灰を抱く者   作:ケーケーケー

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第三章 最高傑作の兄

 

燈真が初めて血を吐いた冬から、五年が過ぎた。

 

十歳になった燈真は、家族の誰よりも笑うのが上手くなっていた。

 

燈矢が訓練で苛立っていれば、隣に座って話を聞いた。

 

冬美が両親の言い争いに怯えていれば、何でもない話をして笑わせた。

 

夏雄が父の不在を寂しがれば、眠るまで一緒に遊んだ。

 

母が疲れた顔で台所に立っていれば、熱を出したことも、胸の奥が痛むことも黙って食器を洗った。

 

そうして燈真が家族の間を走り回っているうちに、末の弟が生まれた。

 

名は、焦凍。

 

右側に母の白い髪。

 

左側に父の赤い髪。

 

父の炎と母の氷を、半分ずつ受け継いだ子供だった。

 

焦凍の個性が判明した日、父は珍しく早い時間に帰宅した。

 

その表情を見ただけで、燈真には結果が分かった。

 

「半冷半燃」

 

炎司は家族を集めた部屋で、静かに告げた。

 

「右で凍らせ、左で燃やす。互いの欠点を、もう一方で補える個性だ」

 

声は落ち着いていた。

 

しかし、その身体から発せられる熱は隠せていなかった。

 

歓喜。

 

興奮。

 

安堵。

 

長い間探し求めていたものを、ようやく手に入れた人間の熱だった。

 

燈真には、それが分かってしまった。

 

「そう……」

 

冷は、幼い焦凍を抱き締めた。

 

喜んでいるようには見えなかった。

 

冬美も、夏雄も、意味をよく理解できていない。まだ幼い焦凍本人は、母の腕の中で不思議そうに家族を見回している。

 

燈矢だけは理解していた。

 

「じゃあ、俺は?」

 

部屋の空気が止まった。

 

炎司が燈矢を見る。

 

その視線は、以前とは違っていた。

 

かつて父は、燈矢を見るたびに期待していた。

 

今では、何かを諦めるために見ている。

 

「お前には何度も言ったはずだ」

 

「何を」

 

「訓練はやめろ」

 

「燈真がいれば続けられる」

 

燈矢はすぐに燈真を指した。

 

「こいつが俺の熱を吸えば、身体は焼けない。実際、今までだって――」

 

「燈真の負担が大きすぎる」

 

遮るように炎司が言った。

 

一瞬、燈真は耳を疑った。

 

父が自分の身体を案じた。

 

それを嬉しいと思ってしまった。

 

その気持ちに気づき、すぐに自分が嫌になった。

 

兄が捨てられようとしているのに。

 

自分を心配してくれた。

 

ただ、それだけのことを喜んでしまった。

 

「俺は平気だよ」

 

燈真は言った。

 

「もう前みたいに倒れたりしない。たくさん練習したから」

 

「そういう問題ではない」

 

「じゃあ、どういう問題だよ」

 

燈矢が父を睨んだ。

 

「焦凍が生まれたからか?」

 

「燈矢」

 

母が名前を呼ぶ。

 

「こいつが、父さんの欲しかった個性を持ってるから、俺はいらなくなったのか?」

 

「訓練をやめろと言っているのは、お前の身体のためだ」

 

「嘘だ!」

 

燈矢の掌から炎が噴き上がった。

 

冬美が息を呑む。

 

夏雄が母の服を掴んだ。

 

焦凍が泣き出した。

 

燈真は反射的に燈矢の腕を掴んだ。

 

炎が消える。

 

熱が流れ込んでくる。

 

同時に、燈矢の感情が胸へ突き刺さった。

 

悔しい。

 

苦しい。

 

怖い。

 

捨てられたくない。

 

父に見てほしい。

 

自分が生まれてきた意味を、なかったことにされたくない。

 

「燈矢兄」

 

「離せ、燈真」

 

「まず炎を消そう」

 

「お前まで焦凍の味方をするのか?」

 

燈真の指が止まった。

 

燈矢の口から出た言葉に、誰より燈矢自身が傷ついた。

 

すぐに後悔した顔になった。

 

