第二章 熱を引き受ける子供
翌朝、燈真は右手の痛みで目を覚ました。
目を開けるより先に、手のひらの奥で脈打つ熱を感じた。
布団の中は寒いはずなのに、右腕だけがひどく熱い。指を曲げようとすると、皮膚の下で焼けた針が動くような痛みが走った。
それでも、声は出さなかった。
隣の布団では、燈矢が眠っている。
昨夜遅くまで、濡れ布巾を何度も替えてくれた兄だった。
ここで痛がれば、燈矢はきっと自分を責める。
だから燈真は左手で右手を押さえ、ゆっくり起き上がった。
障子の隙間から、冬の朝日が細く差し込んでいる。
燈矢の寝顔は、起きているときよりもずっと幼かった。
父の前では背筋を伸ばし、自分の炎を誇るように振る舞う兄も、眠ってしまえばただの子供だ。枕元に投げ出された両手には、訓練によってできた小さな火傷がいくつも残っている。
燈真は、自分の右手と燈矢の手を見比べた。
兄の傷が減る代わりに、自分の傷が増える。
それでいい。
兄が泣かなくなるなら。
父が兄を見捨てないなら。
家族が壊れないなら。
そう思おうとした。
しかし、右手が脈打つたびに、怖いという気持ちが胸の奥から浮かび上がってきた。
また今日も、同じことをするのだろうか。
昨日よりも強い炎を吸わされるのだろうか。
もし耐えられなければ、父はどんな顔をするのだろう。
期待外れだと、思われるのだろうか。
「……燈真?」
布団が動いた。
燈矢が眠そうに目を開ける。
「起きてたのか」
「今起きたところ」
燈真はすぐに右手を布団の下へ隠した。
燈矢は身体を起こすと、真っ先に燈真の手を見た。
「見せろ」
「もう痛くないよ」
「嘘つけ」
「本当だって」
「じゃあ見せられるだろ」
燈矢が手を伸ばしてくる。
燈真は反射的に身を引いた。
ほんのわずかな動きだった。
だが、それだけで嘘はばれた。
燈矢の顔から眠気が消えた。
「まだ痛いんじゃねえか」
「少しだけ」
「父さんに言う」
燈矢が布団を跳ね除ける。
燈真は慌てて、その服の裾を掴んだ。
「待って」
「離せよ」
「言わなくていい」
「よくない。お前の手、昨日ずっと熱かったんだぞ」
「でも、父さんに言ったら訓練できなくなる」
「それでいいって言ってるだろ!」
燈矢の声が部屋に響いた。
二人とも動きを止める。
襖の向こうから、誰かが起きる気配はなかった。
燈矢は声を落とした。
「俺は、お前を道具にしてまで訓練したくない」
「道具じゃないよ」
「同じだろ」
「違う」
燈真は、兄の服を掴んだまま俯いた。
「俺がやりたいって言ったんだ」
「父さんに褒められたいからか?」
「違うよ」
すぐに答えた。
けれど、その言葉のすべてが本当なのか、燈真自身にも分からなかった。
父が笑ってくれたことは嬉しかった。
初めて自分のことを見てくれた気がした。
燈矢の弟としてでもなく。
将来生まれるかもしれない、もっと優れた子供の代わりでもなく。
自分にしかできないことを見つけてもらえた。
それを失うことが、怖くないはずがなかった。
「兄さんがヒーローになるのを手伝いたいんだ」
燈真は言った。
「俺は炎を出せないから」
正確には、出せないわけではない。
吸収した熱を放出することはできる。
しかし、それは炎と呼べるようなものではなかった。
熱い息。
触れたものをわずかに温める手。
体温を一時的に上昇させる程度の、不完全な放熱。
父が求めるような、敵を焼き払う炎ではない。
「俺一人じゃ、父さんみたいなヒーローにはなれない」
「……」
「でも兄さんと一緒なら、なれるかもしれないだろ」
燈真は笑った。
笑えば大丈夫だと思っていた。
自分が笑っていれば、燈矢も安心すると思っていた。
