CYBERPUNK BREAK THE EDGE 作:ケーケーケー
序章 月を知る男
ナイトシティでは、誰もが何かを売って生きている。身体、時間、忠誠、夢。売り物がなくなれば、最後に命を差し出す。
久世アキラが前世の記憶を取り戻したのは、十歳の誕生日だった。もっとも、この街では誕生日など戸籍データに記録された数字でしかない。目を覚ました場所はヘイウッドの廃診療所。隣のベッドでは、撃たれた養父が安物の人工血液を床へ流していた。救急回線は料金滞納を理由に接続を拒み、窓の外ではギャングの車が燃えていた。
その光景を見た瞬間、アキラは二つの人生を同時に思い出した。平凡な世界でアニメとゲームを楽しんでいた自分。そして、企業戦争の残滓を拾って暮らしてきた、ナイトシティの孤児としての自分。
ここがどこかを理解した時、喜びより先に吐き気がした。画面の向こうでは美しかったネオンが、現実では血と排気ガスの色を隠すために光っている。知っている人物たちは、まだどこかで生きていた。だが、このままなら、いずれことごとく死ぬ。
養父は助からなかった。アキラには知識があっても、技術も金も力もなかった。握った手が冷たくなるまで、何ひとつ変えられなかった。
だから誓った。二度と、知っているだけで終わらない。悲劇が始まってから泣くのではなく、悲劇を生む側より先に引き金へ指を置く。
十一年後。二〇七六年。
アフターライフの奥で、アキラは依頼人が差し出したチップを二本の指で砕いた。黒いコートの下に武器は見えない。首筋に接続端子もなく、眼窩にもサイバーウェア特有の継ぎ目はない。知らない者が見れば、生身に近い若者としか思わない。
だが、彼を知る傭兵は目を合わせなかった。六番街の装甲車列を三十秒で沈黙させ、ミリテクの強襲部隊を一人も殺さず武装解除し、ネットウォッチの追跡AIを逆に三日間迷子にした男。どの企業の記録にも本名はなく、仕事の痕跡だけが残る。
通り名はオルフェウス。死者の国へ降り、生きたまま戻る男。
「依頼は受けないのか?」
フィクサーが砕けたチップを惜しそうに見た。標的は市議会議員。報酬は桁が一つ多い。罠であることも含め、いかにもナイトシティらしい仕事だった。
「今夜は先約がある」
「女か?」
「母親だ」
正確には、まだ会ったこともない少年の母親だった。グロリア・マルティネス。救急救命士。息子をアラサカ・アカデミーへ通わせるため、死体から回収した軍用インプラントを横流ししている。数日のうちにギャングの抗争へ巻き込まれ、適切な治療を受けられず死ぬ。
日付までは覚えていなかった。原作の映像にカレンダーは映らない。だからアキラは三週間前から、グロリアの救急車へ発信器を仕込んでいた。
視界の隅で、監視プログラムが赤く明滅する。救急車が予定経路を外れ、サントドミンゴの高速道路で急停止した。直後、銃撃検知システムが連続して反応した。
アキラは立ち上がった。
十一年間、この瞬間のために力を積み上げてきた。
「勘定は俺につけておけ」
「この店でそれを言う奴は、だいたい戻らない」
「なら今日は、例外を作る」
次の瞬間、椅子だけがその場に残った。店の扉が開いた時には、黒い残像さえ消えていた。
第一章 事故の日
高速道路は、すでに戦場になっていた。
六番街の車両が二台、対向車線のタイガークロウズへ機関銃を浴びせている。曳光弾が夜気を赤く裂き、逃げ惑う一般車両が互いに衝突した。その一台が中央分離帯へ弾かれ、後続の救急車が避けきれず横転する。
世界が遅くなった。
アキラの脊椎に組み込まれた時間加速装置が起動する。軍用サンデヴィスタンを原型から作り直した独自機構《クロノス》。神経伝達だけでなく、人工筋肉、循環器、視覚処理を同じ比率で加速させる。通常の使用者を焼き切る負荷は、全身へ分散した補助脳と冷却血液が引き受けた。
止まって見える雨粒の間を、アキラは走った。
最初の銃弾を指で逸らす。二発目を掌で受け、変形した弾頭を路面へ落とす。三発目が救急車の燃料系へ届く前に、射手の銃だけを握り潰した。
クロウズの男は、敵が現れたことすら理解しなかった。視界が戻った時には、車載機銃の銃身が結び目のように曲がっている。隣では仲間が気絶し、六番街の車両は制御を奪われ路肩へ整列していた。