それでも、発した言葉は消えない。

 

「違うよ」

 

燈真は笑った。

 

「俺はずっと、兄さんの味方だよ」

 

だから大丈夫。

 

いつものように続けようとした。

 

けれど、その言葉を発する前に、冷が立ち上がった。

 

「もうやめて!」

 

普段の母からは想像できないほど、大きな声だった。

 

泣いていた焦凍さえ驚いて声を止めた。

 

「どうして家族で争わなければいけないの」

 

冷は焦凍を抱いたまま、炎司を見た。

 

「この子は、あなたの夢を叶えるために生まれたんじゃない」

 

次に燈矢を見る。

 

「燈矢も、失敗作なんかじゃない」

 

そして燈真へ向けられた目に、深い悲しみが浮かんだ。

 

「燈真も、誰かの痛みを引き受けるために生まれたんじゃないのよ」

 

燈真は何も答えられなかった。

 

母の言葉は正しい。

 

きっと正しいはずだった。

 

それなのに、その言葉を認めたら、自分の十年間がすべて無意味になる気がした。

 

兄の炎を吸ったことも。

 

父と母の間に立ったことも。

 

泣きたいときに笑ったことも。

 

苦しいときに大丈夫だと言ったことも。

 

全部、しなくてよかったことになる。

 

「俺は、好きでやってるんだよ」

 

燈真は笑った。

 

冷が苦しそうに顔を歪めた。

 

「だから母さんは心配しなくていい」

 

「燈真……」

 

「燈矢兄も落ち着いた。焦凍も泣きやんだ。ほら、もう大丈夫」

 

誰も笑わなかった。

 

それでも燈真は笑顔を崩さなかった。

 

自分まで泣いてしまったら、この家は本当に壊れると思ったから。

 

その日の夕食に、燈矢は来なかった。

 

炎司も仕事へ戻った。

 

食卓には、冷と燈真、冬美、夏雄、そして幼い焦凍だけが座っていた。

 

料理は冷めていた。

 

誰も箸を動かそうとしない。

 

「今日の味噌汁、俺が作ったんだ」

 

燈真が明るく言った。

 

「冬美にも手伝ってもらった。な?」

 

「う、うん」

 

冬美が慌てて頷く。

 

「お兄ちゃん、味見しすぎだったけど」

 

「味見は大事なんだよ」

 

「三回もする?」

 

「三回で完成したなら少ない方だろ」

 

「絶対嘘」

 

冬美が小さく笑った。

 

それを見て、夏雄も箸を持つ。

 

「俺も味見したかった」

 

「今度一緒に作ろう」

 

「本当?」

 

「ああ。焦凍も大きくなったらな」

 

名を呼ばれた焦凍が、不思議そうに燈真を見た。

 

燈真が笑いかけると、小さな手を伸ばしてくる。

 

その手を握った。

 

温かかった。

 

まだ訓練も、期待も、失望も知らない手だった。

 

この温かさを守りたい。

 

けれど、焦凍が生まれたことで燈矢が苦しんでいるのも事実だった。

 

片方を守れば、もう片方が傷つく。

 

燈真は初めて、自分の身体が二つあればいいと思った。

 

一人は燈矢のそばにいる。

 

もう一人は焦凍を守る。

 

そうすれば、どちらも一人にせずに済む。

 

「燈真」

 

母に呼ばれた。

 

顔を上げると、冷がじっとこちらを見ていた。

 

「あなたも食べなさい」

 

「食べてるよ」

 

燈真の茶碗には、一口も手をつけていない白米が残っていた。

 

「食欲がないの?」

 

「さっき味見したから」

 

「三回くらいで、お腹いっぱいにはならないでしょう」

 

冬美の言葉に、燈真は返事に困った。

 

胸の奥に熱が残っている。

 

先ほど燈矢から吸った炎だった。

 

食べ物を飲み込もうとすると、吐き気が込み上げてくる。

 

「あとで食べるよ」

 

燈真が茶碗を持ち上げた瞬間、手が震えた。

 

箸が床に落ちる。

 

乾いた音が、静かな部屋へ響いた。

 

「お兄ちゃん?」

 

