ツクヨミ回まであとちょっとだ。
「……ばいばい」
玄関の前で、小さく手を振る。
二人の背中が見えなくなるまで、私はずっとそこに立っていた。
「……ひま」
ぽつりと呟いた声は、誰にも届かない。
二人とも学校。昨日までは、どっちかが必ずそばにいてくれた。でも、今日は違う。初めて、一人になった。
「……お利口にするって、約束したし」
元気よく送り出した手前、約束はちゃんと守りたい。
てんとの約束を、ちゃんと守ろうとは思っているのは間違いない。だけど、時間が経てば経つほど、部屋の中の静けさが、やけに重たく感じられてくる。
「……ひまだよぉ」
静かすぎるのは、苦手だ。
静かだとひとりぼっちな現実をより強く押し付けられるから嫌だ。てんも彩葉もいないこの静寂が私にはどうにもいけ好かない。
「……うーん」
なんでだろう。理由はうまく説明できないけど、一人でいると、胸の奥がきゅっと縮こまるような、嫌な感じがする。
昨日、てんと一緒にいたときにはこんなことにはならなかったのに。
「……つまんなーい」
何をしてもすぐに飽きる。
あんなにも未知で溢れて輝いて見えていたこの世界が、独りぼっちだと、途端にその価値を失っていく。
彩葉のタブレットを使って、何かしてみても全然興が乗らない。
「……なんだか、寂し」
気づけば、そんな言葉が口から零れていた。
彩葉の匂いがする布団に潜り込んでみても、寂しさは紛れない。むしろ、今は彩葉がここにいないことを思い出して、余計に寂しくなるばかりだった。
二人がそばにいてくれること。
それは、私にとっては何よりも大事なことなんだ。彩葉もてんも、二人がそばにいてくれるから意味がある。
「……あ」
ふと、良いことを思いついた。
……思いついて、しまった。
「……会いに、行っちゃえばいいんだ」
何処に学校があるかはわからない。
でも、学校の前は昨日てんが寝ている間に部屋を探索していたら、それらしいものを見つけた。
調べた感じ、彩葉とてんが着ていた服と同じ服の人が出てくる。多分ここであってる……はず。
「……大人しくするのは、守ってるし。お家から、ちょっと出るだけだもん」
別に約束は守っている。破ってはいない。
……うん、かぐやちゃん偉い子だもん。約束通り大人しくしてるよ?ちょっとお外出るだけだもん。
誰に言い訳するでもなく、私はそう自分に言い聞かせた。靴を履き、玄関の鍵を——かけ方が、よくわからない。とりあえず、ドアを閉めるだけにしておく。
「……えっと、こっちかな」
調べた結果を頼りに、二人のいる方向を目指していく。
「彩葉!」
「おつかれ〜い」
「芦花、真実」
「ごめん、待たせた?」
「全然」
「うん、これぐらい余裕」
担任との進路希望を終えた私は、芦花と真実と合流していた。二人から、放課後に寄り道がしたいと誘われたのだ。
本当は、天も誘いたかった。二人も別に誘って構わないと言ってくれだが、肝心の天本人がかぐやの様子が気になるから、先に帰ると言って帰ってしまった。
正直、私もかぐやの様子は気になるが、朝のあの感じ的に多分大人しくはしてると……思う。
天との約束をとても大事そうにしていたかぐやのことだし、きっと変なことはしないと思いたい。
……一緒に行きたかったな。
「彩葉〜?また、藤原のこと考えてるでしょ」
「へ?」
「彩葉ってば、本当に藤原くんのこと好きだよねぇ」
「ち、ちがっ!……くはないけど」
「おっとと?」
「ほーん?その話、詳しく聞こうか?」
「そ、それよりもさ!どこ向かうのかいい加減教えてよ!」
「えぇ?じゃあ、着いてから聞こうかね」
「さんせ〜い!」
「むぅ……」
