後追い星のプレアデス   作:鹿鳴弥

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アルデバランのプレアデス

 

 

 

 

 

 

 夏が、来ていた。

 霊子街の鉄塔が陽炎に揺れ、氷菓売りの屋台の近くで風鈴が鳴っている。

 水場には子供が戯れ、水をかけあっている。大方、学科領に住んでいる街人の子供だろう。

 

 窓の外は白い光で溢れ、石蝉が鉄筋に止まり、じりじりと鳴いている。

 

「あつい」

 

 部屋の床に、黒髪の小人が溶けていた。

 ヴィータである。

 コレトー教授謹製の冷房魔導具がキンキンに効いた部屋の、一番涼しい床の上。大の字になって頬を床につけている。

 

「はしたないですわよ、ヴィータ。せめてソファに座りなさいな。ほら、隣空いてますわよ。ここも涼しいですわ」

「はんろーん。ゆかがいちばんつめたい。これは合理てきなはんだん」

「猫ですのあなたは」

 

 今日から夏季休暇。

 学生の四割が帰省するこの季節、わたくしたちは寮に残っていた。わたくしに帰る場所はなく、ヴィータの帰る場所がこの部屋だから。

 

「いい加減ゲーム機も片づけませんと。本も棚に戻しなさい」

「じゃんけーん」

「やる気がありませんわね……」

 

 手をぐーぱーと握っては広げるヴィータを見て、思わず苦笑が漏れる。

 

 今日の昼食はローストビーフだった。キッチンは若干暑い。洗い物はここで涼んでから。じゃんけんに負けたわたくしがやることになった。

 早朝は涼しいうちに中庭で魔法の鍛錬。午前はふたりで涼みながら、ゲームや読書。今日は『世界再征服記』を読んで、感想を言い合った。

 

 穏やかで、少し怠惰な、いい夏の頃。

 

「ろーれった」

 

 床の小人が顔だけをこちらに向けた。

 

「アイスたべたい」

「あら、いいですわね。霊子街の屋台まで行きましょうか。新作のフレーバーが出たと先輩が——」

「いや」

 

 ふるふる、と床に頬をつけたまま首を振る。

 

「そとはあつい。当機はこのへやから出たくない。でも、アイスはたべたい」

「………………」

 

 目を丸くして、ヴィータを見下ろす。

 

 珍しい。本当に、珍しい。

 この人が、こんな子供のようなわがままを言っている。

 

 いつも他人を優先して、自分の欲を後回しにして、「みんながしあわせなら当機はしあわせ」と笑う人が、どこにでもいる女の子のようなことを言うなんて。

 

 ……ふ、ふふふ。

 だめだ、口元が緩んでしまう。

 

「む。ろーれった、そのわらいはなに?」

「いいえ? なんにも」

 

 ぱたん、と本を閉じる。立ち上がり、机の上に置いてある食器をシンクへもっていく。食器を水にだけ漬け、手を軽く洗う。

 

「~♪」

 

 嬉しかった。

 彼女も少しずつ、自分の欲しいものを自覚し始めているのがわかる。わたくしは、与えられるだけではない。

 

「仕方ありませんわね! わたくしが買ってきて差し上げます。ミルクとイチゴと、新作のフレーバー。新しいフレーバーはふたりで分け合いましょう?」

「! ん、あと、屋台で売ってる——」

「チチャロンはだめ。アイスだけですわ」

「……そう」

 

 しおしお、と床に沈む小人の頭をひと撫でして、わたくしは財布と学生証、メテオラのカギを掴んだ。

 

「三十分くらいで戻りますわ。留守番、お願いしますね?」

「まかせて。当機は留守番のぷろ」

 

 床から親指だけを立てるヴィータに笑い、扉を開ける。

 真夏の熱気が、頬を焼いた。

 

 鍵の束を人差し指に入れて回し、メテオラに跨る。

 ぶろろ、とエンジンが咆哮し、振動が腹まで響く。

 

「さて、行きますわよ!」

 

 スロットルを回し、一気に発進する。

 自分の声が弾んでいる。浮かれているな、と思いながら、わたくしは霊子街へと走った。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 扉が閉まる音を、当機は床の上で聞いていた。

 

 こつん、こつん。ろーれったの足音が階段を降りていく。品のある、音の少ない歩き方。ヒールをいつも履いているのに、よくやるものだと思う。

 魔力の気配が寮を出て、霊子街のほうへ遠ざかっていく。

 

 当機は、起き上がった。

 

 床が冷たいから寝ていたのは、本当。

 アイスが食べたいのも、本当

 

 ろーれったを部屋から出したかったのも

 ——本当。

 

 早朝の訓練後から、この部屋には違和感があった。

 

 床に、大きい足跡が残っている。窓の錠が開いたまま。ふだん、鍵の戸締りはろーれったが行っている。

 部屋を見分しながら、一番の違和感の元へ向かう。

 

 ろーれったの机の、二番目の引き出し。開閉の癖でついた木の擦れ後にたまった埃。それが、一本だけ多い。

 

 誰かが、入った。

 ろーれったの引き出しに、何かを置いていった。

 

 ろーれったは気づいていない。彼女は強いけれど、こういう小さな違和感には、まだ鼻が利かない。

 当機は、こういうのを見過ごせば死んでしまう場所で育ったから、わかる。

 

 引き出しを開ける。

 一通の手紙。紙質は仔羊の皮で作られている。指でこすり合わせた感覚からして、高級紙であることはまちがいない。恐らく、最高品質のヴェラムだろう。ご丁寧に透視対策の術式まで編み込まれている。

 豪奢な楽園の封蝋。雅な字面の宛名——ローレッタ・ヴェン・プレアデス様。

 

 封は切らない。

 極小の透視術式を二重に編み、紙越しに文面を読む。それから、文面の裏を読む。

 文字の癖、インクの成分、封蝋に混じった微細な魔力に、皮紙についたわずかな脂、言葉の選び方、文字の強弱。

 すべてを読み取り、人物像を頭の中でプロファイリングしていく。

 

 一秒も経てず、読み終えた。

 

 ——決闘状。

 差出人は、マグナ大陸の司教。ろーれったの、復讐相手。

 

 勝てばプレアデス家の再興を。負ければ学堂を退き、花嫁として差し出せ。

 貴族の決闘法に則った、一部の隙も無い正式な果たし状。

 

「………………」

 

 しばらく、当機は手紙を見つめていた。

 

 罠だ。

 考えるまでもなく、罠だ。

 決闘をするにしても、相手に旨味がない。文の組み立てや、法的に隙のない果たし状を用意したことから、相手は相当に狡猾で、慎重な性格であるとわかる。

 

 しかも、連名で決闘状に署名をしている。ヌトス、ポロモン。ろーれったの復讐相手が勢ぞろい。

 

 貴族の流儀に当機が疎いとはいえ、この手紙にかかった羊皮紙とインクの質からして、相当な金満家だ。

 ろーれったが美しいとはいえ、女には困っていないはず。

 

 何より——。手紙に付着した魔力の残滓が、おかしい。人のそれではない。<魔人戦線>で戦闘を重ねたことがある、高位の魔族のものに近い。

 

 記憶の書庫を開く。魔族と人。魔力の変質。昔読んだレポートの中に、似たものがある。

 

 ——あった。カサンドラの大飢饉。千五百年前にあった、聖教の北部高原で起きた飢饉の末、人民同士が共食いをしてしまった。その際、瞳がとろけたり、角が生えたり、虫羽が生えたりした遺体が転がっていた。魔族化として、聖騎士が討伐した遺体だった。むかし、リヴェータ学園長から借りて、読んだことがある。

 

 そして、ろーれったから聞いた、イフィゲネイア。

 リヴェータ学園長の動向を重ね合わせて、二秒ほど思考をする。

 

 結論がでた。

 彼らは、ろーれったを殺すか、もっと悪いことをするために、この手紙を書いた。

 

 「花嫁」の裏に滲む、嫌なインクの滲み方。そこから香る悪意。

 当機は、この匂いを知っている。人を、人と思ってない者の匂い。命に値札を見る目の匂い。

 部落で、当機に向けられ続けた、あの匂い。

 

 でも。

 ろーれったは行くだろう。

 

 この手紙を読めば、ろーれったは必ず行く。罠だとわかっていても、行く。十年、八歳の頃からこの日のためだけに牙を研いできた人だから。

 腹の底の炎に焼べるには、この手紙は劇薬が過ぎる。理性や思考を焼き切るには、きっと十分な熱となるだろう。

 

 そして——負ける。

 

 感情ではなく、演算として当機にはわかってしまう。

 相手は複数の高位魔族。強さとして、黄金竜に匹敵する、無数の異形。今のろーれったでは、届かない。

 彼女は強い。まっすぐで、きれいで、誰よりも頑張る。当機の大切な人。

 

 だからこそ、まっすぐ進んで、まっすぐ壊される。

 

 あの金髪が、血にまみれる。

 あの通る声が、悲鳴に変わる。

 あの温かい手が、冷たくなる。

 

「………………いやだな」

 

 声が、勝手に漏れた。

 当機の胸の奥で、何かが軋んでいる。演算じゃない、もっと暑くて、もっと重い、何か。

 

 ろーれったが泣く。

 ろーれったが苦しむ。

 朝ごはんも、じゃんけんも、湯船も、髪を梳いてくれる夜も——、ぜんぶ、なくなる。

 

「ろーれったが、傷つくのは。いなくなるのは、いやだな」

 

 胸を焦がす衝動のままに、当機は火の術式を熾した。

 

 小さな焔が指先に灯る。手紙の端に火を移す。

 雅な字面が、ねばつく悪意が、めらめらと燃えて黒く縮れていく。燃え移ったそれを、暖炉へ投げ入れる。決闘状は、受取人に届かなければただの紙。燃えてしまえば、灰になる。

 

 ……ほんとうは、これで終わりにできれば、よかった。

 

 でも、だめだ。手紙が消えても、彼らは消えない。返事がなければ、彼らは次の手を打つ。

 もっと汚い手を。ろーれったの周りの誰かを使うかもしれない。錬金科のだれかを、使うかもしれない。

 

 悪意は根まで断つ。中途半端が一番ダメだと、リヴェータ学園長は言っていた。

 

 なら、簡単。

 当機が、行けばいい。

 

 ろーれったの姿で、ろーれったの代わりに、決闘に出る。

 罠の顎の中まで歩いて行って、顎ごと、ぜんぶを嚙み砕く。司教も、貴族も、楽園とやらも。ろーれったの復讐の対象も、ろーれったを狙う悪意も、まとめて潰す。

 

 すべて当機が、あの世に持っていく。

 

