絶妙に噛み合ってない重い想いの掛け合いっていいよね
「……はぁ」
部屋の前まで戻ってきて、僕はようやく自分がとんでもない状況に置かれていることに気がついた。
今、僕の腕の中には正体不明の赤ん坊がいるのだが、部屋に戻れば、僕の布団の隣で眠っている酒寄さんもいる。今自分の置かれている現状を思い返すと思わずため息が出てしまう。
……いや、情報が多いんだが?
「……えっと、どうしよ。いや、ほんとに」
玄関の前で立ち尽くしたまま、僕はしばらく途方に暮れていた。
腕の中で眠る赤ん坊を見る度、警察に届けるべきか否かが頭を過ぎる。しかしながら、どう考えたってこの赤ん坊の出現の仕方は普通ではない。むしろ、異常だ。
あんな光に包まれた電柱の中から現れた存在を、一から百まで全部説明して、誰が素直に「はい、そうですか」と信じられるものか。
……なんなら、赤ん坊を抱き抱えた頃にはあの光はとっくに収まっていたし。
「……すぅ」
「……あたたかい」
腕の中の赤ん坊は、規則正しい寝息を立てたまま、僕の胸に小さな顔を寄せている。この温かさが、さっきまで頭の中を支配していたあの重たい考えを、不思議なくらい遠ざけていた。
……結局、僕は意を決してドアを開けるのであった。
「……あの、酒寄さん」
「……んん、なにぃ?」
小声で呼びかけると、彼女は寝ぼけた声を上げながら、ゆっくりと目を開けてこちらを向く。
正直、寝ている彼女を起こすのは申し訳ないと思ったのだが、こればっかりは背に腹は代えられないというやつである。
「……ん、天……? どしたの、こんな時間に……」
「……えと、まずはこれ見てほしいかも」
「はぃ……?」
僕は、普通に言葉で説明するよりも、見せる方が早いと判断し、腕の中の赤ん坊を、彼女の視界に入るように少し屈んで見せた。
「……は?」
部屋の温度が少し低くなった気がした。
……いや、明らかに気のせいではない。どう見ても、酒寄さんの周りだけ雰囲気が違う。というか、なんか圧がある。
「……えっと、酒寄さ「誰?」……え?」
「いやだから、誰だって聞いてんの」
「……あの、誰って」
「相手の女」
「……はい?」
なんか、この人変な勘違いしてないかこれ。
「……なんか、勘違いしてると思う」
「何が」
「……この子のこと」
「勘違い……」
「うん、勘違いだと思う……」
「……へぇ、そんなふうに言うんだ」
「……はい?」
おかしい。
明らかに彼女の機嫌が悪くなっていってる気がする。気がするというか確実に悪くなってる。心なしか、彼女の言葉の節々にチクッとした棘を感じる。なんなら、鋭い目線が凄く僕に突き刺さっている。
「……あのさ」
そう言いながら、彼女は確実に僕との間を埋めてくる。
僕の言葉も待たず、彼女は確かな足取りで僕へと一歩歩み寄ってくる。その足取りには、僅かではあるが微少の揺れを感じる。まるで、何かに怯えている子供のように。
「……さ、酒寄さん?」
僕が後ろに足を引こうと、彼女は歩みを止めない。
少しずつ、僕を壁へと追いやるかのように距離を詰めてくる。僕を捕捉するかの如く、鋭い眼光は僕の瞳を掴んで離さない。
「……っ」
気がつけば、僕は壁に追いやられていた。
後ろへの退路を絶たれた僕は、左右への脱出経路を探そうと周囲を見渡そうとするが、それは叶わない。
彼女の細い腕が、力強い手が、僕の顔を掴んで離さない。彼女の顔に対して、強制的に向くように強く掴まれた僕の顔はどれだけ力を入れようと動く気はしない。
「……は、離してくれると嬉しいんだけどなぁ……なんて」
目を逸らすことのできない彼女の瞳をしっかりを見据えた僕は自身の要望を声に出す。
けれど、その要望は叶う気がしない。なんなら、彼女の力はより一層と強まっていくばかり。
「……」
逃がさない。
込められていく力には、そんな意思が感じられる。
「……」
たった数秒の沈黙。
だけど、僕にはこの数秒がこれまでの人生の中で一番長い数秒に感じられた。
沈黙を破るかのごとく、彼女の目が次第に大きく見開かれていく。
そして——。
「……なんでさ」
「ふぇ?」