絶対にこれ、根掘り葉掘り聞かれるやつだ。
二人とも、私と天のことになるといつも口煩くなる。やれどこに行っただの、やれ何を話しただの言って、いつも深く追求してくる。
前までは、別に特に二人が期待するようなことはないと思っていたから、聞かれたって関係なかった。ただ、細かく聞いてくるなぐらいの感覚だった。
「もう少しだよ」
「……はい」
「ほら、元気だしてよ」
今の私は、少し前の私とは全然違うんだ。
察しの良い二人の前で、少しでもボロを出したらきっとバレるに違いない。それどころか、今まで以上に追求される未来だって見える。
……もう、なるようになってくれ。
「はい、到着。ここを登ったとこだよ」
「……ここは?」
「新しいカフェ!ちょっと前に約束したじゃ〜ん」
「今日はさ、バイトないんでしょ?」
「ない、けど……」
「じゃ、問題ナ〜シ」
「レッチゴ〜!」
「ひぇぇ……」
せっかくのカフェなのに、素直に喜べないのは何故だろうか。
そんなことを考えながら、私は二人とカフェへと入っていくのだった。
「ではでは〜?」
「……え?」
「祝!彩葉ノートで赤点回避!」
「お礼の品で〜す!」
「「ご査収くださ〜い!」」
「あ、ありがと……」
「ほら、食べちゃいなよ」
「う、うん。……いただき——」
「何これ!?んんまぁ!」
「——す?」
「よっ、彩葉!」
「あれっ、彩葉の服着てる!」
「かわい〜。彩葉の友達?」
「パンケーキ好きなの?」
「これもどうぞ〜」
こ、こいつ……何故ここにいる。
てか、私のパンケーキなんだけどっ!?
「このパンケーキすごく美味しい!てんが作ったやつみたい!」
「え?」
「てん……?」
「……あ」
やばいやばいやばい。
この二人の前でその発言は不味すぎる。
「そのてんって……」
「てん?てんはてん!」
「……ちょっと目が垂れてて」
「うん!」
「……優しそうな雰囲気の人?」
「うーん?てんは優しいよ?」
……終わった。
これは間違いなく、詰みというやつに違いない。
だって、私を見つめる二人の目つきがあまりにもニヤニヤし過ぎているんだから。
「い〜ろは?」
「……はい」
「詳しくね?」
「…………はい」
「……ところで君なんて言うの?」
「かぐや!」
「へぇ〜!」
「名前もかわい〜」
こいつ、後で覚えておけよ。
「で、どういうことか」
「詳しく説明してくれるよね?」
「……えっと」
「?」
なんとか意識が天についてに逸れたお陰で、かぐやについては聞かれなかったけど、これはこれで不味い。
……いや別に、隠すことじゃないのはそうなんだけど、話したらかぐやのこともバレちゃうし?天との秘密にしたいって気持ちが別にあったりなかったり?……はい、したいです。乙女舐めんな、秘密の共有とかしたいだろ普通に。
「彩葉?」
「は、はい!」
「で?どういうことなのかな?」
「……えっと、今その子を家で」
「家で?」
「……あ、預かってると言いますか。面倒を見ている状況でして……」
「うん」
「へぇ?」
「……それで、隣に住んでる天にも手伝ってもらっている状況って感じでして」
「……なるほどね」
「将来の予行練習みたいなものか」
「は、はっ!?……そんなん、じゃ……ないし」
「声細っ」
「顔真っ赤じゃん。彩葉ってば、乙女でかわい〜」
「う、うるさい!」
……顔があっつい。
別に、想いを自覚したからって清々しい顔で素直に認められるわけじゃない。こちとら、そんな経験なかったんだぞ。いきなり、そんな恋愛強者みたいなムーブできるわけないだろ。
そんなことできてたら、とっくに天に想いを伝えてるっての……。
「それで、天くんとは最近どうなの〜?」
