「……放して、レノ。放してよ……ッ!」
ノアを乗せたゲートが冷たい金属音を立てて閉まった後も、ハルはレノの腕の中で狂ったように暴れていた。
視界の端で、警備ドローンの赤い残光がゆっくりと消えていく。
アークの静寂が、いつも以上に重く、冷たく二人にのしかかっていた。
レノは何も言わず、ただ鉄の枷のようにハルの身体を抱きすくめていたが、ハルの力が完全に抜けてその場にへたり込んだとき、ようやくその腕を緩めた。
「どうして……どうして止めたの、レノ……!」
ハルは白い床に両手を突き、涙で視界を滲ませながらレノを睨みつけた。
「国家反逆罪なんて嘘だよ! ルイを逃がそうとしたのは私なの! ノアは、ノアは私の代わりに捕まったんだよ!? 今からでもジュリア指導官のところに行って本当のことを言えば、ノアは帰ってきて――」
「帰ってこねえよ!!」
レノの悲痛な絶叫が、クリーンなリビングに響き渡った。
ハルは息を呑み、言葉を失う。
レノの目からは、まだ止めどなく涙が溢れていた。
ハルに向けるその瞳には、親友を失った絶望と、それをハルにぶつけるわけにはいかないという激しい確執が混ざり合っている。
「本当のことを言ったらどうなるか、お前が一番よく分かってるだろ! ルイがあの夜どうなったか、お前だってこの目で見たはずだ!」
「それは……」
「お前が今更しゃしゃり出たところで、ノアの容疑が晴れるわけじゃねえ! AIのログはもう書き換えられたんだ。今お前が叫べば、ノアの覚悟が無駄になって、お前もその場で頭を撃ち抜かれて終わるだけだ!!」
レノは壁に拳を叩きつけた。鈍い音が響き、レノの拳の皮が破れて、白い壁に赤くにじむ。
「ノアはな……お前をルイみたいにさせないために、自分で自分のデータを改ざんして、ハルの罪を全部自分のIDに上書きしたんだよ。
あいつは最初から、お前の身代わりになるつもりで、あの嘘をついてたんだ……っ」
「ノアが……私の、身代わり……?」
ハルは自分の胸元をぎゅっと掻きむしった。
自分が信じ、貫こうとした「誰も見捨てない」という綺麗事。
その理想の代償として、一番近くにいた幼馴染の少年が、すべての泥を被って地獄へ連行されていった。
そのグロテスクな現実に、ハルの心がバキバキと音を立てて折れていく。
「……ごめんなさい。私のせいで、ノアが……。私、これからどうしたらいいの? ノアのいない上層都市になんて、私、行きたくない……!」
ハルが床に顔を伏せて大声を上げて泣きじゃくる。
その小さな背中を見つめながら、レノは溢れ出る涙を乱暴に袖で拭い、ポケットからノアに託された『暗号化されたデータチップ』を取り出した。
「上層都市なんて……最初からどこにもねえよ、ハル」
「え……?」
ハルが涙に濡れた顔を上げる。
「ノアがハッキングで見つけたんだ。教科書にある綺麗な街も、青い空も、全部俺たちを従順に育てるためのAIの映像データだ。男子は16歳になったら、生きて帰れない最前線の『電子特攻兵』として戦場に使い捨てられる。そして女子は、お前みたいに指導官になるか、それを拒めば殺される……それが、このアークの本当の姿だ」
「嘘……そんなの、嘘だよ……」
ハルは首を激しく横に振った。
世界は、そこまで残酷であってはならない。
ハルが信じていた世界の全てが、足元から崩壊していく。
「嘘じゃねえ。これが、ノアが命を賭けて暴いた『本当の世界』だ」
レノはハルの前に膝をつき、ノアのチップをハルの端末へと差し込んだ。
画面に、アークの全警備ドローンの巡回ルートと、外の世界へ繋がる『脱獄計画書』の青い文字が浮かび上がる。
「ノアは、自分が前線のシステムに入り込んで、内側からアークのサーバーをバグらせ続けるって言った。お前が『指導官になりたくない』って拒絶したことで発生するはずの『将来の処分』を、あいつが残したシステムがハッキングを続けて、何度も、何度も、何年も先に延期させ続けるって」
「ノアが……向こうで、私の盾に……?」
「ああ。あいつは向こうで一人で戦うつもりだ。……だからハル、俺たちはここで死ぬわけにはいかないんだよ」
レノはハルの細い両肩をがっしりと掴み、その怯える瞳を真っ直ぐに見つめた。
「ノアが命を賭けて時間を稼いでくれるその数年の間に、俺たちが力を蓄えて、この計画を成功させる。俺がお前を連れて、この偽物の楽園から必ず脱獄してやる。……ノアのくれた命を、無駄にするな!」
ハルは画面に映る青い文字を見つめ、それから、もうここにはいないノアの静かな微笑みを思い出した。
泣いてばかりはいられない。自分が綺麗事を信じたせいで、ノアの未来を奪ってしまったのなら、今度は自分がその綺麗事を、本当の命に変えなければならない。
「……うん。わかったよ、レノ」ハルは涙を拭い、まだ震える手を強く握りしめた。
「私、生きるよ。生きて、この檻を出る。ノアが守ってくれたこの命で、絶対に……!」
窓の外から、いつもと変わらない偽物の爽やかな朝日が、白いリビングを虚しく照らし始めていた。
ノアのいない、二人の長い戦いが、静かに幕を開けた。