序章 あの日、山で死んだのは
炎が、雪を食べていた。
冬の峰を覆っていたはずの白は、もはやどこにもない。
木々は赤く染まり、枝は悲鳴のような音を立てて崩れていく。地面に残っていたわずかな雪さえ、一瞬で水へ変わり、次の瞬間には白い蒸気となって吹き飛んだ。
熱い。
呼吸をするだけで喉が焼ける。
目を開けているだけで眼球が乾き、涙さえ流れる前に消えていく。
それでも、轟燈真は炎の中を走っていた。
「燈矢兄!」
返事はなかった。
青い炎が、森そのものを呑み込んでいる。
父の炎よりも明るく。
父の炎よりも鋭く。
そして――燈矢の身体には、あまりにも熱すぎる炎だった。
燈真には分かっていた。
燈矢の個性は強い。
父が求め続けたものに、誰よりも近かった。
だからこそ、父は燈矢を諦めた。
炎が弱かったからではない。
強すぎたからだ。
その火力に耐えられない肉体だったからだ。
期待され、褒められ、父の夢そのものにされた燈矢は、ある日突然、そのすべてを奪われた。
訓練も。
父と過ごす時間も。
ヒーローになる未来も。
そして最後には――自分が生まれてきた意味さえも。
「どこだよ、兄さん!」
燈真は炎の奥へ踏み込んだ。
着ていた服の袖が燃え上がる。燈真はすぐに熱を吸い取り、火を消した。
その瞬間、腕の内側へ無数の針を突き立てられたような痛みが走った。
個性――「熱喰い」。
周囲の熱を吸収し、自らの身体へ蓄える個性。
炎を消すことも、凍ったものを温めることもできる。しかし、吸収した熱が消滅するわけではない。
奪った熱は、すべて燈真の中へ残る。
許容量は、とうに超えていた。
皮膚の下を灼熱の液体が流れている。
心臓が一度脈打つたび、全身の血管が膨張する。
それでも止まれなかった。
――俺が行くまで、待ってて。
燈矢と最後に交わした言葉だった。
今日、父が来ないことを燈真は知っていた。
母は病院にいる。
冬美は家で幼い夏雄を見ている。
焦凍は父から外出を禁じられていた。
ならば、燈矢のもとへ行けるのは自分だけだった。
最初から分かっていたはずなのに。
燈矢が一人で山へ向かったことも。
今日こそ自分の炎を父に見せようとしていたことも。
父が来ないと知れば、燈矢がどれほど傷つくかも。
全部、分かっていた。
それなのに燈真は遅れた。
家を出る直前、父に見つかったからだ。
どこへ行く、と問われた。
兄さんのところへ行くと答えた。
父は言った。
――放っておけ。
たった、それだけだった。
燈矢が山で待っていると伝えても。
今日だけは会いに行ってほしいと頼んでも。
頭を下げても。
父は、焦凍の訓練を優先した。
だから燈真は、父の顔を殴った。
生まれて初めて。
自分の拳が折れるほど強く。
そのせいで、さらに遅れた。
「燈真……?」
炎の奥から、か細い声が聞こえた。
燈真は顔を上げた。
倒れた木の向こう。
青い炎の中心で、燈矢が膝をついていた。
白かった髪は炎に煽られ、皮膚は既に黒く焼け始めている。それでも彼の目から溢れているのは、熱による涙ではなかった。
「なんで……お前が来るんだよ」
「兄さんを連れ戻しに来た」
「親父は?」
燈真は答えられなかった。
たった一瞬の沈黙。
それだけで、燈矢は理解してしまった。
「そっか」
乾いた声だった。
「やっぱり、来ないんだ」
その顔に浮かんだ笑みを、燈真は生涯忘れない。
泣き出す寸前の子供が、泣いていないふりをするためだけに作った笑顔。
父に見てほしかった。
まだ自分には価値があると証明したかった。
焦凍が生まれても、自分は捨てられていないのだと信じたかった。
燈矢が欲しかったのは、英雄としての地位ではない。
たった一度でいい。
父に、自分を見てほしかっただけだ。
「ごめん」
燈真は燈矢を抱き締めた。
焼けた皮膚に触れ、手のひらが焦げる。
「ごめん、兄さん。俺じゃなくて、ごめん」
「違う……」
燈矢の指が、燈真の背中を掴んだ。
「お前が謝ることじゃ、ないだろ……」
「でも、父さんは来なかった」
「知ってるよ!」
青い炎が爆発した。