「……え?」
「その話もそうだけど、元々はこれを聞くつもりだったし」
「そうそう〜」
真実が、何気ない調子でそう聞いてくる。私は思わず言葉に詰まった。
「……どう、って」
「それ以外には何かないの〜?」
「……な、何かって」
「藤原と二人でかぐやちゃんの面倒見ることになっただけ?流石にそれだけじゃないっしょ」
「え、えぇ!?」
「彩葉の反応見てたら、ね?」
「聞かずにはいられないってやつだよね」
芦花がにやにやと笑う。こういう時の二人は、ほんとに息がぴったりだ。
「……別に、進展とかそういうのは」
「ふーん」
「かぐやちゃんさぁ、普段の天くんと彩葉ってどんな感じ〜?」
「どんな感じ?」
「そうそう、すごく仲良しとかさ」
「……あ!」
「お、なんかあるっぽいじゃん」
「教えて?」
……あ、まずい。
絶対にあのことだ。
「ちょ、かぐや」
「はい〜。彩葉はお口チャックで〜す」
「んぐっ!?」
「それでそれで?何かあったの?」
「うんっとねー」
「んっ!むむむっ!……っぐ!」
真実の拘束が固い。
私の思いも虚しく、かぐやは二人に言ってしまった。
「なんか、寝てるてんに対して「好き好き♡」って言ってるのはみた!」
終わった……。
誰か、私を殺してくれ……!
あんな痴態を人に見られるだけでも終わってるのに、それを誰かに言いふらされるなんて……。
……酒寄彩葉、終了のお知らせです。
「……」
「……」
「?」
二人からの視線が痛い。
私を拘束していた腕は気が付けば、離されていた。にも関わらず、二人の視線は私を掴んで離さない。と言うか、何かを訴えるかのような視線でずっとこちらを見てくる。
……なに、言いたいことがあるなら言ってよ。
「……なにさ」
「……いや、思ってた数倍の衝撃だった」
「……うん、寝てる間にそんなことするとは」
「……っぐ、仕方ないじゃん」
「仕方が?」
「ない?」
「……息を合わせないでよ」
さっきも思ったけど、こういう時の二人は本当に息ぴったりだ。話を誤魔化そうとする私を、二人はとっくに見透かしているような目で見てくる。こういう鋭さが、たまに怖い。
そのせいで、誤魔化そうにも上手くいく気がしない。
「?」
こいつはこいつで鈍過ぎて腹立つ。
……アンタのせいで、こうなったっていうのに。肝心の本人は不思議そうな顔でこちらを見ているのが、少し納得いかない。
「……あ!そういえば、てんは?」
「……天はまだ学校。日直の仕事で少しだけ遅れてる」
「えー?じゃあ、来ないの?」
「うん、来ない。なんなら、アンタが心配だから速攻帰るって言ってたの」
「え」
「……だから、天とはまだ会えないわよ」
「……むむむ」
……そうだ、天はかぐやが心配で私からの誘いを断ったというのに。
それなのに、コイツは約束も守らずにこっちにきたのだ。
「……じゃあ、天もこっちに来れたじゃん」
「ん?なんか言った?」
「……なんにも」
「?そっか」
……天と一緒にパンケーキ食べたかったな。
かぐやが来るなら、三人で一緒に食べれたのに。
「……それで、なんで寝てる間にあんなことしたの?」
「……だって」
「だって?」
「……誰かに取られたって思って、少しだけ焦ってた」
「……」
「……かわいっ」
うぅ、なんだこの拷問は。
心を裸にされている気がして、普通に恥ずかしさで死にそうなんだが。
「彩葉ってば、独占欲つよつよだったかぁ〜」
「ちょっと意外かも」
「……好きなんだから仕方ないじゃん」
「「……」」
「……さっきからそれやめてよ!?」
「いやだって……ねぇ?」
「うんうん、彩葉が可愛いだもん」
