目が覚めると、いつも寂しさに満ちたリビングが目に入る。
それを別に苦痛だとは思わない。苦痛だと思うほどの熱量が、もう自分の中に残っていないからだ。カーテンの隙間から差し込む朝の光も、スマートフォンのアラーム音も、すべてが等しく「今日も一日が始まってしまった」という事実を告げるだけの、無機質な合図でしかなかった。
起き上がり、とりあえず洗面所で顔を洗う。鏡に映る自分の顔は、あの日から何度も見ても他人のもののように感じられる。十六年間付き合ってきたはずのこの顔が、どうしてこんなにも遠くに感じるのだろう。
制服に着替えたら、冷蔵庫からパンを一枚取り出し、何もつけずにそのまま齧る。味なんて、正直よくわからない。ただ、何か腹に入れておかないと午前の授業中に集中力が切れることを経験上知っているから、義務のように咀嚼して飲み込む。
玄関を出ると、隣の部屋のドアが同時に開いた。
「あ、天。おはよう」
隣に住む彼女が、鞄を肩にかけながら顔を出す。寝癖を手櫛で直しながら、彼女はいつも通りの明るさで笑いかけてきた。この一年間、彼女は毎朝のようにこうして声をかけてくる。天が越してきたばかりの頃は戸惑ったものだが、今ではもう、かなり慣れた。
「……おはよう」
意図しているわけでないが、返事はいつも短いものになってしまう。感情の起伏がないわけではないのだが、それを言葉にして表に出す習慣を、もうずいぶん長いこと失っていたためか、口から出る言葉はいつだって遠慮しがちだ。
「今日も眠そうだね。ちゃんと寝てる?」
「……寝てるよ、人並みには」
人並み、という言葉に自分でも小さく引っかかりを覚える。人並みに眠り、人並みに食べ、人並みに学校に通う。それだけのことが、天にとっては「生きている」ことの全てだった。そこに意味を見出そうとすると、途端に足元が崩れていくような感覚に襲われるから、あえて考えないようにしている。
「私、今日は朝から先生に用があるからもう行くね」
「そっか」
彼女は軽やかな足取りで駆けていく。その背中を見送りながら、僕はふと、去年の今頃はこの隣人の存在すら知らなかったことを思い出す。
一年前、僕はここに越してきた。前まで住んでいた家は、一人で暮らすにはあまりにも多くの過去が染みつき過ぎていた。だから、少しでも忘れられるような場所に移りたかった。新しい部屋には物がほとんどない。必要最低限の家具と、着替えと、そしていくつかの、開けることのない段ボール箱。
この部屋には過去を思い出す要因なんて何一つない。面白味もない退屈な部屋。だけど、僕にはこの部屋がどこよりも安寧の地に感じる。
そんな中、彼女とはこのアパートの駐輪場で出会った。
別に特別な出会いだったわけじゃない。ただ、自然と挨拶を交わしただけ。それ以上でもそれ以下でもなかった。筈だった。
『……藤原君、だよね。同じクラスの』
『……あぁ、酒寄さんか』
ほんとに大きな出会いでもなかった。たまたま、隣の部屋にクラスメイトが暮らしていることを知った。ただそれだけのこと。
けれど、その日の出会いを境に僕たちの関係は少しだけ変化していった。
最初は見かけたら軽い挨拶を済ます程度のものだった。軽い挨拶から始まった交流は次第に日常の話や趣味の話へと広がっていく。お生憎、僕にはそんな人様に話すような大層な話はない。正直、そんな僕に呆れてすぐ話しかけなくなるだろうと思っていた。
だけど彼女はそれでも僕に話しかけてきた。
…………だからだろうか、そんな彼女を無碍に扱うことにほんの少しの罪悪感を覚えてしまった僕は少しではあるが自らについて話すことが増えてしまった。
その結果として、僕たちはそれなり関係を築き上げてしまった。
正直、僕はこの関係をどう扱うべきか未だに計り知れていない。彼女が僕に対してそれなりの信頼等の感情を寄せてくれることは理解できはいるが、無闇に関わりを続けてもいいものなのか。
そんなことを考えるようになったら、気がつけばここに越してきてから一年が経っていた。
「………とりあえず、学校行くか」
学校までの道のりを一人で歩く。彼女とは隣人ではあるものの、僕は遅刻ギリギリまで寝ている日が多いから、朝一緒に登校することは滅多にない。
ある程度関わるようになってから、何度か彼女から一緒に登校しないかといった旨の話は何度も受けている。だけど、誰かと歩調を合わせることに、まだ慣れていない自分がいる。
