「おはよう、ハル、レノ。……昨夜はよく眠れたかしら?」
アークの真っ白な食堂。
朝食のトレイを運ぶ僕たちの前に、静かに、そしてあまりにもタイミングよく現れたのは、グレーの軍服を一切の乱れなく着こなした【指導官ジュリア】だった。
その聖母のように完璧な微笑みが、今の僕たちには、獲物の出方を窺う冷酷な肉食獣の顔に見えて仕方がなかった。
「おはようございます、ジュリア指導官」
ハルが一歩前に出て、いつも通りの、ひまわりが咲いたような笑顔で挨拶を返した。
その声に、不自然な震えは1ミリもない。
昨日、ノアが連行された時に泣き叫んでいた少女とは、まるで別人のようだった。
ハルは、自分の未熟な綺麗事がノアを地獄へ追いやったのだと骨身にしみて理解している。
だからこそ、ノアの偽装を完璧なものにするために、自らの心に鉄の仮面を被せていた。
「ノアが【国家反逆罪】で連行されて、二人ともひどく落ち込んでいるのではないかと心配していたのだけれど……元気そうで安心したわ」
ジュリアの硝子のような瞳が、ハルの表情の細かな変化まで見落とさないと言わんばかりに、じっと注がれる。
食堂の天井に並ぶAIカメラのレンズが、ハルの心拍数や表情の歪みを検知しようと、かすかに角度を変えた。
「……悲しくない、と言ったら嘘になります」
ハルは俯き、小さく拳を握りしめてみせた。
「落ち込んでいるハル」という、AIとジュリアが最も納得するであろう『正解の反応』を演じているのだ。
「でも、ノアがそんな恐ろしい罪を犯していたなんて、私、本当にショックで……。私たちは、アークの規律を守って、正しく生きなきゃいけないんだって、改めて思いました」
「そう、それが正しいアークの子供の姿よ、ハル。安心しなさい。システムの決定はいつだって絶対で、そして正しい。罪人は排除され、正しい者だけが『上層都市』へ行けるのだから」
ジュリアの細い指先が、ハルの短い黒髪を優しく撫でる。
その冷たい手のひらの感触に、後ろに控えていたレノの顎の骨が、怒りで一瞬ピキリと鳴った。
レノは何も言わず、ただ食事のトレイを見つめて黙り込んでいる。
「現実主義で、親友の裏切りに怒り、口を閉ざした少年」
――それもまた、レノが演じる完璧な役割だった。
ピンポーン、と食堂に無機質なチャイムが響き渡る。
『――アーク内の全生命体へ通知。これより、中央サーバーとの【AI全領域検閲】を開始します。
各自、午前中の訓練は自室待機とすること』ジュリアの腰の端末が小さく振動した。
彼女は満足そうに微笑み、ハルから手を離す。
「さあ、検閲が始まるわ。二人とも、速やかに部屋に戻りなさい。大丈夫、ノアの残したログの精査は、今日の検閲ですべて完了するわ。これ以上、このアークに不具合は出ないはずよ」
ジュリアはそう言い残すと、コツコツと冷たい足音を響かせながら去っていった。
彼女の背中が見えなくなった瞬間、二人のスマート端末が小さく震えた。
『指導官への適切な恭順:プラス10ポイント』
人の心を踏みにじるような会話を終えて、手に入るのは無機質な数字だけ。
ハルとレノは視線を交わすことなく、ただ静かに、それぞれの個室へと歩き出した。
自室に戻り、重い鉄製のドアを閉めて鍵をかける。
まもなく、部屋の電灯がチカチカと明滅し、壁に投影されていた青いシステム画面が真っ赤な『検閲(SCANNING)』の文字に切り替わった。
中央AIによる、アーク全域のデータ同期。
ハルがルイを逃がそうとした過去のすべてのログ、そしてノアがそれを自分の生体データに上書きした偽装データが、今、国の最奥にあるメインサーバーへと吸い上げられていく。
(ノア……頼む、耐えてくれ……!)
祈るように、胸元に手を当てた。
もしノアのハッキングが国の中央AIに敗れれば、データの矛盾が検知され、次の瞬間にこの部屋のドアが強制開放されて、警備ドローンがハルの頭を撃ち抜くだろう。
文字通り、ノアの頭脳と、国家の巨大AIが真っ向から衝突する、15分間の静かなる戦争。
壁の赤い文字が、激しく点滅を繰り返す。
1分、2分、5分――。
時間は、永遠のように長く感じられた。
やがて、部屋の照明がフッと元の白い光に戻り、電子音が静かに鳴った。
『――検閲完了。すべての生体データは正常に同期されました。異常ログはありません』
「……っ、ふううう……!」
ベッドに倒れ込むようにして、大きく息を吐き出した。勝ったのだ。
ノアの仕掛けたハッキングは、国の検閲システムを完全に騙し通した。ハルのルイの件の罪は、これで名実ともに『ノアの罪』として処理され、ハルの目先の一発処分は完全に回避された。
同時に、それは――ノアが今この瞬間、国から正式に『国家反逆犯』として登録され、生きては帰れない最前線の『電子特攻兵』の檻へと完全に叩き落とされたことを意味していた。
窓の外を眺める。
そこには、AIが作り出した、いつも通りの偽物の綺麗な青空が広がっている。
「ノア……お前が向こうで盾になってくれてる間に、俺は必ず、ハルをここから連れ出すよ」
液晶端末の奥で、ノアが遺した脱獄計画のコードが、静かに、青く脈打っていた。