冬美が心配そうに覗き込む。

 

「ごめん。手が滑った」

 

屈んで箸を拾おうとした。

 

しかし指先に力が入らない。

 

冬美が先に拾ってくれた。

 

「顔、赤いよ」

 

「部屋が暖かいから」

 

「さっきまで寒いって言ってたじゃん」

 

「味噌汁の湯気かな」

 

「お兄ちゃん」

 

冬美の声が強くなった。

 

「また痛いの?」

 

燈真は答えなかった。

 

答えるより早く、冷の手が額へ触れた。

 

「熱い……」

 

母の顔が青ざめる。

 

「横になりなさい」

 

「大丈夫だよ」

 

「大丈夫じゃありません」

 

「このくらい、いつものことだから」

 

口にしてから、しまったと思った。

 

食卓の空気が変わった。

 

冷の手が震えている。

 

冬美も、夏雄も、燈真を見ていた。

 

「いつものことって、何?」

 

冬美が尋ねた。

 

「何でもないよ」

 

「いつも熱が出てるの?」

 

「違う」

 

「じゃあ、どういうこと?」

 

「ちょっと疲れただけだって」

 

燈真は立ち上がった。

 

足元が揺れた。

 

倒れる前に、冷が身体を支えてくれる。

 

その腕から、母の体温が伝わってきた。

 

心配。

 

恐怖。

 

後悔。

 

自分は何も知らなかった。

 

子供が苦しんでいることに気づかなかった。

 

母親失格だ。

 

そうした感情が、熱とともに燈真の中へ流れ込もうとする。

 

「触らないで!」

 

燈真は反射的に母の手を振り払った。

 

全員が固まった。

 

燈真自身も、自分の言葉に驚いた。

 

母は傷ついた顔をしていた。

 

「ごめん」

 

すぐに謝った。

 

「違うんだ。母さんが嫌なんじゃなくて……」

 

言葉が続かない。

 

触れられれば、母の悲しみが分かってしまう。

 

自分のせいで母が苦しんでいると、嫌でも理解してしまう。

 

そして、その悲しみまで吸収してしまう。

 

もう胸の中には、燈矢の苦しみがある。

 

父の焦りがある。

 

これ以上は入らない。

 

そう言えばよかった。

 

助けてと言えばよかった。

 

だが、燈真の口から出たのは別の言葉だった。

 

「一人で寝てくる」

 

誰かに引き止められる前に、部屋を出た。

 

廊下を歩き、自分の部屋へ入る。

 

襖を閉めた瞬間、足から力が抜けた。

 

口元を押さえる。

 

激しく咳き込むと、掌に血が付着した。

 

燈真はそれを見つめた。

 

以前より黒い。

 

吸収した熱が身体の奥に溜まり、外へ出られなくなっている。

 

医師には、個性を使わないよう言われていた。

 

父にも、一日の使用時間を守れと言われている。

 

しかし、燈矢が炎を出したとき、吸わないという選択肢はなかった。

 

あの場には冬美も夏雄も、焦凍もいた。

 

もし炎が燃え移っていたら。

 

誰かが火傷していたら。

 

そう考えれば、自分の選択は間違っていない。

 

間違っているはずがない。

 

「大丈夫」

 

誰もいない部屋で呟いた。

 

返事はなかった。

 

「このくらい、大丈夫」

 

自分へ言い聞かせる。

 

けれど、言葉だけでは痛みは消えなかった。

 

燈真は押し入れから古いタオルを取り出し、血を拭った。

 

母に見つからないよう、洗濯物の奥へ隠す。

 

布団に入って目を閉じた。

 

家族の声が聞こえる。

 

冬美が母に何かを尋ねている。

 

夏雄が泣き出した焦凍をあやそうとしている。

 

母が自分の部屋の前まで来た。

 

足音が止まる。

 

襖へ手がかけられる。

 

燈真は眠っているふりをした。

 

しばらくして、手が離れる。

 

母は中へ入ってこなかった。

 

燈真が一人になりたいと言ったから。

 

その意思を尊重したのだ。

 

自分で一人を選んだのに。

 

本当に一人にされると、胸が苦しくなった。

 

来てほしい。

 