 立ち上がる。

 

 そうと決めれば、やることは多い。まず、変身の魔法薬。服をまさぐれば、ろーれったの金の髪。まいにち頭をぐりぐりこすりつけられてるから、あると思った。

 あとは、この情報をもとにろーれったの幹細胞を合成して、調薬すればいける。魔力が続く限りは、変身していられる。心配なのは、当機の霞みたいな総量の魔力くらいだが……。

 

 『ルファリアの狂熱』なら、いけるか。

 

 マンドラゴンの粉を入れて、強装薬にする。

 後遺症がたいへんなことになるけど、持続時間は大きく伸びる。ない後など、考える必要ない。

 

 ブレス・レスは——。持っていけない。

 

 あの子が動けば、学堂中に知れる。港の検問もすり抜けられない。それに、ブレス・レス——。Breath/Bless Lessは、聖教国でも顔が割れている。「ローレッタ」の偽装が崩れてしまう。

 

 この作戦は、当機が「ローレッタ」であり続けることに意味がある。彼らが、「プレアデスの小娘」を確保、あるいは殺害できたと思わせられれば、ローレッタに危害が及ぶことはない。

 

 それに、ローレッタが復讐するときに都合がいいかもしれない。

 

 生身で行く。

 遺書は——、書かなくてもいいか。業務の引継ぎは、執行機関第二位のユース兄に任せられるはず。ローグ師父ほど忙しくはない。道具に遺書など不要だ。

 

「——ろーれった」

 

 少し、胸がずきんと痛んだ。

 きっと、彼女はアイスを買ってきてくれる。その彼女を騙して、一人にしてしまう。

 

 それも、いやだな。

 

 机に向かい、便箋を取る。

 探さないでほしいから。心配してほしくないから。

 義理は通せずとも、せめても救いを。

 

『ろーれったへ。学園長から、極秘の任務が入りました。執行機関のおしごと。ないようは言えないきまり。しばらく、かえれません。ごはん、ちゃんと食べてね。おやさいも、食べてね。ゲームの練習していていいよ。かえったら、また勝負しよう。

 何かあったら、ろーぐ師父を頼って。——ゔぃーた』

 

 書き終えて、少しだけ手が止まった。

 書いてしまった。当機は嘘が下手。かえれるかどうか、わからないのに。

 

 でも、消せなかった。

 この一行があれば、ろーれったは待っていてくれる。怒りながら、唇を尖らせながら、待っていてくれる。

 彼女はそういう、義理堅くて、優しい人だから。当機を哀れまず、対等に接してくれた。恐れてくれた。そういう、人だから。

 

 だからこそ、壊れてしまわないようにしなきゃ。ろーぐ師父は、今もろーれったが頼るのを待ってくれている。

 

 窓の外で、氷菓売りの鈴が鳴っている。

 

 ……アイス、たべたかったな。

 

 ろーれったの買ってきてくれるアイス。イチゴ味のアイス。当機の好きな味を、彼女はもう、聞かなくても知っている。

 

 当機の好きなものを、知ってくれている。

 当機を大事に整備してくれる。燃えるような復讐心を滾らせながら、それでも当機をずっと優しく扱ってくれた。

 

 それだけで、この一年は、当機の稼働時間である十八年で、いちばんあたたかかった。

 

 じゅうぶん。じゅうぶんすぎるくらい、もらった。

 

「……いってきます」

 

 誰もいない部屋に、小さく告げる。

 ただいまをいうことは、ないだろう。

 

 当機は、窓から夏の光の中へ、音もなく滑り出した。

 

 

 ※※※

 

 

 

 少し買いすぎてしまった。

 両手に氷菓の包みを提げて、わたくしは部屋の扉を開けた。

 

「ヴィータ! 遅くなりましたわ! 聞いてくださいまし、目の前でおばあさんが腰を痛めてしまいまして、医院へ——」

 

 返事が、ない。

 

「ヴィータ?」

 

 部屋は、冷房が効いたまま。

 床の、彼女はいない。ソファにも、ベッドにも、キッチンにも。

 

 テーブルの上に、便箋が一枚。

 丸い、見慣れたかわいらしい字。

 

「……極秘の、任務……?」

 

 わたくしは唇を尖らせた。

 

 なんですの、それ。人にアイスを買いに行かせておいて、自分は任務だなんて。留守番のプロの名が泣きますわ。

 

「まったくもう……!」

 

 氷菓を停涼庫へ押し込み、ソファへ腰かける。

 帰ってきたら、お説教ですわ。野菜だけの夕食を一週間は出しますわ。覚悟なさいまし。

 

「………………」

 

 

 ——そうして、三日間待った。

 

 落ち着かなかった。

 執行機関の任務は、確かにある。<叡智の学堂(アルカヌム・マギステル)>における最強戦力の一角だ。彼女が突然呼び出されることも、なくはない。便箋の字も、間違いなく彼女の物。

 

 なのに。

 

 胸の奥が、ざわざわする。

 直感が——十年、戦場じみた修行の中で研いできたわたくしの直感が、小さな警鐘を鳴らし続けている。

 

 何かが、おかしい。

 

 立ち上がり、部屋を見回す。

 いつもどおりの部屋。彼女のぬいぐるみ。出しっぱなしのゲーム機。竜のポール。読みかけの本。

 

 ……匂い。

 

 かすかに、紙の焦げた匂いがする。

 

 冷房の風の流れを遡る。暖炉の奥。春に灰を掻きだして以来、使ていない暖炉に——黒い、燃えカスが残っていた。

 

 紙だ。ほとんどが灰になっている。だけど、端の一片だけ、燃え残っている。

 

 豪奢な、封蝋のかけら。

 指先で摘まみ上げた瞬間、全身の血が冷えた。

 

 この紋章を、わたくしは知っている。

 忘れるはずが、ない。夢の中で何度も焼き払ってきた、あの教区の——。司教の紋。

 

「————ヴィータ」

 

 紋章の潰れる熱が、掌に焼き付いた。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 

 錬金科の工廠に、迸る激情のままにメテオラを飛ばした。

 小鳥遊教授の部屋の扉を、ノックもせずに蹴破る。

 

「教授! ヴィータが——」

 

 部屋の中にいたのは、教授ではなかった。

 

 茶色いコートの、壮年の男。

 部屋の中央に浮かべた無数のウィンドウ——学堂の出入国記録港湾の船舶台帳、霊子街の監視術式の映像を、恐ろしい速度で流していた。

 

「ローグ……!」

「来たか。話が早い」

 

 ローグは視線を画面から外さない。わずかに意識を向けるだけで、珍しく隙だらけの態勢のまま低く言う。

 

「リヴェータの指令だ

 あいつは今、【聖都】へ向かう公務の道中だが——学堂の防諜結界が、三日前に錬金棟へ微細な侵入痕を検知していた。報告が上がったのが今朝。俺が調べに入った矢先、ヴィータの学生証の信号が、東港で途切れた」

 

 ウィンドウの一つが拡大される。

 港の監視映像。三日に一度の、外洋定期船。乗船客の列の中に。

 

 わたくしが、いた。

 

 金髪の、わたくしの顔をした誰かが、俯きがちに船へ乗り込んでいく。

 

「……わたくし……? いえ、違う。あれは」

 

 歩幅が違う。わたくしはあんな小さな歩幅で歩かない。地を這うような、滑り込ませるような足さばき。あれは、ヴィータの歩き方だ。

 

「変身薬だな。よくできている。魔力紋まで偽装した上に、偽装書類までいい出来だ」

 

 ローグは、わたくしが握っていた燃え残りの封蝋を一瞥する。

 石のような瞳が僅かに向けられる。三角の聖印を組めば、大地にも同じ文様が浮かんだ。

 

 崩れた手紙が復元されていき、一枚の豪奢な手紙が空に浮かぶ。

 

「これで裏が取れる。読み上げるぞ」

 

 無機質な声で、ローグは「手紙」を読み上げる。

 

 決闘状。

 司教。ヌトス。ポロモン。

 勝てばプレアデス家の再興。敗北すれば、花嫁として——。

 

「————————————」

 

 視界が、赤く染まった。

 

 あいつらだ。

 あいつらが、お父様を、爺やを殺し、プレアデスを悪魔に変えた、あいつらが。

 今度は、わたくしを釣るために。

 

 わたくしの、わたしのヴィータを。

 

「ふ、ざけるな……ッ」

 

 声が、獣のように喉から漏れた。

 全身の魔力が制御を離れて渦を巻く。部屋の魔導ウィンドウがびりびりと軋む。

 腹の底の炎が、十年間煮詰め続けた黒い衝動が、かつてない勢いで燃え上がって——。

 

「ローレッタ」

 

 冬の湖のような声が、わたくしの頭にまっすぐ刺さった。

 

「船は三日前に出た。決闘の期日から逆算すれば、立つには今日しかない。俺はこれから向かう」

 

 白い手袋を力強く嵌め、ローグは立ち上がる。

 

「わたくしも——」

「お前を連れていくかどうかは、これから決める」

 

 わたくしの言葉を、ローグはぴしゃりと断ち切った。

 

「連れていきなさい!! 当然でしょう、あいつらは、わたくしの——」

「復讐のためなら、お前は連れて行かない」

 

 一切の温度のない声だった。

 

「今回はヴィータの救出が第一目標だ。正規の方法での出国が間に合わない以上、足手まといを連れていく余裕はない。

 条件次第では、畜生三匹を見逃すことも視野に入れている。復讐にこだわるお前を連れていけるほど、俺に余裕があると思うか?」

 

 ローグの白い手袋が、赤く染まっていた。

 部屋の中に、血の香りが滲む。

 

 ローグは、静かに続けた。

 

「一切の嘘偽りが、俺に通じると思うな」

 

「————ッ」

 

「時間がない。お前の思いを、さっさと聞かせろ。お前は、何のために行く」

 

 何、のため。

 何のため——?