しかし燈矢は、苦しそうに顔を歪めた。
「お前も、なりたいんじゃないのかよ」
「何に?」
「ヒーローに」
燈真は答えられなかった。
なりたい。
その言葉を口にすれば、兄を責めることになるような気がした。
兄のせいで自分はヒーローになれないと、そう言っているような気がした。
だから燈真は、また笑った。
「兄さんがなればいいよ」
燈矢はそれ以上、何も言わなかった。
その顔にどんな感情が浮かんでいたのか。
燈真は、見ないふりをした。
それから、二人の訓練が始まった。
燈矢が炎を出す。
燈真が熱を吸収する。
初めのうちは、ほんの数秒だった。
燈矢が腕に痛みを感じる前に、燈真が炎へ触れる。それだけで火傷は大幅に軽減された。
炎司は二人を観察し、時間を測り、数字を記録した。
燈矢の炎の温度。
継続時間。
火傷の深度。
燈真が吸収できる熱量。
吸収後、体温が正常に戻るまでの時間。
燈真には数字の意味など分からなかった。
ただ、父が記録用紙へ丸をつければ安心した。
眉間に皺を寄せれば、不安になった。
「昨日より三秒短い」
ある日の訓練で、炎司は言った。
燈真は荒い息を整えながら顔を上げた。
「ごめんなさい」
「謝罪を求めているのではない。理由を聞いている」
「分かりません」
「体調管理も訓練の一部だ。昨日、何時に寝た」
「九時です」
「食事は」
「全部食べました」
「なら、なぜ記録が落ちた」
燈真は答えられなかった。
朝から身体が熱かった。
昨日吸収した炎が、まだ胸の奥に残っているような感覚があった。
けれど、それを言えば訓練を止められてしまう。
父は自分を必要としなくなるかもしれない。
「もう一度やります」
燈真は立ち上がった。
足元が揺れる。
「今度は、もっと長くできます」
「燈真」
燈矢が腕を掴んだ。
「今日はもうやめよう」
「大丈夫だよ」
「顔、真っ赤だぞ」
「寒いからだよ」
「寒いのに赤くなるわけないだろ」
燈矢が炎司を見る。
「父さん、もう無理だ」
「燈真本人は続けると言っている」
「こいつは無理でも大丈夫って言うんだよ!」
「自分の限界は本人にしか分からん」
「分かってないから言ってるんだ!」
燈矢の声が訓練場に響いた。
炎司の表情が険しくなる。
「ならば、お前はどうする」
「え?」
「燈真の補助なしで炎を扱えるのか」
燈矢が黙り込んだ。
「その身体で、どこまで耐えられる。炎を恐れて出力を下げたまま、オールマイトを超えられるとでも思っているのか」
炎司の言葉が、燈矢の弱いところへ突き刺さる。
燈矢の手が震えた。
悔しさで。
父に認められたいという思いで。
そして、自分のために傷ついている弟を前にして、それでも訓練を続けたいと思ってしまう自分への嫌悪で。
「兄さん」
燈真は、燈矢の手を握った。
「やろう」
「でも」
「俺がやりたいんだ」
その言葉を聞き、燈矢は目を伏せた。
燈真は知っていた。
燈矢は優しい。
自分から訓練を続けたいとは、もう言えない。
だから代わりに、自分が言えばいい。
燈矢が悪者にならないように。
父が燈矢を見捨てないように。
全部、自分が望んだことにすればいい。
「準備できたよ、父さん」
炎司はしばらく燈真を見ていた。
やがて記録用紙へ視線を戻す。
「始めろ」
燈矢の右手に炎が灯った。
最初は赤かった。
けれど出力が上がるにつれて、中心部分が白く変わっていく。
燈真は手を伸ばした。
炎に触れる。
熱を吸う。
皮膚の上から炎が消えていく。
代わりに、燈真の腕へ赤い線が浮かび上がる。
「もっとだ、燈矢」
炎司の声が飛ぶ。
燈矢が歯を食いしばった。
炎が大きくなる。
「燈真。吸収速度を上げろ」
「はい」
