灰を抱く者   作:ケーケーケー

2 / 8
AI利用です


2

第二章 熱を引き受ける子供

 

翌朝、燈真は右手の痛みで目を覚ました。

 

目を開けるより先に、手のひらの奥で脈打つ熱を感じた。

 

布団の中は寒いはずなのに、右腕だけがひどく熱い。指を曲げようとすると、皮膚の下で焼けた針が動くような痛みが走った。

 

それでも、声は出さなかった。

 

隣の布団では、燈矢が眠っている。

 

昨夜遅くまで、濡れ布巾を何度も替えてくれた兄だった。

 

ここで痛がれば、燈矢はきっと自分を責める。

 

だから燈真は左手で右手を押さえ、ゆっくり起き上がった。

 

障子の隙間から、冬の朝日が細く差し込んでいる。

 

燈矢の寝顔は、起きているときよりもずっと幼かった。

 

父の前では背筋を伸ばし、自分の炎を誇るように振る舞う兄も、眠ってしまえばただの子供だ。枕元に投げ出された両手には、訓練によってできた小さな火傷がいくつも残っている。

 

燈真は、自分の右手と燈矢の手を見比べた。

 

兄の傷が減る代わりに、自分の傷が増える。

 

それでいい。

 

兄が泣かなくなるなら。

 

父が兄を見捨てないなら。

 

家族が壊れないなら。

 

そう思おうとした。

 

しかし、右手が脈打つたびに、怖いという気持ちが胸の奥から浮かび上がってきた。

 

また今日も、同じことをするのだろうか。

 

昨日よりも強い炎を吸わされるのだろうか。

 

もし耐えられなければ、父はどんな顔をするのだろう。

 

期待外れだと、思われるのだろうか。

 

「……燈真?」

 

布団が動いた。

 

燈矢が眠そうに目を開ける。

 

「起きてたのか」

 

「今起きたところ」

 

燈真はすぐに右手を布団の下へ隠した。

 

燈矢は身体を起こすと、真っ先に燈真の手を見た。

 

「見せろ」

 

「もう痛くないよ」

 

「嘘つけ」

 

「本当だって」

 

「じゃあ見せられるだろ」

 

燈矢が手を伸ばしてくる。

 

燈真は反射的に身を引いた。

 

ほんのわずかな動きだった。

 

だが、それだけで嘘はばれた。

 

燈矢の顔から眠気が消えた。

 

「まだ痛いんじゃねえか」

 

「少しだけ」

 

「父さんに言う」

 

燈矢が布団を跳ね除ける。

 

燈真は慌てて、その服の裾を掴んだ。

 

「待って」

 

「離せよ」

 

「言わなくていい」

 

「よくない。お前の手、昨日ずっと熱かったんだぞ」

 

「でも、父さんに言ったら訓練できなくなる」

 

「それでいいって言ってるだろ!」

 

燈矢の声が部屋に響いた。

 

二人とも動きを止める。

 

襖の向こうから、誰かが起きる気配はなかった。

 

燈矢は声を落とした。

 

「俺は、お前を道具にしてまで訓練したくない」

 

「道具じゃないよ」

 

「同じだろ」

 

「違う」

 

燈真は、兄の服を掴んだまま俯いた。

 

「俺がやりたいって言ったんだ」

 

「父さんに褒められたいからか?」

 

「違うよ」

 

すぐに答えた。

 

けれど、その言葉のすべてが本当なのか、燈真自身にも分からなかった。

 

父が笑ってくれたことは嬉しかった。

 

初めて自分のことを見てくれた気がした。

 

燈矢の弟としてでもなく。

 

将来生まれるかもしれない、もっと優れた子供の代わりでもなく。

 

自分にしかできないことを見つけてもらえた。

 

それを失うことが、怖くないはずがなかった。

 

「兄さんがヒーローになるのを手伝いたいんだ」

 

燈真は言った。

 

「俺は炎を出せないから」

 