「ついに彩葉も、恋を知るときがきたかって感じ」
「うぅ……」
きっと、私の顔は茹で蛸のように真っ赤になっていることだろう。
でも、どれだけ恥ずかしい思いをしたとしても、否定だけは絶対にしたくない。天への思いだけは、どんな理由でも否定したくない。
そんなことを思うから、私は顔が茹で上がっていくばかりなのだろう。……恥ずかしっ。
「……かぐや、帰るよ」
「え?もう!?」
「あれ、もう帰っちゃうの?」
「まだ聞きたいことあったのに〜」
「……これ以上は、多分天が心配するから」
「……おっと」
「ニヤニヤしないでよ!……かぐやが、家にいなくて心配するって意味!」
「はいはい、旦那様のために早く帰ってあげなさいな」
「じゃあね〜!二人とも」
恥ずかしい思いをしながら、私たちは帰路についた。
けど、この恥ずかしさも今の私には少しだけ嬉しいもののように感じた。
それはきっと、天への想いをきちんと自覚したからだろうか。
「……あ、二人の名前!聞いてないよ!?」
「……パンケーキをくれた方が芦花、もう片方が真実」
「芦花と真実……!」
「……次会うことがあったらだけど、呼んであげな」
「うん!二人とも覚えた!」
「……てか、よくあそこがわかったわね」
「うーん?たまたま?」
「……帰ったら、天に怒られるよアンタ」
少しだけ砂糖と蜂蜜の甘さが残る帰り道。
私たちは、家で待っているであろう彼について喋りながら、ゆっくりと帰るであった。
放課後、僕は日直の日誌を書いていた。
彩葉たちはとっくに教室を出て行っている。彼女と違い、僕は真っ直ぐに家に帰るつもりだったため、終わるや否や帰りの準備を始めていた。
「……ふぅ」
誰もいなくなった教室で、一人きり。
この時間が、僕は案外嫌いじゃない。誰にも気を遣わなくていい、誰からも何も期待されない、ただの空白の時間。何かに思いを馳せることもなく、ただひたすらに頭を空っぽにするだけ。
こういう瞬間が、僕にとっては息がしやすくて好ましいものだった。
「……お?」
日誌を提出し終えて、下駄箱に向かう途中、ポケットの中でスマートフォンが震えた。確認すると、綾紬さんからのメッセージだった。
『かぐやちゃんが抜け出してこっちに来てたよ。藤原と彩葉に会いにきたっぽい』
どうやら、かぐやが家を出て彩葉のとこに向かったらしい。
短い文面。そこに在る言葉を眺めて僕は思わず、靴を履く手を止めた。
——目を離した、たった数時間の間に。
自分の中で、どうしようもない焦りが膨れ上がっていく。あの子に何かあったら。誰かに見つかって、変に騒ぎになったら。
……そんな、いろんな最悪の想像が頭の中を駆け巡る。
「……ぁ」
同時に、いつもの冷めた囁きも聞こえてくる。——お前が目を離したから。お前が面倒を見ると誓ったのに、あんな約束しか用意してやれなかったから。……深くまで踏み込もうとしないからだと。
結局、お前に誰かを大切にする権利なんかない。
——この疫病神が、お前さえ生まれてこなければ
……わかってる。わかってるよ、そんなことは。
「……っ」
でも、今はそれを聞いている暇はない。
靴を履き替えるのも、もどかしい。
僕は半ば走るようにして、校門を飛び出した。
「……確か、駅前のパンケーキって諌山さんが言ってたっけ」
僕はいつもの重たい考えを、今だけは強引に押しのけて走る。今は、考えている暇なんてない。あの子のところに、少しでも早く辿り着かなければ。
——誰かのために、こんなふうに全力で走るのは、一体いつぶりだろう。
息が上がる。足が、もつれそうになる。それでも止まらなかった。走りながら、僕はふと思う。こんなふうに、誰かのために必死になれる自分が、まだ僕の中に残っていたことに。