熱が身体へ流れ込む。
右腕を通り、肩へ。
肩から胸へ。
胸から心臓へ。
心臓を通過した熱が、全身へ広がっていく。
痛い。
身体の中を、火のついた虫が這い回っているようだった。
「燈真、もういい!」
燈矢が叫ぶ。
「まだできる」
「手を離せ!」
「大丈夫だから!」
燈真は炎を掴み続けた。
燈矢が炎を消そうとする。
「止めるな!」
父の怒声が響いた。
「今、出力が上がり始めている!」
その言葉を聞いた瞬間、燈矢の顔が変わった。
父が見ている。
自分の炎を。
期待を込めた目で。
再び。
ほんの一瞬、燈矢の炎が強くなった。
燈真の腕から白い煙が上がった。
胸の奥で、何かが破裂した。
「――っ」
声を出す間もなかった。
膝から力が抜ける。
炎を掴んでいた手が離れた。
燈真はその場へ崩れ落ち、地面に両手をついた。
「燈真?」
燈矢の声が聞こえる。
返事をしなければ。
大丈夫だと言わなければ。
顔を上げようとした瞬間、喉の奥から熱いものが込み上げてきた。
燈真は咳き込んだ。
地面へ、赤黒い血が飛び散った。
「燈真!」
燈矢が駆け寄ってくる。
肩を抱かれた。
その手が冷たく感じるほど、燈真の身体は熱を持っていた。
「父さん! 救急車!」
「落ち着け」
炎司は燈真のそばへ屈み込んだ。
首筋へ触れ、呼吸を確認する。
「意識はある。呼吸もしている」
「血を吐いたんだぞ!」
「口内を切った可能性もある」
「そんなわけ――」
「兄さん」
燈真は、震える手で燈矢の服を掴んだ。
「大丈夫……だから」
「どこが大丈夫なんだよ!」
「記録……昨日より、長かった?」
燈矢が言葉を失った。
燈真は父を見上げた。
視界が赤く滲み、父の顔がいくつにも重なって見える。
「父さん」
声が震えた。
「俺、ちゃんとできた?」
それは子供の問いだった。
父に褒めてもらいたい、ただの五歳児の問いだった。
しかし炎司は、すぐには答えなかった。
地面へ落ちた血。
燈真の腕に浮かんだ赤い痕。
荒い呼吸。
それらを順番に見てから、炎司は記録用紙へ目を落とした。
「昨日より、十一秒長い」
その言葉を聞いて、燈真は笑った。
「よかった」
そして意識を失った。
目を覚ましたとき、燈真は自分の部屋にいた。
窓の外は暗かった。
枕元には水差しが置かれ、額には冷たい布が載せられている。
誰かが手を握っていた。
母だった。
「母さん……?」
冷が顔を上げた。
目が赤く腫れていた。
「燈真」
名前を呼んだ声が、かすかに震えている。
「どこか痛いところは?」
燈真は自分の身体を確かめた。
胸が痛い。
息を吸うと、肺の内側が焼ける。
右腕の感覚が鈍い。
頭も重かった。
「痛くないよ」
いつもの言葉だった。
だが冷は安心しなかった。
「嘘をつかないで」
初めて言われた。
燈真は黙り込んだ。
「お医者様が診てくれました。身体の中に熱が残っているそうです」
母の手が、燈真の頬へ触れた。
冷たい手だった。
けれどその冷たささえ、今の燈真には痛かった。
「もう少し吸収を続けていたら、臓器に障害が残っていたかもしれないって」
「でも、もう大丈夫なんでしょ?」
「そういう問題じゃありません」
冷の声が強くなる。
すぐに母は苦しそうな顔をして、声を落とした。
「どうして止めなかったの」
「父さんが、続けろって」
言いかけて、燈真は口を閉じた。
母の表情が変わったからだ。
悲しみではない。
怒りだった。
これまで見たことがないほど静かで、冷たい怒り。
母が父を責める。
父が怒る。
二人が喧嘩をする。
家の空気がもっと悪くなる。
燈矢は自分のせいだと思う。
まだ幼い冬美が泣く。
そこまで考えて、燈真は言葉を変えた。