正確には、出せないわけではない。

 

吸収した熱を放出することはできる。

 

しかし、それは炎と呼べるようなものではなかった。

 

熱い息。

 

触れたものをわずかに温める手。

 

体温を一時的に上昇させる程度の、不完全な放熱。

 

父が求めるような、敵を焼き払う炎ではない。

 

「俺一人じゃ、父さんみたいなヒーローにはなれない」

 

「……」

 

「でも兄さんと一緒なら、なれるかもしれないだろ」

 

燈真は笑った。

 

笑えば大丈夫だと思っていた。

 

自分が笑っていれば、燈矢も安心すると思っていた。

 

しかし燈矢は、苦しそうに顔を歪めた。

 

「お前も、なりたいんじゃないのかよ」

 

「何に?」

 

「ヒーローに」

 

燈真は答えられなかった。

 

なりたい。

 

その言葉を口にすれば、兄を責めることになるような気がした。

 

兄のせいで自分はヒーローになれないと、そう言っているような気がした。

 

だから燈真は、また笑った。

 

「兄さんがなればいいよ」

 

燈矢はそれ以上、何も言わなかった。

 

その顔にどんな感情が浮かんでいたのか。

 

燈真は、見ないふりをした。

 

それから、二人の訓練が始まった。

 

燈矢が炎を出す。

 

燈真が熱を吸収する。

 

初めのうちは、ほんの数秒だった。

 

燈矢が腕に痛みを感じる前に、燈真が炎へ触れる。それだけで火傷は大幅に軽減された。

 

炎司は二人を観察し、時間を測り、数字を記録した。

 

燈矢の炎の温度。

 

継続時間。

 

火傷の深度。

 

燈真が吸収できる熱量。

 

吸収後、体温が正常に戻るまでの時間。

 

燈真には数字の意味など分からなかった。

 

ただ、父が記録用紙へ丸をつければ安心した。

 

眉間に皺を寄せれば、不安になった。

 

「昨日より三秒短い」

 

ある日の訓練で、炎司は言った。

 

燈真は荒い息を整えながら顔を上げた。

 

「ごめんなさい」

 

「謝罪を求めているのではない。理由を聞いている」

 

「分かりません」

 

「体調管理も訓練の一部だ。昨日、何時に寝た」

 

「九時です」

 

「食事は」

 

「全部食べました」

 

「なら、なぜ記録が落ちた」

 

燈真は答えられなかった。

 

朝から身体が熱かった。

 

昨日吸収した炎が、まだ胸の奥に残っているような感覚があった。

 

けれど、それを言えば訓練を止められてしまう。

 

父は自分を必要としなくなるかもしれない。

 

「もう一度やります」

 

燈真は立ち上がった。

 

足元が揺れる。

 

「今度は、もっと長くできます」

 

「燈真」

 

燈矢が腕を掴んだ。

 

「今日はもうやめよう」

 

「大丈夫だよ」

 

「顔、真っ赤だぞ」

 

「寒いからだよ」

 

「寒いのに赤くなるわけないだろ」

 

燈矢が炎司を見る。

 

「父さん、もう無理だ」

 

「燈真本人は続けると言っている」

 

「こいつは無理でも大丈夫って言うんだよ!」

 

「自分の限界は本人にしか分からん」

 

「分かってないから言ってるんだ!」

 

燈矢の声が訓練場に響いた。

 

炎司の表情が険しくなる。

 

「ならば、お前はどうする」

 

「え?」

 

「燈真の補助なしで炎を扱えるのか」

 

燈矢が黙り込んだ。

 

「その身体で、どこまで耐えられる。炎を恐れて出力を下げたまま、オールマイトを超えられるとでも思っているのか」

 

炎司の言葉が、燈矢の弱いところへ突き刺さる。

 

燈矢の手が震えた。

 

悔しさで。

 

父に認められたいという思いで。

 

そして、自分のために傷ついている弟を前にして、それでも訓練を続けたいと思ってしまう自分への嫌悪で。

 