名前を呼んでほしい。

 

眠ったふりをしていても、抱き締めてほしい。

 

けれど今さら、自分から襖を開けることはできなかった。

 

燈真は布団の中で身体を丸めた。

 

声が漏れないよう、唇を噛んだ。

 

翌朝。

 

熱は下がっていなかった。

 

それでも燈真は、誰より早く起きた。

 

顔を洗い、朝食の準備を手伝い、焦凍を起こした。

 

食卓では普段と同じように笑った。

 

昨夜のことをなかったことにするために。

 

冷も何度か何かを言おうとしたが、結局、何も言わなかった。

 

冬美と夏雄も、燈真の顔色を窺っている。

 

燈真はいつもより多く話した。

 

学校のこと。

 

友達のこと。

 

昨日見たヒーロー番組のこと。

 

話し続けていれば、誰も痛みについて尋ねなかった。

 

そうして轟家の朝は、表面上だけ日常へ戻った。

 

朝食を終えたころ、炎司が帰ってきた。

 

夜通しの仕事だったらしく、ヒーローコスチュームの一部が煤で汚れている。

 

「焦凍」

 

父は家へ入るなり、幼い弟の名を呼んだ。

 

「今日から基礎訓練を始める」

 

冷が立ち上がる。

 

「まだ早いわ」

 

「個性の制御は早く始めた方がいい」

 

「この子はまだ小さいのよ」

 

「無理はさせん」

 

父の言葉を、燈真は信じられなかった。

 

信じたい気持ちはあった。

 

けれど父の身体から伝わる熱は、焦りに満ちていた。

 

ようやく手に入れた理想。

 

一日でも早く育てたい。

 

誰にも負けない存在にしたい。

 

オールマイトを超えさせたい。

 

それは、子供の健康を案じる父親の熱ではなかった。

 

「俺も行く」

 

燈真は言った。

 

炎司がこちらを見る。

 

「必要ない」

 

「焦凍が熱くなりすぎたら、俺が吸える」

 

「半冷半燃には自己冷却がある。その必要はない」

 

「でも、最初から上手くできるとは限らないだろ」

 

「燈真」

 

冷が止めようとする。

 

燈真は母に笑いかけた。

 

「見てるだけだよ」

 

本当は、分かっていた。

 

焦凍は自分を必要としない。

 

炎を使えば、氷で冷やせる。

 

氷を使えば、炎で温められる。

 

燈矢のように、身体を焼くこともない。

 

自分が熱を引き受けなくても、完成している。

 

父が求めた最高傑作。

 

燈真がいなくても、一人で父の夢を叶えられる子供。

 

だからこそ、そばにいたかった。

 

自分が必要とされなくなる瞬間を、見届けなければならないと思った。

 

訓練場へ向かう廊下の途中で、燈矢が立っていた。

 

壁にもたれ、腕を組んでいる。

 

「どこ行くんだよ」

 

「焦凍の訓練」

 

「お前もやるのか?」

 

「見てるだけ」

 

「父さんは、もう俺とは訓練しないくせに」

 

その声には、隠しきれない棘があった。

 

幼い焦凍が、燈真の服へしがみつく。

 

兄の険しい顔が怖いらしい。

 

その様子を見て、燈矢の表情がさらに傷ついた。

 

「俺が怖いか?」

 

焦凍は答えない。

 

「燈矢兄」

 

燈真は、焦凍を自分の後ろへ隠した。

 

ほんの少しだけ。

 

守るつもりで動いただけだった。

 

だが燈矢には、弟から焦凍を守ったように見えた。

 

「そっか」

 

燈矢が笑う。

 

「お前も、そっちに行くんだな」

 

「違う」

 

「何が違うんだよ」

 

「燈矢兄も一緒に来ればいい」

 

「最高傑作の訓練なんか見て、どうしろっていうんだ」

 

炎司が足を止めた。

 

「燈矢。焦凍をそう呼ぶな」

 

「父さんがそう思ってるんだろ」

 

「部屋へ戻れ」

 

「図星かよ」

 

燈矢の体温が上がる。

 

燈真には、触れなくても分かった。

 

