夏が、来ていた。
霊子街の鉄塔が陽炎に揺れ、氷菓売りの屋台の近くで風鈴が鳴っている。
水場には子供が戯れ、水をかけあっている。大方、学科領に住んでいる街人の子供だろう。
窓の外は白い光で溢れ、石蝉が鉄筋に止まり、じりじりと鳴いている。
「あつい」
部屋の床に、黒髪の小人が溶けていた。
ヴィータである。
コレトー教授謹製の冷房魔導具がキンキンに効いた部屋の、一番涼しい床の上。大の字になって頬を床につけている。
「はしたないですわよ、ヴィータ。せめてソファに座りなさいな。ほら、隣空いてますわよ。ここも涼しいですわ」
「はんろーん。ゆかがいちばんつめたい。これは合理てきなはんだん」
「猫ですのあなたは」
今日から夏季休暇。
学生の四割が帰省するこの季節、わたくしたちは寮に残っていた。わたくしに帰る場所はなく、ヴィータの帰る場所がこの部屋だから。
「いい加減ゲーム機も片づけませんと。本も棚に戻しなさい」
「じゃんけーん」
「やる気がありませんわね……」
手をぐーぱーと握っては広げるヴィータを見て、思わず苦笑が漏れる。
今日の昼食はローストビーフだった。キッチンは若干暑い。洗い物はここで涼んでから。じゃんけんに負けたわたくしがやることになった。
早朝は涼しいうちに中庭で魔法の鍛錬。午前はふたりで涼みながら、ゲームや読書。今日は『世界再征服記』を読んで、感想を言い合った。
穏やかで、少し怠惰な、いい夏の頃。
「ろーれった」
床の小人が顔だけをこちらに向けた。
「アイスたべたい」
「あら、いいですわね。霊子街の屋台まで行きましょうか。新作のフレーバーが出たと先輩が——」
「いや」
ふるふる、と床に頬をつけたまま首を振る。
「そとはあつい。当機はこのへやから出たくない。でも、アイスはたべたい」
「………………」
目を丸くして、ヴィータを見下ろす。
珍しい。本当に、珍しい。
この人が、こんな子供のようなわがままを言っている。
いつも他人を優先して、自分の欲を後回しにして、「みんながしあわせなら当機はしあわせ」と笑う人が、どこにでもいる女の子のようなことを言うなんて。
……ふ、ふふふ。
だめだ、口元が緩んでしまう。
「む。ろーれった、そのわらいはなに?」
「いいえ? なんにも」
ぱたん、と本を閉じる。立ち上がり、机の上に置いてある食器をシンクへもっていく。食器を水にだけ漬け、手を軽く洗う。
「~♪」
嬉しかった。
彼女も少しずつ、自分の欲しいものを自覚し始めているのがわかる。わたくしは、与えられるだけではない。
「仕方ありませんわね! わたくしが買ってきて差し上げます。ミルクとイチゴと、新作のフレーバー。新しいフレーバーはふたりで分け合いましょう?」
「! ん、あと、屋台で売ってる——」
「チチャロンはだめ。アイスだけですわ」
「……そう」
しおしお、と床に沈む小人の頭をひと撫でして、わたくしは財布と学生証、メテオラのカギを掴んだ。
「三十分くらいで戻りますわ。留守番、お願いしますね?」
「まかせて。当機は留守番のぷろ」
床から親指だけを立てるヴィータに笑い、扉を開ける。
真夏の熱気が、頬を焼いた。
鍵の束を人差し指に入れて回し、メテオラに跨る。
ぶろろ、とエンジンが咆哮し、振動が腹まで響く。
「さて、行きますわよ!」
スロットルを回し、一気に発進する。
自分の声が弾んでいる。浮かれているな、と思いながら、わたくしは霊子街へと走った。
※※※
扉が閉まる音を、当機は床の上で聞いていた。
こつん、こつん。ろーれったの足音が階段を降りていく。品のある、音の少ない歩き方。ヒールをいつも履いているのに、よくやるものだと思う。
魔力の気配が寮を出て、霊子街のほうへ遠ざかっていく。
当機は、起き上がった。
床が冷たいから寝ていたのは、本当。
アイスが食べたいのも、本当
ろーれったを部屋から出したかったのも
——本当。
早朝の訓練後から、この部屋には違和感があった。
床に、大きい足跡が残っている。窓の錠が開いたまま。ふだん、鍵の戸締りはろーれったが行っている。
部屋を見分しながら、一番の違和感の元へ向かう。
ろーれったの机の、二番目の引き出し。開閉の癖でついた木の擦れ後にたまった埃。それが、一本だけ多い。
誰かが、入った。
ろーれったの引き出しに、何かを置いていった。
ろーれったは気づいていない。彼女は強いけれど、こういう小さな違和感には、まだ鼻が利かない。
当機は、こういうのを見過ごせば死んでしまう場所で育ったから、わかる。
引き出しを開ける。
一通の手紙。紙質は仔羊の皮で作られている。指でこすり合わせた感覚からして、高級紙であることはまちがいない。恐らく、最高品質のヴェラムだろう。ご丁寧に透視対策の術式まで編み込まれている。
豪奢な楽園の封蝋。雅な字面の宛名——ローレッタ・ヴェン・プレアデス様。
封は切らない。
極小の透視術式を二重に編み、紙越しに文面を読む。それから、文面の裏を読む。
文字の癖、インクの成分、封蝋に混じった微細な魔力に、皮紙についたわずかな脂、言葉の選び方、文字の強弱。
すべてを読み取り、人物像を頭の中でプロファイリングしていく。
一秒も経てず、読み終えた。
——決闘状。
差出人は、マグナ大陸の司教。ろーれったの、復讐相手。
勝てばプレアデス家の再興を。負ければ学堂を退き、花嫁として差し出せ。
貴族の決闘法に則った、一部の隙も無い正式な果たし状。
「………………」
しばらく、当機は手紙を見つめていた。
罠だ。
考えるまでもなく、罠だ。
決闘をするにしても、相手に旨味がない。文の組み立てや、法的に隙のない果たし状を用意したことから、相手は相当に狡猾で、慎重な性格であるとわかる。
しかも、連名で決闘状に署名をしている。ヌトス、ポロモン。ろーれったの復讐相手が勢ぞろい。
貴族の流儀に当機が疎いとはいえ、この手紙にかかった羊皮紙とインクの質からして、相当な金満家だ。
ろーれったが美しいとはいえ、女には困っていないはず。
何より——。手紙に付着した魔力の残滓が、おかしい。人のそれではない。<魔人戦線>で戦闘を重ねたことがある、高位の魔族のものに近い。
記憶の書庫を開く。魔族と人。魔力の変質。昔読んだレポートの中に、似たものがある。
——あった。カサンドラの大飢饉。千五百年前にあった、聖教の北部高原で起きた飢饉の末、人民同士が共食いをしてしまった。その際、瞳がとろけたり、角が生えたり、虫羽が生えたりした遺体が転がっていた。魔族化として、聖騎士が討伐した遺体だった。むかし、リヴェータ学園長から借りて、読んだことがある。
そして、ろーれったから聞いた、イフィゲネイア。
リヴェータ学園長の動向を重ね合わせて、二秒ほど思考をする。
結論がでた。
彼らは、ろーれったを殺すか、もっと悪いことをするために、この手紙を書いた。
「花嫁」の裏に滲む、嫌なインクの滲み方。そこから香る悪意。
当機は、この匂いを知っている。人を、人と思ってない者の匂い。命に値札を見る目の匂い。
部落で、当機に向けられ続けた、あの匂い。
でも。
ろーれったは行くだろう。
この手紙を読めば、ろーれったは必ず行く。罠だとわかっていても、行く。十年、八歳の頃からこの日のためだけに牙を研いできた人だから。
腹の底の炎に焼べるには、この手紙は劇薬が過ぎる。理性や思考を焼き切るには、きっと十分な熱となるだろう。
そして——負ける。
感情ではなく、演算として当機にはわかってしまう。
相手は複数の高位魔族。強さとして、黄金竜に匹敵する、無数の異形。今のろーれったでは、届かない。
彼女は強い。まっすぐで、きれいで、誰よりも頑張る。当機の大切な人。
だからこそ、まっすぐ進んで、まっすぐ壊される。
あの金髪が、血にまみれる。
あの通る声が、悲鳴に変わる。
あの温かい手が、冷たくなる。
「………………いやだな」
声が、勝手に漏れた。
当機の胸の奥で、何かが軋んでいる。演算じゃない、もっと暑くて、もっと重い、何か。
ろーれったが泣く。
ろーれったが苦しむ。
朝ごはんも、じゃんけんも、湯船も、髪を梳いてくれる夜も——、ぜんぶ、なくなる。
「ろーれったが、傷つくのは。いなくなるのは、いやだな」
胸を焦がす衝動のままに、当機は火の術式を熾した。
小さな焔が指先に灯る。手紙の端に火を移す。
雅な字面が、ねばつく悪意が、めらめらと燃えて黒く縮れていく。燃え移ったそれを、暖炉へ投げ入れる。決闘状は、受取人に届かなければただの紙。燃えてしまえば、灰になる。
……ほんとうは、これで終わりにできれば、よかった。
でも、だめだ。手紙が消えても、彼らは消えない。返事がなければ、彼らは次の手を打つ。
もっと汚い手を。ろーれったの周りの誰かを使うかもしれない。錬金科のだれかを、使うかもしれない。
悪意は根まで断つ。中途半端が一番ダメだと、リヴェータ学園長は言っていた。