「俺が続けたいって言ったんだ」
「え?」
「父さんは止めようとしたけど、俺が大丈夫って」
嘘だった。
完全な嘘ではない。
自分が続けたいと言ったことだけは、本当だった。
だからこれは嘘ではないと、燈真は自分へ言い聞かせた。
「どうして、そんなことを」
「兄さんのため」
「燈矢のためなら、自分が傷ついてもいいの?」
燈真は答えられなかった。
冷の指が、燈真の髪を優しく撫でる。
「あなたも私の子供なのよ」
「うん」
「燈矢と同じくらい、大切なの」
「うん」
「あなたが苦しんだら、私は悲しいの」
母の目から涙が落ちた。
雫が、燈真の頬へ触れる。
その涙は冷たくなかった。
温かかった。
燈真の個性が、無意識に反応した。
母の涙から熱を吸い取る。
ごくわずかな熱だった。
それなのに、胸の奥へ入った瞬間、燈真の心臓が強く痛んだ。
悲しい。
怖い。
自分の子供が死ぬかもしれない。
守れなかった。
母親なのに。
そんな感情が、言葉ではない形で流れ込んできた。
燈真は息を呑んだ。
今まで感じたことのない感覚だった。
熱と一緒に、母の苦しみが入ってくる。
冷が流した涙の理由が、自分の中へ染み込んでくる。
「燈真?」
母が不安そうに顔を覗き込む。
燈真はすぐに笑った。
「ごめんね、母さん」
謝れば、母はもっと悲しむかもしれない。
分かっていた。
それでも、ほかに何を言えばいいのか分からなかった。
「もう無茶しないで」
「うん」
「約束できる?」
燈真は一瞬だけ迷った。
「約束する」
その夜、燈真は二つ目の嘘を覚えた。
家族を安心させるための約束は、守れなくてもいい。
翌朝。
燈真が目を覚ますと、部屋の外から言い争う声が聞こえた。
「まだ五歳なのよ!」
母の声だった。
「分かっている」
父が答える。
「分かっていたら、あんなことはさせないわ!」
「燈真の個性を把握する必要がある」
「あの子は実験道具じゃない!」
「そんな扱いをした覚えはない」
「血を吐くまで続けさせたでしょう!」
「本人が続けると言った」
その言葉に、燈真の胸が痛んだ。
父は嘘をついていない。
自分が続けたいと言ったのは本当だ。
けれど、母も間違っていない。
燈真は身体を起こした。
襖のそばに、燈矢が座っていた。
膝を抱え、俯いている。
「兄さん」
燈真が呼ぶと、燈矢は顔を上げた。
目の下が赤かった。
眠っていないらしい。
「大丈夫か」
「うん」
「また嘘か?」
燈真は返事をしなかった。
燈矢が拳を握る。
「俺、父さんに言ったから」
「何を?」
「もう訓練しないって」
燈真は目を見開いた。
「なんで」
「なんでって……」
燈矢が声を詰まらせる。
「お前が死にかけたからだろ」
「でも、兄さんがヒーローになれなくなる」
「ならなくていい」
それは燈真が初めて聞く言葉だった。
燈矢が最も望んでいたはずのもの。
父に認められるため、身体を焼いてまで追い続けていた夢。
「嘘だ」
燈真は言った。
「兄さん、ずっとなりたかっただろ」
「お前が死ぬくらいなら、ならなくていい!」
燈矢の叫びに、外の言い争いが止まった。
家中が静まり返る。
燈矢は立ち上がった。
「俺の炎でお前が死んだら、俺は何のためにヒーローになるんだよ」
唇を噛み締める。
泣くのを堪えるように。
「人を助けるのがヒーローなのに、弟を殺してなれるわけないだろ」
「兄さんのせいじゃない」
「俺の炎だった!」
「俺が勝手に吸ったんだ!」
「そうさせたのは俺だろ!」
燈矢の目から、とうとう涙が溢れた。
「俺が弱いから」
「違う」
「俺が父さんに褒められたいから」
「違うよ」
