第五章 帰る場所を守る者
燈真が次に目を覚ましたとき、白い天井が見えた。
消毒液の匂い。
一定の間隔で鳴る電子音。
腕に刺された点滴の針。
病院だと理解するまでに、少し時間がかかった。
身体を起こそうとした瞬間、胸の奥に激痛が走った。
「――っ」
息が止まる。
肺の内側に焼けた金属を押し込まれたような痛みだった。
燈真は声を殺し、ベッドへ身体を戻した。
右手を動かす。
指は動く。
左手も。
足の感覚もある。
背中には包帯が巻かれていたが、皮膚の痛みはほとんどない。
間に合った。
焦凍の顔を庇えた。
それを思い出した途端、胸の奥に安堵が広がった。
自分がどれほど傷ついたかよりも先に、弟が無事だったことを喜んでいる。
そのことを不自然だとは思わなかった。
ベッドの横から、わずかな衣擦れの音がした。
燈真が顔を向ける。
椅子に座った炎司が、腕を組んだまま目を閉じていた。
ヒーローコスチュームではない。
黒いシャツとズボンという簡素な服装だった。
父が普段着で自分のそばにいる。
燈真には、それが奇妙に見えた。
「父さん」
炎司の目が開いた。
「起きたか」
椅子から立ち上がり、燈真の顔を覗き込む。
「気分はどうだ」
「平気」
いつものように答えた。
父の眉間に皺が寄る。
「医師を呼ぶ」
それだけ言って、枕元の呼び出しボタンを押した。
間もなく医師と看護師が病室へ入ってきた。
光を目へ当てられ、呼吸や脈拍を確認される。
いくつか質問を受けた。
名前。
年齢。
今日の日付。
何が起きたか。
燈真は、覚えている範囲で答えた。
ただし、母がやかんを傾けたことだけは言わなかった。
「誤って熱湯を浴びました」
「君がやかんを倒したのかな?」
「はい」
「焦凍君を庇ったと聞いているけれど」
「弟が近くにいたから」
医師は燈真を見つめた。
嘘だと気づいているのかもしれない。
それでも追及はしなかった。
一通りの診察を終えると、医師はベッドのそばにある画像を炎司へ見せた。
「皮膚の火傷は軽度です。おそらく、熱湯が触れた直後に個性で熱を吸収したのでしょう」
「内臓は」
「そちらが問題です」
燈真は黙って二人の話を聞いていた。
「吸収された熱が全身へ分散せず、胸部へ集中しています。特に肺と心臓周辺の組織に炎症が見られます」
「後遺症は残るのか」
「現時点では断言できません。ただ、同様の個性使用を繰り返せば、将来的に深刻な障害が残る可能性があります」
炎司の表情が険しくなる。
「今後、この子に個性を使わせるべきではないと?」
「少なくとも、精密検査が終わるまでは禁止です。その後も使用量を厳しく管理する必要があります」
医師は燈真へ向き直った。
「痛みはあるかい?」
「ありません」
「本当に?」
「はい」
「先ほど、身体を起こしたときに顔をしかめていたね」
燈真は黙った。
父がこちらを見る。
「正直に答えろ」
「……少しだけ」
「どこが痛む?」
「胸です」
「どの程度かな。十段階で、十が耐えられない痛みだとしたら」
燈真は考えた。
息を吸うだけで痛い。
身体を動かすと、意識が遠のきそうになる。
だが、十と答えたら父が心配する。
退院も遅くなるかもしれない。
「二くらいです」
医師は信じていない顔をした。
炎司も同じだった。
「燈真」
父に名前を呼ばれる。
「嘘をつくな」
その言葉に、燈真は思わず父を見た。
今まで父は、自分の大丈夫という言葉を受け入れてきた。
燈真が続けると言えば、訓練を続けた。
痛くないと言えば、さらに炎を吸わせた。
弱音は許さないと教えたのも父だった。
それなのに今になって、嘘をつくなと言う。
「五」
燈真は答えを変えた。
本当は、それでも足りなかった。
「分かりました。鎮痛剤を調整しましょう」
医師たちが病室を出る。
扉が閉まると、父と二人きりになった。
沈黙が落ちた。
何を話せばいいのか分からない。
家では毎日のように顔を合わせている。