 

 決まっている。復讐だ。応酬だ。惨殺だ。十年、そのためだけに生きてきた。そのためだけに、幸せを閉ざした。剣を握った。銃を取った。魔法を磨いた。

 この学堂に来たのも、ローグのもとで修業をしたのも、ぜんぶ復讐のため。

 

 あの夜に燃えた屋敷のため。獅子の口から垂れていた、あの腕のため。

 

 腹の底が、焙られるように熱い。

 十年の重みが、喉元までせり上がってくる。この炎を捨てたら、わたくしには何も残らない。

 この炎を捨ててしまえば、わたくしの十年を棒に振る。

 

 ヴィータと過ごしたのはたったの一年。

 十年の炎と、比べられるはずがない。たったの十分の一だ。切り捨てられるのは、ヴィータだ。

 

 わたくしは、嘘をつけない。この復讐にだけは、この気持ちにだけは、嘘をつけない。

 

 だから、言え。言うのです。

 プレアデスの誇りを。わたくしの人生を優先すると。

 

 激情が囁く、心中の言葉。

 それに、わたくしは身をゆだねて——。

 

「——復讐なんか」

 

 ——冗談じゃない。

 冗談じゃ、ありませんわ。

 ヴィータと、わたくしの復讐。天秤にかけて、どちらが大事か? そんなもの。

 

「復讐なんか、いらない」

 

 比べる余地も、ありませんわ。

 

「わたくの恨みは、怒りは、わたくしの人生。それを捨てることなどできません。捨てるなど、もってのほか。でも」

 

 自分の胸倉を掴む。

 ローグの鳶色の目を、まっすぐに見返す。

 

「ヴィータに、あの子に、換えられるわけがないでしょう……!」

 

 声が、震えた。

 

「復讐のためか。ええ、その通りですわ。でも、違いますの。わたくしが行くのは、怨敵の首を獲るためではない。これは、訣別のため。復讐を、繰り返さないため。ヴィータを、復讐の理由にしたくない」

 

 言葉がまとまらない。思ったことを、喉が焼けそうになりながらローグに叩きつける。

 

「護りたい。ヴィータを、わたくしが護りたい。あの大馬鹿を、取り戻して、たくさん叱って、抱きしめたい。…………………………復、讐が。ヴィータに、勝る、もんですか」

 

 錆びた歯車が、壊れる音がする。

 天秤が、ヴィータに傾いた。大切にしていた、大事なものが軋みと共にひびが入った。

 

 ……これは、裏切りなのだろう。

 ぼんやりと、父様のような幻影が浮かぶ。無念の死を遂げた父の顔が、わたくしを見つめていた。

 

 お父様。

 わたくしは、お父様の無念を、利用しておりました。それが、わたくしが生き残ってしまった、唯一の理由だと。それにすがって、報いを受けさせるのが、わたくしの生きる理由だと。

 

 ごめん、なさい。

 お父様。ありがとう。そして、ごめんなさい。お父様、爺や、みんな。

 

 わたくしは、ローレッタは、行きます。

 

 お父様の姿が、ついに消えた。

 その場にあった、不思議な気配が消える。今度こそ、お父様は、いなくなった。

 

 涙があふれる。

 みっともなく出始めた鼻水をすすり、ローグを睨みつける。

 

「お父様は、言いました。『その力でみんなを護る。それが貴族の務め』だと。

 ……十年かけて、やっとわかりましたの。復讐は、奪われたものの後始末。でも護ることは——ここに、胸の中にある大切な斧を、二度と奪わせないこと。それこそが」

 

 胸に手をあて、床を踏み鳴らす。竜と三叉槍の紋章の、その上に。

 

「護ることこそが、大切なものを護ることこそが、プレアデスの誇り。わたくしは——ローレッタ・ヴェン・プレアデスですわ」

 

 沈黙。

 ローグは、じっとわたくしを見ていた。

 冬の湖の瞳の、その奥で、何かがゆっくりと溶けていくのが見えた。

 

「……十年」

 

 ぽつりと、彼は言った。

 

「その言葉が聞きたかった」

 

 ローグの口元に浮かんだのは、安堵だった。

 わたくしが一度も見たことがない、優しい顔。それはまるで。

 

 お父様のような。父親のような、笑みだった。

 

「額を出せ」

「え……?」

 

 ローグの指が、わたくしの前髪をかき分け、額に触れる。

 

 瞬間。

 ちり、と。額の奥で、何かがうずいた。

 いや——うずいたのではない。ずっとそこに在ったものが、初めてわかった。

 

「気づいていなかったろう。一年前、お前が初めて『その先』に手を伸ばした日。俺は、お前にこれを刺した」

 

 額が、熱い。

 正三角の聖印が離れ、細長い一本に収束していく。

 

 針だ。

 推奨より透明な、長い長い、一本の針。

 

 

「土の【旧神聖曜】が一意。『停滞』。超越の水路をせき止める術だ。

 復讐だけを見ていたお前が超越者に至れば、修羅として覚醒し、怨敵を焼き滅ぼしていたことだろう。

 その果てに、復讐という寄る辺をなくせば、怪物か、死ぬかしかない」

 

「親として、お前をその道へ導きたくはなかった」

 

 ローグの声に滲む、悔恨の色。

 

 針が、抜けた。

 

 ——世界が、軽くなった。

 

 比喩ではない。文字通り、この世のすべて、森羅万象が軽くなった。

 

 肩に乗っていた見えない重石が、消えた。十年間、どこかで食いしばっていた奥歯の力が、抜けた。

 魂の底でせき止められていた熱いものが、水路を得た奔流のように濁流となって全身へ駆け巡っていく。

 

 視界がだんだん澄み渡り、全身のすべてが軽くなる。

 

 ふわり、と部屋の埃が舞った。続いて、机が、機材が、何もかもが浮いていく。

 

「これ、は——」

「源流能力。超越者だけが持つ、固有の法則だ。名前は、自分でつけろ。もう、視ているはずだ」

 

 視える。

 わたくしという存在の、一番深いところ。

 十年の恩讐も、プレアデスの名も、失った過去の重さも。

 

 すべてを抱えたまま、それでも空へ昇っていける力。

 

 縛る者すべてを、軽くする力。

 

「【罪疑彗軽(ざいぎすいけい)】——」

 

 罪も、疑いも、彗星の如く軽く。

 重い尾を引きながら、それでも夜空を翔ける、ひとすじの星のように。

 

 あの夜に見た、流星のように。

 

「よぉし! 準備は整えたァ!」

 

 工廠の大扉が、爆音と共に開いた。

 

 白衣をはためかせた小鳥遊教授が、書類の束を頭上に振りかざしながら駆け込んでくる。

 

「密出国の手続き、ぜぇんぶ終わらせてきたぜ! 各所への贈賄……もとい、迅速協力費は俺のおごりだ!」

 

 教授の背後。工廠の最奥で、整備用の照明が一斉に灯った。

 

 光の中に、それは膝をついていた。

 

 黒。

 塗装ではない。セフィラ神鉄そのものを黒く焼き入れた、艶のない漆黒。

 頭頂高、五メテル。だが、その輪郭は今までに見たどのV.Aとも違っていた。

 

 装甲が、削り落とされている。

 脚は細く、腕は短く、胴は薄い。人型としての厚みを、極限まで殺した骨のような機体。

 

 そして——背中に。

 畳まれた、鋼の翼が四枚。

 

 翼の縁に沿って、無数の噴射口が並んでいる。

 まるで、風切羽の一枚一枚に火を仕込んだような。

 

「……これは」

「飛行試験機の四番機だ」

 

 教授は、鼻の下をこすった。

 

「装甲も武装も全部剥いで、翼と炉と脚だけにした変態機体。まともに殴り合いなんざできねぇ。空を飛ぶことしか能がねぇ。だがな」

 

 白衣の女は、親指を立てた。

 

「速さだけなら、ブレス・レスに次ぐ。海の退魔? 高度一万メテルまで上がりゃ届かねぇよ。恒式炉は大気があれば回る。理論上は、大陸間を無補給でぶち抜ける」

 

「……理論上、か」

 

「実証はこれからだ。ローグ、おめでとう。乗りたがっていただろ。お前が初号パイロットだぜ」

「そうか」

 

 ローグと小鳥遊教授の間を縫って、わたくしは機体の前に立つ。

 

 わたくしは、黒い機体を見上げた。

 

 鋼の巨人。

 入学式の翌日、一歩も歩かせられなかった、あの鉄の塊と同じもの。

 

 同級生の生温かい視線に晒され、吐き気をこらえて、懐の小刀に手を伸ばしかけた

 ——あの日の、屈辱の象徴。

 

「……乗りますわ」

 

 わたくしは、歩き出していた。

 

「おいおい、正気か? お前、V.Aは動かせねぇって——」

「乗りますわ」

 

 跪いた機体の胸部装甲が開き、階段が降りてくる。

 

 操舵席に身を沈める。

 左右の操縦桿を握る。硬く、熱い。

 

 青い魔導線が腕を這い上がり、わたくしの魔力経絡へと絡みつく。

 

 あの日と、同じくすぐったさ。

 あの日と、同じ浮遊感。

 

 ——だが、次に来たものが、まるで違った。

 

「————」

 

 情報が、流れ込んできた。

 

 大気圧。外気温。

 関節部のスライム油の粘度。

 左脚膝関節の、わずかな軋み。

 第三翼の噴射口に詰まった煤。恒式炉の回転数。装甲の張力。地面から返ってくる、鋼の重み。

 

 その全部が、わたくしの皮膚の内側で鳴っていた。

 ……ああ。

 

 そういう、ことでしたのね。

 

 わたくしは、ずっと勘違いしていた。

 

 V.Aとは、乗れば強くなる道具だと。

 

 銃と同じで、握って引き金を引けば応えるものだと。だから、命じた。歩けと。動けと。わたくしの思念を、上から叩きつけ続けた。

 

 違う。

 

 これは、鎧ではない。

 

 これは、こちらの言い分を通すための道具ではない。

 

 機械には、機械の側の言い分がある。

 

 どこがどう軋み、どこにどれだけ力が要り、どう動けば壊れないか。それを聞き取ろうともせず、わたくしはただ、命令していた。

 

 なぜか。

 簡単な話だ。

 

 わたくしが、外から変えられることを拒んでいたからだ。

 

 完璧な貴種としての鎧を着て、一分の隙もなく、誰にも触らせず。誰かに合わせて自分の形を変えることを、敗北だと思っていたから。

 

 だから、思念が流れなかった。

 

 あの日のわたくしは、この鋼と、会話をする気がなかったのだ。

 

 ——今は。

 

「……そう。あなたは、そこが痛いのね」

 

 左脚の膝が軋んでいる。庇う。

 

 第三翼の煤を、微弱な魔力で焼き飛ばす。炉の回転を、わずかに落とす。

 

 魔力線が、開いた。

 肉体の先にある、もう一対の手足として。

 

 わたくしという星の、外周を回る衛星として。

 

 黒い巨鳥が、ゆっくりと、立ち上がった。

 

「————っ、おいおいおいおい嘘だろ!?」

 

 中二階で、教授が絶叫している。

 

「初回接続で全経絡開通!? おま、お前あれか、去年の講義でうんともすんとも言わなかったのって——」

 

「一歩」

 

 踏み出した。

 鋼の足が、工廠の床を踏む。

 