なら、簡単。
当機が、行けばいい。
ろーれったの姿で、ろーれったの代わりに、決闘に出る。
罠の顎の中まで歩いて行って、顎ごと、ぜんぶを嚙み砕く。司教も、貴族も、楽園とやらも。ろーれったの復讐の対象も、ろーれったを狙う悪意も、まとめて潰す。
すべて当機が、あの世に持っていく。
立ち上がる。
そうと決めれば、やることは多い。まず、変身の魔法薬。服をまさぐれば、ろーれったの金の髪。まいにち頭をぐりぐりこすりつけられてるから、あると思った。
あとは、この情報をもとにろーれったの幹細胞を合成して、調薬すればいける。魔力が続く限りは、変身していられる。心配なのは、当機の霞みたいな総量の魔力くらいだが……。
『ルファリアの狂熱』なら、いけるか。
マンドラゴンの粉を入れて、強装薬にする。
後遺症がたいへんなことになるけど、持続時間は大きく伸びる。ない後など、考える必要ない。
ブレス・レスは——。持っていけない。
あの子が動けば、学堂中に知れる。港の検問もすり抜けられない。それに、ブレス・レス——。Breath/Bless Lessは、聖教国でも顔が割れている。「ローレッタ」の偽装が崩れてしまう。
この作戦は、当機が「ローレッタ」であり続けることに意味がある。彼らが、「プレアデスの小娘」を確保、あるいは殺害できたと思わせられれば、ローレッタに危害が及ぶことはない。
それに、ローレッタが復讐するときに都合がいいかもしれない。
生身で行く。
遺書は——、書かなくてもいいか。業務の引継ぎは、執行機関第二位のユース兄に任せられるはず。ローグ師父ほど忙しくはない。道具に遺書など不要だ。
「——ろーれった」
少し、胸がずきんと痛んだ。
きっと、彼女はアイスを買ってきてくれる。その彼女を騙して、一人にしてしまう。
それも、いやだな。
机に向かい、便箋を取る。
探さないでほしいから。心配してほしくないから。
義理は通せずとも、せめても救いを。
『ろーれったへ。学園長から、極秘の任務が入りました。執行機関のおしごと。ないようは言えないきまり。しばらく、かえれません。ごはん、ちゃんと食べてね。おやさいも、食べてね。ゲームの練習していていいよ。かえったら、また勝負しよう。
何かあったら、ろーぐ師父を頼って。——ゔぃーた』
書き終えて、少しだけ手が止まった。
書いてしまった。当機は嘘が下手。かえれるかどうか、わからないのに。
でも、消せなかった。
この一行があれば、ろーれったは待っていてくれる。怒りながら、唇を尖らせながら、待っていてくれる。
彼女はそういう、義理堅くて、優しい人だから。当機を哀れまず、対等に接してくれた。恐れてくれた。そういう、人だから。
だからこそ、壊れてしまわないようにしなきゃ。ろーぐ師父は、今もろーれったが頼るのを待ってくれている。
窓の外で、氷菓売りの鈴が鳴っている。
……アイス、たべたかったな。
ろーれったの買ってきてくれるアイス。イチゴ味のアイス。当機の好きな味を、彼女はもう、聞かなくても知っている。
当機の好きなものを、知ってくれている。
当機を大事に整備してくれる。燃えるような復讐心を滾らせながら、それでも当機をずっと優しく扱ってくれた。
それだけで、この一年は、当機の稼働時間である十八年で、いちばんあたたかかった。
じゅうぶん。じゅうぶんすぎるくらい、もらった。
「……いってきます」
誰もいない部屋に、小さく告げる。
ただいまをいうことは、ないだろう。
当機は、窓から夏の光の中へ、音もなく滑り出した。
※※※
少し買いすぎてしまった。
両手に氷菓の包みを提げて、わたくしは部屋の扉を開けた。
「ヴィータ! 遅くなりましたわ! 聞いてくださいまし、目の前でおばあさんが腰を痛めてしまいまして、医院へ——」
返事が、ない。
「ヴィータ?」
部屋は、冷房が効いたまま。
床の、彼女はいない。ソファにも、ベッドにも、キッチンにも。
テーブルの上に、便箋が一枚。
丸い、見慣れたかわいらしい字。
「……極秘の、任務……?」
わたくしは唇を尖らせた。
なんですの、それ。人にアイスを買いに行かせておいて、自分は任務だなんて。留守番のプロの名が泣きますわ。
「まったくもう……!」
氷菓を停涼庫へ押し込み、ソファへ腰かける。
帰ってきたら、お説教ですわ。野菜だけの夕食を一週間は出しますわ。覚悟なさいまし。
「………………」
——そうして、三日間待った。
落ち着かなかった。
執行機関の任務は、確かにある。<
なのに。
胸の奥が、ざわざわする。
直感が——十年、戦場じみた修行の中で研いできたわたくしの直感が、小さな警鐘を鳴らし続けている。
何かが、おかしい。
立ち上がり、部屋を見回す。
いつもどおりの部屋。彼女のぬいぐるみ。出しっぱなしのゲーム機。竜のポール。読みかけの本。
……匂い。
かすかに、紙の焦げた匂いがする。
冷房の風の流れを遡る。暖炉の奥。春に灰を掻きだして以来、使ていない暖炉に——黒い、燃えカスが残っていた。
紙だ。ほとんどが灰になっている。だけど、端の一片だけ、燃え残っている。
豪奢な、封蝋のかけら。
指先で摘まみ上げた瞬間、全身の血が冷えた。
この紋章を、わたくしは知っている。
忘れるはずが、ない。夢の中で何度も焼き払ってきた、あの教区の——。司教の紋。
「————ヴィータ」
紋章の潰れる熱が、掌に焼き付いた。
※※※
錬金科の工廠に、迸る激情のままにメテオラを飛ばした。
小鳥遊教授の部屋の扉を、ノックもせずに蹴破る。
「教授! ヴィータが——」
部屋の中にいたのは、教授ではなかった。
茶色いコートの、壮年の男。
部屋の中央に浮かべた無数のウィンドウ——学堂の出入国記録港湾の船舶台帳、霊子街の監視術式の映像を、恐ろしい速度で流していた。
「ローグ……!」
「来たか。話が早い」
ローグは視線を画面から外さない。わずかに意識を向けるだけで、珍しく隙だらけの態勢のまま低く言う。
「リヴェータの指令だ
あいつは今、【聖都】へ向かう公務の道中だが——学堂の防諜結界が、三日前に錬金棟へ微細な侵入痕を検知していた。報告が上がったのが今朝。俺が調べに入った矢先、ヴィータの学生証の信号が、東港で途切れた」
ウィンドウの一つが拡大される。
港の監視映像。三日に一度の、外洋定期船。乗船客の列の中に。
わたくしが、いた。
金髪の、わたくしの顔をした誰かが、俯きがちに船へ乗り込んでいく。
「……わたくし……? いえ、違う。あれは」
歩幅が違う。わたくしはあんな小さな歩幅で歩かない。地を這うような、滑り込ませるような足さばき。あれは、ヴィータの歩き方だ。
「変身薬だな。よくできている。魔力紋まで偽装した上に、偽装書類までいい出来だ」
ローグは、わたくしが握っていた燃え残りの封蝋を一瞥する。
石のような瞳が僅かに向けられる。三角の聖印を組めば、大地にも同じ文様が浮かんだ。
崩れた手紙が復元されていき、一枚の豪奢な手紙が空に浮かぶ。
「これで裏が取れる。読み上げるぞ」
無機質な声で、ローグは「手紙」を読み上げる。
決闘状。
司教。ヌトス。ポロモン。
勝てばプレアデス家の再興。敗北すれば、花嫁として——。
「————————————」
視界が、赤く染まった。
あいつらだ。
あいつらが、お父様を、爺やを殺し、プレアデスを悪魔に変えた、あいつらが。
今度は、わたくしを釣るために。
わたくしの、わたしのヴィータを。
「ふ、ざけるな……ッ」
声が、獣のように喉から漏れた。
全身の魔力が制御を離れて渦を巻く。部屋の魔導ウィンドウがびりびりと軋む。
腹の底の炎が、十年間煮詰め続けた黒い衝動が、かつてない勢いで燃え上がって——。
「ローレッタ」
冬の湖のような声が、わたくしの頭にまっすぐ刺さった。
「船は三日前に出た。決闘の期日から逆算すれば、立つには今日しかない。俺はこれから向かう」
白い手袋を力強く嵌め、ローグは立ち上がる。
「わたくしも——」
「お前を連れていくかどうかは、これから決める」
わたくしの言葉を、ローグはぴしゃりと断ち切った。
「連れていきなさい!! 当然でしょう、あいつらは、わたくしの——」
「復讐のためなら、お前は連れて行かない」
一切の温度のない声だった。
「今回はヴィータの救出が第一目標だ。正規の方法での出国が間に合わない以上、足手まといを連れていく余裕はない。
条件次第では、畜生三匹を見逃すことも視野に入れている。復讐にこだわるお前を連れていけるほど、俺に余裕があると思うか?」
ローグの白い手袋が、赤く染まっていた。
部屋の中に、血の香りが滲む。
ローグは、静かに続けた。
「一切の嘘偽りが、俺に通じると思うな」
「————ッ」
「時間がない。お前の思いを、さっさと聞かせろ。お前は、何のために行く」
何、のため。
何のため——?