「兄さん」

 

燈真は、燈矢の手を握った。

 

「やろう」

 

「でも」

 

「俺がやりたいんだ」

 

その言葉を聞き、燈矢は目を伏せた。

 

燈真は知っていた。

 

燈矢は優しい。

 

自分から訓練を続けたいとは、もう言えない。

 

だから代わりに、自分が言えばいい。

 

燈矢が悪者にならないように。

 

父が燈矢を見捨てないように。

 

全部、自分が望んだことにすればいい。

 

「準備できたよ、父さん」

 

炎司はしばらく燈真を見ていた。

 

やがて記録用紙へ視線を戻す。

 

「始めろ」

 

燈矢の右手に炎が灯った。

 

最初は赤かった。

 

けれど出力が上がるにつれて、中心部分が白く変わっていく。

 

燈真は手を伸ばした。

 

炎に触れる。

 

熱を吸う。

 

皮膚の上から炎が消えていく。

 

代わりに、燈真の腕へ赤い線が浮かび上がる。

 

「もっとだ、燈矢」

 

炎司の声が飛ぶ。

 

燈矢が歯を食いしばった。

 

炎が大きくなる。

 

「燈真。吸収速度を上げろ」

 

「はい」

 

熱が身体へ流れ込む。

 

右腕を通り、肩へ。

 

肩から胸へ。

 

胸から心臓へ。

 

心臓を通過した熱が、全身へ広がっていく。

 

痛い。

 

身体の中を、火のついた虫が這い回っているようだった。

 

「燈真、もういい!」

 

燈矢が叫ぶ。

 

「まだできる」

 

「手を離せ!」

 

「大丈夫だから!」

 

燈真は炎を掴み続けた。

 

燈矢が炎を消そうとする。

 

「止めるな!」

 

父の怒声が響いた。

 

「今、出力が上がり始めている!」

 

その言葉を聞いた瞬間、燈矢の顔が変わった。

 

父が見ている。

 

自分の炎を。

 

期待を込めた目で。

 

再び。

 

ほんの一瞬、燈矢の炎が強くなった。

 

燈真の腕から白い煙が上がった。

 

胸の奥で、何かが破裂した。

 

「――っ」

 

声を出す間もなかった。

 

膝から力が抜ける。

 

炎を掴んでいた手が離れた。

 

燈真はその場へ崩れ落ち、地面に両手をついた。

 

「燈真?」

 

燈矢の声が聞こえる。

 

返事をしなければ。

 

大丈夫だと言わなければ。

 

顔を上げようとした瞬間、喉の奥から熱いものが込み上げてきた。

 

燈真は咳き込んだ。

 

地面へ、赤黒い血が飛び散った。

 

「燈真!」

 

燈矢が駆け寄ってくる。

 

肩を抱かれた。

 

その手が冷たく感じるほど、燈真の身体は熱を持っていた。

 

「父さん! 救急車!」

 

「落ち着け」

 

炎司は燈真のそばへ屈み込んだ。

 

首筋へ触れ、呼吸を確認する。

 

「意識はある。呼吸もしている」

 

「血を吐いたんだぞ!」

 

「口内を切った可能性もある」

 

「そんなわけ――」

 

「兄さん」

 

燈真は、震える手で燈矢の服を掴んだ。

 

「大丈夫……だから」

 

「どこが大丈夫なんだよ!」

 

「記録……昨日より、長かった?」

 

燈矢が言葉を失った。

 

燈真は父を見上げた。

 

視界が赤く滲み、父の顔がいくつにも重なって見える。

 

「父さん」

 

声が震えた。

 

「俺、ちゃんとできた?」

 

それは子供の問いだった。

 

父に褒めてもらいたい、ただの五歳児の問いだった。

 

しかし炎司は、すぐには答えなかった。

 

地面へ落ちた血。

 

燈真の腕に浮かんだ赤い痕。

 

荒い呼吸。

 

