、何かが決壊した。
涙が出るかと思ったが、出なかった。それより深いところが、静かに壊れていく感覚があった。
レイジングハートが、小さく震えた。
『Master.』
いつもと違う声だった。呼びかけではなく、確認するような、問うような声だった。
なのはは答えなかった。
虚数空間というのは、次元の狭間にある場所だ。
そこに何があるか、なのはには分からない。生きて戻れる保証もない。
でも、ユーノはそこにいる。氷漬けにされて、落とされた場所に。
一人で、いる。
分かっていた。
たとえ辿り着けたとしても、何も変わらないかもしれない。間に合わないかもしれない。そもそもユーノが生きているかどうかすら分からない。
管理局を辞めた今、これは完全に個人的な行動だ。誰にも頼めない。誰にも言えない。
フェイトに言えばきっと一緒に来ると言うだろう。はやてに言えばきっと止めようとするだろう。
だから言わなかった。
これだけは、なのは一人がしなければならないことだった。
違う、と思い直す。
しなければならない、じゃない。
したい、だ。
ユーノに、会いたかった。
伝えたいことがあった。
言葉にするとあまりにも遅すぎて、あまりにも身勝手で、今更すぎて、口にする資格があるのかどうかも分からないけれど。
それでも、言わなければ終われない気がした。
読んだよ、とまず言いたかった。
ちゃんと読んだ。全部読んだ。
あなたが届けてくれていたものを、今度こそ、ちゃんと受け取った。
それから、ごめん、と言いたかった。
見ていなかったことを。気づかなかったことを。当たり前だと思っていたことを。
傍にいてくれていたのに、傍にいることがどれほどのことか、分かっていなかったことを。
最後に、好きだよ、と言いたかった。
あの日記を読んで、初めてちゃんと気づいたのか、それとも気づいていたのに見ないふりをしていたのか、もう分からない。
でも、好きだった。きっと、ずっと。
書庫の中で本に囲まれているユーノが好きだった。丁寧な言葉を選ぶユーノが好きだった。ヴィヴィオに絵本を読んでやるユーノが好きだった。
学校の廊下で怒られてる姿も。アルフに「親子みたいだ」と言われて、少し嬉しそうにしていたあの横顔も。
全部、好きだった。
風が吹いた。
木の葉がざわめいた。
林の少し先、空気が揺れている場所があった。
次元震だ、となのはは思った。
虚数空間の、入り口だ。
レイジングハートが再び震えた。
『Master. Are you sure?』
「うん」
迷いは、なかった。
バリアジャケットを纏わずに、なのははそこへ向かって歩き始めた。
空は、青かった。
ユーノが好きだと言ってくれた、あの空と同じ色だった。
高町なのはは、まっすぐに前を向いて、次元の狭間へと消えていった。
◆
そして──
第97管理外世界のある林の中で次元震が発生。虚数空間が開いたとされた。
そこで高町なのはらしき女性を見たという報告が上がっているのを最後に、彼女の消息は分かっていない。
なのはが飛んだ空は、あの日も、美しかったという。