 次の瞬間、機体が、盛大に傾いだ。

 

「————わっ、と!?」

 

 姿勢が保てない

 薄い胴。細い脚。この機体は、直立するようにできていない。

 空を飛ぶために、地上の全部を捨てた設計だ。

 

 慌てて翼を展開し、噴射で無理やり体勢を戻す。

 工廠の資材が、風圧で吹き飛んでいった。

 

「……なんですの、この暴れ馬」

 

 ぞくり、と背筋が震えた。

 

 これで、この程度でこれなのだ。

 

 ならば——ブレス・レスは。

 双頭。長大な尾。四枚翼に、二対の腕。姿勢制御に難のある脚。

 

 安全装置を全部外し、一秒ごとに五パーセント膨れ上がる出力を、手綱一本で乗りこなす、あの白銀の竜は。

 あの人は、あんなものを。

 

 毎回。あの細い身体で。

 

「…………はっ」

 

 笑いが漏れた。

 

 本当に。

 

 本当に、あなたという人は。

 

 余計に、腹が立ってきましたわ。あんなものを乗りこなす化け物が、なぜ生身で決闘場へ歩いていくんですの。

 

 迎えに行かなければ。

 今すぐに。

 

 わたくしは、機体の背の翼を、大きく開いた。

 

「点火します」

 

 外部音声に、自分の声が乗る。

 

「第一翼——点火」

 

 ぼう、と。

 翼の縁で、赤い火が灯った。

 

「第二翼、点火」

 

 ぼう。

 

「第三、第四。……全翼、点火」

 

 ぼう、ぼう、ぼう、と。

 順繰りに、赤い焔が翼の縁を走っていく。

 

 三十六の噴射口が、一つずつ息を吹き返し、鋼の羽根が炎の輪郭を得ていく。

 

 工廠の闇の中で。

 黒い鳥が、翼を燃やして立っていた。

 

「……名前は、なんですの」

 

「まだ付けてねぇ。試験機だからな」

 

 教授が、上ずった声で答えた。

 わたくしは、少し考えて。

 

「では——『黒隼』と」

 

 この機体は、殴り合えない。守れない。地に立つことすら覚束ない。

 欠点だらけだ。

 

 それでも。

 

 それでも、きっと。

 

 

 この黒い隼は、どこまでも高く飛ぶ。

 

 

「よかろう! 命名権はパイロットの特権だ! 持ってけ泥棒!」

 

 教授は書類の束を放り投げ、白衣のポケットに手を突っ込んだ。

 

 そして、ふ、と。

 いつものひょうきんな態度が消える。

 

「ローグ。ローレッタ」

「ああ」

「ぶっ壊しても構わねぇ。あいつを頼む」

 

 小鳥遊教授が、真剣な顔で告げた。

 

「コレトー」

 

 ローグはわずかに笑みを口元に浮かべ、黒隼へ親指を向ける。

 

「任せろ」

 

 小鳥遊教授の左拳と、ローグの左拳が打ち合った。

 

「……で、ローグ。あなた、どうやって来ますの」

 

 単座だ。この機体に、二人は乗れない。

 

 ローグは答えなかった。

 

 代わりに、腰から鉤縄を抜き、黒隼の腰部装甲へ、無造作に引っかけた。

 

 そして、縄を握った。

 

「……は?」

 

「行くぞ」

「本気ですの!?」

「三十トンの機体に、俺の体重が加算されたところで誤差だ」

「音速で振り回されますのよ!?」

 

「侮るな。超音速の衝撃波程度、流せぬ俺ではない。

 それとも、お前の師は、それほど弱いか?」

 

 ……ああ。

 

 そういうことですのね。

 

 わたくしは、笑った。

 

 源流能力を、腰の縄へ流し込む。

 【罪疑彗軽】。重さを、自分に向かう力を、ゼロにする。

 鉤縄が、羽根になった。

 

 ローグの身体から、重さが抜け落ちる。

 

「軽いな」

「そう作りましたの」

 

 工廠の天蓋が開いていく。

 夏の夜空が、頭上に広がった。

 

「行くぞ、ローレッタ」

 

 外にぶら下がった師が、外部音声越しに言った。

 

「お前の得た力だ。お前の得た、護るものだ。

 ——復讐に、ケリをつけにいこう」

 

 

「——ええ!」

 

 

 全翼、最大出力。

 三十六の赤い焔が、一斉に咆哮した。

 

 黒隼が、夜空へ撃ち出される。

 地を越え、雲を裂き、星の高さへ。

 

 待っていなさい、ヴィータ。

 夜天の彼方——マグナ大陸の方角に、赤い星が瞬いていた。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 

 鐘の音が、聞こえる。

 マグナ大陸。司教座聖堂の、地下大聖堂。

 円形にくり抜かれた石造りの決闘場を、観覧席がぐるりと囲んでいる。

 席には、着飾った貴族と高位聖職者。手には、血のように赤い葡萄酒。顔には、観劇に来たような笑み。

 

 燭台の火が、床の血だまりに映って揺れていた。

 

 「さあさあ、次で十一人目ですなあ、『プレアデス卿』?」

 

 

 壇上から、肥え太った司教が笑う。

 決闘は日暮れから始まった。

 

 一対一、という約束は、最初の一人を斬り伏せた瞬間に、意味をなくした。

 倒した相手が、立ち上がったのだ。切り裂いた胸が、刎ね飛ばした首が、みちみちと音を立ててふさがった。

 

 二人目が出てきた。三人目が出てきた。倒しても、倒しても。彼らは治って、列に戻る。

 

 再生の秘蹟。

 いや──。秘蹟なんかじゃない。あれは、人の肉を喰らい続けたものの、人でなくなった治り方。

 

(攻性、魔力をまとわせても……再生するのはおかしい)

 

 当機は、肩で息をしていた。

 ろーれったの姿をした身体は、もうボロボロだった。

 返信役は肉体の見た目を変えるだけで、中身は当機のまま。魔力は残り一割。

 ふとももに建てた強心のアンプルは、これで八本目。一歩動く度に、無理やり動かしている筋線維が、ぶちぶちとちぎれる音がする。

 

 それでも、十分。

 生身で、十人まで倒した。なれない剣を、最高効率で振り続けて。思い切り、殴りつぶして。当機、けっこう、頑張ったと思う。

 

「いやはや、噂にたがわぬ武辺よ。プレアデスの小娘は」

 

 十一人目が、進み出る。

 背丈三メテル。見上げるほどの巨体に、牛の頭骨を思わせる顔。ポロモン家の当主──だったもの。

 

「だが、そろそろ飽きた」

 

 その隣に、蜥蜴の顎を持つ長身が並ぶ。ヌトス家の当主──だったもの。

 

 そして、壇上の司教が、法衣の帯をほどいた。

 肥えた肉の下から、ぬるりと光る無数の触手が、床へあふれ出す。

 

 三対一。

 決闘の作法は、燭台を覆う埃より軽く、捨てられた。

 

 

「────っ」

 

 当機は、動いた。

 最後のアンプルを噛み砕き、床を蹴る。狙いは、司教の目。牛頭の拳を紙一重で躱す。拳が地面を砕き、蜥蜴の尾が石柱を薙ぐ。

 

 その隙間を縫って、縫って、縫って──。

 

「──捕まえた」

 

 

 触手が、足に絡む。

 

「あっ──」

 

 天地が、回った。

 石の床に、全身が叩きつけられる。骨の折れる音が、自分の耳に響く。

 

 触手が当機の全身に巻き付き、吊り上げる。

 

 ぷつん、と。

 変身薬の術式が、衝撃で断ち切れた。

 

 金髪が黒に戻り、上背が縮み、ろーれったの顔が、当機の顔に剥がれ落ちていく。

 

 しん、と。

 大聖堂が、静まり返った。

 

 そして、嗤い声が爆ぜた。

 

「「「あーっはっはっはっはっは!!」」」

 

「替え玉! 替え玉ですぞ司教猊下! プレアデスの小娘、決闘に替え玉をよこしおった!」

「なんという臆病! なんという恥さらし! これだから悪魔憑きの家系は!」

「おいおい待て、よく見ろこの娘──小人族だぞ」

 

 蜥蜴の顔が、ぬう、と当機の顔を覗き込んだ。

 細長い舌が、ちろちろと当機の顔を舐める。

 

「ほう……ほうほうほうほう。これはこれは。黒髪の、小人族。……もしや、<叡智の学堂>の、『最弱無敵』では?」

 

 ざわ、と観覧席が沸いた。

 

「執行機関の! あの機械憑きの!」

「ヴァンガードなしでは赤子同然という、あの!」

「はっは、なるほど道理で。鎧を剥がれた騎士ごっこか」

 

 司教が、壇上から降りてくる。

 濁った眼が、値踏みするように当機を眺めまわした。

 

「よい。実によい。計画は狂ったが、これは僥倖ですぞ。諸卿」

 

 触手の一本が、当機の目を、ねっとりと撫でまわした。

 

「小人族の肉は、珍しい、魔力豊かな種の、その稀なる出来損ない。『楽園』のお客人がたも、さぞお喜びになる。それに」

 

 司教は低い声で嗤った。

 

「この娘は人質になる。プレアデスの小娘の同室者と聞く。娘を餌に、本命を呼び寄せればよろしい。ふ、ふふふ、ふふふふふ。前菜と主催が、一度の晩餐で揃うわけだ」

 

「では猊下。前菜はいついただきます?」

「善は急げ、と申しますでな」

 

 牛頭の手が、当機の左腕を掴み。

 

「────っ」

 

 みし、と。

 肩の付け根で、嫌な音がした。

 引かれる。ねじられる。ちぎれる──瞬間、蜥蜴の爪が一閃して、鮮やかに、当機の肉を断った。

 

「あ────、────ッッ」

 

 声に、ならなかった。

 白熱した鉄を突っ込まれたような激痛が、肩口から脳天まで貫いた。視界が明滅する。床に、赤いものがまき散らされる。

 

 当機の、左腕だったものが、地面に転がった。

 

「おっと、死なせるな。直せ治せ」

 

 ぬるりとした魔力が傷口に注がれ、肉が、無理やりふさがれる。

 止血のための治癒。生かすための、治癒。

 

 牛頭が、当機の腕を──当機から離れた当機の一部を、無造作につかみ上げる。

 

 齧った。

 ごり、と骨ごと。

 

「…………ふむ」

 

 咀嚼の音が、静かな大聖堂に響く。

 

「……ほう」

「どうです、ポロモン卿」

「……これは、これはこれは」

 

 牛頭の目が、恍惚に濁った。

 