それでも父と二人で会話をした記憶は、訓練以外にはほとんどなかった。
「焦凍は?」
燈真から尋ねた。
「怪我はない」
「顔も?」
「ああ」
「よかった」
胸を撫で下ろす。
「母さんは?」
炎司はすぐには答えなかった。
「別の病院にいる」
「怪我したの?」
「違う」
父の拳が固く握られる。
「精神科病棟へ移った」
燈真は息を止めた。
「いつ帰ってくる?」
「分からん」
「明日?」
「分からないと言った」
「来週?」
炎司の表情が歪んだ。
「しばらくは帰れない」
しばらく。
それが何日なのか、何週間なのか。
十歳の燈真には分からなかった。
ただ、今までの生活には戻れないのだと理解した。
「父さん」
「何だ」
「母さんを怒らないで」
炎司の目が鋭くなる。
「何があった」
「俺がやかんを倒した」
「それが嘘であることくらい分かっている」
「事故だったんだ」
「冷がやったのか」
「違う」
「燈真」
「母さんは疲れてただけなんだ!」
強く言った途端、胸に痛みが走る。
燈真は咳き込んだ。
炎司が背中へ手を伸ばしかける。
その手は途中で止まり、静かに下ろされた。
「母さんは、焦凍を傷つけたかったわけじゃない」
「だが、やった」
「俺が止めた」
「お前がいなければ、焦凍は大火傷を負っていた」
「俺がいたから、怪我しなかった」
「結果だけの話をしているのではない!」
病室に怒声が響いた。
燈真の肩が跳ねる。
炎司は自分の声の大きさに気づき、口を閉じた。
廊下を歩いていた看護師が、扉の窓から室内を確認する。
炎司は視線を逸らした。
「すまない」
小さな声だった。
父から謝られたのは、初めてだった。
燈真は驚いて、何も言えなかった。
炎司は椅子へ座り直した。
大きな身体が、いつもより小さく見える。
「冷を追い詰めたのは、俺だ」
燈真が聞いたことのない声だった。
「分かっていた」
炎司は俯いたまま続ける。
「何も分かっていないふりをしていた」
焦凍を鍛えるため。
オールマイトを超えるため。
自分の夢を叶えるため。
家族の様子がおかしいことに気づきながら、見ないふりをした。
気づけば止まらなければならないから。
止まれば、自分の人生が失敗だったと認めることになるから。
「だが」
炎司は燈真を見た。
「それと、冷が焦凍を傷つけようとしたことは別の問題だ」
「別じゃないよ」
「何?」
「全部、繋がってる」
燈真は胸を押さえながら身体を起こした。
「燈矢兄が炎を止められないことも。焦凍が父さんを怖がることも。母さんが焦凍の左側を見られなくなったことも」
「……」
「俺が痛くても大丈夫って言うことも」
初めて、自分のことを口にした。
父の目が揺れた。
「全部、繋がってるんだよ」
燈真は父の腕へ手を伸ばした。
触れた瞬間、熱が流れ込んでくる。
激しい怒り。
冷に対する怒り。
自分自身への怒り。
何もできなかったという後悔。
子供を守れなかった恐怖。
そして、この出来事さえ外部に知られれば、エンデヴァーの評判に傷がつくという焦り。
最後の感情に触れた瞬間。
燈真は手を離した。
父は、こんなときまでヒーローとしての立場を気にしている。
母が壊れた。
焦凍が傷つけられそうになった。
燈真が入院している。
それでも父の心のどこかには、世間の目がある。
燈真は失望した。
けれど、それ以上に悲しかった。
父は悪人ではない。
悪人ではないからこそ、自分の弱さを認められず、家族を傷つけ続ける。
ただ家族を憎んでいるのなら、燈真も父を憎めたかもしれない。
しかし父の中には、確かに家族を失う恐怖があった。
愛情らしきものもあった。
それらが歪み、焦りや執着と混ざって、取り返しのつかないものへ変わっていた。
「父さん」
燈真は言った。
「母さんを入院させて終わりにしないで」
「何を言っている」
「父さんも変わってよ」
炎司が黙り込む。
「焦凍の訓練を休ませて」
「それは――」
「俺が退院するまででいい」
本当は、ずっとやめさせたかった。