それが喜ばしいことなのか、怖いことなのか。
……今はまだ、自分の中で答えを出したくなかった。
「あれ?藤原じゃん、どしたの」
「……っ、はぁ、二人は?」
「え?もう帰ったよ」
やっとの思いでカフェに着いたのはよかったが、僕が着く頃にはとっくに二人とも帰路についていたらしい。
「ていうか、さっき連絡したと思うんだけど……」
「……まじか」
「うん」
スマートフォンを確認すると、綾紬さんからの連絡が二件ほど来ていた。
『二人とも藤原こと心配して帰ってったよ』
……時間的に、僕が走り出して間もない頃だろう。ようは、ほとんど無駄足だったわけだ。
「……はぁ、急いで損した」
「別に大事ってわけでもないんだからさ、急がなくてよくない?」
「……それはそうだけど」
「なら、いいじゃん。何もなかったんだしさ」
「……そういうことにする。てか、諌山さんは?」
「真実?帰ったけど」
「……じゃあ、なんで綾紬さんはここに」
「んー、藤原が来そうな気がしたから」
「……はい?」
まるで、してやったりと言わんばかりにそう告げる彼女は、どこか幼い子供のような表情でこちらを向く。
「……なんで」
「どうせさ、藤原のことだし心配してくるんじゃないかなって」
「……来ないかもしれないじゃん」
「そうなったらそこまでじゃない?……実際、送ったメッセージには既読が全然付かなかったし、なんとなくそんな気がしたんだたよね」
「……鋭いことで」
「まぁ?伊達に付き合いは長くないからね」
「……いや、彩葉繋がりで話すようになったのは結構最近じゃん」
「ありゃ、バレたか。……てか、名前で呼ぶようになったんだ」
「……本人からそう懇願されたので」
「へぇ?」
どこか面白いものを見るかのように、ニヤニヤとした目線で僕の方を眺めてくる。
彼女とこうして、二人きりで話すことはあまりなかったからこそ、普段知る由もなかった彼女の一面を見れている気がする。
「……そんな顔、初めて見たよ」
「そう?」
「……普段、そんなに話すわけでもないし」
「……そうかもね」
ちょっとした静寂が場を支配する。
少し俯きがちに言葉を零した彼女の横顔に、何故だろう。離そうと思っても、目が離せない。
……まるで、吸い寄せられるかのように彼女の方へ視線が流れていく。
「……藤原さ、私のこと見過ぎじゃない」
「え、あ、ごめん……」
「いや、別に怒ってるわけじゃないから」
「……それでもごめん。流石に見つめ過ぎた気がする」
「……そんなに私の顔が気になる?」
「えっと、気になるっていうか……何処かで見た気がするなぁっていうか」
「……」
「……ほんとに、なんとなくでつい見ちゃっただけだから」
「……」
「気に障ったら……ごめん」
「……いいよ、許す」
あれ、こんな会話前にも誰かとした気がする……誰だっけ。
前にも、なんかやらかしてこんなふうに話したような。
「じゃ、パンケーキ食べよっか」
「え?それ綾紬さんのじゃ……」
「私はとっくに食べてるっての」
「じゃあ、なんで……」
「……藤原が来ると思って、さっき頼んだ」
「え?」
「流石に少し冷めちゃったけど、パンケーキだしこれぐらいなら誤差でしょ」
「いやいや……いいの?」
「私が良いって言ってんだから食べなよ」
「じゃ、じゃあ……いただきます?」
彼女から渡されたパンケーキを一口頬張る。
パンケーキは厚みがありながらも軽い食感で、優しく口の中で解けていく。パンケーキ特有の甘さとフルーツの新鮮さが、食べる人を飽きさせない斬新さを奏でている。
「……っま」
「でしょ、