「甘い。脂が蜜のようだ。魔力のめぐりが、下の上で弾ける。……猊下、これは絶品ですぞ。娘の肉など、目ではない」

「なんと。では、わたくしめも──」

 

 蜥蜴の爪が、今度は右足にかかった。

 

「や──」

 

 声は、断たれた足と一緒に、床へ落ちた。

 

 痛い。

 痛い、痛い、痛い、いたい、いたい──。

 

 治される。また、断たれる。回し、食まれる。品評される。葡萄酒が注がれる。観覧席から、上品な笑い声。

 

 誰かが、「わたくしにも一口」と手を挙げる。石の天井。ぐるぐる回る。喉の奥から、悲鳴とも呼べない、潰れた音だけが漏れ続ける。

 

「いやはや」

 

 遠く、近く、司教の満足気な声がした。

 

「小人族の肉は、存外に旨いものですなあ」

 

 どっ、と。大聖堂に、嗤いが満ちた。

 

(────)

 

 当機は、天井を見ていた。

 痛みは、もう、遠い国のできごとみたいだった。なれている。こういうのは、慣れている。部落の五年間、当機はずっとこうだった。魔法の的、鬱憤の捌け口。壊れないおもちゃ。だから、だいじょうぶ。

 

 当機は、これに慣れて──。

 

 ……ちがう、かも。

 

 慣れて、なかった。

 

 だって、こんなに、かなしい。

 

 部落にいたころの当機は、痛くても、かなしくなった。かなしいと、思わなかった。でも、いまは、かなしい。

 胸のまんなかが、痛い。

 

 ああ、そうか。これも、ろーれったのくれたもの、なんだね。

 

 みちみち、と達磨にされていく。次は左腕か。当機の顔に、当機の骨のいちぶが吐き散らかされた。

 解体される、牛のようだった。

 

 思い返すのは、朝の麦粥。梳いてもらった髪が、唾液と血にまみれている。膝の上で、撫でてもらった頭。絡めた指は、もうどこにもない。

 

 当機のなかに棲んでいたろーれったが、取られていく。かなしい。もう、会えないのが、かなしい。

 

 感覚が、泥濘に沈んでいく。体の痙攣が始まった。もとより脆弱な身体。ルファリアの後遺症も出てきている。散るのは、近いだろう。

 

 ……でも。

 

 当機は、笑った。血の味のする口で、ほんの少しだけ。

 

 よかった。

 

 ここにいるのが、ろーれったじゃなくて、よかた。

 この痛みも、このおぞましさも。この笑い声も。ろーれったは、知らなくていい。あのきれいな浅葱色の目は、こんな天井を映さなくていい。あの人はあったかい部屋で、アイスを食べて、唇を尖らせて。当機のことを怒っていたらいい。

 

 だいじょうぶ。当機が、全部持っていく。

 この悪意も、この獣たちも。ろーれったの十年の復讐も。当機の身体には、まだ仕掛けがある。

 こいつらが、当機を食料として運ぶ、その巣の奥で。当機の命と引き換えに、根こそぎ、あの世に持っていく。

 

 あとは、リヴェータ学園長がうまくやってくれるだろう。

 

 ろーれった。ごめんね。ろーれったの復讐を、傷を、勝手に横取りして、ごめんね。

 

 怒るだろうな。あの人だから、すごく、怒るだろうな。

 

 いいよ。

 せいぜい、当機を恨んで。

 恨みは、長く残る。当機の生きた、がんばった証になる。

 

 だから、当機は──。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──天井が、弾けた。

 

 

 

 

 

 最初に来たのは、光だった。

 

 地下大聖堂の石天井が、内側からではなく、外側から。

 

 赤い一条の焔が突き刺さり、そして、破裂した。

 

 石材が降る。梁が折れる。燭台が倒れ、悲鳴が上がる。

 

 千年を数えた聖堂の天蓋が、真上から丸ごと引き剥がされていく。

 

 崩落する石の隙間から、夜が見えた。

 

 当機は、天井があったはずの場所を見上げていた。

 舞い上がる粉塵の向こう。夏の夜空を背にして。

 

 燃える翼の、黒い鳥が墜ちてきていた。

 鋼の巨人。四枚の翼。翼の縁を走る、三十六の赤い焔。

 

 炉が、爆ぜた。

 

 白い光が、大聖堂の内側を舐めた。

 

 観覧席が吹き飛び、貴族が吹き飛び、当機を吊るしていた触手が、根本からちぎれ飛ぶ。

 

 そして、その胸部のハッチが弾け飛び。

 

 金色が飛び出した。

 

 

「────ヴィータァァァァァァァアアアアァアァアアアッッ

 

 

 

 聞き間違えるはずのない声が、大聖堂を震わせた。

 

 ……え。

 ……ええ?

 

 なんで。

 どうして。

 だって、当機、完璧に偽装したのに。手紙も燃やしたのに。学生証の信号も切ったのに。ろーれったが、ここにいるはずが──。当機の計算では──。

 

 金髪の少女が、煙を切り裂いて、まっすぐ駆けてくる。

 

 観覧席から、異形の従者たちが雪崩を打って齧りかかり──そのすべてを、赤黒い瘴気の一閃が、まとめて斬り捨てた。

 

「雑魚は俺が持つ」

 

 ローグ師父の声。

 

「行け」

 

 言われるより疾く、彼女は走っていた。

 

 牛頭が吠え、拳を振るう。ろーれったは、躱しもしない。彼女が、羽毛のように空へ跳ねる。蜥蜴の尻尾が彼女を打ち据え──。彼女の身体から重さが消えた。尻尾はすり抜けられ、一切の痛打を与えることなく、彼女の前進を許した。

 

 司教が、ろーれったの目の前にいた。

 十年間、彼女が夢に見続けた復讐の相手が、驚きで身動き一つとれていない。

 

 それを、ろーれったは。

 

「な──っ」

 

 見も、しなかった。

 

 素通りした。憎悪の的を、視界にすら入れない。凛とした瞳に映るのは、当機だけ。

 まっすぐ、まっすぐに。床に転がる血まみれの当機のところへ──。

 

 膝から、崩れるように。

 

 抱きしめられた。

 

「────っ、あ」

 

 あったかい。

 夏の匂い。エメラの甘い香水。いつもより早い、心臓の音。

 

 抱きしめ返す腕も、当機には、もうない。だけど、肩を動かして、ろーれったを抱きしめ返す。

 

 

「ヴィータ、ヴィータ、ヴィータ……!」

 

 

 震える鼻声が、耳元で、当機の名前を呼んでいる。

 

「当機」の機体番号でも、「最弱無敵」でも、「小人族」でも、「可哀そうな子供」でも、「前菜」でもなく、呼んでくれている。

 

 ヴィータ、と。

 

「……ろー、れった……」

 

 血の絡んだ喉で、当機は囁いた。

 

「だめ、だよ。にげて。ここは、わなで──」

 

「黙りなさいこの大馬鹿──ッッ!」

 

 鼓膜が、びりびりした。

 

「話は! 帰った後で! たっっぷり! 聞かせてもらいますから! 覚悟なさい!!」

 

 ああ──もう。

 この人は、こんなところでまで、いつもどおりだ。

 

 視界が暗くなっていく。安堵なのか、限界なのか、もうわからない。

 最後に見えたのは、当機を抱いたまま、司教たちを振り返る、彼女の横顔。

 

 浅葱色の目に、青い炎が燃えていた。

 

 

 

※※※

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ヴィータの身体を、背に負った。

 欠けた四肢は応急の治癒で塞がれていたけれど、腕の中の彼女は。出会った日よりもずっと軽い。

 床に散らばる骨と肉の残骸。むせかえるような血の匂い。わたくしの腹の奥底に沈む炎が、静かに燃え固まっていく。

 

「……おのれ。おのれおのれ小娘ぇ……! 決闘を虚仮にし、聖堂を破壊するとは、罰当たりめが……!」

 

 司教が触手を波打たせて吼えている。

 その左右に、牛頭と蜥蜴。三体の異形が、わたくしを囲っている。

 

 ちらり、とローグに目を向ける。

 鳶色の視線が、わずかに首肯を返す。群がる雑兵を薙ぎ払いながら、わたくしに向けて片目を閉じた。

 

 ……そう。なら、遠慮はいらない。

 

 サンセットを抜き、ブレードとライフルをセットする。

 

 わたくしの十年が、喉元までせりあがる。よくも、お父様を。よくも、爺やを。

 

 

 よくも、ヴィータに傷をつけてくれたな。

 

 

 放った覇気に呼応して、周囲に散乱した骨や小石、砂が重力の枷から解き放たれ、宙に浮いた。

 

 

「猊下。やつはおそらく、覚醒しております。──アレを」

「……ふん。前菜に興乗りすぎて、忘れておったわ。よかろう。諸卿──

 

 三体の異形が寄り合った。

 肉と肉が、触手と鱗と獣毛が、ぐちゅりと混ざる。

 境目が溶ける。膨れ上がる。三つの声が一つに濁って、天井を突き破らんばかりの──山のような、肉塊の異形がそこに顕現した。

 

 

『喰ロウテ、や、ろウ。二人マとメて。骨も、残さズ』

 

 

 六つの眼が、爛々とわたくしを見下ろす。

 わたくしは、懐に仕舞っていた紐で、ヴィータとわたくしを縛り上げ、彼女の体躯を軽くする。

 

 わたくしの背に、彼女の血がべっとりとこびりつく。息が浅く、わずかに痙攣している。

 

「すぐ、終わらせますわ」

 

 

 異形へ向き直る。

 背中の光背──。バックリボルバーに手をかける。

 

「<<接合(トレース)>>──全銃身(フルバレット)

 

 五つの重心が、一斉に展開した。

 

 小銃『デイジー・プロミネンス』。

 ブレード『マテリアル・スライサー』。

 火炎放射器『フレア・セルペンス』。

 バズーカ砲『アウローラ』。

 ショットガン『オリュコス』。

 

 総重量百五十キロを超える鋼の花弁が、二丁のサンセットを軸に、宙で連結していく。

 

 今まではできなかった。

 メテオラにも積載しきれない、重量の化身。

 重すぎて、反動が大きすぎて。全身に魔力強化を振り絞って、十五秒の展開が限界だった。

 

 だが、今は。

 

「『罪疑彗軽』」

 

 その真価のすべてを、わが手に。

 百五十キロの鋼が羽となった。重量、反動という概念から解き放たれた銃身が、わたくしという星の周りで大きな衛星となる。

 

 連結を終えた全銃身が、一つの形を結んだ。

 