けれど、それでは父は受け入れない。
だから小さな頼みに変えた。
「今、焦凍を一人にしないで」
「冬美と夏雄がいる」
「兄弟じゃなくて、父さんがそばにいて」
父の顔に戸惑いが浮かぶ。
燈真には、それが答えだった。
炎司は敵を倒す方法を知っている。
火災から人を救う方法も。
だが、怯えている我が子にどう寄り添えばいいのかを知らなかった。
「何をすればいい」
父は真剣に尋ねた。
まるで現場で指示を求める新人ヒーローのようだった。
燈真は少し考えた。
「焦凍が悪くないって言って」
「あいつに非がないことは当然だ」
「父さんは分かってても、焦凍は分からない」
「……」
「それから、母さんを悪く言わないで」
「事実を隠せと言うのか」
「焦凍は、自分のせいで母さんがいなくなったって思うから」
燈真自身も、そう思っていた。
自分がもっと早く母を病院へ連れていけていたら。
自分が母の苦しみをもっと吸収できていたら。
あの日、焦凍を台所へ近づけなければ。
母は家を離れずに済んだかもしれない。
それを口にすれば、父は否定しただろう。
だから言わなかった。
炎司は長い沈黙のあと、立ち上がった。
「分かった」
「本当に?」
「努力する」
父の言葉とは思えないほど、頼りない答えだった。
それでも燈真は頷いた。
「ありがとう」
炎司が病室を出る。
扉が閉まる直前、燈真は父を呼び止めた。
「父さん」
「何だ」
「燈矢兄とも話して」
父の顔が強張った。
「今は、その時ではない」
「今じゃないと駄目なんだよ」
「まず焦凍の状態を確認する」
「燈矢兄も父さんの子供だ」
「分かっている」
「分かってないよ」
父の身体から熱が立ち上る。
苛立ち。
後悔。
燈矢と向き合うことへの恐怖。
だが炎司は怒鳴らなかった。
「退院したら話す」
「約束して」
「約束する」
扉が閉まった。
燈真は一人になった病室で、白い天井を見上げた。
父の約束を信じたかった。
自分が守れない約束を何度もしてきたからこそ、誰かの約束くらいは信じたかった。
だが、その約束が果たされることはなかった。
燈真は二週間、病院から出られなかった。
その間に、冷の入院が正式に決まった。
退院の数日前。
燈真は車椅子で、母のいる病院へ連れていってもらった。
面会室には、白い机と二つの椅子だけが置かれていた。
やがて扉が開き、冷が入ってくる。
家にいたころより、少し痩せて見えた。
「燈真」
母は、車椅子に乗った息子を見て立ち止まった。
その顔に罪悪感が浮かぶ。
燈真は、反射的に笑った。
「もう元気だよ」
「嘘」
すぐに見抜かれた。
母は燈真の前へ膝をついた。
手を伸ばしかけ、触れる直前で止める。
「触ってもいい?」
その問いが胸に刺さった。
以前の母なら、そんなことは聞かなかった。
頭を撫でることも。
抱き締めることも。
手を握ることも。
親子なら当然のようにしていた。
今は、自分の子供へ触れることさえ恐れている。
「うん」
燈真から母の手を取った。
冷たい。
それでも、震えていた。
「焦凍は?」
「怪我してない。顔にも傷は残ってないよ」
冷の目から涙が溢れた。
「よかった」
「昨日、父さんがお見舞いに連れてきてくれた」
「炎司さんが?」
「うん。焦凍に、何も悪くないって言ってた」
あの日、家へ戻った炎司は、燈真に言われた通りの言葉を焦凍へ伝えた。
不器用で、表情も固く、抱き締めることすらできなかった。
それでも訓練を休ませ、泣く焦凍のそばに座った。
父にとっては、ほんの小さな変化だった。
焦凍にとっては初めて、訓練以外のために父がそばにいた夜だった。
「父さん、変わろうとしてる」
燈真は言った。
冷は寂しそうに笑った。
「そう」
「だから母さんも、治ったら帰ってきて」
返事はなかった。
「いつ帰れる?」
「分からないの」
父と同じ答えだった。
燈真は母の手を強く握った。
「みんなで待ってる」
「燈真」
「俺が家を守るから」