「焦凍より俺の方がすごいって、そう言ってほしいから……お前が痛がってるのに、炎を止められなかった」
「兄さんは悪くない!」
燈真は布団を飛び出し、燈矢へ抱きついた。
胸が痛んだ。
それでも腕を離さなかった。
「兄さんは悪くないよ」
「じゃあ誰が悪いんだよ」
その問いに、燈真は答えられなかった。
父だと言えば、燈矢は父を憎む。
自分だと言えば、燈矢は否定する。
誰も悪くないと言えば、苦しみだけが残る。
だから燈真は、何も言わずに兄を抱き締めた。
襖の向こうに、両親が立っている気配がした。
けれど二人とも入ってこなかった。
やがて燈矢は、燈真の肩へ額を押しつけた。
「俺が、お前を守るから」
「俺の方が守るよ」
「俺が兄ちゃんだぞ」
「一歳しか違わないだろ」
「一歳でも兄ちゃんだ」
泣きながら言う燈矢に、燈真は少しだけ笑った。
「じゃあ、二人で守ろう」
「何を」
「家族を」
なぜそんな言葉が出たのか、燈真にも分からなかった。
ただ、家の中には泣いている人が多すぎた。
父は怒っている。
母は悲しんでいる。
燈矢は苦しんでいる。
冬美はいつも、誰かの顔色を窺っている。
まだ幼い夏雄も、家の中で大きな声がすると泣き出してしまう。
そして焦凍は、家族と呼ぶにはあまりにも遠い部屋で、父と二人きりの訓練を受けている。
誰かが守らなければならない。
ヒーローが助けに来てくれるのを待つのではなく。
この家にいる誰かが。
「俺たちで、みんなを守ろう」
燈真は言った。
燈矢は涙を拭い、しばらく弟を見つめた。
やがて、小さく頷いた。
「ああ」
それが、二人の最初の約束だった。
しかし約束を交わしたその日の午後、炎司は燈矢を訓練場へ呼び出した。
燈真には、部屋で休むよう命じた。
燈矢も心配はいらないと言った。
だから燈真は布団へ戻った。
戻ったふりをした。
家の裏口から外へ出て、訓練場の壁際まで歩いた。窓の下へ身を屈め、二人の会話へ耳を澄ませる。
「本当にやめるのか」
父の声が聞こえた。
「やめる」
燈矢が答えた。
「燈真がいないと、炎を使えないからか」
「違う」
「ならば一人でも扱えるところを見せろ」
「そうやって、また俺を煽るつもりだろ」
燈矢の声は震えていた。
それでも逃げなかった。
「もうやらない。燈真を傷つけたくない」
長い沈黙があった。
やがて、炎司が口を開く。
「燈真はいずれ、お前以外の者を補助することになる」
「何だよ、それ」
「あの個性は有用だ。炎を扱うヒーローと組ませれば、活動限界を大幅に延ばせる」
「燈真は物じゃない」
「分かっている」
「分かってねえよ!」
窓が震えるほどの声だった。
「燈真は俺の弟だ! 誰かの炎を吸うために生まれたんじゃない!」
外で聞いていた燈真は、自分の胸を押さえた。
嬉しいはずだった。
兄が自分を守ってくれている。
道具ではなく、弟だと言ってくれた。
それなのに、苦しかった。
では、自分から「熱喰い」を取ったら何が残るのだろう。
父の炎を継いでいない。
母の氷も受け継いでいない。
誰かを攻撃できる力もない。
炎を吸うことしかできない自分は、それをやめたら何の役に立てるのだろう。
父に必要とされない。
兄を助けられない。
ヒーローにもなれない。
何もない子供になる。
その恐怖は、右腕の痛みよりも強かった。
「燈矢」
炎司の低い声が聞こえる。
「お前が拒むなら、無理に続けさせるつもりはない」
燈真は息を止めた。
「ただし、訓練を放棄した者を後継者として扱うこともできん」
「……」
「それでもやめるのか」
答えは、なかなか返ってこなかった。
燈真には、燈矢の顔が見えない。
それでも分かった。
兄は今、選ばされている。
弟か。
夢か。
家族を守るという約束か。