 黒く、永く、武骨な──棺桶。

 竜と三叉槍の紋が、砲身の横に浮かぶ。これこそが、プレアデス家の紋章。

 『竜の棺桶』。

 

「我が家紋の意味を、教えて差し上げますわ」

 

 棺桶の底部から、火炎放射の焔が噴いた。

 わたくしの身体が、棺桶ごと、空を飛ぶ。

 

「『悪竜を殺す槍』、という意味ですのよ」

 

 

 引き金を引く。

 炸薬が狂い咲き、夜が昼となった。

 

 バズーカの榴弾が異形の胸郭を吹き飛ばし、間髪入れず小銃の連射が傷具へなだれ込む。

 

 のたうつ触手を逆噴射によって回避し、ショットガンをお見舞いする。聖銀の弾丸が眼球を潰し、火炎放射が全身を包む。

 

 息切れはない。反動はなく、照準は寸分も揺れない。空中を彗星のように旋回しながら、わたくしは撃って、撃って、撃ち続けた。

 

 

 肉が爆ぜ、焼け、千切れ飛ぶ。

 

 ──そして、繋がる。

 

 

『効かぬ、効かぬなァ!!』

 

 六つの眼が嗤った。

 抉れた胸が盛り上がる。潰れた目が開き直る。焼けた皮膚の下から、新しい肉が無限に沸いてくる。

 

「キリがありませんわね」

 

 地に舞い降り、舌打ちを漏らす。

 

 不死。

 人を食らい続けた果ての、擦り切れることのない再生。

 炸薬の量が心もとない。銃身に積んだ火汞の残量計が、赤く点滅する。

 

(削り切れない──)

 

 動きはてんでずぶの素人。一撃を当てるのもたやすく、当てることなど造作もない。

 だが、すぐに再生する。外から壊すだけではだめだ。

 

 この異形は、器を壊しても死なない。ならば器の中身の継ぎ目──。魂と、精神と、肉体の継ぎ目を、断つしかない。

 

 視界の端で、雑兵を押しとどめているローグと目が合った。

 

 何も言わない。

 鳶色の瞳が、わたくしに問うていた。

 

 ──視えているか、と。

 

 視えて、いる。

 源流能力に目覚めた今ならば、視える。あの巨大な肉の濁流の中にある、かすかな一点。

 魔力、態勢が揺らぎ、ねじれて絡まっている。消耗しているがゆえに、初めて見える力の結び目。

 

 前傾姿勢を取る。

 届く距離は、懐の中、

 あの触手の暴風の、ど真ん中。

 

「潰れロ、小娘エエエェェッ!!」

 

 異形の全触手が、百を超える肉の槍が、一斉にわたくしへ殺到した。

 

 回避は不可能。

 

 だから。

 

「行きますわよ」

 

 わたくしは、棺桶を捨てて──その中へ、飛び込んだ。

 

 最初の一本が頬を裂く。二本目が肩を掠める。三本目、四本目──。被弾のすべてを【罪疑彗軽】で「軽く」して、衝撃を殺し、痛みごと背負って。すべての重みを、加速に変えて。

 

 肉の槍衾の隙間へ、彗星(わたくし)は堕ちていく。

 

 師の背中が、瞼の裏に浮かんだ。

 十年間届かなかった、遠い背中。

 何百回も見て、何千回も真似て、一度も掴めなかった、あの絶死の型。

 

 資格がなかったというのもうなずける。

 熱狂にして冷静。猛攻をいなし、流し、時には撃ちこみ。そして、崩れたところに死を取り立てる死神の慈悲。視野の軽さと、重厚な冷静が必要だった。

 復讐に縛られたわたくしには、その死を捉えるには怒りが重すぎた。

 

 

 だが、今は。

 

『——待テ』

 

 声が、変わった。

 濁った三重奏の中から、ひとつだけ。

 

 聞き覚えのある、脂ぎった司教の声が、澄んで浮かび上がった。

 

『待テ、待テ待テ待テ。小娘、貴様、勘違いをしておる』

 

 肉の壁の向こうで、六つの眼が、必死にわたくしを探している。

 

『貴様が今、何を恨んでおるのか知らんが——貴様の不幸は、我らのせいではないぞ』

 

 わたくしは、止まらない。

 

『あれは、あの男の自業自得だ! プレアデス伯——あの無能の!』

 

 声が、悲鳴じみて高くなる。

 

『大幅な減税! 移民の受け入れ! 改宗! 貴様、あれのどれ一つとして、根回しがあったと思うか!? ないわ! 一片もない! あの男は銀蛇卿の──生ける伝説たる、我らが最大の宿敵たる銀蛇卿の政の上っ面だけを掬い取って、そのまま己の領地にぶちまけたのだ!』

 

『税を捨て、軍を捨て、周囲との利害調整すら捨てて、民が笑えばそれでよいと! ——領主として、あまりに愚かであろうが!』

 

 

 ……ああ。

 

 

 その通りだ。

 わたくしは、知っている。

 

 ずっと前から、知っていた。

 

 あの日。リヴェータ様は、お父様を庇うことはなかった。お父様の性格を称えこそすれ、その政治の手腕を──。能力を称えることだけは、けしてしなかった。

 

 ならば、間違いのない話。

 政治家として、貴族として、父は愚かだった。

 

 優しくて、まっすぐで、民を愛して。

 

 そして、それだけだった。

 

 軍権を削り、根回しを怠り、隣の領主が何を考えているかを見ようともせず。

 

 結果として、屋敷を焼かれ、爺やを殺され、娘一人を焼け跡に残した。

 

 知っていた。

 知っていて、それでも憎めなかった。憎めば、わたくしの十年が立ち行かなくなるから。

 

『貴様も同じよ! 感情でしか動けぬ! 復讐だ、友だと喚いて、目の前の利すら勘定できぬ! 血だ! 親子だ! 同じ血が同じ愚を繰り返す!』

 

 触手が、割れる。

 結び目が、目の前に迫る。

 

『貴様ら親子は——貴族失格だ!!』

 

 わたくしは。

 

 笑った。

 

 

「——ええ」

 

 

 懐から尊厳劍を抜く。竜と三叉槍の紋章が刻まれた、プレアデスの小刀。

 

「その通りですわ」

 

 声が、驚くほど静かに出た。

 

「お父様は、愚かでした。政を知らず、人を疑えず、剣ばかりが上手な、お人好しの領主でしたわ。……あなたの言う通り。あなたの言うことだけは、正しい」

 

『な——』

 

「ですから、わたくしは、あなたを恨む理由をひとつ失いましたわね」

 

 全身に力を入れ、しかしその関節の全てから力を抜くる。

 

「でも、それがどうしましたの」

 

 結び目が、そこにあった。

 

 

「秘伝——」

 

 

 刃を、苦痛なく肉へ滑り込ませる。

 あの日、ローグがわたくしの首につま先を添えたように、優しく。

 

 

 

「──鯉落とし」

 

 滝を上る、竜を落とすのだ。

 

 

 

 

 音は、なかった。

 

 異形の巨躯がびくん、と一度だけ跳ねた。

 魂と、精神と、肉体。

 三位を繋ぐ流れが、完全に乖離した。

 

『あ』

 

『え』

 

『な、ん──』

 

 

 三つの声が、ばらばらに零れ落ちた。

 再生が止まった。

 

 山のような肉塊が、支えを失った砂の城のように、内側から崩れていく。膨れあがった不死の器とて、命脈を断てばただの肉。

 ずう、ん……と地響きを立てて、わたくしの十年が、大聖堂の床に倒れた。

 

 

 二度と、動き出すことはなかった。

 

「──」

 

 

 

 わたくしは、立ち尽くしていた。

 

 終わった。

 

 終わって、しまった。

 

 お父様、爺や、屋敷のみんな。終わったよ。

 

「ふう──」

 

 息を、大きく吐き出す。

 不思議なくらい、腹の底は静かだった。歓喜も、虚無もない。ただ、報告だけが胸の中を通り過ぎていく。

 約束を、果たしましたと。

 

 

 この十年の締め括りが、復讐の一撃ではなく。復讐を越えた先に覚えた技であった。

 

 ……お父様は、笑ってくださるでしょうか。

 

 背に意識を向ける。

 ヴィータは、目を覚まさない。浅い呼吸だけが、小さな胸を上下させている。血に濡れた黒髪を、そっと撫でた。

 

「……お説教は、帰ってからですわ」

 

 覚悟為さい。たっぷり、搾り上げますから。

 だから、それまではどうか眠っていて。

 

 

 彼女を背負い直した、その時。

 

 

「──逃がすな! 二人とも生かして帰すな!

 

 

 大聖堂の入り口から、鬨の声が上がった。

 

 正面には生き残りの貴族たち。その背後からなだれ込んでくる、白い呪符を纏った異形の騎士。

 一体、二体ではない。五十──いや、百を超える数。纏う魔力の密度は、一体一体が黄金竜に匹敵する。

 

「イフィゲネイアの守り手たち! 証人を消せ! なんとしても、<銀蛇卿>の元へ帰すな!」

 

 ……厄介な。逃げるだけでも骨が折れそう。腕の一、二本の犠牲は覚悟するべきか。

 

 サンセットに手を伸ばす。一点突破を狙う。迫りくる化け物の群れへ、足を滑らせる。

 

 それより、なお早く。

 

 茶色いコートが、音もなく降り立った。

 

 ローグは何も言わず、最も速く駆け込んできた斥候騎士の槍を、すれ違いざまに踏みつけ、一瞬で槍を奪い。

 

 音もなく、その刃を振るった。

 

 

 波紋のような斬撃。

 最前列の騎士十数名が、糸の切れた人形のようになて崩れ落ちた。

 

 鯉を、落としたのだ。

 

 

「退路は俺が守る」

 

 ローグは、奪った槍を無造作に放り捨てる。取り出したるは、背の十文字槍。

 アルフェウスの名が刻まれた長槍を、ゆっくりと下ろした。

 

「行け」

「……ッ、でも」

「リヴェータを近くまで呼んでいる。北の街道にある、アイネイアスの紋章の白獣車だ。──行け、ローレッタ。露払いは俺の仕事だ」

 

 

 わたくしは、唇を噛んだ。

 

 

「……ご武運を」

 

 ヴィータを背負い直し、壁の大穴へ走る。

 

 振り返れば、赤い大海嘯。

 

 ローグが自らの手首を先、吹き出した血がうねり、巨大な壁となった。赤い壁は大聖堂を丸ごと包み込み、強靭な堤となって残らず塞いだ。

 

 誰も、ここから逃がさない為に。

 

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 

 血の内側。

 殺気だった景色の中で、貴族の一人が嗤った。

 

「は……はは! なんだ、貴様一人か!」

 