アキラは時間加速を切った。遅れて衝撃音が一つに重なり、夜が震えた。
横転した救急車へ向かう。運転席の男は死亡。助手席では赤毛の女性がシートと車体の間に挟まれていた。胸郭損傷、内出血、頸椎への負荷。生体モニターの数値は急速に落ちている。
間に合った。だが、まだ救ってはいない。
アキラは車体を片手で持ち上げ、歪んだフレームを引き剥がした。皮膚の下から医療用マイクロアームを展開し、損傷した血管を仮止めする。肺へ溜まった血液を抜き、呼吸を確保。骨片が動脈へ触れない位置で固定する。
グロリアが薄く目を開いた。焦点の合わない瞳が、アキラの顔を捉える。
「デイ……ビッド……」
「生きている。後ろの座席だ」
その言葉だけで、彼女の身体から力が抜けた。気を失っても、心拍は止まらない。
後部座席では、黄色いジャケットを着た少年が頭から血を流していた。致命傷ではない。アキラが拘束具を外すと、少年は咳き込みながら身を起こした。
「ママは?」
「生きてる」
「病院に……早く!」
遠くでサイレンが鳴った。市警ではない。民間医療企業の航空艇が、契約者だけを回収するために近づいてくる。原作と同じだ。彼らはグロリアの生命反応を確認し、加入者でないと知れば見捨てる。
アキラはグロリアを抱き上げた。
「あれには任せられない」
「でも、あんた誰だよ!」
問いに答える前に、空から白い照準光が降りた。トラウマ・チームの隊員が銃を向け、契約者の回収区域から離れるよう警告する。アキラは一度だけ視線を上げた。
航空艇の火器管制、推進制御、通信系統。そのすべてへ、彼のもう一つのOSが同時侵入する。黒壁の手前で拾った旧世代AIを人間用に削り直したサイバーデッキ《ヘカテー》。
隊員の照準表示から、三人の姿が消えた。記録映像には、横転した無人の救急車だけが残る。
「選べ、デイビッド。ここで質問を続けるか、母親を助けるか」
少年の顔から疑念が消えたわけではない。それでも、迷った時間は一秒に満たなかった。
「助けてくれ」
「了解した」
アキラは二人を乗せ、奪った六番街の車を発進させた。背後でトラウマ・チームが契約者だけを回収し、負傷者たちを路上へ残していく。
原作では、ここからデイビッドの人生が壊れ始める。
だが今夜、グロリア・マルティネスは死なない。
最初の悲劇は、まだ始まる前に折れた。
第二章 死ななかった母
アキラが連れ込んだのは、ワトソン北部にある看板のない診療所だった。店主のマラは、白髪のリパードクで、患者より機械へ優しいことで知られている。
「面倒は持ち込むなと言ったはずだよ」
「死にかけを持ち込むな、とは聞いてない」
「同じ意味だ」
そう悪態をつきながら、マラの手はすでに動いていた。アキラが施した仮処置を見て一度だけ眉を上げ、グロリアを手術台へ移す。デイビッドは扉の前に立ち尽くしたまま、乾いた血のついた両手を見ていた。
「座れ」
「平気だ」
「平気な人間は、自分が平気だと言い続けない」
デイビッドが睨む。恐怖を怒りへ変えて立っている顔だった。アキラには覚えがある。何もできない自分を認めたくない時、人は誰かを憎む理由を探す。
「どうして俺たちを知ってた?」
当然の質問だった。答えは用意してある。しかし、完全な嘘は避けたかった。これから彼らの未来を変えるなら、信頼を使い捨てにはできない。
「君の母親が運んでいた品を追っていた」
デイビッドの目つきが変わった。救急車の座席下に隠されていた軍用サンデヴィスタン。元はサイバーサイコが装着していた危険物で、グロリアはメインという傭兵へ売る予定だった。
「警察か?」
「違う」
「じゃあ企業?」
「もっと違う」
アキラは台へ置いたケースを開いた。内部には、血に濡れたサンデヴィスタンが収まっている。デイビッドは反射的に身構えた。
「これは持ち主へ返す。ただし、君には入れない」
「入れるわけないだろ」
答えは早かった。しかし視線はインプラントへ吸い寄せられている。力があれば、母親を守れたかもしれない。その考えが芽を出す瞬間を、アキラは知っていた。