冷の顔が歪んだ。
「それをやめて」
「え?」
「あなたが守らなくていい」
「でも」
「家族のために、自分を壊さないで」
母の声が震える。
「私が一番後悔しているのは、焦凍を傷つけようとしたことだけじゃない」
冷は燈真の胸元へ視線を落とした。
「あなたが苦しんでいることに気づきながら、頼ってしまったこと」
「母さんは何も――」
「していない。それが罪なの」
燈真は言葉を失った。
「あなたが笑えば安心した。大丈夫と言えば信じたふりをした。燈真ならどうにかしてくれるって」
「俺が好きでやったんだ」
「そう言わせてしまった」
冷は首を振った。
「もう誰かの代わりに傷つかないで」
無理だった。
そうしなければ、誰かが傷つく。
燈真が熱を吸わなければ、焦凍の顔には火傷が残っていた。
燈矢の身体には、さらに多くの傷が増えていた。
自分が父と母の間へ入らなければ、もっと早く家族は壊れていたかもしれない。
「分かった」
燈真は答えた。
母を安心させるための、守れない約束だった。
冷は息子を抱き締めた。
燈真も腕を回す。
母の身体は冷たかった。
それでも、その奥にある感情はひどく熱かった。
家へ帰りたい。
子供たちに会いたい。
けれど、また傷つけるのが怖い。
母親でいる資格がない。
助けてほしい。
燈真は、その苦しみを吸わなかった。
母との約束を守るためではない。
吸収する余裕が、もう身体に残っていなかったからだ。
触れているだけで胸が痛む。
呼吸が苦しくなる。
それでも母を離せなかった。
「待ってるから」
燈真は、母の肩越しに言った。
「いつまででも待ってる」
退院した燈真が家へ戻ると、玄関に冬美と夏雄、焦凍が並んでいた。
「おかえり!」
冬美が真っ先に抱きついてくる。
その後ろから夏雄も飛び込んできた。
焦凍だけは少し離れた場所で立ち止まっている。
「焦凍?」
呼ぶと、弟の肩が震えた。
「どうした?」
「触ったら、燈真兄が痛くなる」
誰かに教えられたのだろう。
燈真の個性は、触れた相手の熱だけでなく、強い感情まで吸収することがある。
医師から、家族へ説明があったのかもしれない。
「今は大丈夫だよ」
燈真は両腕を広げた。
焦凍は迷った。
それから、小さな身体で駆けてくる。
勢いよく抱きつかれ、胸に激痛が走った。
燈真は顔へ出さなかった。
「おかえり、燈真兄」
「ああ。ただいま」
焦凍を抱き締める。
弟の左側の顔に傷はない。
それだけで、痛みに耐える価値があったと思えた。
「燈矢兄は?」
尋ねると、冬美の笑顔が消えた。
「部屋にいる」
「ずっと出てこない」
夏雄が言う。
燈真は荷物を置き、自分の部屋より先に燈矢の部屋へ向かった。
何度ノックしても返事はない。
「兄さん。俺だよ」
反応はなかった。
「退院した」
襖の向こうで、小さな物音がした。
「顔だけ見せてよ」
「……帰れ」
低い声が返ってきた。
「帰るって、ここが俺の家だろ」
「向こう行けよ」
「開けるぞ」
「来るな!」
怒声と同時に、襖の向こうから熱が伝わった。
炎を出したのだ。
燈真は襖を開けた。
部屋の隅に燈矢が座っている。
腕には新しい火傷が増えていた。
髪は以前より白くなっていた。
赤かった部分が、根元から色を失い始めている。
「また訓練したのか」
「関係ないだろ」
「あるよ」
「焦凍のところへ行けよ」
「今は兄さんと話しに来た」
「最高傑作の顔を守った英雄様が、俺に何の用だよ」
燈真の足が止まる。
「英雄じゃない」
「みんな言ってるぞ。冬美も夏雄も、燈真兄が焦凍を助けたって」
「弟を守っただけだ」
「俺のことは守らなかったくせに」
燈真は言葉を失った。
燈矢の目が揺れる。
「入院する前、お前は焦凍を守って俺を怒鳴った」
「それは、兄さんが焦凍を責めようとしたから」
「分かってるよ!」
燈矢の掌から炎が漏れる。
赤い炎。
その中心に、青い色が混ざっていた。
燈真は息を呑んだ。
「その炎……」