それらを順番に見てから、炎司は記録用紙へ目を落とした。

 

「昨日より、十一秒長い」

 

その言葉を聞いて、燈真は笑った。

 

「よかった」

 

そして意識を失った。

 

目を覚ましたとき、燈真は自分の部屋にいた。

 

窓の外は暗かった。

 

枕元には水差しが置かれ、額には冷たい布が載せられている。

 

誰かが手を握っていた。

 

母だった。

 

「母さん……?」

 

冷が顔を上げた。

 

目が赤く腫れていた。

 

「燈真」

 

名前を呼んだ声が、かすかに震えている。

 

「どこか痛いところは?」

 

燈真は自分の身体を確かめた。

 

胸が痛い。

 

息を吸うと、肺の内側が焼ける。

 

右腕の感覚が鈍い。

 

頭も重かった。

 

「痛くないよ」

 

いつもの言葉だった。

 

だが冷は安心しなかった。

 

「嘘をつかないで」

 

初めて言われた。

 

燈真は黙り込んだ。

 

「お医者様が診てくれました。身体の中に熱が残っているそうです」

 

母の手が、燈真の頬へ触れた。

 

冷たい手だった。

 

けれどその冷たささえ、今の燈真には痛かった。

 

「もう少し吸収を続けていたら、臓器に障害が残っていたかもしれないって」

 

「でも、もう大丈夫なんでしょ?」

 

「そういう問題じゃありません」

 

冷の声が強くなる。

 

すぐに母は苦しそうな顔をして、声を落とした。

 

「どうして止めなかったの」

 

「父さんが、続けろって」

 

言いかけて、燈真は口を閉じた。

 

母の表情が変わったからだ。

 

悲しみではない。

 

怒りだった。

 

これまで見たことがないほど静かで、冷たい怒り。

 

母が父を責める。

 

父が怒る。

 

二人が喧嘩をする。

 

家の空気がもっと悪くなる。

 

燈矢は自分のせいだと思う。

 

まだ幼い冬美が泣く。

 

そこまで考えて、燈真は言葉を変えた。

 

「俺が続けたいって言ったんだ」

 

「え?」

 

「父さんは止めようとしたけど、俺が大丈夫って」

 

嘘だった。

 

完全な嘘ではない。

 

自分が続けたいと言ったことだけは、本当だった。

 

だからこれは嘘ではないと、燈真は自分へ言い聞かせた。

 

「どうして、そんなことを」

 

「兄さんのため」

 

「燈矢のためなら、自分が傷ついてもいいの?」

 

燈真は答えられなかった。

 

冷の指が、燈真の髪を優しく撫でる。

 

「あなたも私の子供なのよ」

 

「うん」

 

「燈矢と同じくらい、大切なの」

 

「うん」

 

「あなたが苦しんだら、私は悲しいの」

 

母の目から涙が落ちた。

 

雫が、燈真の頬へ触れる。

 

その涙は冷たくなかった。

 

温かかった。

 

燈真の個性が、無意識に反応した。

 

母の涙から熱を吸い取る。

 

ごくわずかな熱だった。

 

それなのに、胸の奥へ入った瞬間、燈真の心臓が強く痛んだ。

 

悲しい。

 

怖い。

 

自分の子供が死ぬかもしれない。

 

守れなかった。

 

母親なのに。

 

そんな感情が、言葉ではない形で流れ込んできた。

 

燈真は息を呑んだ。

 

今まで感じたことのない感覚だった。

 

熱と一緒に、母の苦しみが入ってくる。

 

冷が流した涙の理由が、自分の中へ染み込んでくる。

 

「燈真?」

 

母が不安そうに顔を覗き込む。

 

燈真はすぐに笑った。

 

「ごめんね、母さん」

 

謝れば、母はもっと悲しむかもしれない。

 

分かっていた。

 

それでも、ほかに何を言えばいいのか分からなかった。

 

「もう無茶しないで」

 