決まっている。復讐だ。応酬だ。惨殺だ。十年、そのためだけに生きてきた。そのためだけに、幸せを閉ざした。剣を握った。銃を取った。魔法を磨いた。
この学堂に来たのも、ローグのもとで修業をしたのも、ぜんぶ復讐のため。
あの夜に燃えた屋敷のため。獅子の口から垂れていた、あの腕のため。
腹の底が、焙られるように熱い。
十年の重みが、喉元までせり上がってくる。この炎を捨てたら、わたくしには何も残らない。
この炎を捨ててしまえば、わたくしの十年を棒に振る。
ヴィータと過ごしたのはたったの一年。
十年の炎と、比べられるはずがない。たったの十分の一だ。切り捨てられるのは、ヴィータだ。
わたくしは、嘘をつけない。この復讐にだけは、この気持ちにだけは、嘘をつけない。
だから、言え。言うのです。
プレアデスの誇りを。わたくしの人生を優先すると。
激情が囁く、心中の言葉。
それに、わたくしは身をゆだねて——。
「——復讐なんか」
——冗談じゃない。
冗談じゃ、ありませんわ。
ヴィータと、わたくしの復讐。天秤にかけて、どちらが大事か? そんなもの。
「復讐なんか、いらない」
比べる余地も、ありませんわ。
「わたくの恨みは、怒りは、わたくしの人生。それを捨てることなどできません。捨てるなど、もってのほか。でも」
自分の胸倉を掴む。
ローグの鳶色の目を、まっすぐに見返す。
「ヴィータに、あの子に、換えられるわけがないでしょう……!」
声が、震えた。
「復讐のためか。ええ、その通りですわ。でも、違いますの。わたくしが行くのは、怨敵の首を獲るためではない。これは、訣別のため。復讐を、繰り返さないため。ヴィータを、復讐の理由にしたくない」
言葉がまとまらない。思ったことを、喉が焼けそうになりながらローグに叩きつける。
「護りたい。ヴィータを、わたくしが護りたい。あの大馬鹿を、取り戻して、たくさん叱って、抱きしめたい。…………………………復、讐が。ヴィータに、勝る、もんですか」
錆びた歯車が、壊れる音がする。
天秤が、ヴィータに傾いた。大切にしていた、大事なものが軋みと共にひびが入った。
……これは、裏切りなのだろう。
ぼんやりと、父様のような幻影が浮かぶ。無念の死を遂げた父の顔が、わたくしを見つめていた。
お父様。
わたくしは、お父様の無念を、利用しておりました。それが、わたくしが生き残ってしまった、唯一の理由だと。それにすがって、報いを受けさせるのが、わたくしの生きる理由だと。
ごめん、なさい。
お父様。ありがとう。そして、ごめんなさい。お父様、爺や、みんな。
わたくしは、ローレッタは、行きます。
お父様の姿が、ついに消えた。
その場にあった、不思議な気配が消える。今度こそ、お父様は、いなくなった。
涙があふれる。
みっともなく出始めた鼻水をすすり、ローグを睨みつける。
「お父様は、言いました。『その力でみんなを護る。それが貴族の務め』だと。
……十年かけて、やっとわかりましたの。復讐は、奪われたものの後始末。でも護ることは——ここに、胸の中にある大切な斧を、二度と奪わせないこと。それこそが」
胸に手をあて、床を踏み鳴らす。竜と三叉槍の紋章の、その上に。
「護ることこそが、大切なものを護ることこそが、プレアデスの誇り。わたくしは——ローレッタ・ヴェン・プレアデスですわ」
沈黙。
ローグは、じっとわたくしを見ていた。
冬の湖の瞳の、その奥で、何かがゆっくりと溶けていくのが見えた。
「……十年」
ぽつりと、彼は言った。
「その言葉が聞きたかった」
ローグの口元に浮かんだのは、安堵だった。
わたくしが一度も見たことがない、優しい顔。それはまるで。
お父様のような。父親のような、笑みだった。
「額を出せ」
「え……?」
ローグの指が、わたくしの前髪をかき分け、額に触れる。
瞬間。
ちり、と。額の奥で、何かがうずいた。
いや——うずいたのではない。ずっとそこに在ったものが、初めてわかった。
「気づいていなかったろう。一年前、お前が初めて『その先』に手を伸ばした日。俺は、お前にこれを刺した」
額が、熱い。
正三角の聖印が離れ、細長い一本に収束していく。
針だ。
推奨より透明な、長い長い、一本の針。
「土の【旧神聖曜】が一意。『停滞』。超越の水路をせき止める術だ。
復讐だけを見ていたお前が超越者に至れば、修羅として覚醒し、怨敵を焼き滅ぼしていたことだろう。
その果てに、復讐という寄る辺をなくせば、怪物か、死ぬかしかない」
「親として、お前をその道へ導きたくはなかった」
ローグの声に滲む、悔恨の色。
針が、抜けた。
——世界が、軽くなった。
比喩ではない。文字通り、この世のすべて、森羅万象が軽くなった。
肩に乗っていた見えない重石が、消えた。十年間、どこかで食いしばっていた奥歯の力が、抜けた。
魂の底でせき止められていた熱いものが、水路を得た奔流のように濁流となって全身へ駆け巡っていく。
視界がだんだん澄み渡り、全身のすべてが軽くなる。
ふわり、と部屋の埃が舞った。続いて、机が、機材が、何もかもが浮いていく。
「これ、は——」
「源流能力。超越者だけが持つ、固有の法則だ。名前は、自分でつけろ。もう、視ているはずだ」
視える。
わたくしという存在の、一番深いところ。
十年の恩讐も、プレアデスの名も、失った過去の重さも。
すべてを抱えたまま、それでも空へ昇っていける力。
縛る者すべてを、軽くする力。
「【
罪も、疑いも、彗星の如く軽く。
重い尾を引きながら、それでも夜空を翔ける、ひとすじの星のように。
あの夜に見た、流星のように。
「よぉし! 準備は整えたァ!」
工廠の大扉が、爆音と共に開いた。
白衣をはためかせた小鳥遊教授が、書類の束を頭上に振りかざしながら駆け込んでくる。
「密出国の手続き、ぜぇんぶ終わらせてきたぜ! 各所への贈賄……もとい、迅速協力費は俺のおごりだ!」
教授の背後。工廠の最奥で、整備用の照明が一斉に灯った。
光の中に、それは膝をついていた。
黒。
塗装ではない。セフィラ神鉄そのものを黒く焼き入れた、艶のない漆黒。
頭頂高、五メテル。だが、その輪郭は今までに見たどのV.Aとも違っていた。
装甲が、削り落とされている。
脚は細く、腕は短く、胴は薄い。人型としての厚みを、極限まで殺した骨のような機体。
そして——背中に。
畳まれた、鋼の翼が四枚。
翼の縁に沿って、無数の噴射口が並んでいる。
まるで、風切羽の一枚一枚に火を仕込んだような。
「……これは」
「飛行試験機の四番機だ」
教授は、鼻の下をこすった。
「装甲も武装も全部剥いで、翼と炉と脚だけにした変態機体。まともに殴り合いなんざできねぇ。空を飛ぶことしか能がねぇ。だがな」
白衣の女は、親指を立てた。
「速さだけなら、ブレス・レスに次ぐ。海の退魔? 高度一万メテルまで上がりゃ届かねぇよ。恒式炉は大気があれば回る。理論上は、大陸間を無補給でぶち抜ける」
「……理論上、か」
「実証はこれからだ。ローグ、おめでとう。乗りたがっていただろ。お前が初号パイロットだぜ」
「そうか」
ローグと小鳥遊教授の間を縫って、わたくしは機体の前に立つ。
わたくしは、黒い機体を見上げた。
鋼の巨人。
入学式の翌日、一歩も歩かせられなかった、あの鉄の塊と同じもの。
同級生の生温かい視線に晒され、吐き気をこらえて、懐の小刀に手を伸ばしかけた
——あの日の、屈辱の象徴。
「……乗りますわ」
わたくしは、歩き出していた。
「おいおい、正気か? お前、V.Aは動かせねぇって——」
「乗りますわ」
跪いた機体の胸部装甲が開き、階段が降りてくる。
操舵席に身を沈める。
左右の操縦桿を握る。硬く、熱い。
青い魔導線が腕を這い上がり、わたくしの魔力経絡へと絡みつく。
あの日と、同じくすぐったさ。
あの日と、同じ浮遊感。
——だが、次に来たものが、まるで違った。
「————」
情報が、流れ込んできた。
大気圧。外気温。
関節部のスライム油の粘度。
左脚膝関節の、わずかな軋み。
第三翼の噴射口に詰まった煤。恒式炉の回転数。装甲の張力。地面から返ってくる、鋼の重み。
その全部が、わたくしの皮膚の内側で鳴っていた。
……ああ。
そういう、ことでしたのね。
わたくしは、ずっと勘違いしていた。
V.Aとは、乗れば強くなる道具だと。
銃と同じで、握って引き金を引けば応えるものだと。だから、命じた。歩けと。動けと。わたくしの思念を、上から叩きつけ続けた。
違う。
これは、鎧ではない。