父に認めてもらうという、ずっと求め続けた願いか。
どちらを選んでも、燈矢は傷つく。
だから燈真は立ち上がった。
襖を開け、訓練場へ入る。
「俺がやる」
二人が同時に振り返った。
「燈真、寝てろって言っただろ!」
「もう治った」
「治ってない!」
「兄さんは悪くない」
燈真は父の前へ立った。
「俺が続けたい」
「燈真!」
「だって、これが俺の個性だから」
声が震えそうになる。
それを隠すために、燈真は笑った。
「俺が役に立てるのは、これだけだから」
燈矢の顔が歪んだ。
父は黙って燈真を見下ろしている。
その視線に耐えながら、燈真は続けた。
「兄さんと訓練する。ほかの人の炎だって吸えるようになる。誰も火傷しないようにする」
それは、ヒーローらしい言葉に聞こえた。
誰かを傷つける炎を消す。
苦しんでいる人から熱を奪う。
火災現場では、多くの人を救えるかもしれない。
けれど、本当の理由はもっと幼く、もっと惨めだった。
必要とされたかった。
この家に、自分の居場所が欲しかった。
「だから父さん」
燈真は尋ねた。
「俺も、ヒーローになれる?」
炎司の目が、わずかに見開かれた。
燈矢は何も言わなかった。
止めることも、否定することもできなかった。
炎司はしばらく考えたあと、燈真の肩へ手を置いた。
「使い方次第だ」
父の大きな手。
それは温かかった。
「お前の個性には可能性がある」
初めて、父が自分の未来について語ってくれた。
その言葉を聞いただけで、胸がいっぱいになった。
「努力を続ければ、ヒーローになれる」
「うん」
「ただし、弱音は許さん」
「分かってる」
「自分で選んだ道だ。最後まで責任を持て」
「うん」
燈真は何度も頷いた。
父の手から伝わる熱を、無意識に少しだけ吸収した。
その瞬間。
強い焦燥が、燈真の胸へ流れ込んだ。
オールマイトに勝てない。
追いつけない。
どれほど事件を解決しても。
どれほど人を救っても。
いつまでも二番目。
このままでは終われない。
自分の人生を、無駄にはできない。
子供たちに託さなければならない。
燈矢。
燈真。
そして、焦凍。
誰でもいい。
自分の炎を証明してくれるなら。
一瞬で流れ込んできた感情に、燈真は息を止めた。
父の手を振り払いたくなった。
しかし、できなかった。
炎司の手は、燈真の肩に置かれたままだ。
「どうした」
「……何でもない」
「ならば休め。訓練は明日から再開する」
「うん」
燈真は笑った。
父も苦しんでいる。
そのことを知ってしまった。
誰より強く見える父も、誰にも言えない苦しみを抱えている。
ならば、自分が助けなければならない。
父の焦りを。
母の悲しみを。
兄の痛みを。
妹と弟たちの恐怖を。
全部、自分が引き受ければいい。
そうすれば、きっと家族は笑える。
燈真はまだ知らなかった。
人の痛みを引き受けることと、その人を救うことは、同じではない。
苦しみを隠せば、傷は見えなくなる。
傷が見えなくなれば、誰も治そうとはしなくなる。
そして轟家はこれから長い時間をかけて、燈真の笑顔に依存していくことになる。
燈矢が荒れても、燈真が宥めてくれる。
炎司が怒鳴っても、燈真が間に入ってくれる。
冷が泣いても、燈真が慰めてくれる。
冬美が怯えても。
夏雄が寂しがっても。
焦凍が傷ついても。
燈真なら、どうにかしてくれる。
誰も気づかなかった。
そのたびに燈真の中へ、消えることのない熱が積み重なっていたことに。
泣く代わりに笑い。
助けを求める代わりに手を差し伸べ。
苦しいと言う代わりに、大丈夫だと繰り返す。
そうして轟燈真は、誰からも助けてもらえない子供になっていった。