原作のデイビッドは、特別であることに縋った。母の期待、メインの夢、ルーシーの願い。優しい少年だったからこそ、他人の夢を全部背負い、自分が壊れるまで降ろせなかった。
「それは力じゃない。返済期限の短い借金だ」
「あんたは使ってるんじゃないのか」
鋭い。デイビッドはアキラが消えた瞬間を見ていた。
「使っている。だから、代金も知っている」
アキラはコートを脱ぎ、左腕を見せた。皮膚の下には冷却管と人工筋肉が隙間なく編み込まれている。だが、雑然と詰め込まれたクロームではない。一つの生物のように統合され、呼吸に合わせて微かに光っていた。
「サンデヴィスタンだけじゃない。バーサーク、サイバーデッキ、反応装甲、補助心臓、人工肺。俺の身体の八割は置き換わってる」
「そんなの……とっくにサイバーサイコになってるはずだ」
「普通ならな」
「じゃあ、あんたは特別なのか?」
その言葉に、アキラは小さく息を吐いた。
「違う。十一年かけた。手術のたびに半年休み、神経系を作り直し、自分でOSを書いた。相性が悪い部品は、どれだけ高価でも捨てた。特別だから耐えたんじゃない。耐えられるように準備した」
デイビッドは黙った。才能を否定されたのではない。才能を理由に命を粗末にする道を塞がれたのだ。
手術室のランプが消えた。マラが出てくる。
「峠は越えた。肺と肝臓はバイオ部品へ交換したが、脳は無事だ。二日もすれば目を覚ます」
デイビッドの膝から力が抜けた。床へ座り込み、顔を両手で覆う。泣き声は出さなかった。けれど指の間から落ちた雫が、汚れた床に小さな跡を作った。
アキラは何も言わず、その隣へ腰を下ろした。
救えた実感はなかった。ただ、失わずに済んだ未来が、扉の向こうでかすかに呼吸している。
それで十分だった。今夜だけは。
第三章 黄色いジャケット
グロリアが目を覚ましたのは、翌日の夕方だった。
最初に息子の名を呼び、次に医療費を尋ねた。ナイトシティで生きる人間として、あまりに正しい順番だった。
「払える額じゃありません」とアキラは答えた。
「正直ね」
掠れた声でグロリアが笑う。身体を起こそうとして、痛みに顔を歪めた。デイビッドが慌てて枕を直す。母親が生きていることを確かめるように、その手へ何度も触れた。
「代わりに仕事を一つ頼みたい」
デイビッドが立ち上がった。
「母さんは怪我してる」
「彼女じゃない。君でもない」
アキラは椅子を引き、二人から等距離の位置へ座った。
「俺が欲しいのは約束だ。グロリアは死体からインプラントを抜かない。デイビッドは勝手にクロームを入れない」
「それで治療費が消えるの?」
「消す」
グロリアは警戒を解かなかった。善意だけで大金を払う人間など、この街にはいない。善意を名乗る者ほど、後から高い利子を要求する。
「あなた、デイビッドに何をさせるつもり?」
「選択できる歳まで、生きてもらう」
「答えになってない」
「俺にも、まだ答えがない」
それは本当だった。グロリアが生きた時点で、筋書きは変わった。デイビッドはアカデミーを辞めないかもしれない。ルーシーと出会わないかもしれない。メインのクルーへ入らなければ、レベッカとも知り合わない。救うべき者たちを繋いでいたのは、皮肉にもグロリアの死だった。
未来を変えるということは、正解を捨てることだ。
アキラが守れるのは、知っている展開ではない。目の前の人間だけだった。
診療所を出ると、デイビッドが追ってきた。
「待ってくれ」
夕暮れの高架下。広告ホログラムが、手の届かない暮らしを空中へ映している。デイビッドは黄色いジャケットのポケットへ手を突っ込み、言いにくそうに視線を逸らした。
「金は返す。時間はかかるけど」
「要らない」
「俺が要るんだよ。母さんを助けてもらって、そのままってわけにはいかない」
原作と同じ目だった。折れても立ち上がり、誰かのためなら自分を差し出してしまう。だから危うく、だから眩しい。
「なら、一つだけ手伝え」
アキラはデータチップを投げた。中身はアラサカ・アカデミーの授業料一年分。そして、彼が独自に組んだ基礎訓練プログラムだった。