 嗤いが伝播する。

 百を超える異形の騎士。単独で黄金竜にも匹敵する魔力と肉体を有する守り手たちが、たった一人の壮年を幾重にも取り囲む。

 

 

「調べはついておるぞ、冒険者ローグ! たかが黄金級! 人の身の、ただの傭兵風情が! この数に、勝てるとでも!?」

 

「そうだな」

 

 男は、静かにうなずいた。

 

「冒険者資格は趣味でとったものだ。ならば、侮られるは必定だな」

 

 十文字の穂先が、赤黒い瘴気を纏う。

 

「殺しの影に名は要らずとも、死にゆく畜生にも、冥府の土産をくれてやろう」

 

 男が、顔を上げた。

 

「──西方連合が神獣軍、初代第五将軍。我らが王、偉大なるアルフェウスの影」

 

 嗤いが、凍り。

 その相貌に、恐れと絶望が刻まれた。

 

「俺の娘二人に、手を出したんだ」

 

 今までにないほど濃密な瘴気が、天井を舐めた。

 

「──楽に逝けると思うなよ」

 

 

 

 

 

※※※

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 北の街道。

 人気の少ない石畳の道に、獣車の明かりが見えた時、東の空はもう、白み始めていた。

 

 

「ローレッタさん!」

 

 青銀の髪が、灯りの中で揺れた。

 リヴェータ様が、駆け寄ってくる。枢機卿の法衣のまま、護衛の黒髪に金の瞳の女性──、エリスさんを置き去りに、大地を蹴った。

 

 わたくしの背のヴィータを見た瞬間、その碧い瞳が揺れた。

 

 

「……まあ」

 

 小さな両腕が、わたくしごと、ヴィータを抱きしめた。

 

「よく、よくぞ、二人とも」

 

 二千年を生きる怪物の声が、震えていた。

 

 

「戻ってきましたね」

 

 

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 獣車の中で、リヴェータ様の治癒が始まった。

 

 史上最高の魔法師の御業を、わたくしは初めて間近で見た。千切れて欠損してしまった四肢の断面に、光の糸が織り込まれる。

 魔力が肉体を活性化させ、白い光が彼女の腕を包み込む。骨が、神経が、肉が、関節が。逆戻りするように再生されていく。失われた血が満ち、土気色だった頬に、ほんのりと赤みが差していく。

 

「……完治には、時間がかかります。欠けた分の身体がなじむまで、ひと月はかかるでしょう。ですが」

 

 リヴェータ様は柔らかく微笑み、ヴィータの身体を魔法で浄化しながら続ける。

 

「命に別状はありません。この子は、大丈夫ですよ」

 

 膝から、力が抜ける。

 

 張りつめていた糸が、切れる。よかった、と声を上げることもできない。

 

「ありがとう、ございます」

「いいえ。謝るのはこちらのほう。巻き込んでしまいました」

 

 リヴェータ様は小さくため息を漏らし、月下を見つめた。

 

 ヴィータの瞼が揺れた。長いまつ毛が震え。

 赤い瞳が、開いた。

 

「……………………ろー、れった?」

 

 寝起きの、少し掠れたいつもの声。

 

「…………ここは? 当機……ええと、あれ? いきてる…………?」

 

 きょとんと。

 こてん、と首を傾げる、いつもの仕草。

 

 わたくしは、大きく息を吸い込み。

 

 思いっきり、その頬に張り手を炸裂させた。

 

 ばちん! と乾いた音が獣車に響いた。

 リヴェータ様が「まあ」口元に手を当て、固まっている。

 

「…………いた」

 

 ヴィータが、張られた頬を抑えて、ぱちぱちと瞬きをした。

 

「二度と」

 

 震えた声を抑えて、ヴィータを睨む。

 

「二度と、こんなことをしないでくださいまし」

 

「……ろーれった、当機は」

「聞きなさい!」

 

 堰が、切れた。

 

「勝手に手紙を燃やして! 勝手にわたくしの顔になって! 勝手に一人で罠に飛び込んで! 勝手に、勝手に、死のうとして…………ッ! あなたという人は、あんな手紙ひとつで、わたくしをとどめておけると、本気で思っていましたの!?」

 

「…………ごめん、なさい。でも、当機は、つかい捨てられる。なら、当機がろーれったをたすけたかった。当機のかわりは、ろーぐ師父やゆーす──」

 

「代わり!?」

 

 声が、裏返った。

 

「代わりとほざきましたか!? ええ!? あなたに、代わりがいると!?」

 

 目の奥が灼けた。

 こらえていたものが、ぼろぼろと彼女の頬へ落ちていく。

 

「いるわけ、ないでしょうが。あなたの、ヴィータの代わりは、誰にも務まらないの」

 

 胸倉をつかみ、彼女の赤い目をまつ毛がつきそうなくらい近くで、にらみつける。

 

「あなたがいないと、寂しいの…………ッ」

 

「朝の麦粥も、じゃんけんも、湯船も、髪を梳く夜も、床で溶けているあなたも……! 全部、全部、あなたじゃなきゃ、ダメなの! ヴィータがいない世界なんて、わたくしは、いや…………っ」

 

 

 彼女の胸に縋りつく。

 治ったばかりの小さな身体を、壊れ物のように、けれど二度と離さないように、顔を埋める。

 

 赤い瞳が、大きく見開かれていた。

 演算が追いつかず、理解ができないような顔。生まれて初めての方程式を前にした顔で、彼女はわたくしを見つめていた。

 

「…………でも、当機の──」

 

 彼女は、かすれた声で言った。

 

「当機の代わりは、いるよ。ヴァンガードのパイロットなら、いつかそだつ。執行機関のせきじも、うまる。錬金科のけいびも、魔導具でだいたいできる。当機というきたいの機能は、ぜんぶ、代替可能──」

 

「いません」

 

 わたくしは、遮った。

 

「いないの、ひとりも」

 

 彼女の両頬を、両手で包み込む。張ってしまった頬を、そっと撫でながら続ける。

 

「機能の話なんかしていませんわ。……ねえ、ヴィータ。逆に聞きますけれど」

 

「ヴィータは、わたくしの代わりが、いますの?」

 

 赤い瞳が、大きく見開かれた。

 

「明日から、わたくしじゃない誰かが、あなたの髪を梳いて。わたくしじゃない誰かと、じゃんけんをして。わたくしじゃない誰かの心臓の音を聴いて。

 それで、同じですの? あなたの毎日は、それで変わりませんの?」

 

「…………」

 

 沈黙は、長かった。

 やがて、彼女の唇が、小さく動いた。

 

「…………いや、だ」

 

 絞り出すような、か細い声。初めて聞く、彼女の声だった。

 

「ろーれったの、代わりは…………いない。ろーれったじゃなきゃ、やだ。さみしい。

 …………そ、っか。…………そっか、これが……」

 

 

 わたくしは、彼女を抱き寄せた。

 左胸を、彼女の耳に押し当てる。

 

 とく、とく。

 とく、とくい。

 

 わたくしの心臓の音。あの夕暮れに、彼女がわたくしにしてくれたことを、返す。

 

「同じですのよ、ヴィータ。わたくしにとての、あなたも」

 

「機能でも、ラベルでも、性能でもなく。ヴィータ・アルデバランという、たった一人の、わたくしの大切な人。わたくしの、わたしのヴィータ。

 ……代わりなんて、どこにもいませんの」

 

 

 

 腕の中の小さな身体が、震えていた。

 

 

 つう、と。

 赤い瞳の端から、ひとすじだけ。

 

 暖かくも冷たいものが、わたくしの胸元を濡らした。

 

 彼女の、涙だった。

 出会ってから一年。どんな痛みにも、どんな過去にも、一度も流されることのなかった雪解けが、静かに流れ落ちた。

 

「…………ありがとう、ろーれった」

 

 小さな、傷だらけの手が、わたくしの手に回される。

 

 

「当機を──」

 

 一拍の、ためらい。

 それから彼女は。

 生まれて初めて口にする子供のように、たどたどしく言い直した。

 

「──わたしを、助けに来てくれて」

 

 

 獣車の外で。

 

 夜明けの空に、季節外れの星々が瞬いていた。

 青の星団と、赤の巨星。

 

 プレアデスと、アルデバラン。

 

 二つの星は、白んでいく同じ空の下で、寄り添うように並んで光っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※※※

 

 

 

 

 

 

 ──暗転した、夜。

 【聖都】へ続く街道の宿場。その最上階の一室に、リヴェータ・ロット・アイネイアスはいた。

 

 卓上には、報告書の山。

 

 司教座聖堂の地下から回収された、決闘の記録。人肉饗宴の予約台帳。『楽園』の顧客名簿。イフィゲネイア関与者の、金の流れ。

 

 大聖堂に残されていた、百を超える異形の躯から採取された、呪布と魔族骨の検体。

 

 

 二千年、待った。

 彼女が生まれるより前から【月睨派】の腑の底に巣食っていた、この淀み。世界通貨テレスの都合上、触れれば経済が死に、暴けば民が焼かれるこの腫瘍。

 千五百年前、彼女が性急に刃を入れて、十万の民を死なせた、この宿業。

 

 その隠蔽の皮を、剝ぐ準備が、ついに整った。

 

 

「司教座が聖堂ごと『決闘の作法』を破り、学堂の学生を拉致し、喰った。物証は完全ね」

 

 報告書を繰りながら、彼女は静かに言葉を並べる。

 

「これ以上ない、介入の大義名分」

 

 影が、動く。

 音を立てずに、彼女の机に何かがおかれる。

 

 

 埃を被った硝子瓶だった。

 

「祝いの席に酒がない。俺は野暮な堰が嫌いでな」

 

「ローグ」

 

 顔を上げれば、茶色いコートの男が立っていた。

 

 全身が煤と、乾いた血でどす黒く汚れている。人の血ではない。あの血の壁の内壁で、彼が挽き肉に変えてきたものの残滓。

 

 普段ならば返り血を浴びることなどない彼の顔が、しかし異様なほど機嫌がよかった。

 

「まあ。お疲れ様。苦労をかけた」

 

 リヴェータが指を振るう。

 ただ、それだけでローグの全身にこびりついた血脂が消え、清浄な姿へと戻っていく。

 机に腰かけ、机の上に置いたガラス瓶をリヴェータの前へ滑らせる。

 

「なあに、それ」

「二千年モノのコニャックだ。メーヴェ村の、な」

 

 ローグは鼻歌でも歌いそうな手つきで、封を開ける。

 琥珀が、硝子の中で満ちる。とくとく、と注がれる香りに、リヴェータも上機嫌な笑みを浮かべる。

 