森を呑んでいた炎が、二人へ殺到する。
燈真は燈矢を強く抱き締めた。
そして個性を解放した。
「全部、俺に寄越せ」
周囲の炎が歪んだ。
青い奔流が方向を変え、燈真の身体へ吸い込まれていく。
腕から。
背中から。
肺から。
眼球から。
炎そのものが、肉体を突き破って入り込んでくる。
熱いという言葉では足りなかった。
自分を形作る一つ一つの細胞が、悲鳴を上げていた。
血が沸く。
骨が焦げる。
意識が白く染まる。
それでも燈真は、吸収を止めなかった。
「やめろ、燈真!」
燈矢が叫んだ。
「お前まで死ぬぞ!」
「兄さんは死なせない」
「もういいんだよ! 俺なんか!」
「よくない!」
燈真は初めて、兄を怒鳴りつけた。
「兄さんがいなくなったら、夏雄が泣く!」
炎を吸う。
「冬美が、自分を責める!」
さらに吸う。
「母さんは、もう二度と家に帰れなくなる!」
身体の内側から、何かが裂けた。
口から血が溢れる。
その血さえ、地面に落ちる前に蒸発した。
「焦凍が……自分のせいだと思うだろ!」
「燈真……」
「俺も嫌だ!」
視界が歪む。
泣いているのか、眼球が焼けているのか、燈真自身にも分からない。
「俺だって、兄さんに生きていてほしいんだよ……!」
燈矢が息を呑んだ。
燈真は、いつも笑っていた。
父が燈矢を叱ったあとも。
母が壊れそうな顔をしているときも。
冬美が食卓の沈黙に耐えられなくなったときも。
夏雄が燈矢の布団へ潜り込んだときも。
焦凍が父の訓練で吐いたときも。
燈真だけは笑っていた。
大丈夫だと言っていた。
自分が間に入るから。
自分が父を説得するから。
自分が母を支えるから。
自分が兄を止めるから。
自分が弟を守るから。
一度も、嫌だとは言わなかった。
一度も、苦しいとは言わなかった。
そんな弟が、泣きながら叫んでいる。
「死なないでよ、兄さん……!」
その言葉を最後に、燈真の身体から力が抜けた。
炎は消えていた。
山を焼いていた青い炎は、そのほとんどが燈真の中に封じ込められている。
倒れかけた燈真を、燈矢が受け止めた。
「燈真?」
返事はない。
「おい」
身体が異常なほど熱い。
皮膚は焼けていない。
しかし鼻からも、口からも、耳からも血が流れていた。
その血が、燈矢の腕の中で泡立っている。
「起きろよ」
燈矢は弟の頬を叩いた。
「なあ。助けに来たんだろ」
呼吸がない。
「俺を連れ戻すんじゃなかったのかよ」
胸に耳を当てる。
鼓動が聞こえない。
「嘘だろ……?」
炎を出したのは自分だ。
燈真を焼いたのも自分だ。
父に見てもらいたかった。
自分が焦凍より優れていると証明したかった。
ただ、それだけだった。
弟を殺したかったわけではない。
「嫌だ」
燈矢は燈真の身体を抱き締めた。
「嫌だ、嫌だ……」
燈真はいつも自分を庇った。
訓練をやめさせようとする父に反発したときも。
身体を焼きながら炎を出し続けたときも。
自分が焦凍を傷つけようとした、あの日でさえ。
燈真は燈矢を責めなかった。
――兄さんは悪くない。
そう言って、焦凍と燈矢の間に立った。
あのとき燈矢の炎を受けた肩には、今も火傷の痕が残っている。
「俺のせいだ……」
燈矢の喉から、子供のような泣き声が漏れた。
「俺が、お前を殺した……」
そのときだった。
遠くから、足音が聞こえた。
誰かが近づいてくる。
父かもしれない。
救助隊かもしれない。
けれど燈矢には、もう何も考えられなかった。
腕の中で死んでいる弟。
自分が放った炎。
父が来なかった山。
すべてが混ざり合い、燈矢の心を黒く塗り潰していく。
もう帰れない。
家族のもとへなど、帰れるはずがない。
燈矢は燈真を抱えたまま立ち上がろうとした。
しかし、焼けた足には力が入らない。
二人はそのまま崩れ落ちた。
意識を失う直前。
燈矢は、炎の向こうに立つ男を見た。
顔の見えない、黒い影だった。
「二人とも、実に惜しい」
その声は、奇妙なほど優しかった。
「片方だけでも拾えればと思っていたが――これは思わぬ収穫だ」
黒い手が伸びてくる。