だから、今ぐらいの関係が僕にとっては丁度いい。
深く入り込まず、いつでも切り捨てられる関係。そんな関係こそが僕にとっては何よりも楽であり救いなのだ。
……大切に想ってしまったら、避けられない何かだってある筈だから。
教室に着くと、綾紬さんと諌山さんが僕の席の近くで談笑しているのが目に入った。彼女達は酒寄さんと同じクラスメイトなのだが、酒寄さんを介して交流する機会が度々あり、気がつけば顔を合わせると軽く話すぐらいの間合い柄にはなっていた。
「あ、藤原じゃん。おはよ」
綾紬さんが気安く手を振ってくる。諌山さんはノートに何かを書き込みながら、目線だけをこちらに向けて小さく会釈している。
「……おはよう」
僕は自分の席に着き、鞄から教科書を取り出す。
綾紬さんたちとの会話は、正直酒寄さんとの会話よりもずっと気楽だ。互いに知り合いの知り合い程度の関係値と認識しているからか、踏み込んでくることがない。かといって完全に無関心というわけでもない、関わる上でちょうどいい距離感を保ってくれている。
それが心地よいのか、それとも単に『深く関わられずに済む』ことへの安堵なのか、僕自身にもよくわかっていない。
「そういえばさ、彩葉が藤原はお菓子作るのが上手だって言ってたんだけど、ほんとなん?」
芦花の何気ない一言に、天の指先がわずかに止まる。
「……昔の話だよ」
「昔って、いつの話さ」
「中学のとき」
「……そ」
それ以上の会話は何もなかった。彼女達が何も踏み込んでこないあたり、今の会話から何かを察しているのかもしれない。
だが、その『何か』を言葉にされることを、僕は何よりも恐れている。彼女達は恐らくそれに気づいている。だから誰も、それを口にしない。
「……」
「……」
この気遣いに満ちた沈黙は、僕たちの都合の良いこの関係を示しているかのようだった。
授業が始まり、時間はいつも通りに過ぎていく。窓の外を見ながら、昼休みになったら購買に行くべきか、行かずに寝ているべきか、そんなどうでもいいことを考えていた。何かに強く執着することがない。何かを強く望むこともない。ただ、目の前に流れてくる時間を、なんとなくやり過ごしているだけ。それが僕にとっての『人生』なのだ。
結局、購買に行くことにした僕は、購買に向かう途中で、酒寄さんと鉢合わせた。
「ん、天じゃん。一緒に食べる?」
「……どっちでもいいや、任せるよ」
「……えー、じゃあ食べよーよ」
適当に見つけたベンチに二人で座り込む。彩葉はバイト先で貰った賄いを詰めた弁当を、天は購買で買ったスティックパンをそれぞれ頬張る。
「……いっつも思うけど、それだけで足りるの?」
「別に生きてく上でなら、この量は十分な量だと思うけど……」
「にしたって、毎日スティックパン一袋はちょっとアレじゃない?」
「……アレ?」
「まぁ、味気ないって言うかなんて言うかさぁ……」
「……?そっか」
彼女は少し不服そうな顔をしたが、それ以上は深くは追求してこない。
「お菓子作りが出来るんならさ、料理だって別にできないわけじゃないんでしょ?」
「……出来なくは,ないと思う」
「なら、今度一緒に何か作ろうよ。スティックパンの日々からの脱却も兼ねてさ?」
「……スティックパンは別に悪くないよ」
「別にそう言うことじゃないんだけど……」
料理、か。
母と並んでキッチンに立ち、笑い合っていたあの時間——。それを思い出すたびに、胸の奥には、あの日の匂いと、音と、そしてあの悪夢がまとめてフラッシュバックしてくる。
できる、できないの話ではない。ただ、僕が弱いだけなんだ。
「……気が向いたらね」
それだけ答えて、パンの残りを口に押し込んだ。
彼女はそれ以上追及することなく、話題を今日の授業の愚痴に変えていく。この切り替えの早さと、それでいてどこか諦めていないような彼女の態度には毎回、少しだけ救われているような、それでいてどこか居心地の悪いような、複雑な気持ちになる。
放課後、特に寄るところもないので真っ直ぐ家に帰った。
酒寄さんはバイトがあるから、今日はもう顔を合わせることもないだろう。誰もいない部屋に鍵を差し込み、扉を開ける。玄関には、青いスリッパが一足だけ揃えて置かれている。自分で選んで買ったものだ。何故だか、無性にこの色のスリッパが欲しかった記憶がある。理由は、自分でもよくわかってない。
