アークの朝は、いつもと変わらない無機質な電子アラームで始まった。
白い天井を見つめながら、僕はゆっくりと上着の袖を通す。
昨夜、僕の端末の中でハルの生体データと僕のデータを融合させる『改ざん』は完璧に完了していた。
今日の定期検閲のAIが僕たちのログを読み込んだ瞬間、ルイを逃がそうとした国家反逆罪の犯人は、すべて僕に書き換わる。
リビングに向かうと、すでにハルとレノがテーブルについていた。
ハルの目の前には、昨日ジュリア指導官から手渡された『次代指導官・育成プログラム』の白い書類が置かれている。
「おはよう、ノア」
ハルが僕を見て、少し無理をしたような笑顔を浮かべた。
その瞳の奥には、深い覚悟と、隠しきれない恐怖が揺れている。ハルは知っているのだ。
この施設が、適合基準を下回ったルイのような子供を容赦なく殺処分する冷酷な場所だということを。
だからこそ、自分がそのシステムの片棒を担ぐ『指導官』になることを、彼女の正義感が拒絶していた。
「おはよう、ハル。……よく眠れた?」
「うん。……ねえ、ノア、レノ。私、やっぱり決めなきゃ」
ハルは書類をぎゅっと握りしめ、僕たちを真っ直ぐに見つめた。
「私、ジュリア指導官の打診を正式に断るよ。ルイみたいな子を出すシステムなんて間違ってる。私は絶対に指導官にはならない。……逆らったらポイントを剥奪されて、最悪、処分されるかもしれないって分かってる。でも、自分の心に嘘をついて生きるくらいなら、私は……」
ハルは、自分が信じる綺麗事理想のために、死を覚悟した目をしていた。
そんなハルの細い肩を後ろから眺めながら、レノは拳を血が滲むほど強く握りしめ、静かに俯いている。
レノは知っているのだ。ハルが指導官を拒絶したから処分されるのではない。
ハルがルイを逃がそうとした過去の罪で、『今日の朝』殺されるはずだったということを。
「分かったよ、ハル。ハルはそれでいいんだ」
僕はハルの頭にそっと手を置き、いつも通りの穏やかな微笑みを浮かべた。
「ハルの綺麗な理想は、間違ってない。だから、そんな怖い顔をしなくて大丈夫だよ」
「え……?」
「僕たちの教科書に載っていた『上層都市』。あそこには、大きな図書館も、遊園地も、誰も怯えなくていい普通の街が本当にあるんだ。だからハルは、笑顔のまま、そこへ行く準備をしておいて」
嘘だ。
上層都市なんてどこにもない。
でも、僕がこれから生きて帰れない『電子特攻兵』の最前線へ行き、内側からアークのシステムを狂わせ続ける。
ハルが数年後に処分される運命を、ハッキングで何度も、何度も先へ延期させ続ける。
その数年の間に、レノがハルを連れて本物の外の世界へ脱獄する。
あいつの信じる『綺麗な世界』は、僕たちの嘘と犠牲の上に、これから作り出すんだ。
ピンポーン、とリビングに冷たい電子音が鳴り響いた。
『――番号0412、ノア。AIの定期検閲により、あなたに【国家反逆罪】および【重要データ隠匿罪】の容疑が確定しました。即座に中央ドックへ出頭しなさい』
ジュリア指導官の声ではない。アークの管理AIの、冷徹な合成音声だった。
「え……? ノア……? 何、これ……?」
ハルがガタッと椅子を鳴らして立ち上がり、顔を白くした。
国家反逆罪。それは、自分がルイを逃がそうとしたあの夜の罪そのものだった。
「どうして……どうしてノアが……!? あれは、私が――!」
ハルが叫びそうになった瞬間、後ろにいたレノがハルの口を強い力で塞ぎ、その身体をがっしりと抱きすくめた。
「ん、んん――ッ!?」
「暴れるな、ハル! 動くんじゃねえ!」
レノは泣いていた。
ボロボロと涙を流しながら、ハルをAIの監視カメラから隠すように強く抱きしめている。
ここでハルが真実を叫べば、ノアの命がけのデータ偽装がすべて無駄になり、ハルもその場で射殺される。
レノはノアとの『共犯者の約束』を、その腕の力で必死に全うしていた。
「バイバイ、ハル。レノ」
自動ドアが開く。廊下には、すでに銃を持った警備ドローンが数機、赤いセンサーを発光させて待機していた。
僕は振り返らずに、白い廊下へと一歩を踏み出す。
「ノアァーーーッ!!」
後ろで、レノの腕の中で泣き叫ぶハルの悲痛な声が聞こえた。
胸が引きちぎられそうになるのを、僕は冷徹な仮面で覆い隠す。
(行ってくるよ、ハル。君のその綺麗な綺麗事の代償は――僕が支払ってあげるから)
アークのゲートが閉まり、僕の『15歳までの日常』が、完全に幕を閉じた。