「うん」

 

「約束できる?」

 

燈真は一瞬だけ迷った。

 

「約束する」

 

その夜、燈真は二つ目の嘘を覚えた。

 

家族を安心させるための約束は、守れなくてもいい。

 

翌朝。

 

燈真が目を覚ますと、部屋の外から言い争う声が聞こえた。

 

「まだ五歳なのよ!」

 

母の声だった。

 

「分かっている」

 

父が答える。

 

「分かっていたら、あんなことはさせないわ!」

 

「燈真の個性を把握する必要がある」

 

「あの子は実験道具じゃない!」

 

「そんな扱いをした覚えはない」

 

「血を吐くまで続けさせたでしょう!」

 

「本人が続けると言った」

 

その言葉に、燈真の胸が痛んだ。

 

父は嘘をついていない。

 

自分が続けたいと言ったのは本当だ。

 

けれど、母も間違っていない。

 

燈真は身体を起こした。

 

襖のそばに、燈矢が座っていた。

 

膝を抱え、俯いている。

 

「兄さん」

 

燈真が呼ぶと、燈矢は顔を上げた。

 

目の下が赤かった。

 

眠っていないらしい。

 

「大丈夫か」

 

「うん」

 

「また嘘か?」

 

燈真は返事をしなかった。

 

燈矢が拳を握る。

 

「俺、父さんに言ったから」

 

「何を?」

 

「もう訓練しないって」

 

燈真は目を見開いた。

 

「なんで」

 

「なんでって……」

 

燈矢が声を詰まらせる。

 

「お前が死にかけたからだろ」

 

「でも、兄さんがヒーローになれなくなる」

 

「ならなくていい」

 

それは燈真が初めて聞く言葉だった。

 

燈矢が最も望んでいたはずのもの。

 

父に認められるため、身体を焼いてまで追い続けていた夢。

 

「嘘だ」

 

燈真は言った。

 

「兄さん、ずっとなりたかっただろ」

 

「お前が死ぬくらいなら、ならなくていい!」

 

燈矢の叫びに、外の言い争いが止まった。

 

家中が静まり返る。

 

燈矢は立ち上がった。

 

「俺の炎でお前が死んだら、俺は何のためにヒーローになるんだよ」

 

唇を噛み締める。

 

泣くのを堪えるように。

 

「人を助けるのがヒーローなのに、弟を殺してなれるわけないだろ」

 

「兄さんのせいじゃない」

 

「俺の炎だった!」

 

「俺が勝手に吸ったんだ!」

 

「そうさせたのは俺だろ!」

 

燈矢の目から、とうとう涙が溢れた。

 

「俺が弱いから」

 

「違う」

 

「俺が父さんに褒められたいから」

 

「違うよ」

 

「焦凍より俺の方がすごいって、そう言ってほしいから……お前が痛がってるのに、炎を止められなかった」

 

「兄さんは悪くない!」

 

燈真は布団を飛び出し、燈矢へ抱きついた。

 

胸が痛んだ。

 

それでも腕を離さなかった。

 

「兄さんは悪くないよ」

 

「じゃあ誰が悪いんだよ」

 

その問いに、燈真は答えられなかった。

 

父だと言えば、燈矢は父を憎む。

 

自分だと言えば、燈矢は否定する。

 

誰も悪くないと言えば、苦しみだけが残る。

 

だから燈真は、何も言わずに兄を抱き締めた。

 

襖の向こうに、両親が立っている気配がした。

 

けれど二人とも入ってこなかった。

 

やがて燈矢は、燈真の肩へ額を押しつけた。

 

「俺が、お前を守るから」

 

「俺の方が守るよ」

 

「俺が兄ちゃんだぞ」

 

「一歳しか違わないだろ」

 

「一歳でも兄ちゃんだ」

 

泣きながら言う燈矢に、燈真は少しだけ笑った。

 

「じゃあ、二人で守ろう」

 

「何を」

 

「家族を」

 