「三か月、身体を鍛えろ。射撃、応急処置、ネットワーク基礎。インプラントに逃げず、生身でできることを増やす」
「それが仕事?」
「準備だ。君の母親を狙う奴が、まだいるかもしれない」
デイビッドの表情が硬くなる。グロリアが運んでいた軍用品は、単なる横流し品ではない。アラサカが適合者を探すため、意図的にストリートへ流した試作品である可能性があった。原作ではデイビッドが装着したことで計画が動いた。しかし品が消え、グロリアが生き残れば、企業は別の形で追跡を始める。
「強くなれば、母さんを守れる?」
「強さだけじゃ守れない」
「あんたは強いだろ」
「だから分かる。敵を倒すより、敵が誰かを見抜く方が難しい」
デイビッドはチップを握り締めた。
「あんたくらい強くなれるか?」
「無理だ」
即答すると、少年は露骨に顔をしかめた。
「ただし、俺よりましな人間にはなれる」
「それ、褒めてるのか?」
「最大限に」
その日の夜、デイビッドは自宅の狭い床で、訓練プログラムの最初の項目を始めた。腕立て伏せ二十回で潰れ、悪態をつき、それでも二十一回目へ挑んだ。
一方、アキラはグロリアのサンデヴィスタンを持ち、メインとの待ち合わせ場所へ向かった。
次に死ぬ男へ会うために。
第四章 エッジランナーズ
メインは、アキラを見るなり拳銃を抜いた。
廃倉庫の二階。正面にメイン、右にドリオ。梁の上にレベッカ、その後ろにピラル。キーウィは姿を見せず、ネット越しにこちらを観察している。ファルコの車は裏口でエンジンを回したままだ。
見慣れた顔が全員、生きている。
それだけで、アキラは胸の奥に鈍い痛みを覚えた。画面の中で死んだ者に、現実で会う。その奇妙さへ慣れる日は来ないだろう。
「グロリアは?」とメイン。
「生きてる」
銃口がわずかに下がった。メインは彼女を取引相手としてしか知らない。それでも、死を喜ぶ男ではなかった。
アキラはケースを床へ滑らせた。ドリオが拾い、中身を確認する。
「注文どおりの軍用品。損傷もない」
「代金は本人へ払う」とメインが言った。「で、お前は何者だ?」
「オルフェウス」
梁の上で、レベッカが吹き出した。
「うっそ。あの企業部隊を裸で帰したって奴? もっとゴツい化け物かと思った!」
「期待に添えなくて悪い」
「脱いだらゴツいかもしれないだろ」とピラル。
直後、レベッカの銃床が兄の顎へ入った。場の緊張が少しだけ緩む。ドリオだけは笑わず、アキラの重心と両手を見ていた。優れた兵士の目だった。
「有名人が、どうして運び屋の尻拭いをする?」
「彼女の息子に興味がある」
メインの銃が再び上がった。
「言い方に気をつけろ」
「才能を買ってるだけだ。アラサカが先に目をつける前にな」
その名で空気が変わった。キーウィがネット越しに通信を切り替え、周辺の走査を始める。メインは冗談をやめた。
アキラは、サンデヴィスタンに仕込まれていた休眠ビーコンの解析結果を共有した。通常の追跡装置ではない。装着者の神経反応を記録し、適合率を遠隔送信する観測系。受信先は何重にも迂回されているが、終点にはアラサカの署名があった。
「俺たちに売らせて、誰が使うか見てたってことか」とドリオ。
「可能性は高い」
「なら壊して終わりだ」
メインの判断は早い。だが、アキラは首を振った。
「もう信号を一度返している。事故の時だ。相手は品が回収されたと知ってる」
倉庫の照明が落ちた。
同時に、外でファルコの車が爆発する。爆炎ではない。電磁パルスで制御系だけを焼かれた音だ。シャッターが上下から封鎖され、天井の換気口へ小型ドローンが殺到した。
「伏せろ!」
ドリオの声と銃声が重なる。メインが腕のランチャーを展開し、レベッカが梁から飛び降りながら二丁拳銃を乱射する。だがドローンは囮だった。壁を爆破して、黒い戦闘服の兵士たちが侵入する。企業章はない。死体になっても雇い主を辿れない部隊だ。
アキラは、ため息をついた。
未来が変わった。原作にはない襲撃。知識の優位は、事故から一日で崩れ始めている。
それでも、恐怖はなかった。
「全員、撃つな」
「あァ?」レベッカが叫ぶ。
「弾がもったいない」
アキラの瞳が紫に光った。