「……なんでさ。いつの間に、そんな相手なんか作ったわけ……?私たち、ずっと一緒にいたじゃん。この一年間、ずっとだよ……?ずっと、ずっと。ずっとずっとずーっとだよ。わかる?ずっっとだよ?会う時間がなかろうと、話す時間がなかろうと。……私たち、ずっと隣同士だったやんか……。いっつもさ、互いに変わったことがあったらすぐ話題に上がるぐらいには、隣におったやん。どんな些細なことでもやで。……なのに、いつの間に作ったんや相手なんか。相手だけやない、子供まで作りはって。……どないして、そんなこと、……しはったん。そんなに相手が欲しかったんか。私じゃ、だめやったん……?こんなん、ひどいやんか。なんで、なんでなん……。なんで、なんも教えてくれんかったん……」
「さ、さかひょりふぁん!?」
「……嫌や。そんなん嫌や。……やったら、また私独りやん。それだけは絶対にあかん。今更独りなんて耐えられるわけがない。……ほんま、あかん。こんだけ、私の心掻き乱しといて、今更手放しにできるわけないやんか。孤独をこんなにも苦しいものにしたのは天やん。それなのに、今更バイバイ?そんなん許すわけない。……絶対に、絶っっっ対に離さへん。何処も行かせへん。相手の女とか知らん。もう、一度も会わせてやらん。天は私の隣におるだけでいい。その余計なことばっかりしはる女には私から言っとくから。……だから、何処にも行かんといて」
「……っぁ」
情報が多い。多すぎる。
彼女の言葉の一つ一つが大きな情報の弾丸となって、僕へと降り注ぐ。けれど、その言葉たちを一つずつ読み取ることはとても至難なことだった。
「……っ……ぁ、な、なんで……っ!」
彼女は泣いていた。
ただ、それだけのことが僕には何よりも酷く胸に突き刺さった。僕を離さないとしていた瞳は、眼光の殆どが鳴りを潜めている。だけど、輝きを失った目は僕を決して離さない。
虚なその眼は、確かに僕を見ていた。
「……っ、さかひょりふぁん!」
「っ……、ぅ……?」
「……っぁ!」
力強く拘束されている僕の顔を思いっきり振りかぶる。
振りかぶったことにより、僕の顔は彼女の手から一時的に離れることに成功する。
「……ぁ」
拘束から放たれた僕を見て、彼女は放心した様子で声を漏らす。決して、僕を見つめては離さないが、何かをする気配は感じ取れない。
というか、放心中なのもあってか、少し全体的に脱力している雰囲気を感じる。
「……っと、起きてないか」
「……すぅ」
かなり強く体を揺らしたのあって、腕の中に眠るこの子が思わず起きてしまわないかと少し心配だったが、どうやら杞憂だったみたいだ。
「……えっと、酒寄さん」
「っ……な、なに……ぅ、ぁ」
「あ、えと……、ちょっと待って」
「……?」
とりあえず、このままでは普通に話し合いもできそうにない。だから一旦、この子を少し離れたところに布団をずらして、その上に寝かしつける。
僕たちの話し合いの声量によっては起きてしまうかもしれないが、さっきみたいに体を大きく揺さぶってしまうみたいなことは起こらずに済む。
「……じゃあ、改めて」
「……」
「多分……だけどね。勘違いしてると思うからさ」
「……かんちがい」
「そう、勘違い」
あの子のことをどうにかするか考えることはとても重要だ。
……けど、それ以上にまずは目の前の問題からどうにかしていかなければならない。
「……じゃあ、話そっか」
彼女の状態は誰が見ても正常ではない。
だからこそ、一度落ち着かなければならないはずだ。
じゃなければ、何も話は進まないだろう。
「……まず、わかってるとは思うけど」
「……?」
「……誘拐ではないです。はい」
「……わかってる、それぐらい」
一回、赤ん坊を少し離れたとこに寝かしつけてきた彼は、改まってそう言った。
冷静を欠いてる今の私でも、流石にそれぐらいはわかる。
「……だれなの」
ダメだ。
よくないのはわかってる。私なんかが首を突っ込んじゃいけないことは頭では理解しているんだ。けど、心がそれを受け入れてくれない。強く理性を働かせ続けなければ、私の口は壊れた蛇口のように言葉を吐き漏らし続ける。
「……なんで」
なんで。
なんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんでなんで——、