夕食は、コンビニで買った弁当を特に温めもせずに食べる。
その後は特に何かをするわけでもなく、風呂に入り、髪を乾かし、ベッドに倒れ込む。特にすることもないまま、スマートフォンの画面も見ずに、天井を見上げる。
——今日も、一日が終わった。
それ以上でも、それ以下でもない。明日が来ることに期待も絶望もなく、ただ、時間が過ぎていくのを眺めているだけの毎日。それが藤原天という一人の人間の、ここ数年間のすべてだった。
意識が暗闇に落ちる中、隣の部屋から物音が聞こえてくる。きっと彼女がバイトから帰ってきたのだろう。そんなことを考えながら僕の一日は今日も終わりを告げて過ぎていく。
——この時の僕は、まだ知らない。
この平坦で、変化のない毎日が、もうすぐ大きく揺らぎ始めることを。そして、その揺らぎの中心に、一人の少女が現れることを。
「……ぁ」
部屋に入る日差しで目が覚めた。
何だか最近、睡眠の質が明らかに悪い。思い当たる節はあるにはあるものの、確証もないのに彼が原因だと決めつけるのもどうかと思い、頭に残る邪念を振り払う。
「……まだ5時じゃん」
別に今日だって学校はある。
けれど、こんなに早く起きたってどうしようもないのだ。むしろ、早く起きてしまったからこそ、間違いなく授業中にその反動がやってくるに違いない。そんなことを想像しては少しばかり億劫になってしまう。
「……ぜぇったいに眠くなるじゃんこんなの」
二度寝するには、あまりにも目が冴え過ぎているし脳が活性化し過ぎている。こんな状態で二度寝なんかできるわけもなく、私は諦めて椅子に座りパソコンを付ける。
「こーゆーときはぁ、アーカイブを見直すに限るっしょ」
こうして、私は見逃していた彼女の配信のアーカイブを見直す。
——『月見ヤチヨ』。
仮装空間『ツクヨミ』の創設者にして管理人、それでいて最強無敵な最強AIライバーである。
レベルの高い歌や踊りでファンを魅了し続ける『ツクヨミ』のトップアイドル。私にとっての一番の推しである。
彼女の天真爛漫な笑顔は私の日々の疲れを一瞬で吹き飛ばしてしまう程の破壊力がある。
「……ふへへ、やっぱぁ歌声神か?神だよね?神すぎるぅ」
彼女の笑顔が私の疲れを吹き飛ばす程のものであるのであれば、彼女の歌声は私にとって元気の源。歌声を聞くだけでまた明日一日頑張ろうと勇気をくれるとても素晴らしいものなのだ。
「……これで、明日も一日頑張れるわ」
「あ、いや、明日っていうかもう今日か……」
私にとって彼女の存在は必要不可欠。
何度も挫けそうになるたびに、彼女の笑顔に、歌声に、言葉に救われてきた。だからこそ、少しでもできる恩返しのようなものとして私は彼女を推し続ける。
「……ん、でも少し外の空気が吸いたい気分かも」
「今から外出るのは流石に危ないしなぁ……。ベランダでいいや」
『月見ヤチヨ』、彼女のことを推すことが私にとっての日々だ。だけど、最近はそれ以外にも私の日々にとって当たり前のようになってきた存在がいる。
「今日も帰ってきた時には寝てたなぁ……。相変わらず、寝るのが早いんだっつーの」
「少しぐらいは隣人付き合いを大事にしたらどうなんですかー……」
藤原天、隣人にしてクラスメイト。
私の隣の部屋に、突如越してきた。最初のうちは、いくらクラスメイトといえど、学校での関わりはほぼ無いに等しい。そんな彼と関わることなんてないと思っていた。だから、無闇に話しかけたりもしなかったし、変に絡んだりもしなかった。
「……あの日も、満月だったっけ」
満月の日、私たちは偶々出会った。
バイト帰りの私と何処かしらに出かけていた彼は、このアパートの駐輪場で偶然出会した。
……正直、前から横に越してきたのは知っていたけど、話しかけるタイミングを見失っていた。今更、話しかけてもと思っていたし。
だから、理由もなく話すきっかけがあったのは少し嬉しかった。
「……一年も経ったのか」
あの日を境に、私たちは今までが嘘だったかのように話す機会が増えていった。朝学校に向かうとき、学校ですれ違った時、帰ってきたなどなど。時間問わず、出会えば軽く挨拶を交わし、他愛もない与太話をする。
そんな日々も気がつけば私にとっては、簡単に手放せやしないものとなっていた。
別に異性として好きだとかそういうのではないと思う。
ただ、彼と話すのは心地が良い。何というか正直に向き合ってくれている。そんなふうに感じる彼との会話は私にとっては、邪な感情を抱えたまま話しかけてくるそこら辺の男子に比べたら凄くまともに感じられた。