兵士たちの視界が一斉に暗転する。スマートガンの照準が味方を敵と誤認し、人工筋肉が動作命令を拒絶する。切断対策済みの独立系インプラントには、床を走ったアキラが直接触れた。
拳は一度も人体へ届かなかった。
装甲板を留めるボルトだけを打ち抜き、武器を握る義手の接続部だけを外し、頸部の鎮静剤ポートへ最小量の薬剤を送り込む。十七人の兵士が、順番に糸の切れた人形のように倒れた。
最後の一人が大型ショットガンをアキラの胸へ撃つ。至近距離。装甲車両用の徹甲弾。
アキラは避けなかった。
着弾と同時に皮膚の下の反応装甲が硬化し、運動エネルギーを全身へ分散する。コートだけが破れ、潰れた弾頭が床へ転がった。
兵士のマスク越しに、恐怖が見えた。
「スマッシャー……」
「あれと一緒にするな」
アキラは銃身を掴み、片手で折った。
「俺はまだ、人間だ」
すべてが終わるまで、最初の銃声から十二秒。
沈黙した倉庫で、レベッカが潰れた弾頭を拾い上げる。目を輝かせてアキラと弾を見比べた。
「ねえメイン。こいつ、うちに入れよう」
「先に本人へ聞け」
「うちに入れ。決定!」
「話を聞け、レベッカ」
ドリオが額を押さえ、ピラルが腹を抱えて笑う。アキラはその光景を見つめた。
この騒がしい家族は、やがて壊れる。メインはクロームの重みに耐えきれず、ドリオは彼を独りにできず、二人とも炎の中に消える。レベッカは逃げず、空から落ちてくる鋼鉄に押し潰される。
だが、それは何も変えなかった世界の話だ。
「条件がある」
アキラが言うと、メインは顎を上げた。
「聞こう」
「仕事の前後に全員のメディカルチェックをする。クロームの追加は俺とドクの許可制。幻覚、震え、記憶の欠落を隠した奴は、俺が殴ってでも休ませる」
メインの笑みが消えた。右手が微かに震えている。原作よりずっと前から始まっていた兆候。本人さえ、まだ疲労だと思い込んでいる。
「俺のクルーだ。指図は受けねえ」
「なら入らない。その代わり、今日の連中の雇い主は一人で追う」
「脅しか?」
「予告だ。あんたが倒れる未来を、俺は見たくない」
メインの目が細くなる。ドリオが彼の腕へそっと触れた。ほんの一瞬の仕草だったが、アキラは見逃さなかった。
長い沈黙の後、メインは拳銃を収めた。
「一週間だ。気に食わなきゃ追い出す」
「十分だ」
レベッカがアキラの背中を叩く。
「歓迎するぜ、鉄面皮!」
その小さな手が生きて動いていることに、アキラは安堵した。まだ誰にも理解されない安堵だった。
第五章 月へ続く線路
翌朝、デイビッドは通学列車で銀髪の少女にチップを抜かれた。
それ自体は、原作と変わらなかった。変わったのは、少年が訓練を始めていたことだ。
手首を掴むほど速くはない。だが、ポケットの重さが変わった瞬間に気づいた。デイビッドが振り返ると、少女は人混みを抜け、別車両へ移ろうとしている。
「待て!」
追いかけた先で、少女はドアへ背を預けた。虹色の瞳が、面白そうにデイビッドを観察する。
「学生にしては勘がいいね」
「返せよ」
「嫌だって言ったら?」
デイビッドは答えに詰まった。殴る気はない。市警を呼べば、自分の端末に入っている非合法な訓練ソフトまで調べられる。
少女――ルーシーは、その迷いを見抜いて笑った。チップを指先で弄びながら、窓の外へ目を向ける。
その顔を、別の車両からアキラが見ていた。
偶然ではない。メインのクルーへ加わった翌日から、キーウィを通じてルーシーの動きを追っていた。彼女の過去を考えれば、監視されることを何より嫌う。だから距離を取り、危険な時だけ介入するつもりだった。
しかし、ルーシーがこちらを見た。
視線が正確に重なる。
あり得ない。アキラは監視カメラと乗客の光学インプラントから自分の像を消している。生身の視覚にも、人混みが自然な死角を作る位置を選んでいた。
ルーシーはデイビッドへチップを返し、耳元で何か囁く。そのまま列車を降りると、人の流れに逆らってアキラの車両へ入ってきた。
「尾行、下手だね」
「初めて言われた」
「機械から消えても、人の動きまでは消えない。みんな、そこに誰かいるみたいに避けて歩いてた」