これは、こちらの言い分を通すための道具ではない。
機械には、機械の側の言い分がある。
どこがどう軋み、どこにどれだけ力が要り、どう動けば壊れないか。それを聞き取ろうともせず、わたくしはただ、命令していた。
なぜか。
簡単な話だ。
わたくしが、外から変えられることを拒んでいたからだ。
完璧な貴種としての鎧を着て、一分の隙もなく、誰にも触らせず。誰かに合わせて自分の形を変えることを、敗北だと思っていたから。
だから、思念が流れなかった。
あの日のわたくしは、この鋼と、会話をする気がなかったのだ。
——今は。
「……そう。あなたは、そこが痛いのね」
左脚の膝が軋んでいる。庇う。
第三翼の煤を、微弱な魔力で焼き飛ばす。炉の回転を、わずかに落とす。
魔力線が、開いた。
肉体の先にある、もう一対の手足として。
わたくしという星の、外周を回る衛星として。
黒い巨鳥が、ゆっくりと、立ち上がった。
「————っ、おいおいおいおい嘘だろ!?」
中二階で、教授が絶叫している。
「初回接続で全経絡開通!? おま、お前あれか、去年の講義でうんともすんとも言わなかったのって——」
「一歩」
踏み出した。
鋼の足が、工廠の床を踏む。
次の瞬間、機体が、盛大に傾いだ。
「————わっ、と!?」
姿勢が保てない
。
薄い胴。細い脚。この機体は、直立するようにできていない。
空を飛ぶために、地上の全部を捨てた設計だ。
慌てて翼を展開し、噴射で無理やり体勢を戻す。
工廠の資材が、風圧で吹き飛んでいった。
「……なんですの、この暴れ馬」
ぞくり、と背筋が震えた。
これで、この程度でこれなのだ。
ならば——ブレス・レスは。
双頭。長大な尾。四枚翼に、二対の腕。姿勢制御に難のある脚。
安全装置を全部外し、一秒ごとに五パーセント膨れ上がる出力を、手綱一本で乗りこなす、あの白銀の竜は。
あの人は、あんなものを。
毎回。あの細い身体で。
「…………はっ」
笑いが漏れた。
本当に。
本当に、あなたという人は。
余計に、腹が立ってきましたわ。あんなものを乗りこなす化け物が、なぜ生身で決闘場へ歩いていくんですの。
迎えに行かなければ。
今すぐに。
わたくしは、機体の背の翼を、大きく開いた。
「点火します」
外部音声に、自分の声が乗る。
「第一翼——点火」
ぼう、と。
翼の縁で、赤い火が灯った。
「第二翼、点火」
ぼう。
「第三、第四。……全翼、点火」
ぼう、ぼう、ぼう、と。
順繰りに、赤い焔が翼の縁を走っていく。
三十六の噴射口が、一つずつ息を吹き返し、鋼の羽根が炎の輪郭を得ていく。
工廠の闇の中で。
黒い鳥が、翼を燃やして立っていた。
「……名前は、なんですの」
「まだ付けてねぇ。試験機だからな」
教授が、上ずった声で答えた。
わたくしは、少し考えて。
「では——『黒隼』と」
この機体は、殴り合えない。守れない。地に立つことすら覚束ない。
欠点だらけだ。
それでも。
それでも、きっと。
この黒い隼は、どこまでも高く飛ぶ。
「よかろう! 命名権はパイロットの特権だ! 持ってけ泥棒!」
教授は書類の束を放り投げ、白衣のポケットに手を突っ込んだ。
そして、ふ、と。
いつものひょうきんな態度が消える。
「ローグ。ローレッタ」
「ああ」
「ぶっ壊しても構わねぇ。あいつを頼む」
小鳥遊教授が、真剣な顔で告げた。
「コレトー」
ローグはわずかに笑みを口元に浮かべ、黒隼へ親指を向ける。
「任せろ」
小鳥遊教授の左拳と、ローグの左拳が打ち合った。
「……で、ローグ。あなた、どうやって来ますの」
単座だ。この機体に、二人は乗れない。
ローグは答えなかった。
代わりに、腰から鉤縄を抜き、黒隼の腰部装甲へ、無造作に引っかけた。
そして、縄を握った。
「……は?」
「行くぞ」
「本気ですの!?」
「三十トンの機体に、俺の体重が加算されたところで誤差だ」
「音速で振り回されますのよ!?」
「侮るな。超音速の衝撃波程度、流せぬ俺ではない。
それとも、お前の師は、それほど弱いか?」
……ああ。
そういうことですのね。
わたくしは、笑った。
源流能力を、腰の縄へ流し込む。
【罪疑彗軽】。重さを、自分に向かう力を、ゼロにする。
鉤縄が、羽根になった。
ローグの身体から、重さが抜け落ちる。
「軽いな」
「そう作りましたの」
工廠の天蓋が開いていく。
夏の夜空が、頭上に広がった。
「行くぞ、ローレッタ」
外にぶら下がった師が、外部音声越しに言った。
「お前の得た力だ。お前の得た、護るものだ。
——復讐に、ケリをつけにいこう」
「——ええ!」
全翼、最大出力。
三十六の赤い焔が、一斉に咆哮した。
黒隼が、夜空へ撃ち出される。
地を越え、雲を裂き、星の高さへ。
待っていなさい、ヴィータ。
夜天の彼方——マグナ大陸の方角に、赤い星が瞬いていた。
※※※
鐘の音が、聞こえる。
マグナ大陸。司教座聖堂の、地下大聖堂。
円形にくり抜かれた石造りの決闘場を、観覧席がぐるりと囲んでいる。
席には、着飾った貴族と高位聖職者。手には、血のように赤い葡萄酒。顔には、観劇に来たような笑み。
燭台の火が、床の血だまりに映って揺れていた。
「さあさあ、次で十一人目ですなあ、『プレアデス卿』?」
壇上から、肥え太った司教が笑う。
決闘は日暮れから始まった。
一対一、という約束は、最初の一人を斬り伏せた瞬間に、意味をなくした。
倒した相手が、立ち上がったのだ。切り裂いた胸が、刎ね飛ばした首が、みちみちと音を立ててふさがった。
二人目が出てきた。三人目が出てきた。倒しても、倒しても。彼らは治って、列に戻る。
再生の秘蹟。
いや──。秘蹟なんかじゃない。あれは、人の肉を喰らい続けたものの、人でなくなった治り方。
(攻性、魔力をまとわせても……再生するのはおかしい)
当機は、肩で息をしていた。
ろーれったの姿をした身体は、もうボロボロだった。
返信役は肉体の見た目を変えるだけで、中身は当機のまま。魔力は残り一割。
ふとももに建てた強心のアンプルは、これで八本目。一歩動く度に、無理やり動かしている筋線維が、ぶちぶちとちぎれる音がする。
それでも、十分。
生身で、十人まで倒した。なれない剣を、最高効率で振り続けて。思い切り、殴りつぶして。当機、けっこう、頑張ったと思う。
「いやはや、噂にたがわぬ武辺よ。プレアデスの小娘は」
十一人目が、進み出る。
背丈三メテル。見上げるほどの巨体に、牛の頭骨を思わせる顔。ポロモン家の当主──だったもの。
「だが、そろそろ飽きた」
その隣に、蜥蜴の顎を持つ長身が並ぶ。ヌトス家の当主──だったもの。
そして、壇上の司教が、法衣の帯をほどいた。
肥えた肉の下から、ぬるりと光る無数の触手が、床へあふれ出す。
三対一。
決闘の作法は、燭台を覆う埃より軽く、捨てられた。
「────っ」
当機は、動いた。
最後のアンプルを噛み砕き、床を蹴る。狙いは、司教の目。牛頭の拳を紙一重で躱す。拳が地面を砕き、蜥蜴の尾が石柱を薙ぐ。
その隙間を縫って、縫って、縫って──。
「──捕まえた」
触手が、足に絡む。
「あっ──」
天地が、回った。
石の床に、全身が叩きつけられる。骨の折れる音が、自分の耳に響く。
触手が当機の全身に巻き付き、吊り上げる。
ぷつん、と。
変身薬の術式が、衝撃で断ち切れた。
金髪が黒に戻り、上背が縮み、ろーれったの顔が、当機の顔に剥がれ落ちていく。
しん、と。
大聖堂が、静まり返った。
そして、嗤い声が爆ぜた。
「「「あーっはっはっはっはっは!!」」」
「替え玉! 替え玉ですぞ司教猊下! プレアデスの小娘、決闘に替え玉をよこしおった!」
「なんという臆病! なんという恥さらし! これだから悪魔憑きの家系は!」
「おいおい待て、よく見ろこの娘──小人族だぞ」
蜥蜴の顔が、ぬう、と当機の顔を覗き込んだ。
細長い舌が、ちろちろと当機の顔を舐める。
「ほう……ほうほうほうほう。これはこれは。黒髪の、小人族。……もしや、<叡智の学堂>の、『最弱無敵』では?」
ざわ、と観覧席が沸いた。
「執行機関の! あの機械憑きの!」
「ヴァンガードなしでは赤子同然という、あの!」
「はっは、なるほど道理で。鎧を剥がれた騎士ごっこか」
司教が、壇上から降りてくる。
濁った眼が、値踏みするように当機を眺めまわした。
「よい。実によい。計画は狂ったが、これは僥倖ですぞ。諸卿」
触手の一本が、当機の目を、ねっとりと撫でまわした。
「小人族の肉は、珍しい、魔力豊かな種の、その稀なる出来損ない。『楽園』のお客人がたも、さぞお喜びになる。それに」