燈矢も気づいたらしい。
掌を見つめる。
炎の青い部分が、少しずつ広がっていく。
熱が増していた。
父の炎を超えるほどの温度。
それと同時に、燈矢の皮膚が焼け始める。
「消して!」
燈真は駆け寄り、燈矢の手を掴んだ。
熱が流れ込む。
退院したばかりの身体に、鋭い痛みが走った。
それでも手を離さない。
青い炎が、燈真の中へ吸い込まれていく。
「離せ!」
「身体が焼けてる!」
「でも見ただろ!」
燈矢の顔に、歓喜が浮かんでいた。
「青かった」
「だから何だよ!」
「父さんより熱い炎だ!」
燈矢は笑っていた。
子供のような笑顔だった。
ずっと失っていたものを取り戻した顔。
「これなら父さんも、俺を見る」
「兄さん」
「俺は失敗作じゃない」
燈真の中へ、燈矢の熱と感情が流れ込む。
嬉しい。
やっと認めてもらえる。
焦凍に勝てる。
父に捨てられずに済む。
自分には価値がある。
「燈真」
燈矢が弟の肩を掴んだ。
「父さんに見せよう」
「駄目だ」
「どうして」
「兄さんの身体が耐えられない」
「お前が吸ってくれればいい」
その言葉に、燈真の身体が固まった。
燈矢も、自分が何を言ったのか気づいた。
喜びに満ちていた顔が、一瞬で青ざめる。
「違う」
慌てて手を離す。
「今のは違う。俺は、そんなつもりじゃ……」
燈真は笑った。
「分かってるよ」
「違うんだ」
「兄さんが俺を道具だと思ってないことくらい、分かってる」
「ごめん」
「謝らなくていい」
「ごめん……」
燈矢は俯いた。
涙が床へ落ちる。
「俺、お前が入院してる間、ずっと考えてた」
「何を?」
「お前が死んだらどうしようって」
燈真は黙って聞いた。
「母さんもいなくなった。父さんは俺を見ない。焦凍は俺を怖がってる」
声が震える。
「お前までいなくなったら、俺には何も残らない」
燈真は兄を抱き締めた。
「いなくならないよ」
「本当か?」
「ああ」
「もう俺の炎を吸わなくていい」
「うん」
「俺も勝手に訓練しない」
「うん」
二人はまた、守れない約束を交わした。
それから数週間。
燈矢は家で炎を出さなくなった。
少なくとも、家族の前では。
代わりに、一人で外出する時間が増えた。
服に焦げた匂いをつけて帰ってくる。
新しい火傷を隠すように、長袖を着る。
燈真は気づいていた。
それでも、すぐには止めなかった。
燈矢から炎を奪えば、兄には本当に何も残らない。
そう思ってしまったからだ。
父は燈真との約束を果たさなかった。
燈矢と向き合うことを先延ばしにし、焦凍の訓練を再開した。
以前より時間は短くなった。
焦凍が倒れるまで続けることも減った。
それでも、根本は変わらなかった。
父の目は焦凍の先にあるオールマイトを見ていた。
燈矢のことは見ようとしなかった。
母のいない家では、冬美が料理を覚え始めた。
燈真も手伝った。
夏雄は燈矢の部屋へいる時間が増えた。
焦凍は訓練が終わるたび、燈真のそばへ来た。
家族は一緒に暮らしていた。
だが、それぞれが別の方向を向いていた。
燈真だけが、全員の間を走り続けた。
食卓に空席を作らないため。
誰かが一人で泣かないため。
母が帰ってきたとき、家族がばらばらになっていないように。
そして、季節は再び冬へ近づいた。
ある夜。
家族が寝静まったあと、燈真は庭に立っていた。
胸元へ手を当てる。
体内には、これまで吸収してきた熱が残っている。
医師からは、個性の使用を止められていた。
だが、吸うことを止めるだけでは足りない。
すでに溜まった熱を、外へ出さなければならない。
燈真は右手を前へ伸ばした。
呼吸を整える。
体内の熱を、掌へ集める。
皮膚の下を熱が移動する。
痛みに耐えながら、押し出す。
掌の前で、小さな火が灯った。
赤くない。
青くもない。
色を失った、灰色の炎だった。
風に揺れながら、頼りなく燃えている。
「できた……」
初めて、自分の意思で熱を放出した。
誰かから奪った熱。
誰かが抱えていた苦しみ。