燈矢は燈真を守ろうとした。
だが、指一本動かせなかった。
「安心するといい」
男は笑っていた。
「君の弟は、まだ死んでいない」
燈矢の瞳に、わずかな光が戻った。
「本当……か……?」
「ああ。助けられるとも」
その言葉が嘘である可能性など、考えられなかった。
「ただし、相応の代償は必要になる」
「なんでも……する」
燈矢は迷わなかった。
「燈真を、助けてくれ……」
「良い兄だ」
男の手が、二人へ触れた。
「ならば今日から、君たちは死者になる」
やがて救助隊が山へ到着したとき、見つかったのは焼け焦げた衣服と、わずかな骨片だけだった。
轟燈矢。
轟燈真。
轟家の長男と次男は、山火事によって死亡した。
そう記録された。
父は何も言わなかった。
母は病院で声が枯れるまで泣いた。
冬美は、冷めきった夕食を二人分だけ、何日も食卓へ並べ続けた。
夏雄は、燈真が帰ってきたら絶対に叱ってやると言いながら、その布団で毎晩泣いた。
焦凍は、自分が生まれなければ兄たちは死ななかったのではないかと考えた。
そして燈矢は、弟を救うために悪魔の手を取った。
燈真は目覚めぬまま、その悪魔によって身体を作り替えられた。
誰も知らなかった。
あの日を境に壊れた轟家を救うため、死んだはずの兄弟が、それぞれ正反対の道から帰ってくることを。
兄は、家を焼き尽くすために。
弟は――兄が燃やすすべてを、自分の身体で受け止めるために。
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第一章 役に立つ子供
轟燈真が初めて父に褒められたのは、五歳の冬だった。
それ以前にも、頭を撫でられたことくらいはある。
誕生日には贈り物をもらった。
運動会へ来てもらったこともある。
けれど、父が燈真だけを見て笑ったのは、その日が初めてだった。
庭で訓練をしていた燈矢が、自分の炎で腕を焼いた日。
燈真は反射的に兄の腕を掴んだ。
すると、火傷から熱だけが抜けていき、代わりに燈真の手のひらが赤く腫れた。
「もう一度やってみろ」
父――轟炎司は言った。
倒れた燈矢を心配する言葉より先に。
燈真はその命令に従った。
「燈矢。炎を出せ」
「でも、父さん……」
「いいから出せ」
燈矢が弱い炎を灯す。
燈真はそれに触れ、熱を吸い取った。
炎が消える。
手のひらが痛む。
それでも、父が見ていたから我慢した。
「そうか」
炎司は目を見開いた。
そして、笑った。
「お前は燈矢の欠点を補える」
その日、燈真は初めて知った。
父に褒められるためには、兄が傷つかなければならない。
自分が役に立つためには、先に誰かが苦しまなければならない。
だから燈真は、父に褒められることを喜べなかった。
それでも笑った。
「俺がいれば、兄さんはヒーローになれる?」
「ああ」
父は断言した。
「お前が燈矢の熱を引き受ければな」
幼い燈真は、その言葉を信じた。
兄の夢が叶うなら。
父が兄を見捨てないなら。
自分が痛いだけで家族が笑っていられるなら。
それは、とても良い個性なのだと思った。
だから燈真は、笑って答えた。
「じゃあ、いっぱい頑張る」
燈矢だけが、笑わなかった。
その夜。
布団へ入った燈真の手を、燈矢が冷たい濡れ布巾で包んだ。
「もうやらなくていい」
「でも、兄さんの訓練ができなくなる」
「いいんだよ」
「ヒーローになれなくても?」
燈矢の手が止まった。
夢を諦められるはずなどない。
父に認めてもらうことを、やめられるはずもない。
それを知っているから、燈真は兄の手を握った。
「俺、痛くないよ」
嘘だった。
心臓が脈打つたび、手のひらが焼けるように痛んでいた。
それでも兄が泣きそうな顔をしていたから、燈真は笑った。
「だから大丈夫」
その日から、轟燈真は家族に嘘をつくようになった。
痛くない。
苦しくない。
怖くない。
大丈夫。
何度も繰り返すうちに、誰もが少しずつ、その言葉を信じるようになった。
燈真自身を除いて。
そして誰より早く、その嘘を利用し始めたのは――父だった。