「……はあ。せっかく、みんなで同じ街に行けると思ってたのになぁ」
ハルが去った後の静まり返ったリビングで、レノはわざとらしく大きなため息をつきながら、スプーンを乱暴にテーブルに置いた。
食器の触れ合う高い金属音が、全面ガラス張りの白い部屋に虚しく反響する。
「ハルがあんな顔するの、本当に珍しいよね」
僕は眼鏡のブリッジを指先で押し上げながら、ハルが一口もつけずに残していった、冷めかけのスープ皿を見つめた。
「いつもなら、理不尽な減点を食らっても『次はもっと頑張る!』って笑うような奴なのに。よっぽどショックだったんだよ。指導官ジュリアの、あの血の通っていない言い方もさ」
「冷たい軍服を着ただけの、ただのシステムのスピーカーだろ、あいつは」
レノが忌々しそうに、低く吐き捨てる。
「『拒否権はありません』、か。AIの弾き出した適性データがそんなに絶対なのかよ。
ハルがここで指導官になっちまったら、俺たちの約束はどうなるんだ。
外の街で、美味いもん食って、大きな遊園地に行くって言ったのは、他でもないハル自身だろ」
「……そうだね」
僕は短く答え、静かに椅子から立ち上がった。
「レノ。ハルのスープ、温め直して部屋に持っていこう。お腹が空いたままじゃ、明日からの体力訓練にも響くし、何よりハルに元気が戻らない」
「チッ、お前は本当に甘いんだよ。……ほら、トレイは俺が持つ」
レノは文句を言いながらも、ハルがいつも使っている、少しハゲかけたひまわりの絵柄のマグカップに、温かい紅茶を丁寧に淹れ始めた。
口は悪いが、ハルのこととなると誰よりも行動が早い。
それがレノという男の不器用な優しさだった。
二人はトレイに温かいスープと紅茶、それから少しのクラッカーを乗せて、白い長い廊下を進んだ。
シェルター『アーク』の壁は、どこまでも清潔で、どこまでも無機質だ。
角に設置された監視カメラの黒いレンズが、二人の動きに合わせて、ウィーンと微かな機械音を立てて首を振る。
そのたびに、二人の端末には『規律正しい共同生活への貢献:プラス2ポイント』の通知が小さくポップアップした。人の優しさや気遣いまで、この施設ではすべて無機質な数字に変換される。
そのシステムが、今の僕にはひどく息苦しく感じられた。
ハルの部屋の前。
僕は息を整え、軽くドアをノックした。
「ハル? 起きてる? スープ、温め直してきたよ」
中からしばらく物音がしなかったが、やがて、パタパタと素足で床を叩く音が近づいてきて、ドアが小さく開いた。
隙間から顔を出したハルは、いつもより少し目が赤く、どこか小さく見えた。
「……ノア、レノ。ごめんね、片付け押し付けちゃって」
「気にするな。お前が食べないと、明日からの訓練で俺の足を引っ張ることになるからな」
レノがぶっきらぼうにトレイを差し出すと、ハルは「もう、レノは相変わらず一言多いんだから」と、ほんの少しだけいつもの笑顔を取り戻した。
「ありがとう。……入って」
白を基調とした、必要最低限の家具だけが置かれたハルの部屋。
ベッドの枕元には、かつて3人で作った、歪な形の木彫りのブローチが飾られていた。
ハルはベッドの端に腰掛け、温かいスープを小さく口に運んだ。
ふう、と白い息を吐くたびに、彼女の肩から少しずつ緊張が抜けていく。
「ねえ、ノア、レノ。私ね、さっき部屋で考えてたの」
スープの湯気を見つめながら、ハルはぽつりと言った。
「指導官になるのって、きっとすごいことなんだよね。次の子供たちを指導する大切な仕事だし、ジュリア指導官が私を選んでくれたのも、期待してくれてるからだと思うの。
……だから、私が私の夢を我慢して、ここで次の指導官になれば、みんなが幸せになれるのかなって」
「ハル」
僕の声が、遮るように響いた。いつもより少しだけ、低いトーンだった。
「自分を納得させるために、綺麗事を使うのはやめなよ。ハルは、外の街に行きたいんでしょ? 3人で、あの約束を果たしたいんでしょ?」
「……だって、システムの決定には逆らえないよ。逆らったら、ポイントを剥奪されて、上層都市に行けなくなるどころか、このアークにすら居られなくなるかもしれないんだよ?」
ハルの声が微かに震える。
彼女は、この世界を本気で信じているからこそ、世界のルールがどれほど絶対で、逆らうことがどれほど恐しいかを知っていた。
僕はベッドの前に膝をつき、ハルの怯えた目線を真っ直ぐに見つめた。
「大丈夫だよ、ハル。システムのバグなんて、いくらでもある。僕の頭脳を信じてよ。ハルの夢も、僕たちの約束も、全部綺麗事のまま叶えてみせるから」
僕の眼鏡の奥の瞳は、ハルを安心させるように、酷く穏やかで温かかった。
「うん。……ありがと、ノア」ハルは今度こそ、本当に安心したように微笑んで、スープを飲み進めた。
その様子を後ろで腕を組んで見ていたレノは、ふと、胸の奥に冷たい違和感を覚えた。
いつも冷静で、データしか信じないノアが、あんな根拠のない「絶対」という言葉を口にするなんて珍しい。
まるで、何かの確信を持っているような、あるいは――。
ハルがスープを飲み終え、少し眠そうにするのを見届けて、二人は部屋を後にした。
「おい、ノア」
廊下に出た瞬間、レノが僕の肩を強い力で掴んで足を止めさせた。
「さっきの言葉、どういう意味だ。お前、ハルに隠れて何か企んでるだろ」
僕は足を止め、ゆっくりとレノの手を肩から外した。廊下の白い照明が、僕の眼鏡を白く反射して、表情を隠す。
「……部屋に戻ろう、レノ。そこで、僕が見つけたものを見せるよ」
その声には、さっきハルに向けていた温もりは、1ミリも残っていなかった。