「酒寄さん!」
「……ぁ?」
私の肩を強く掴んだ彼が私を呼ぶ。
少しでも顔を前に突き出せば触れてしまいそうなほど近い。そんな距離まで迫った彼の顔を見ると、心が落ち着く。嫌なことが、少しずつ消えていく。黒いキャンパスが白で埋め尽くされるように、心が少しずつ明るさを取り戻していく。
「……てん」
あぁ、ダメだ。
彼の顔を見ていると何を考えていたか忘れてしまいそうになる。頭の片隅に、先ほどまでの嫌な感情が追いやられていく。
……なんにも考えたくない。今はただ、彼の顔を見つめ続けながら、この揺めきに心を沈めたい。
「……あ、あれは」
「……あれ」
「……僕のじゃなくて」
「……ぼくの、?」
「……ぼ、僕の子供じゃない!……です」
「……っ。……ほんとに」
「ほんとほんと!ほんとに僕の子じゃない!……というか、この子について色々話したいことがあったというか」
「……」
「この子をどうするべきなのか助言が欲しくて……」
眉を少し下げた彼は少し困ったように呟く。
彼自身は意識してないかもしれないが、少し困った時に下がるその眉が私は好きだ。彼自身の優しさが表れているようで、そんな彼を見るとついつい気を許してしまう。
「……どうするべき、か?」
「うん……。この子、実はさっき拾ったんだ」
「……拾った?」
「拾った。しかも、ただ捨てられていたわけじゃないっていうか……」
彼と普通に会話ができている。
たったそれだけのこと。だけど、今の私にとっては何よりも幸福だった。彼を失わずに済む。彼と離れなくて済む。彼といても許される。
そんな状況が私にとってどれだけの価値があるか。独りを受け入れた私が、独りであることを受け入れられなくしてしまう。そんな彼の存在が、私にとって許される。
……あぁ、よかった。
「……はは」
彼の隣にいる権利がまだ私にはある。
そう理解すると、抜けていた全身の力が再び身体中を巡る。
「……さ、酒寄さん?」
「……ううん、なんでもないよ。だから、続けて?」
「……あ、はい」
戸惑っている顔が、なんだが少し可愛らしい。
それから彼は、あの赤ん坊の経緯について語り出した。
——曰く、外を散歩していたら光る電柱を見つけたらしい。
——曰く、開いた電柱の中に赤ん坊がいたらしい。
——曰く、赤ん坊を抱き抱えたら電柱は閉じて光を失ったらしい。
「……へぇ」
「……疑うのも無理はないと思うけど、嘘じゃ「信じるよ、天がそう言うなら」……っす」
天が嘘を付くのが苦手なのは知ってる。
顔に出さないようにするのは得意なくせに、嘘をつくのは苦手なのだ。そういう不器用なとこも可愛らしい。
「信じるんだね……」
「……まぁ、天がそう言うならね。嘘じゃないんでしょ?」
「うん……」
「じゃ、信じる」
「……ありがとう」
別に嘘かなんてどうでもいい。
ただ、あの赤ん坊が天の子どもでないというのなら。
……でも、別に望むのならいくらでも相手になるのに。
「……どうする、だよね」
「……うん」
「……天はどうしたいの」
「僕は……」
優しい彼のことだ。
きっと、面倒をみたいとか言い出すのだろう。正直、天の言うとおりであれば、あの子の存在は明らかに異常だ。馬鹿正直に警察などに連れていくわけにもいかない。この子自身が普通ではないからこそ、変に周りを巻き込まないように。
「……面倒、見る?」
「え?」
「……いいよ、見たって」
「……で、でも」
「私も手伝う」
「……っ」
「……あの日、そんなふうに私を助けてくれたのは天だから。……だから、私だって天を助けたい」
「……だめ?」
「……だ、だめじゃ……ない、です」
あの日、まだ人間性も知らない私を
彼にとっては、
私にとっては、彼との関係を築くきっかけになった出来事の一つであり、人生の転換期でもある。一日たりとも忘れたことはない。
「……よかった」
多分、今の私は今までにないくらい浮かれていることだろう。じゃなきゃ、見ず知らずの赤ん坊の世話なんて半分肩代わりしない。私一人だったりきっと、すぐ警察に電話する。それか、最悪は芦花たちを頼ってるかもしれない。
少なくとも、このまま世話しようだなんて素直に受け入れてる未来が見えない。