司教は低い声で嗤った。
「この娘は人質になる。プレアデスの小娘の同室者と聞く。娘を餌に、本命を呼び寄せればよろしい。ふ、ふふふ、ふふふふふ。前菜と主催が、一度の晩餐で揃うわけだ」
「では猊下。前菜はいついただきます?」
「善は急げ、と申しますでな」
牛頭の手が、当機の左腕を掴み。
「────っ」
みし、と。
肩の付け根で、嫌な音がした。
引かれる。ねじられる。ちぎれる──瞬間、蜥蜴の爪が一閃して、鮮やかに、当機の肉を断った。
「あ────、────ッッ」
声に、ならなかった。
白熱した鉄を突っ込まれたような激痛が、肩口から脳天まで貫いた。視界が明滅する。床に、赤いものがまき散らされる。
当機の、左腕だったものが、地面に転がった。
「おっと、死なせるな。直せ治せ」
ぬるりとした魔力が傷口に注がれ、肉が、無理やりふさがれる。
止血のための治癒。生かすための、治癒。
牛頭が、当機の腕を──当機から離れた当機の一部を、無造作につかみ上げる。
齧った。
ごり、と骨ごと。
「…………ふむ」
咀嚼の音が、静かな大聖堂に響く。
「……ほう」
「どうです、ポロモン卿」
「……これは、これはこれは」
牛頭の目が、恍惚に濁った。
「甘い。脂が蜜のようだ。魔力のめぐりが、下の上で弾ける。……猊下、これは絶品ですぞ。娘の肉など、目ではない」
「なんと。では、わたくしめも──」
蜥蜴の爪が、今度は右足にかかった。
「や──」
声は、断たれた足と一緒に、床へ落ちた。
痛い。
痛い、痛い、痛い、いたい、いたい──。
治される。また、断たれる。回し、食まれる。品評される。葡萄酒が注がれる。観覧席から、上品な笑い声。
誰かが、「わたくしにも一口」と手を挙げる。石の天井。ぐるぐる回る。喉の奥から、悲鳴とも呼べない、潰れた音だけが漏れ続ける。
「いやはや」
遠く、近く、司教の満足気な声がした。
「小人族の肉は、存外に旨いものですなあ」
どっ、と。大聖堂に、嗤いが満ちた。
(────)
当機は、天井を見ていた。
痛みは、もう、遠い国のできごとみたいだった。なれている。こういうのは、慣れている。部落の五年間、当機はずっとこうだった。魔法の的、鬱憤の捌け口。壊れないおもちゃ。だから、だいじょうぶ。
当機は、これに慣れて──。
……ちがう、かも。
慣れて、なかった。
だって、こんなに、かなしい。
部落にいたころの当機は、痛くても、かなしくなった。かなしいと、思わなかった。でも、いまは、かなしい。
胸のまんなかが、痛い。
ああ、そうか。これも、ろーれったのくれたもの、なんだね。
みちみち、と達磨にされていく。次は左腕か。当機の顔に、当機の骨のいちぶが吐き散らかされた。
解体される、牛のようだった。
思い返すのは、朝の麦粥。梳いてもらった髪が、唾液と血にまみれている。膝の上で、撫でてもらった頭。絡めた指は、もうどこにもない。
当機のなかに棲んでいたろーれったが、取られていく。かなしい。もう、会えないのが、かなしい。
感覚が、泥濘に沈んでいく。体の痙攣が始まった。もとより脆弱な身体。ルファリアの後遺症も出てきている。散るのは、近いだろう。
……でも。
当機は、笑った。血の味のする口で、ほんの少しだけ。
よかった。
ここにいるのが、ろーれったじゃなくて、よかた。
この痛みも、このおぞましさも。この笑い声も。ろーれったは、知らなくていい。あのきれいな浅葱色の目は、こんな天井を映さなくていい。あの人はあったかい部屋で、アイスを食べて、唇を尖らせて。当機のことを怒っていたらいい。
だいじょうぶ。当機が、全部持っていく。
この悪意も、この獣たちも。ろーれったの十年の復讐も。当機の身体には、まだ仕掛けがある。
こいつらが、当機を食料として運ぶ、その巣の奥で。当機の命と引き換えに、根こそぎ、あの世に持っていく。
あとは、リヴェータ学園長がうまくやってくれるだろう。
ろーれった。ごめんね。ろーれったの復讐を、傷を、勝手に横取りして、ごめんね。
怒るだろうな。あの人だから、すごく、怒るだろうな。
いいよ。
せいぜい、当機を恨んで。
恨みは、長く残る。当機の生きた、がんばった証になる。
だから、当機は──。
──天井が、弾けた。
最初に来たのは、光だった。
地下大聖堂の石天井が、内側からではなく、外側から。
赤い一条の焔が突き刺さり、そして、破裂した。
石材が降る。梁が折れる。燭台が倒れ、悲鳴が上がる。
千年を数えた聖堂の天蓋が、真上から丸ごと引き剥がされていく。
崩落する石の隙間から、夜が見えた。
当機は、天井があったはずの場所を見上げていた。
舞い上がる粉塵の向こう。夏の夜空を背にして。
燃える翼の、黒い鳥が墜ちてきていた。
鋼の巨人。四枚の翼。翼の縁を走る、三十六の赤い焔。
炉が、爆ぜた。
白い光が、大聖堂の内側を舐めた。
観覧席が吹き飛び、貴族が吹き飛び、当機を吊るしていた触手が、根本からちぎれ飛ぶ。
そして、その胸部のハッチが弾け飛び。
金色が飛び出した。
「────ヴィータァァァァァァァアアアアァアァアアアッッ
聞き間違えるはずのない声が、大聖堂を震わせた。
……え。
……ええ?
なんで。
どうして。
だって、当機、完璧に偽装したのに。手紙も燃やしたのに。学生証の信号も切ったのに。ろーれったが、ここにいるはずが──。当機の計算では──。
金髪の少女が、煙を切り裂いて、まっすぐ駆けてくる。
観覧席から、異形の従者たちが雪崩を打って齧りかかり──そのすべてを、赤黒い瘴気の一閃が、まとめて斬り捨てた。
「雑魚は俺が持つ」
ローグ師父の声。
「行け」
言われるより疾く、彼女は走っていた。
牛頭が吠え、拳を振るう。ろーれったは、躱しもしない。彼女が、羽毛のように空へ跳ねる。蜥蜴の尻尾が彼女を打ち据え──。彼女の身体から重さが消えた。尻尾はすり抜けられ、一切の痛打を与えることなく、彼女の前進を許した。
司教が、ろーれったの目の前にいた。
十年間、彼女が夢に見続けた復讐の相手が、驚きで身動き一つとれていない。
それを、ろーれったは。
「な──っ」
見も、しなかった。
素通りした。憎悪の的を、視界にすら入れない。凛とした瞳に映るのは、当機だけ。
まっすぐ、まっすぐに。床に転がる血まみれの当機のところへ──。
膝から、崩れるように。
抱きしめられた。
「────っ、あ」
あったかい。
夏の匂い。エメラの甘い香水。いつもより早い、心臓の音。
抱きしめ返す腕も、当機には、もうない。だけど、肩を動かして、ろーれったを抱きしめ返す。
「ヴィータ、ヴィータ、ヴィータ……!」
震える鼻声が、耳元で、当機の名前を呼んでいる。
「当機」の機体番号でも、「最弱無敵」でも、「小人族」でも、「可哀そうな子供」でも、「前菜」でもなく、呼んでくれている。
ヴィータ、と。
「……ろー、れった……」
血の絡んだ喉で、当機は囁いた。
「だめ、だよ。にげて。ここは、わなで──」
「黙りなさいこの大馬鹿──ッッ!」
鼓膜が、びりびりした。
「話は! 帰った後で! たっっぷり! 聞かせてもらいますから! 覚悟なさい!!」
ああ──もう。
この人は、こんなところでまで、いつもどおりだ。
視界が暗くなっていく。安堵なのか、限界なのか、もうわからない。
最後に見えたのは、当機を抱いたまま、司教たちを振り返る、彼女の横顔。
浅葱色の目に、青い炎が燃えていた。
※※※
ヴィータの身体を、背に負った。
欠けた四肢は応急の治癒で塞がれていたけれど、腕の中の彼女は。出会った日よりもずっと軽い。
床に散らばる骨と肉の残骸。むせかえるような血の匂い。わたくしの腹の奥底に沈む炎が、静かに燃え固まっていく。
「……おのれ。おのれおのれ小娘ぇ……! 決闘を虚仮にし、聖堂を破壊するとは、罰当たりめが……!」
司教が触手を波打たせて吼えている。
その左右に、牛頭と蜥蜴。三体の異形が、わたくしを囲っている。
ちらり、とローグに目を向ける。
鳶色の視線が、わずかに首肯を返す。群がる雑兵を薙ぎ払いながら、わたくしに向けて片目を閉じた。
……そう。なら、遠慮はいらない。
サンセットを抜き、ブレードとライフルをセットする。
わたくしの十年が、喉元までせりあがる。よくも、お父様を。よくも、爺やを。
よくも、ヴィータに傷をつけてくれたな。
放った覇気に呼応して、周囲に散乱した骨や小石、砂が重力の枷から解き放たれ、宙に浮いた。
「猊下。やつはおそらく、覚醒しております。──アレを」