メロンだけじゃない、微かにだが他にも入っているフルーツの食感と合わさることで、味だけじゃなくて食感への飽きを防いでいて、食べ進めるたびに違った楽しみ方がある。
ふわふわで甘くて、ジューシー。
そんな言葉がこのパンゲーを形容する上で、最も適した言葉たちだろう。見た目や味への満足感は半端なく、おやつとしてだけじゃなく、少し贅沢なカフェタイムに頂くにしてもピッタリな一品だった。
「……ご馳走様でした」
「いい食べっぷりだったじゃん」
「……これだけ美味しいと、誰だってそうなるよ」
「そかそか、そりゃ良かった」
パンケーキを食べ終わった僕を見るや否や、彼女は満足そうに呟く。
食べている僕を微笑ましく見守る彼女は、まるで子供を優しく見守る母親のようであった。
「そろそろ、帰る?」
「……あ、帰らないと。パンケーキに夢中ですっかり忘れてた」
「もう、彩葉もかぐやちゃんも心配してるよ?」
「……元はと言えば、綾紬さんがパンケーキを差し出してきたのが原因じゃん」
「知らな〜い」
心なしか、さっきまでの曇り空が晴れていた気がした。
心に重くのしかかる分厚い重圧が、このカフェに来てから何故だか感じなかった。
それどころか、素直にパンケーキを楽しんでしまった。……正直、こんなにパンケーキというか食事を楽しんでしまったのは、ここ数年で殆どなかった。彩葉と食べた鍋や、かぐやと作ったパンケーキぐらいだった。
「じゃ、私こっちだから」
「うん、気をつけて」
「……そっちこそ、真っ直ぐ帰るんだよ」
「僕は子供か」
彩葉とかぐやを中心に、僕の周りは変化しつつある。
決して、全てが変わるわけじゃない。全部を受け入れられるわけでもない。けど、少しぐらいなら今日みたいに普通の日々を送るのも悪くないかもしれない。
少なくとも、彼女と他愛もない雑談をしながらパンケーキを食べたあの時間は、僕にはそう思わせるには十分な時間だった。
僕がこんなにも前を向ける日が来るとは。これもきっと、
……本当に、彩葉とかぐやには頭が上がらない。
——勘違いするなよ、餓鬼。
「……そうだね」
勘違いしたらダメだ。
どれだけ、日常に絆されようと過去は消えないんだ。僕が受け入れていいのは、彼女たちが齎す変化だけ。自ら変化しようとするのはお門違いだ。
……あぁ、本当にお門違いだ。
「……早く帰ろう」
憂鬱に感じる移り変わっていくはずの日々が、これほどまで早く消化されてしまえばと感じてしまう。
変わりゆくこの日々に嫌気がさしてしまったのはきっと、僕が弱いからだ。
——お前がいなければ、
「……
浸かるには、あまりにも長過ぎた。
捨てるには、あまりにも遅過ぎた。
……この日々を俺はあまりにも受け入れ過ぎてしまっている。
「……もう少しだけ、このままでいさせてくれ」
あと少し。もう少しだけだ。
もう少しだけ、この日々を続けさせてくれ。そしたらきっと、終わりにするから。もう二度と、過ちは繰り返さない。
……きちんと、終わりにするから。
「……あと、少しなんだ」
あと少しで、見つけられる気がするんだよ。
だから、せめてその時までは、この束の間の幸せを謳歌させてくれ。
もう少しで——、
——生きたいと思える理由が見つけられる気がするんだ。
そしたら、今度こそ終われるんだ。
……この長ったるい日々も、過去への渇望も全部。
「……もう少しだよ」
水面に浮かぶ少女は、憂う。
「……今度はこそは」
月を見て。
「……助けるから」
幾千もの夜を、駆ける。
「……
溢れ落ちた名前に込められた想いたちを、まだ彼は知らずにいる。
下書きを書き写しているうちに、書き足したくなって中々進まないのは私だけなのだろうか。