「そう。あなたにとって、それを開けるにふさわしい慶事ということ」

「娘ふたりの門出だ。これ以上の日はない。エリスはどうした」

「ヴィータさんたちの護衛」

「そうか」

 

 ローグは杯にコニャックを注ぎ、リヴェータへ手渡す。

 

 リヴェータは、しばらく杯を見つめていた。

 彼女は、酒が飲めない。苦いものも、辛いものもダメで、社交場では喉と鼻に液体吸着の術をかけている。

 宴席の乾杯など、すべて演技。二千年の慣習であった。

 

「ふふ、いいでしょう」

 

 術を、解いた。

 

 ローグは口の端を曲げて笑い。杯をリヴェータへ寄せる。

 

「乾杯」

 

 硝子が、夜の部屋に鳴った。

 

 舌の上で、二千年が花開く。木と、果実と、遠い日の太陽。そして、どこか懐かしい、灼熱の甘み。

 

 

「…………にがい」

「だろうな」

 

 渋い顔をするリヴェータをしり目に、ローグは一息に呷る。

 

 窓の外、夜明け前の空。しばらく、二人は何も言わなかった。

 

「──ねえ、ローグ」

 

 やがて、リヴェータが口を開いた。

 

「怒ってる?」

「それはお前の返答次第だな」

 

 男は、機嫌よくリヴェータへ目を向けた。

 

「どこまでが、お前の描いた絵だ?」

「どこまでも」

 

 彼女は、杯の琥珀を揺らした。

 ごまかさない。政敵が相手であれば、彼女は躊躇せず相手が誤解する言葉を選ぶ。

 それをしないのが、友情であり、同じ王に仕えていた──今も仕えている友への、義理であった。

 

「ローレッタさんをあなたの弟子に迎えるのを許した時から。うまく運べるだろう、と思って動かした」

「手紙の侵入も、か?」

「ええ」

 

 リヴェータは、静かに認めた。

 

「封じることはできた。でも、封じるよりも、乗せたほうがいいと判断したのも、わたし。どうせ、【聖都】に出る用事もありました。

 ローレッタさんに決闘を受けていただき、復讐にも折り合いをつけて頂く、いい機会ですと。後手に回ったとしても、救出は可能だと。一番被害が出ない方法だと、判定したのですけれど…………」

 

 彼女は、大きくため息をついた。

 

 「誤算は、あの子が先に手紙を見つけてしまった。あの子の頭の速さを理解していました。他人を優先する気質も、存じていました。ただ、執行機関の任務の今後の継続よりも、ローレッタさんの保全を優先させるとは思いませんでしたから。おかげで、こちらの対応が後手に回りました」

 

 リヴェータは上機嫌そうに語る。

 言葉には欠片も負の感情が込められてはいなかった。むしろ、その声は跳ねており、普段の彼女を知る人間であれば、驚くような声音であった。

 

「嬉しそうだな」

「ええ。……わたしに喜ぶ資格があるかはわかりませんが。それでも、わたしも先生ですから」

「嬉しいのならば素直に喜べばいい。お前は考えすぎなんだ。お前のことは友であると思っているが、そういう無駄に機知を回すところと、人を駒のように使うところは嫌いだ。だからアルフェウスにも逃げられるんだ」

「…………ローグ、うるさい」

 

 ぴしり、とリヴェータのコップにひびが入る。

 

「反省はしています。絵図はいくつか描いていましたが、これは最悪の結果です。あの子が傷ついた。それも、あんな形で」

 

 淡々とした声音で語る。

 自嘲でも、言い訳でもない。無感情な声音で、己の結果を査定していた。

 

「二千年やって、この様。…………どうか、恨みなさい」

「そういう無駄に責任をしょい込むところも、好感が持てない。責任感の強さは、お前の美点だがな。人によっては悲劇のヒロインぶっているようにしか聞こえん。悪役ぶりたいのなら、もっと楽しむことだな。見ていて痛々しい」

「…………ひどい言いようですね。事実ですので、仕方ありませんが」

 

 ローグは己の杯に二杯目を注いだ。

 

「あいつは死ななかった。手足も戻った。…………代わりに、あいつが持って帰ってきたものはこれだ」

 

 リヴェータは報告書の山の一番上に載せた、一枚の紙に目を落とした。

 

 調書でも、台帳でもない。リヴェータが最も信を置く地上最強──。執行機関No.1<世界竜>エリス・ミア=アヌマティ本人が書き留めた、ただの随行記録。

 

『ヴィータの一人称に乱れ発見~! ローレッタちゃんと抱き合った後に当機から、わたしに変わってた。こりゃ、素晴らしい発見だのぅ』

 

 

「『わたし』、だ」

 

 くつくつ、とローグは笑った。

 表情を表に出すことのない。至高の暗殺者と呼ばれた彼の、歓喜の表情だった。

 

「十八年だ。ようやく、あいつは一人の女の子らしいことを覚えてくれた。恐らく、わたしと言うのはローレッタの前だけだろう。覚えるのは戦闘技術と、コレトーの揚げ物料理ばかり。空っぽの道具から、ようやくだ」

 

「俺たちがどれだけ抱きしめても、愛してもダメだった。俺たちの愛情は、所詮あいつにとって『可哀そうな子への対処』だと思い込ませてしまった。……あいつを埋められるのは、あいつを憐れまない子だけだ」

 

 男は杯を空にした。

 

「……フッ。どうだ、リヴェータ。俺の娘は、ローレッタは大したものだろう」

 

 ローグは少年のように笑う。

 その声には、隠しようもない誇らしさがあった。

 リヴェータはその笑みを見て、心底満足そうに笑っていた。

 

「珍しい。あなたがそんな風に笑っているのは、二千年ぶりに見ました。……老けましたね、ローグ」

「そうだな。俺もお前も、随分と年を取った。あの旗揚げから、ずいぶん遠くまで来たな」

「……ええ」

 

 

 リヴェータは過去に思いを馳せる。

 西方連合を立ち上げた、あの丘での誓いを。彼女の唯一の王の右腕として、人の律を取り戻しに行った、激動の始まりを。

 久方ぶりの酒精を借りて、あの男の隣を、彼女は今も夢見ている。

 

「さて。ここからが正念場。この底の世界に、終止符を打ちましょう」

 

 窓の外に、夜明けが滲み始めていた。

 

 【月睨派】の上層部は、もはやこの件を「地方の醜聞」として切り捨てるしかない。切り捨てれば、蜥蜴の尾の先を手繰る。切り捨てぬのならば、大々的に腹を探る。

 

「すべての舞台は整えました。千五百年前の轍は踏みません」

 

 リヴェータは眼を鋭くし、大気の水分を凍らせる。

 凍気はチェス盤と駒を象り、彼女の指先に氷のナイトを握らせた。

 

 キングとクイーンの駒はない。クイーンの代わりに、そこには一つの学園の名があった。

 

 学園都市スターデア。そして、キングには。

 

「ミケネ学園」

 

 貧民の希望を騙る狩場。神聖な秘儀を教える、【月睨派】の骨髄へ、ついに監査の禊を打ち込める。

 後任の司教たちの手配は済んだ。各地の【叡神派】指定の育成も、完了している。世界経済への痛打を最小にとどめる緩衝も、敷き終えた。

 

 

「潰すときは苛烈に、確実に。欠片も残しません」

 

 

 リヴェータは冷たく笑う。

 空の杯を二つ並べて、二千年物の男と女は、笑いあった。

 

「──もう一杯だけ、いただこうかしら」

 

 銀蛇卿は報告書を閉じ、開けていく夜の中へ、討ち入り前の酒を求めた。

 

 尚、次の日は二日酔いで動けなくなった。

 

 

 

 

 

※※※

 

 

 

 

 

 

 ひと月後。

 夏の終わりの、放課後。

 

「──というわけで、退院祝いですわ!」

 

 寮の部屋。きんきんに冷房の効いた、いつもの部屋にて。

 わたくしは、彼女の目の前に、それを置いた。

 

 硝子の器に盛られた、イチゴとミルクの氷菓。

 

「!」

 

 

 ソファの上のヴィータが、がば、と身を起こした。

 完治したての身体で、目をいっぱいに輝かせて。

 

「わたくしが作りましたわ。錬金科で、小鳥遊教授から技術を盗んでまいりました。……お口に合うかどうかは、わかりかねますが」

 

 ヴィータは匙を手に取った。

 ひとくち、運ぶ。

 

 赤い瞳が、まんまるになる。

 

「……おいしい」

 

 ふにゃり、と。

 花がほどけるように、笑った。

 

「つめたくて、あまい。イチゴのあじがする。……ろーれったの作ったもの、ぜんぶおいしい。わたし、ろーれったのごはんが、世界でいちばんすき」

 

「──そう」

 

 不意打ちは、やめていただきたい。

 

 彼女の一人称はあれから、揺れている。「当機」に戻る日もあれば、ふとした瞬間に「わたし」がこぼれる日もある。まあ、わたくしの前でしかわたし、と言わないが。

 十八年ものの癖は、ひと月では治らない。直す必要もないだろう。

 

 ただ、大切なことを伝える時だけ。

 彼女は決まって。「わたし」を選ぶ。

 

「そうだ。ミルクもお食べになって」

「ん」

 

 ヴィータの口元へ、ミルクアイスを運ぶ。

 

「ん……? ん~~~~~~!?」

「ぷっ、くくく…………! どうですの、ハバネロ味は! ユースティス様から教わった、激辛ミルクアイスですわ~~~!」

 

 顔を真っ赤にしてのたうち回るヴィータを前に、わたくしは吹き出してしまった。

 

「ろ、ろーれった……なんで……?」

「だって、ヴィータ言っていたじゃありませんの」

 

 本物の甘いミルク味のアイスを彼女の口元へあーんしながら、静かに笑う。

 

「新しいチャレンジも、悪くないでしょって」

 

 ニヤリと笑いながら、ヴィータを覗き込む。

 

「……そう。なら、当機も遠慮はいらない。今からしんさくゲームで、ろーれったをボコボコにする」

「ちょ!? わたくし、まだ操作も覚えてないんですのよ!? ヴィータとよーいどんで初めて勝てるわけないでしょうに!」

「もんどうむよー」

「ちょ、どっからこんな力が……! ごめん、ごめんなさいですわ、ヴィータ!」

 

 今日も、わたくしたちの部屋からは笑い声が漏れる。

 夜になれば、窓の外に、星が降る。

 

 青の星団と、赤の巨星。

 遠く離れて生まれた二つの星は、けれど同じ夜空の、すぐ隣で。

 

 今夜も、寄り添って、光っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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