なぜそんな言葉が出たのか、燈真にも分からなかった。

 

ただ、家の中には泣いている人が多すぎた。

 

父は怒っている。

 

母は悲しんでいる。

 

燈矢は苦しんでいる。

 

冬美はいつも、誰かの顔色を窺っている。

 

まだ幼い夏雄も、家の中で大きな声がすると泣き出してしまう。

 

そして焦凍は、家族と呼ぶにはあまりにも遠い部屋で、父と二人きりの訓練を受けている。

 

誰かが守らなければならない。

 

ヒーローが助けに来てくれるのを待つのではなく。

 

この家にいる誰かが。

 

「俺たちで、みんなを守ろう」

 

燈真は言った。

 

燈矢は涙を拭い、しばらく弟を見つめた。

 

やがて、小さく頷いた。

 

「ああ」

 

それが、二人の最初の約束だった。

 

しかし約束を交わしたその日の午後、炎司は燈矢を訓練場へ呼び出した。

 

燈真には、部屋で休むよう命じた。

 

燈矢も心配はいらないと言った。

 

だから燈真は布団へ戻った。

 

戻ったふりをした。

 

家の裏口から外へ出て、訓練場の壁際まで歩いた。窓の下へ身を屈め、二人の会話へ耳を澄ませる。

 

「本当にやめるのか」

 

父の声が聞こえた。

 

「やめる」

 

燈矢が答えた。

 

「燈真がいないと、炎を使えないからか」

 

「違う」

 

「ならば一人でも扱えるところを見せろ」

 

「そうやって、また俺を煽るつもりだろ」

 

燈矢の声は震えていた。

 

それでも逃げなかった。

 

「もうやらない。燈真を傷つけたくない」

 

長い沈黙があった。

 

やがて、炎司が口を開く。

 

「燈真はいずれ、お前以外の者を補助することになる」

 

「何だよ、それ」

 

「あの個性は有用だ。炎を扱うヒーローと組ませれば、活動限界を大幅に延ばせる」

 

「燈真は物じゃない」

 

「分かっている」

 

「分かってねえよ!」

 

窓が震えるほどの声だった。

 

「燈真は俺の弟だ! 誰かの炎を吸うために生まれたんじゃない!」

 

外で聞いていた燈真は、自分の胸を押さえた。

 

嬉しいはずだった。

 

兄が自分を守ってくれている。

 

道具ではなく、弟だと言ってくれた。

 

それなのに、苦しかった。

 

では、自分から「熱喰い」を取ったら何が残るのだろう。

 

父の炎を継いでいない。

 

母の氷も受け継いでいない。

 

誰かを攻撃できる力もない。

 

炎を吸うことしかできない自分は、それをやめたら何の役に立てるのだろう。

 

父に必要とされない。

 

兄を助けられない。

 

ヒーローにもなれない。

 

何もない子供になる。

 

その恐怖は、右腕の痛みよりも強かった。

 

「燈矢」

 

炎司の低い声が聞こえる。

 

「お前が拒むなら、無理に続けさせるつもりはない」

 

燈真は息を止めた。

 

「ただし、訓練を放棄した者を後継者として扱うこともできん」

 

「……」

 

「それでもやめるのか」

 

答えは、なかなか返ってこなかった。

 

燈真には、燈矢の顔が見えない。

 

それでも分かった。

 

兄は今、選ばされている。

 

弟か。

 

夢か。

 

家族を守るという約束か。

 

父に認めてもらうという、ずっと求め続けた願いか。

 

どちらを選んでも、燈矢は傷つく。

 

だから燈真は立ち上がった。

 

襖を開け、訓練場へ入る。

 

「俺がやる」

 

二人が同時に振り返った。

 

「燈真、寝てろって言っただろ!」

 

「もう治った」

 

「治ってない!」

 

「兄さんは悪くない」

 

燈真は父の前へ立った。

 

「俺が続けたい」

 

「燈真!」

 