「……ふん。前菜に興乗りすぎて、忘れておったわ。よかろう。諸卿──
三体の異形が寄り合った。
肉と肉が、触手と鱗と獣毛が、ぐちゅりと混ざる。
境目が溶ける。膨れ上がる。三つの声が一つに濁って、天井を突き破らんばかりの──山のような、肉塊の異形がそこに顕現した。
『喰ロウテ、や、ろウ。二人マとメて。骨も、残さズ』
六つの眼が、爛々とわたくしを見下ろす。
わたくしは、懐に仕舞っていた紐で、ヴィータとわたくしを縛り上げ、彼女の体躯を軽くする。
わたくしの背に、彼女の血がべっとりとこびりつく。息が浅く、わずかに痙攣している。
「すぐ、終わらせますわ」
異形へ向き直る。
背中の光背──。バックリボルバーに手をかける。
「<<
五つの重心が、一斉に展開した。
小銃『デイジー・プロミネンス』。
ブレード『マテリアル・スライサー』。
火炎放射器『フレア・セルペンス』。
バズーカ砲『アウローラ』。
ショットガン『オリュコス』。
総重量百五十キロを超える鋼の花弁が、二丁のサンセットを軸に、宙で連結していく。
今まではできなかった。
メテオラにも積載しきれない、重量の化身。
重すぎて、反動が大きすぎて。全身に魔力強化を振り絞って、十五秒の展開が限界だった。
だが、今は。
「『罪疑彗軽』」
その真価のすべてを、わが手に。
百五十キロの鋼が羽となった。重量、反動という概念から解き放たれた銃身が、わたくしという星の周りで大きな衛星となる。
連結を終えた全銃身が、一つの形を結んだ。
黒く、永く、武骨な──棺桶。
竜と三叉槍の紋が、砲身の横に浮かぶ。これこそが、プレアデス家の紋章。
『竜の棺桶』。
「我が家紋の意味を、教えて差し上げますわ」
棺桶の底部から、火炎放射の焔が噴いた。
わたくしの身体が、棺桶ごと、空を飛ぶ。
「『悪竜を殺す槍』、という意味ですのよ」
引き金を引く。
炸薬が狂い咲き、夜が昼となった。
バズーカの榴弾が異形の胸郭を吹き飛ばし、間髪入れず小銃の連射が傷具へなだれ込む。
のたうつ触手を逆噴射によって回避し、ショットガンをお見舞いする。聖銀の弾丸が眼球を潰し、火炎放射が全身を包む。
息切れはない。反動はなく、照準は寸分も揺れない。空中を彗星のように旋回しながら、わたくしは撃って、撃って、撃ち続けた。
肉が爆ぜ、焼け、千切れ飛ぶ。
──そして、繋がる。
『効かぬ、効かぬなァ!!』
六つの眼が嗤った。
抉れた胸が盛り上がる。潰れた目が開き直る。焼けた皮膚の下から、新しい肉が無限に沸いてくる。
「キリがありませんわね」
地に舞い降り、舌打ちを漏らす。
不死。
人を食らい続けた果ての、擦り切れることのない再生。
炸薬の量が心もとない。銃身に積んだ火汞の残量計が、赤く点滅する。
(削り切れない──)
動きはてんでずぶの素人。一撃を当てるのもたやすく、当てることなど造作もない。
だが、すぐに再生する。外から壊すだけではだめだ。
この異形は、器を壊しても死なない。ならば器の中身の継ぎ目──。魂と、精神と、肉体の継ぎ目を、断つしかない。
視界の端で、雑兵を押しとどめているローグと目が合った。
何も言わない。
鳶色の瞳が、わたくしに問うていた。
──視えているか、と。
視えて、いる。
源流能力に目覚めた今ならば、視える。あの巨大な肉の濁流の中にある、かすかな一点。
魔力、態勢が揺らぎ、ねじれて絡まっている。消耗しているがゆえに、初めて見える力の結び目。
前傾姿勢を取る。
届く距離は、懐の中、
あの触手の暴風の、ど真ん中。
「潰れロ、小娘エエエェェッ!!」
異形の全触手が、百を超える肉の槍が、一斉にわたくしへ殺到した。
回避は不可能。
だから。
「行きますわよ」
わたくしは、棺桶を捨てて──その中へ、飛び込んだ。
最初の一本が頬を裂く。二本目が肩を掠める。三本目、四本目──。被弾のすべてを【罪疑彗軽】で「軽く」して、衝撃を殺し、痛みごと背負って。すべての重みを、加速に変えて。
肉の槍衾の隙間へ、
師の背中が、瞼の裏に浮かんだ。
十年間届かなかった、遠い背中。
何百回も見て、何千回も真似て、一度も掴めなかった、あの絶死の型。
資格がなかったというのもうなずける。
熱狂にして冷静。猛攻をいなし、流し、時には撃ちこみ。そして、崩れたところに死を取り立てる死神の慈悲。視野の軽さと、重厚な冷静が必要だった。
復讐に縛られたわたくしには、その死を捉えるには怒りが重すぎた。
だが、今は。
『——待テ』
声が、変わった。
濁った三重奏の中から、ひとつだけ。
聞き覚えのある、脂ぎった司教の声が、澄んで浮かび上がった。
『待テ、待テ待テ待テ。小娘、貴様、勘違いをしておる』
肉の壁の向こうで、六つの眼が、必死にわたくしを探している。
『貴様が今、何を恨んでおるのか知らんが——貴様の不幸は、我らのせいではないぞ』
わたくしは、止まらない。
『あれは、あの男の自業自得だ! プレアデス伯——あの無能の!』
声が、悲鳴じみて高くなる。
『大幅な減税! 移民の受け入れ! 改宗! 貴様、あれのどれ一つとして、根回しがあったと思うか!? ないわ! 一片もない! あの男は銀蛇卿の──生ける伝説たる、我らが最大の宿敵たる銀蛇卿の政の上っ面だけを掬い取って、そのまま己の領地にぶちまけたのだ!』
『税を捨て、軍を捨て、周囲との利害調整すら捨てて、民が笑えばそれでよいと! ——領主として、あまりに愚かであろうが!』
……ああ。
その通りだ。
わたくしは、知っている。
ずっと前から、知っていた。
あの日。リヴェータ様は、お父様を庇うことはなかった。お父様の性格を称えこそすれ、その政治の手腕を──。能力を称えることだけは、けしてしなかった。
ならば、間違いのない話。
政治家として、貴族として、父は愚かだった。
優しくて、まっすぐで、民を愛して。
そして、それだけだった。
軍権を削り、根回しを怠り、隣の領主が何を考えているかを見ようともせず。
結果として、屋敷を焼かれ、爺やを殺され、娘一人を焼け跡に残した。
知っていた。
知っていて、それでも憎めなかった。憎めば、わたくしの十年が立ち行かなくなるから。
『貴様も同じよ! 感情でしか動けぬ! 復讐だ、友だと喚いて、目の前の利すら勘定できぬ! 血だ! 親子だ! 同じ血が同じ愚を繰り返す!』
触手が、割れる。
結び目が、目の前に迫る。
『貴様ら親子は——貴族失格だ!!』
わたくしは。
笑った。
「——ええ」
懐から尊厳劍を抜く。竜と三叉槍の紋章が刻まれた、プレアデスの小刀。
「その通りですわ」
声が、驚くほど静かに出た。
「お父様は、愚かでした。政を知らず、人を疑えず、剣ばかりが上手な、お人好しの領主でしたわ。……あなたの言う通り。あなたの言うことだけは、正しい」
『な——』
「ですから、わたくしは、あなたを恨む理由をひとつ失いましたわね」
全身に力を入れ、しかしその関節の全てから力を抜くる。
「でも、それがどうしましたの」
結び目が、そこにあった。
「秘伝——」
刃を、苦痛なく肉へ滑り込ませる。
あの日、ローグがわたくしの首につま先を添えたように、優しく。
「──鯉落とし」
滝を上る、竜を落とすのだ。
音は、なかった。
異形の巨躯がびくん、と一度だけ跳ねた。
魂と、精神と、肉体。
三位を繋ぐ流れが、完全に乖離した。
『あ』
『え』
『な、ん──』
三つの声が、ばらばらに零れ落ちた。
再生が止まった。
山のような肉塊が、支えを失った砂の城のように、内側から崩れていく。膨れあがった不死の器とて、命脈を断てばただの肉。
ずう、ん……と地響きを立てて、わたくしの十年が、大聖堂の床に倒れた。
二度と、動き出すことはなかった。
「──」
わたくしは、立ち尽くしていた。
終わった。
終わって、しまった。
お父様、爺や、屋敷のみんな。終わったよ。
「ふう──」
息を、大きく吐き出す。
不思議なくらい、腹の底は静かだった。歓喜も、虚無もない。ただ、報告だけが胸の中を通り過ぎていく。
約束を、果たしましたと。
この十年の締め括りが、復讐の一撃ではなく。復讐を越えた先に覚えた技であった。
……お父様は、笑ってくださるでしょうか。
背に意識を向ける。
ヴィータは、目を覚まさない。浅い呼吸だけが、小さな胸を上下させている。血に濡れた黒髪を、そっと撫でた。
「……お説教は、帰ってからですわ」
覚悟為さい。たっぷり、搾り上げますから。
だから、それまではどうか眠っていて。
彼女を背負い直した、その時。
「──逃がすな! 二人とも生かして帰すな!