だから、仲良く出来るのであれば仲良くしたい。
でも、彼は何処か線を引いている。どんな会話にも行動にも彼は何処か線を引いて、その線の後ろに彼は立っている。
まるで、自分は関係ないとでも言わんとするかの如く。
「……なんか、寂しいじゃん」
私と同じく一人で暮らしているからといって、私と同じ理由とは限らない。邪推にはなるかもしれないが、恐らくは、軽々しく触れていような理由ではないのだろう。
前に一度彼の部屋に上がった時に確認したが、彼の部屋には冷蔵庫や炊飯器といった家電は置かれていなかった。洗濯機がかろうじて置かれてあるぐらいだ。
あまりにも、彼には人間味を感じない。
食べ物に対する興味もそうだが、彼には趣味と呼べるようなものが無いことも知っている。
起きて学校に来て、帰ったらご飯を食べたらお風呂に入って寝る。私との関わりない日の彼の日々はいつもそんな感じなのだ。
でも、そんな彼でも人間味が完全にないわけではない。
私は知っている。彼が優しいことを。優しすぎることを。
——だって、酒寄さんが怪我をしたら家族が悲しむじゃん。
今でも覚えている、あの日の彼の顔を。
あまりにも人間味のない彼の、人間味の帯びた悲しそうな顔を。
あの顔を見てから、どうにも彼を放っておくことができない。何故だかわからないけど、放っておいちゃダメな気がした。
「……ふぁあ……眠っ」
思考を巡らせていると少し眠くなってきた。
時計に目を向けると、今の時間はもう6時手前である。今から寝ることもできないため、私は諦めて学校に行く準備をする。
「……今日はもう少し喋れるといいな」
そんなことを思いながら私はいつも通り準備をして家を出る。正直、眠気がとてつもないが今日一日はこれで過ごすしかない。踏ん張れ私、負けたら終わりだぞ。
「……あ、天」
「……ん、おはよ」
寝癖を残したままの彼が隣の部屋から出てくる。
何故だろう、そんな彼を見ていたら眠気なんて吹っ飛んでしまった。むしろ、脳が活性化し始めた気がする。……気がするだけだよね?
「……んもう、寝癖」
「寝癖……?」
「そ、寝癖。寝癖ぐらい直してから出てきなよ」
「……これぐらいなら大丈夫かなって」
そんなやり取りをしながら私は彼の寝癖を持っていた櫛で軽く解す。美容などに無頓着そうな彼の髪は思っていたよりも柔らかくてサラサラしている。
……なんか艶も良くて、ちょっと複雑。
「……ありがと、酒寄さん」
「あ、うん……」
酒寄さん、か。
未だに名前で呼んでくれない彼には少しばかり複雑な気持ちだが、それも含めての私たちの関係なのだ。
いつか、彼が自分から名前で呼んでくれる日がくると信じている。
「……天、今日は一緒に行こっか」
「いや、家出た時間一緒ならわざわざ改めなくてもどっちにしろなのでは……?」
「うるさい」
「……えぇ」
うるさいぞ。
別にいいじゃないか。一緒に行くのを強調することに意味があるんだっての。それぐらい理解しろ。
……二人で一緒に学校に行くのはなんだかんだ、久々だから少しだけ心が躍る。彼はわざわざ登校時間を揃えたりはしない。だから、私から誘ったり、登校時間を揃えたりしないと一緒に登校するなんてことは中々起こり得ない。
「昨日はさ、いつもみたいにすぐ寝ちゃったの?」
「私が帰ってきた時には、もう部屋の電気消えてたけど」
「……んー、20時半には?」
「えぇ、現代人の高校生じゃありえない時間だよ。ましてや、一人暮らしで」
「そうかなぁ……。別にすることもないっていうか」
そんなふうに語る彼の雰囲気はどこか柔らかくて、それでいて風が吹いたら意図も容易く吹き飛んでしまいそうな感じだった。
……絶対に離しちゃダメだ。
「酒寄さん?」
「ぇ、な、なに?」
「いや、呼んでも返事ないから……」
「あ、あぁ……。ご、ごめん、考え事してた」
「……なら、いいや」
今、私何考えていたんだっけ。
最近、天のことを考えていると少し意識が何処かに飛んでいってしまうときがある気がする。
「それで芦花がね——」
「……ほーん」
この日々が続く限り私は何だって頑張れる気がする。
だから、どうかこの日々がずぅっと続きますように。
……それ以外は何もいらないから。
一年一緒にいたらクソデカ矢印の一つや二つ向けられるだろ知らんけど。