「だって、これが俺の個性だから」

 

声が震えそうになる。

 

それを隠すために、燈真は笑った。

 

「俺が役に立てるのは、これだけだから」

 

燈矢の顔が歪んだ。

 

父は黙って燈真を見下ろしている。

 

その視線に耐えながら、燈真は続けた。

 

「兄さんと訓練する。ほかの人の炎だって吸えるようになる。誰も火傷しないようにする」

 

それは、ヒーローらしい言葉に聞こえた。

 

誰かを傷つける炎を消す。

 

苦しんでいる人から熱を奪う。

 

火災現場では、多くの人を救えるかもしれない。

 

けれど、本当の理由はもっと幼く、もっと惨めだった。

 

必要とされたかった。

 

この家に、自分の居場所が欲しかった。

 

「だから父さん」

 

燈真は尋ねた。

 

「俺も、ヒーローになれる?」

 

炎司の目が、わずかに見開かれた。

 

燈矢は何も言わなかった。

 

止めることも、否定することもできなかった。

 

炎司はしばらく考えたあと、燈真の肩へ手を置いた。

 

「使い方次第だ」

 

父の大きな手。

 

それは温かかった。

 

「お前の個性には可能性がある」

 

初めて、父が自分の未来について語ってくれた。

 

その言葉を聞いただけで、胸がいっぱいになった。

 

「努力を続ければ、ヒーローになれる」

 

「うん」

 

「ただし、弱音は許さん」

 

「分かってる」

 

「自分で選んだ道だ。最後まで責任を持て」

 

「うん」

 

燈真は何度も頷いた。

 

父の手から伝わる熱を、無意識に少しだけ吸収した。

 

その瞬間。

 

強い焦燥が、燈真の胸へ流れ込んだ。

 

オールマイトに勝てない。

 

追いつけない。

 

どれほど事件を解決しても。

 

どれほど人を救っても。

 

いつまでも二番目。

 

このままでは終われない。

 

自分の人生を、無駄にはできない。

 

子供たちに託さなければならない。

 

燈矢。

 

燈真。

 

そして、焦凍。

 

誰でもいい。

 

自分の炎を証明してくれるなら。

 

一瞬で流れ込んできた感情に、燈真は息を止めた。

 

父の手を振り払いたくなった。

 

しかし、できなかった。

 

炎司の手は、燈真の肩に置かれたままだ。

 

「どうした」

 

「……何でもない」

 

「ならば休め。訓練は明日から再開する」

 

「うん」

 

燈真は笑った。

 

父も苦しんでいる。

 

そのことを知ってしまった。

 

誰より強く見える父も、誰にも言えない苦しみを抱えている。

 

ならば、自分が助けなければならない。

 

父の焦りを。

 

母の悲しみを。

 

兄の痛みを。

 

妹と弟たちの恐怖を。

 

全部、自分が引き受ければいい。

 

そうすれば、きっと家族は笑える。

 

燈真はまだ知らなかった。

 

人の痛みを引き受けることと、その人を救うことは、同じではない。

 

苦しみを隠せば、傷は見えなくなる。

 

傷が見えなくなれば、誰も治そうとはしなくなる。

 

そして轟家はこれから長い時間をかけて、燈真の笑顔に依存していくことになる。

 

燈矢が荒れても、燈真が宥めてくれる。

 

炎司が怒鳴っても、燈真が間に入ってくれる。

 

冷が泣いても、燈真が慰めてくれる。

 

冬美が怯えても。

 

夏雄が寂しがっても。

 

焦凍が傷ついても。

 

燈真なら、どうにかしてくれる。

 

誰も気づかなかった。

 

そのたびに燈真の中へ、消えることのない熱が積み重なっていたことに。

 

泣く代わりに笑い。

 

助けを求める代わりに手を差し伸べ。

 

苦しいと言う代わりに、大丈夫だと繰り返す。

 

そうして轟燈真は、誰からも助けてもらえない子供になっていった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。