大聖堂の入り口から、鬨の声が上がった。
正面には生き残りの貴族たち。その背後からなだれ込んでくる、白い呪符を纏った異形の騎士。
一体、二体ではない。五十──いや、百を超える数。纏う魔力の密度は、一体一体が黄金竜に匹敵する。
「イフィゲネイアの守り手たち! 証人を消せ! なんとしても、<銀蛇卿>の元へ帰すな!」
……厄介な。逃げるだけでも骨が折れそう。腕の一、二本の犠牲は覚悟するべきか。
サンセットに手を伸ばす。一点突破を狙う。迫りくる化け物の群れへ、足を滑らせる。
それより、なお早く。
茶色いコートが、音もなく降り立った。
ローグは何も言わず、最も速く駆け込んできた斥候騎士の槍を、すれ違いざまに踏みつけ、一瞬で槍を奪い。
音もなく、その刃を振るった。
波紋のような斬撃。
最前列の騎士十数名が、糸の切れた人形のようになて崩れ落ちた。
鯉を、落としたのだ。
「退路は俺が守る」
ローグは、奪った槍を無造作に放り捨てる。取り出したるは、背の十文字槍。
アルフェウスの名が刻まれた長槍を、ゆっくりと下ろした。
「行け」
「……ッ、でも」
「リヴェータを近くまで呼んでいる。北の街道にある、アイネイアスの紋章の白獣車だ。──行け、ローレッタ。露払いは俺の仕事だ」
わたくしは、唇を噛んだ。
「……ご武運を」
ヴィータを背負い直し、壁の大穴へ走る。
振り返れば、赤い大海嘯。
ローグが自らの手首を先、吹き出した血がうねり、巨大な壁となった。赤い壁は大聖堂を丸ごと包み込み、強靭な堤となって残らず塞いだ。
誰も、ここから逃がさない為に。
※※※
血の内側。
殺気だった景色の中で、貴族の一人が嗤った。
「は……はは! なんだ、貴様一人か!」
嗤いが伝播する。
百を超える異形の騎士。単独で黄金竜にも匹敵する魔力と肉体を有する守り手たちが、たった一人の壮年を幾重にも取り囲む。
「調べはついておるぞ、冒険者ローグ! たかが黄金級! 人の身の、ただの傭兵風情が! この数に、勝てるとでも!?」
「そうだな」
男は、静かにうなずいた。
「冒険者資格は趣味でとったものだ。ならば、侮られるは必定だな」
十文字の穂先が、赤黒い瘴気を纏う。
「殺しの影に名は要らずとも、死にゆく畜生にも、冥府の土産をくれてやろう」
男が、顔を上げた。
「──西方連合が神獣軍、初代第五将軍。我らが王、偉大なるアルフェウスの影」
嗤いが、凍り。
その相貌に、恐れと絶望が刻まれた。
「俺の娘二人に、手を出したんだ」
今までにないほど濃密な瘴気が、天井を舐めた。
「──楽に逝けると思うなよ」
※※※
北の街道。
人気の少ない石畳の道に、獣車の明かりが見えた時、東の空はもう、白み始めていた。
「ローレッタさん!」
青銀の髪が、灯りの中で揺れた。
リヴェータ様が、駆け寄ってくる。枢機卿の法衣のまま、護衛の黒髪に金の瞳の女性──、エリスさんを置き去りに、大地を蹴った。
わたくしの背のヴィータを見た瞬間、その碧い瞳が揺れた。
「……まあ」
小さな両腕が、わたくしごと、ヴィータを抱きしめた。
「よく、よくぞ、二人とも」
二千年を生きる怪物の声が、震えていた。
「戻ってきましたね」
※※※
獣車の中で、リヴェータ様の治癒が始まった。
史上最高の魔法師の御業を、わたくしは初めて間近で見た。千切れて欠損してしまった四肢の断面に、光の糸が織り込まれる。
魔力が肉体を活性化させ、白い光が彼女の腕を包み込む。骨が、神経が、肉が、関節が。逆戻りするように再生されていく。失われた血が満ち、土気色だった頬に、ほんのりと赤みが差していく。
「……完治には、時間がかかります。欠けた分の身体がなじむまで、ひと月はかかるでしょう。ですが」
リヴェータ様は柔らかく微笑み、ヴィータの身体を魔法で浄化しながら続ける。
「命に別状はありません。この子は、大丈夫ですよ」
膝から、力が抜ける。
張りつめていた糸が、切れる。よかった、と声を上げることもできない。
「ありがとう、ございます」
「いいえ。謝るのはこちらのほう。巻き込んでしまいました」
リヴェータ様は小さくため息を漏らし、月下を見つめた。
ヴィータの瞼が揺れた。長いまつ毛が震え。
赤い瞳が、開いた。
「……………………ろー、れった?」
寝起きの、少し掠れたいつもの声。
「…………ここは? 当機……ええと、あれ? いきてる…………?」
きょとんと。
こてん、と首を傾げる、いつもの仕草。
わたくしは、大きく息を吸い込み。
思いっきり、その頬に張り手を炸裂させた。
ばちん! と乾いた音が獣車に響いた。
リヴェータ様が「まあ」口元に手を当て、固まっている。
「…………いた」
ヴィータが、張られた頬を抑えて、ぱちぱちと瞬きをした。
「二度と」
震えた声を抑えて、ヴィータを睨む。
「二度と、こんなことをしないでくださいまし」
「……ろーれった、当機は」
「聞きなさい!」
堰が、切れた。
「勝手に手紙を燃やして! 勝手にわたくしの顔になって! 勝手に一人で罠に飛び込んで! 勝手に、勝手に、死のうとして…………ッ! あなたという人は、あんな手紙ひとつで、わたくしをとどめておけると、本気で思っていましたの!?」
「…………ごめん、なさい。でも、当機は、つかい捨てられる。なら、当機がろーれったをたすけたかった。当機のかわりは、ろーぐ師父やゆーす──」
「代わり!?」
声が、裏返った。
「代わりとほざきましたか!? ええ!? あなたに、代わりがいると!?」
目の奥が灼けた。
こらえていたものが、ぼろぼろと彼女の頬へ落ちていく。
「いるわけ、ないでしょうが。あなたの、ヴィータの代わりは、誰にも務まらないの」
胸倉をつかみ、彼女の赤い目をまつ毛がつきそうなくらい近くで、にらみつける。
「あなたがいないと、寂しいの…………ッ」
「朝の麦粥も、じゃんけんも、湯船も、髪を梳く夜も、床で溶けているあなたも……! 全部、全部、あなたじゃなきゃ、ダメなの! ヴィータがいない世界なんて、わたくしは、いや…………っ」
彼女の胸に縋りつく。
治ったばかりの小さな身体を、壊れ物のように、けれど二度と離さないように、顔を埋める。
赤い瞳が、大きく見開かれていた。
演算が追いつかず、理解ができないような顔。生まれて初めての方程式を前にした顔で、彼女はわたくしを見つめていた。
「…………でも、当機の──」
彼女は、かすれた声で言った。
「当機の代わりは、いるよ。ヴァンガードのパイロットなら、いつかそだつ。執行機関のせきじも、うまる。錬金科のけいびも、魔導具でだいたいできる。当機というきたいの機能は、ぜんぶ、代替可能──」
「いません」
わたくしは、遮った。
「いないの、ひとりも」
彼女の両頬を、両手で包み込む。張ってしまった頬を、そっと撫でながら続ける。
「機能の話なんかしていませんわ。……ねえ、ヴィータ。逆に聞きますけれど」
「ヴィータは、わたくしの代わりが、いますの?」
赤い瞳が、大きく見開かれた。
「明日から、わたくしじゃない誰かが、あなたの髪を梳いて。わたくしじゃない誰かと、じゃんけんをして。わたくしじゃない誰かの心臓の音を聴いて。
それで、同じですの? あなたの毎日は、それで変わりませんの?」
「…………」
沈黙は、長かった。
やがて、彼女の唇が、小さく動いた。
「…………いや、だ」
絞り出すような、か細い声。初めて聞く、彼女の声だった。
「ろーれったの、代わりは…………いない。ろーれったじゃなきゃ、やだ。さみしい。
…………そ、っか。…………そっか、これが……」
わたくしは、彼女を抱き寄せた。
左胸を、彼女の耳に押し当てる。
とく、とく。
とく、とくい。
わたくしの心臓の音。あの夕暮れに、彼女がわたくしにしてくれたことを、返す。
「同じですのよ、ヴィータ。わたくしにとての、あなたも」
「機能でも、ラベルでも、性能でもなく。ヴィータ・アルデバランという、たった一人の、わたくしの大切な人。わたくしの、わたしのヴィータ。
……代わりなんて、どこにもいませんの」
腕の中の小さな身体が、震えていた。
つう、と。
赤い瞳の端から、ひとすじだけ。
暖かくも冷たいものが、わたくしの胸元を濡らした。
彼女の、涙だった。
出会ってから一年。どんな痛みにも、どんな過去にも、一度も流されることのなかった雪解けが、静かに流れ落ちた。
「…………ありがとう、ろーれった」
小さな、傷だらけの手が、わたくしの手に回される。
「当機を──」
一拍の、ためらい。
それから彼女は。
生まれて初めて口にする子供のように、たどたどしく言い直した。
「──わたしを、助けに来てくれて」
獣車の外で。
夜明けの空に、季節外れの星々が瞬いていた。
青の星団と、赤の巨星。
プレアデスと、アルデバラン。
二つの星は、白んでいく同じ空の下で、寄り添うように並んで光っていた。
※※※
──暗転した、夜。
【聖都】へ続く街道の宿場。その最上階の一室に、リヴェータ・ロット・アイネイアスはいた。
卓上には、報告書の山。
司教座聖堂の地下から回収された、決闘の記録。人肉饗宴の予約台帳。『楽園』の顧客名簿。イフィゲネイア関与者の、金の流れ。
大聖堂に残されていた、百を超える異形の躯から採取された、呪布と魔族骨の検体。
二千年、待った。
彼女が生まれるより前から【月睨派】の腑の底に巣食っていた、この淀み。世界通貨テレスの都合上、触れれば経済が死に、暴けば民が焼かれるこの腫瘍。
千五百年前、彼女が性急に刃を入れて、十万の民を死なせた、この宿業。
その隠蔽の皮を、剝ぐ準備が、ついに整った。
「司教座が聖堂ごと『決闘の作法』を破り、学堂の学生を拉致し、喰った。物証は完全ね」
報告書を繰りながら、彼女は静かに言葉を並べる。
「これ以上ない、介入の大義名分」
影が、動く。
音を立てずに、彼女の机に何かがおかれる。
埃を被った硝子瓶だった。
「祝いの席に酒がない。俺は野暮な堰が嫌いでな」
「ローグ」
顔を上げれば、茶色いコートの男が立っていた。