怒りで炎が漏れ出そうとしている。

 

「兄さん」

 

燈真は焦凍から離れ、燈矢の前へ立った。

 

「今日は休もう」

 

「俺を邪魔者みたいに言うな!」

 

伸ばされた手が、燈真の胸を押した。

 

強い力ではなかった。

 

それでも発熱していた身体では踏ん張れず、燈真は床へ倒れた。

 

「燈真兄!」

 

焦凍が初めて、はっきりと燈真を兄と呼んだ。

 

小さな身体で駆け寄ってくる。

 

「燈真」

 

燈矢も我に返った。

 

二人が同時に手を伸ばす。

 

燈真は、どちらの手も取らなかった。

 

取れば感情が流れ込んでくる。

 

燈矢の後悔も。

 

焦凍の恐怖も。

 

今は耐えられない。

 

「平気だよ」

 

燈真は自分で立ち上がった。

 

また、その言葉だった。

 

燈矢の顔が歪む。

 

「違うだろ」

 

「え?」

 

「お前は、平気じゃないだろ」

 

燈真は笑おうとした。

 

けれど燈矢は、それを許さなかった。

 

「笑うなよ」

 

低い声だった。

 

「痛いなら痛いって言えよ」

 

「痛くない」

 

「嘘だ」

 

「本当に平気だから」

 

「またそうやって、俺を悪者にしないつもりか?」

 

燈真の笑顔が止まった。

 

「お前が泣かなかったら、俺は謝ることもできないだろ」

 

「兄さんは悪くない」

 

「それが嫌なんだよ!」

 

燈矢の声が響く。

 

「俺が悪いことをしても、お前は俺を庇う。父さんが悪くても、母さんが苦しんでても、全部自分のせいにする。そうしたら俺たちは、お前に何をしたのか分からないままだろ!」

 

燈真は何も言えなかった。

 

燈矢は泣いていた。

 

「俺は、お前に許してほしいんじゃない」

 

震える手で、燈真の服を掴む。

 

「助けたいんだよ」

 

燈真の胸が痛んだ。

 

熱のせいではない。

 

その言葉を、ずっと待っていたことに気づいてしまったからだ。

 

助けてほしい。

 

本当はずっと、そう言いたかった。

 

父に。

 

母に。

 

兄に。

 

誰でもよかった。

 

大丈夫ではないと見つけてほしかった。

 

「……兄さん」

 

声が震えた。

 

「俺――」

 

助けて。

 

その一言が、喉まで出かかった。

 

だが、そのとき。

 

「時間の無駄だ」

 

炎司の声がした。

 

「焦凍の訓練を始める」

 

燈矢の手から力が抜ける。

 

焦凍が父に腕を引かれた。

 

幼い弟は不安そうに、何度も燈真を振り返っている。

 

「燈真兄」

 

呼ばれた。

 

助けを求める声だった。

 

燈真は迷わなかった。

 

喉まで出ていた自分の言葉を飲み込み、焦凍へ笑いかける。

 

「大丈夫。俺も一緒に行くから」

 

また一つ。

 

燈真は、自分を助ける機会を手放した。

 

訓練場の扉が閉まる。

 

その向こうへ消えていく弟の背中を、燈矢は動かずに見つめていた。

 

燈真は知らなかった。

 

この日、差し伸べられた燈矢の手を取れなかったことを、あとになって何度も後悔することになる。

 

そして燈矢も知らなかった。

 

弟に手を振り払われた記憶が、やがて彼を山へ向かわせる最後の一押しになることを。

 

ただ一人。

 

廊下の奥に立つ冷だけが、二人の息子の間に生まれた小さな亀裂を見ていた。

 

それを塞ごうと足を踏み出し――止まった。

 

どう声をかければいいのか、分からなかった。

 

その一瞬の迷いを責められる者はいない。

 

誰にでもある、ほんのわずかな躊躇だった。

 

けれど轟家は、そうした小さな躊躇を積み重ねて壊れていった。

 

そしてそのたびに燈真は、亀裂の中へ自分の身体を押し込んだ。

 

家族が落ちてしまわないように。

 

自分が底へ沈むことにも、気づかないまま。

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