「……じゃあ、一緒に面倒見よっか」
でも、そんな未来が訪れようとしている。
だって、仕方がないじゃないか。
「……あはっ」
……あぁ、なんて甘美な響きだろうか。
僕は、あの奇妙な電柱と、その電柱に突然現れたこの赤ん坊のことを、できる限り順序立てて説明した。
彼女は思ったより、僕が話した内容を疑わなかった。なんなら、すんなりと信じた上に共に面倒を見るとまで言ってくれた。
「……とりあえずさ」
「うん」
「……どうするかは明日考えるでも良いかな」
「?うん」
「……もう、時間も遅いし」
「……あぁ、確かに」
「それに、この子にも悪いしさ」
僕は、赤ん坊の顔を覗き込んだ。
赤ん坊は、突然覗き込まれたことに驚いたのか、小さな声で「あー」と喃語のようなものを漏らす。その仕草に、僕の表情が少しだけ緩んだ、そんな気がした。
「……じゃあ、もう一回寝ますか」
「……はあい」
言葉を返す彼女の声音が少し柔らかい気がする。
流石に、もうこんな時間だ。彼女といえど眠いのだろう。
あまり長く起こさせては、彼女にも良くないし早めに寝てしまう方が良いか。
「……えと、おやすみ」
「……うん、おやすみ」
赤子挟んで、川の字。
僕たちは、この子を見守るように眠りに就くのであった。
「……ん、朝か」
結局、大した時間も寝れずに目が覚めてしまった。
少しばかり眠気が強い気がするが、なんだかもう一度眠りには就けない気がする。
「……どうしたもんかなぁ」
本当であれば、この子のオムツやらミルクやらを買いに行きたい。異常性の塊である存在であろうと、この子は赤ん坊である。故に、排泄やら食事といった行為は人である以上は誰しも必要な行為であるはずだ。
……ずっと、僕たちが与え続けるわけにもいかない。けれど、少しでも面倒を見ると誓ったのであれば、多少なりとも用意するのが通す筋というものだろう。
「……何してんだろうな
「あぅ……?」
「……なんでもないよ」
誤魔化すようにこの子の頭を撫でる。
この、命を感じさせる小さな熱は、僕には少し抵抗が強い。けれど、それでも手を離せないのはきっと、僕がまだここに生きているからだろう。
酒寄さんのあの言葉、
─……だから、何処にも行かんといて。
あのとき、あまりの情報と状況の混雑さ故にあまり聞き取れなかった部分も多いが、あの言葉は確かに聞こえていた。
「……どこにも、か」
微かに覚えている言葉のほとんどは僕に対して、並々ならぬ感情を含んでいた。
……僕は、一体。
「……よし」
この赤ん坊を酒寄さんが寝返りで踏み潰してしまわない位置にずらして、僕は立ち上がる。
少しばかり心配ではあるが、僕は彼女たちを部屋に残したまま、買い出しに行くことにした。
今のご時世、二十四時間営業のドラッグストアはかなり多い。少なくとも、僕たちの住むこの家の近くにも二店舗は存在している。
……少しだけ、ミルクとオムツを買い漁る自分の姿を想像すると、少しだけ滑稽に思えてきたが、今はそんなことを気にしている場合ではなかった。
「……いってきます」
買い出しに行くことを書き残し、いつぶりだかわからない、思いを重ねる言葉に少しだけ切なさを感じながら僕は家を出るのだった。
「……うーん、これだけあれば足りるか?」
部屋に戻りながら、僕は買ってきたオムツやらミルクの量を見て考える。
「……あ、起きてたんだ」
「……うん、起きたのさっきだけど」
「あの子は?」
「元気だよ。……さっきまで泣いてたけど」
「泣いたの!?え、大丈夫だった……?」
「……揺らしてたら、落ち着いた」
「よかった……」
胸を撫で下ろす。
とりあえず、何事もないのであればよかった。
「……酒寄さんさ、何か食べる?」
「彩葉」
「……え?」
「……彩葉って呼んでよ」
「……急だね」
「仲良く思ってるのって私だけなのかな……?」
「ち、ちがうと思う」
「……なら、いいよね。この子の面倒を見るのは私たちだよ?そんな、他人行儀なのは合ってない思う」
「そ、そっか?」
「……うん」
面倒を見る僕たちが他人行儀だと何か不味いのだろうか。
……まぁ、考えてもよくわからないし、考えるだけ無駄か。
「……えっと」