全身が煤と、乾いた血でどす黒く汚れている。人の血ではない。あの血の壁の内壁で、彼が挽き肉に変えてきたものの残滓。
普段ならば返り血を浴びることなどない彼の顔が、しかし異様なほど機嫌がよかった。
「まあ。お疲れ様。苦労をかけた」
リヴェータが指を振るう。
ただ、それだけでローグの全身にこびりついた血脂が消え、清浄な姿へと戻っていく。
机に腰かけ、机の上に置いたガラス瓶をリヴェータの前へ滑らせる。
「なあに、それ」
「二千年モノのコニャックだ。メーヴェ村の、な」
ローグは鼻歌でも歌いそうな手つきで、封を開ける。
琥珀が、硝子の中で満ちる。とくとく、と注がれる香りに、リヴェータも上機嫌な笑みを浮かべる。
「そう。あなたにとって、それを開けるにふさわしい慶事ということ」
「娘ふたりの門出だ。これ以上の日はない。エリスはどうした」
「ヴィータさんたちの護衛」
「そうか」
ローグは杯にコニャックを注ぎ、リヴェータへ手渡す。
リヴェータは、しばらく杯を見つめていた。
彼女は、酒が飲めない。苦いものも、辛いものもダメで、社交場では喉と鼻に液体吸着の術をかけている。
宴席の乾杯など、すべて演技。二千年の慣習であった。
「ふふ、いいでしょう」
術を、解いた。
ローグは口の端を曲げて笑い。杯をリヴェータへ寄せる。
「乾杯」
硝子が、夜の部屋に鳴った。
舌の上で、二千年が花開く。木と、果実と、遠い日の太陽。そして、どこか懐かしい、灼熱の甘み。
「…………にがい」
「だろうな」
渋い顔をするリヴェータをしり目に、ローグは一息に呷る。
窓の外、夜明け前の空。しばらく、二人は何も言わなかった。
「──ねえ、ローグ」
やがて、リヴェータが口を開いた。
「怒ってる?」
「それはお前の返答次第だな」
男は、機嫌よくリヴェータへ目を向けた。
「どこまでが、お前の描いた絵だ?」
「どこまでも」
彼女は、杯の琥珀を揺らした。
ごまかさない。政敵が相手であれば、彼女は躊躇せず相手が誤解する言葉を選ぶ。
それをしないのが、友情であり、同じ王に仕えていた──今も仕えている友への、義理であった。
「ローレッタさんをあなたの弟子に迎えるのを許した時から。うまく運べるだろう、と思って動かした」
「手紙の侵入も、か?」
「ええ」
リヴェータは、静かに認めた。
「封じることはできた。でも、封じるよりも、乗せたほうがいいと判断したのも、わたし。どうせ、【聖都】に出る用事もありました。
ローレッタさんに決闘を受けていただき、復讐にも折り合いをつけて頂く、いい機会ですと。後手に回ったとしても、救出は可能だと。一番被害が出ない方法だと、判定したのですけれど…………」
彼女は、大きくため息をついた。
「誤算は、あの子が先に手紙を見つけてしまった。あの子の頭の速さを理解していました。他人を優先する気質も、存じていました。ただ、執行機関の任務の今後の継続よりも、ローレッタさんの保全を優先させるとは思いませんでしたから。おかげで、こちらの対応が後手に回りました」
リヴェータは上機嫌そうに語る。
言葉には欠片も負の感情が込められてはいなかった。むしろ、その声は跳ねており、普段の彼女を知る人間であれば、驚くような声音であった。
「嬉しそうだな」
「ええ。……わたしに喜ぶ資格があるかはわかりませんが。それでも、わたしも先生ですから」
「嬉しいのならば素直に喜べばいい。お前は考えすぎなんだ。お前のことは友であると思っているが、そういう無駄に機知を回すところと、人を駒のように使うところは嫌いだ。だからアルフェウスにも逃げられるんだ」
「…………ローグ、うるさい」
ぴしり、とリヴェータのコップにひびが入る。
「反省はしています。絵図はいくつか描いていましたが、これは最悪の結果です。あの子が傷ついた。それも、あんな形で」
淡々とした声音で語る。
自嘲でも、言い訳でもない。無感情な声音で、己の結果を査定していた。
「二千年やって、この様。…………どうか、恨みなさい」
「そういう無駄に責任をしょい込むところも、好感が持てない。責任感の強さは、お前の美点だがな。人によっては悲劇のヒロインぶっているようにしか聞こえん。悪役ぶりたいのなら、もっと楽しむことだな。見ていて痛々しい」
「…………ひどい言いようですね。事実ですので、仕方ありませんが」
ローグは己の杯に二杯目を注いだ。
「あいつは死ななかった。手足も戻った。…………代わりに、あいつが持って帰ってきたものはこれだ」
リヴェータは報告書の山の一番上に載せた、一枚の紙に目を落とした。
調書でも、台帳でもない。リヴェータが最も信を置く地上最強──。執行機関No.1<世界竜>エリス・ミア=アヌマティ本人が書き留めた、ただの随行記録。
『ヴィータの一人称に乱れ発見~! ローレッタちゃんと抱き合った後に当機から、わたしに変わってた。こりゃ、素晴らしい発見だのぅ』
「『わたし』、だ」
くつくつ、とローグは笑った。
表情を表に出すことのない。至高の暗殺者と呼ばれた彼の、歓喜の表情だった。
「十八年だ。ようやく、あいつは一人の女の子らしいことを覚えてくれた。恐らく、わたしと言うのはローレッタの前だけだろう。覚えるのは戦闘技術と、コレトーの揚げ物料理ばかり。空っぽの道具から、ようやくだ」
「俺たちがどれだけ抱きしめても、愛してもダメだった。俺たちの愛情は、所詮あいつにとって『可哀そうな子への対処』だと思い込ませてしまった。……あいつを埋められるのは、あいつを憐れまない子だけだ」
男は杯を空にした。
「……フッ。どうだ、リヴェータ。俺の娘は、ローレッタは大したものだろう」
ローグは少年のように笑う。
その声には、隠しようもない誇らしさがあった。
リヴェータはその笑みを見て、心底満足そうに笑っていた。
「珍しい。あなたがそんな風に笑っているのは、二千年ぶりに見ました。……老けましたね、ローグ」
「そうだな。俺もお前も、随分と年を取った。あの旗揚げから、ずいぶん遠くまで来たな」
「……ええ」
リヴェータは過去に思いを馳せる。
西方連合を立ち上げた、あの丘での誓いを。彼女の唯一の王の右腕として、人の律を取り戻しに行った、激動の始まりを。
久方ぶりの酒精を借りて、あの男の隣を、彼女は今も夢見ている。
「さて。ここからが正念場。この底の世界に、終止符を打ちましょう」
窓の外に、夜明けが滲み始めていた。
【月睨派】の上層部は、もはやこの件を「地方の醜聞」として切り捨てるしかない。切り捨てれば、蜥蜴の尾の先を手繰る。切り捨てぬのならば、大々的に腹を探る。
「すべての舞台は整えました。千五百年前の轍は踏みません」
リヴェータは眼を鋭くし、大気の水分を凍らせる。
凍気はチェス盤と駒を象り、彼女の指先に氷のナイトを握らせた。
キングとクイーンの駒はない。クイーンの代わりに、そこには一つの学園の名があった。
学園都市スターデア。そして、キングには。
「ミケネ学園」
貧民の希望を騙る狩場。神聖な秘儀を教える、【月睨派】の骨髄へ、ついに監査の禊を打ち込める。
後任の司教たちの手配は済んだ。各地の【叡神派】指定の育成も、完了している。世界経済への痛打を最小にとどめる緩衝も、敷き終えた。
「潰すときは苛烈に、確実に。欠片も残しません」
リヴェータは冷たく笑う。
空の杯を二つ並べて、二千年物の男と女は、笑いあった。
「──もう一杯だけ、いただこうかしら」
銀蛇卿は報告書を閉じ、開けていく夜の中へ、討ち入り前の酒を求めた。
尚、次の日は二日酔いで動けなくなった。
※※※
ひと月後。
夏の終わりの、放課後。
「──というわけで、退院祝いですわ!」
寮の部屋。きんきんに冷房の効いた、いつもの部屋にて。
わたくしは、彼女の目の前に、それを置いた。
硝子の器に盛られた、イチゴとミルクの氷菓。
「!」
ソファの上のヴィータが、がば、と身を起こした。
完治したての身体で、目をいっぱいに輝かせて。
「わたくしが作りましたわ。錬金科で、小鳥遊教授から技術を盗んでまいりました。……お口に合うかどうかは、わかりかねますが」
ヴィータは匙を手に取った。
ひとくち、運ぶ。
赤い瞳が、まんまるになる。
「……おいしい」
ふにゃり、と。
花がほどけるように、笑った。
「つめたくて、あまい。イチゴのあじがする。……ろーれったの作ったもの、ぜんぶおいしい。わたし、ろーれったのごはんが、世界でいちばんすき」
「──そう」
不意打ちは、やめていただきたい。
彼女の一人称はあれから、揺れている。「当機」に戻る日もあれば、ふとした瞬間に「わたし」がこぼれる日もある。まあ、わたくしの前でしかわたし、と言わないが。
十八年ものの癖は、ひと月では治らない。直す必要もないだろう。
ただ、大切なことを伝える時だけ。
彼女は決まって。「わたし」を選ぶ。
「そうだ。ミルクもお食べになって」
「ん」
ヴィータの口元へ、ミルクアイスを運ぶ。
「ん……? ん~~~~~~!?」
「ぷっ、くくく…………! どうですの、ハバネロ味は! ユースティス様から教わった、激辛ミルクアイスですわ~~~!」
顔を真っ赤にしてのたうち回るヴィータを前に、わたくしは吹き出してしまった。
「ろ、ろーれった……なんで……?」
「だって、ヴィータ言っていたじゃありませんの」
本物の甘いミルク味のアイスを彼女の口元へあーんしながら、静かに笑う。
「新しいチャレンジも、悪くないでしょって」
ニヤリと笑いながら、ヴィータを覗き込む。
「……そう。なら、当機も遠慮はいらない。今からしんさくゲームで、ろーれったをボコボコにする」
「ちょ!? わたくし、まだ操作も覚えてないんですのよ!? ヴィータとよーいどんで初めて勝てるわけないでしょうに!」
「もんどうむよー」
「ちょ、どっからこんな力が……! ごめん、ごめんなさいですわ、ヴィータ!」
今日も、わたくしたちの部屋からは笑い声が漏れる。
夜になれば、窓の外に、星が降る。
青の星団と、赤の巨星。
遠く離れて生まれた二つの星は、けれど同じ夜空の、すぐ隣で。
今夜も、寄り添って、光っている。