アキラは素直に感心した。アラサカの施設で育てられ、旧ネットへ潜らされていた少女。彼女は能力ではなく、生き延びるための観察でこちらを見つけた。
「メインの新入り?」
「昨日から」
「私を連れ戻しに来た?」
「違う。君が逃げたいなら止めない」
ルーシーの表情が消えた。
「何から?」
「アラサカから」
空気が凍る。彼女のモノワイヤーが袖口から滑り、透明な刃がアキラの首へ巻きついた。乗客には見えない速さと角度。少し力を込めれば、通常の人間の頸動脈は簡単に裂ける。
アキラは動かなかった。
「誰に聞いたの」
「誰にも」
「だったら、どうして知ってる?」
答えられない。前世で君の人生を見た、などと言えば、狂人か企業の実験体だと思われるだけだ。
「君と同じ場所から逃げた子供を知っていた」
嘘ではない。映像の中で知っていた。名前もつかなかった子供たちが、黒壁の向こうで次々に焼かれるのを見た。
「その子は?」
「死んだ」
ルーシーの指がわずかに震えた。モノワイヤーが首から離れる。
「脅すつもりなら失敗だよ」
「脅してない。取引をしたい」
「何が欲しい?」
「君が自分の命を安売りしないこと」
ルーシーは鼻で笑った。
「無料ほど高いものはないって知ってる?」
「よく知ってる」
列車が高架へ出た。窓の向こう、広告とスモッグの切れ間に白い月が浮かんでいる。ルーシーの視線が一瞬だけそちらへ向いた。
月へ行きたい。ナイトシティから遠く離れたい。彼女の願いをアキラは知っている。けれど、口にはしなかった。本人から聞く前に夢を言い当てることは、心を覗くのと同じ暴力だ。
「あの学生、知り合い?」とルーシー。
「昨日から」
「ずいぶん気にかけてる」
「放っておくと、自分より他人を優先する」
「それの何が悪いの?」
「最後に自分が残らない」
ルーシーは答えなかった。彼女もまた、同じ選択をする人間だ。デイビッドを守るため、誰にも相談せずアラサカのネットランナーを狩り続け、孤立し、捕まる。
救うべき者は、死ぬ瞬間だけ助ければいいわけではない。死を選ぶまでに積み重なった孤独を、一つずつ減らさなければならない。
列車が駅へ滑り込む。扉が開く直前、ルーシーは小さなデータ片をアキラへ投げた。
「メインに渡して。今夜の仕事、参加するって」
「自分で言わないのか?」
「あなたが本当に新入りか、確かめたいから」
扉が開き、彼女は人混みへ消えた。
アキラは受け取ったデータ片を解析する。仕事の概要に見せかけ、その奥へ巧妙な追跡コードが仕込まれていた。彼の防壁へ触れ、即座に凍結される。
思わず笑った。
「信用されるまで、長そうだな」
視界の端で別の警告が灯った。診療所周辺の監視網に、アラサカの偽装IDが三つ。グロリアの生存が確認された。原作では動かなかった駒が、もう動き始めている。
同時刻、アラサカ・タワー上層。
田中は、事故現場から消えたサンデヴィスタンの報告を読み返していた。適合候補として監視していたデイビッド・マルティネス。その母親は死亡せず、正体不明の介入者によって企業病院の網から消えた。
監視映像に人影はない。ただし、弾道解析は一人の存在を示している。数十発の銃弾が、同じ一点を避けるように軌道を変えていた。
「この男を探せ」
田中の命令を受け、部下が映像の復元を始める。
ノイズの海から、黒いコートの輪郭が一瞬だけ浮かんだ。
その情報はやがて、アラサカが飼う最強の兵器へ届く。
アダム・スマッシャー。
鋼鉄の怪物は、復元映像を眺め、機械の喉で笑った。
一方、そんなことを知らないデイビッドは、帰宅した母親へ夕食を作っていた。焦げた合成肉と、茹ですぎた麺。グロリアは文句を言いながら全部食べた。
失われるはずだった、ごく普通の夜。
アキラが戦う理由は、それで十分だった。
ナイトシティは、奪った命の数で伝説を決める。
ならば彼は、救った命の数でその価値観を塗り替える。
デイビッドを生かす。ルーシーを月へ連れていく。レベッカを笑ったまま明日へ送る。メインの手から銃を下ろさせ、ドリオと同じ朝を迎えさせる。
そして最後には、アダム・スマッシャーを倒す。
原作を知る者としてではない。彼らと同じ街に生きる、一人の仲間として。
悲劇の筋書きは、もう壊れ始めていた。