名前呼び、か。
喉元まで上がってきた言葉が中々声に出ない。理由なんてわかってる。
僕にとって、呼び方はとても意味のあるものだから。
それはある種の区別だ。
僕の心に踏み込ませない為の、一つの防衛手段。苗字呼びであるが故に、ある程度の壁を築き上げ、肝心な領域に吹き込むのを拒絶する。
「……ぃ」
名前で呼んでしまったが、最後。
僕はきっと,その相手を少しずつ受け入れるようになる。友として、理解者として、恋人として。どんな形であれといつかは大切と呼べる何らかの関係に落ち着く。
それが僕には耐えられなかった。
また、失うかもしれない。そんな後悔がいつも僕を付きまとう。僕のせいで、母さんたちは死んだんだ。僕のせいで。
また、僕のせいで誰かが死ぬ。
僕が生きているからだ。僕が大事にしたからだ。
どうして僕なんかが——、
「……天!」
「……ぁ、ご、ごめん」
「いや……。いいよ、それぐらい」
「ありがと……」
「そんなことはいいの。……わかるよね?」
「……えっと」
「うん」
「……い」
「い?」
「……ぃ、いろ……は」
「……っ!」
……名前で呼んでしまった。
彼女の存在が日に日に大きくなっている気がする。
このまま、受け入れ続けても良いのだろうか。
「……」
まぁ、いいか。
いつか、失うかもしれないぐらいなら。
……彼女を失うくらいなら。
——僕が先に消えればいい。
「……ぃ、いろ……は」
「……っ!」
その返事に、私は思わず天の顔を見つめた。
頑なに、線を引いて他の人を遠ざけてきた彼が、少し強引なやり方とはいえ、私のことを名前で呼んだのだ。
名前で呼ぼうてしない彼にとって、名前で呼ぶという行為は普通の人の名前で呼ぶという行為以上の意味を持つ。
それを他の誰よりも、知っている私だからこそ、この意味が私にとってどれだけのことか。
「……ふへ」
おっと、いけない。
思わず、嬉しさで頬が緩みそうになる。
「……あ、そうだった。酒寄さ「ん?」……彩葉はなんか食べる?」
「何かあるの?」
「帰ってくる時にコンビニでおにぎり買ってきたから、おにぎりとか……あとは、スティックパンも一応」
「……じー」
「べ、べつによくない?」
「……また、昼休みそれで過ごそうとしてたんだ」
「……うっ」
全く、流石に毎日スティックパンは栄養バランスの崩壊が過ぎる。
私とて、普段からバイトなり勉強なりで、多忙な日々を過ごしてはいる。それでも、天と出会ったことによって、バイトの頻度も多少はマシになったし、食生活だって幾分健康な方であると思っている。
なのに、自分はどうでもいいとでも言うのか。
「……ほーん」
「え、なに?……怖いんだけど?」
「別に」
「……その別にってのが、一番怖いんだが?」
このクソボケには、いつか分からせる必要があるみたいだ。
……ついでに他のことも分からせた方がいい気がする。
「……あー」
「……あら」
どうやら、私たちの会話を会話で起きてしまったのか、赤ちゃんがまた泣き出してしまった。
「……ほーらほら」
泣き出したことに気づいた彼は、とんでもない速度で赤ちゃんに近づき、優しく持ち上げる。
そして、赤ちゃんが少しでも落ち着くようにと、抱えた赤ちゃんごと自身を揺らしながら宥める。
彼が、こんなふうに小さな命を必死にあやしている。その姿は、想像していたよりもずっと様になっていた。
「……よく飲むな」
「買ってきた甲斐があったよ」
買ってきたミルクを作り、赤ん坊に飲ませる。
小さな口が、一生懸命にミルクを飲む様子を、私たちは並んで見守った。
「……この子、どうしようね。いつかは、ちゃんと然るべきところに届けないとだよね」
「……そうだね」
天の返事は、どこか歯切れが悪かった。
私はその横顔を見ながら、彼の中に芽生え始めている何かに、なんとなく気づいていた。この一年間、横で過ごしてきたんだ、分からないはずもない。
「……元気だなぁ」
この小さな命を、放っておけない。
それは私も同じ気持ちだった。
……ちなみに、布団はこの子のお漏らしで随分と被害を受けていた。
クソボケはクソボケです。
ところで、超人を本家よりも超人に育ててしまったクソボケがいるらしいね。