それらを燃料にした炎。
灰色の火を見ていると、燈真の頭に家族の声が蘇った。
父の怒声。
母の泣き声。
燈矢の謝罪。
焦凍の助けを求める声。
冬美の作り笑い。
夏雄の寂しさ。
全部が炎の中で混ざり合っている。
燈真は手を握り、炎を消した。
「綺麗じゃないな」
背後から声がした。
振り向く。
庭の入り口に、燈矢が立っていた。
「見てたの?」
「ああ」
燈矢が近づいてくる。
「お前も隠れて訓練してたんだな」
「兄さんもだろ」
「俺はいいんだよ」
「よくない」
互いに睨み合い、同時に目を逸らした。
自分だけは例外だと思っているところまで、二人はよく似ていた。
「その炎、なんていうんだ」
燈矢が尋ねる。
「名前なんかないよ」
「つけろよ」
「灰色で、弱くて、すぐ消える炎だぞ」
「でも、お前にしか出せない」
その言葉に、燈真は顔を上げた。
「俺にしか?」
「ああ」
燈矢は当然のように言った。
「俺の青い炎と同じだ」
燈真は、自分の掌を見た。
父が望んだ炎ではない。
誰かを焼き払うほどの火力もない。
使うたびに、吸収した苦しみが蘇る。
それでも、自分だけの炎。
「灰燼」
燈真は呟いた。
「何?」
「この炎の名前。灰燼」
「暗い名前だな」
「兄さんの蒼炎よりいいだろ」
「俺の炎には、まだ名前なんかない」
「今つけた」
「勝手につけるなよ」
久しぶりに、二人で笑った。
その笑顔が消える前に、燈矢が言った。
「今度の日曜、瀬古杜岳へ来てくれ」
燈真の表情が止まる。
「何をするつもり?」
「見せたいものがある」
「青い炎?」
「ああ」
燈矢は白くなった髪を風になびかせ、笑った。
「前より、もっと強くなった」
燈真の胸に嫌な予感が広がった。
「もうやめようって約束しただろ」
「最後だ」
「兄さんの最後は信用できない」
「本当に最後にする」
燈矢は燈真の目をまっすぐに見た。
「父さんに見てもらえたら」
その一言で、何も変わっていないことが分かった。
どれだけ燈真がそばにいても。
どれほど家族が燈矢を必要としても。
兄が求めているのは、父の視線だった。
最初に夢を与えた人から、もう一度だけ認めてほしい。
その願いだけは、燈真にも代わってやれない。
「父さんも呼ぶつもり?」
「もう話した」
「何て?」
「来るとは言わなかった」
燈矢は俯いた。
「でも、場所と時間は伝えた」
父は来ない。
燈真には分かっていた。
今の炎司は、燈矢の炎を見ることを恐れている。
自分が諦めさせられなかった証拠だから。
失敗した父親であることを突きつけられるから。
「燈真」
燈矢が頼む。
「お前からも父さんに言ってくれないか」
「俺が?」
「父さんは、お前の話なら少しは聞く」
そんなことはなかった。
父は燈真の言葉を聞くように見えて、受け入れられる部分だけを選んでいる。
それでも燈矢は、弟を最後の希望だと思っていた。
「一回でいいんだ」
燈矢の声が震える。
「一回だけ見てくれたら、もう訓練しない」
嘘ではなかった。
少なくとも今この瞬間、燈矢は本気でそう思っている。
だからこそ、燈真は断れなかった。
「分かった」
「来てくれる?」
「うん」
「父さんも?」
燈真は答えるまでに、少し時間がかかった。
「絶対に連れていく」
また一つ。
守れる保証のない約束をした。
燈矢は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、燈真は胸の奥にある不安を押し込めた。
日曜日。
瀬古杜岳。
その場所と時間を、何度も頭の中で繰り返した。
このときの燈真は、まだ信じていた。
父を連れていけば、すべてが終わる。
燈矢は無茶な訓練をやめる。
父は兄を認める。
焦凍は自分のせいで兄が捨てられたと思わずに済む。
母が帰ってくる場所も守れる。
家族を救うために必要なのは、父を山へ連れていくことだけ。
ただ、それだけなのだと。
約束の日まで、あと三日。
瀬古杜岳に冬の風が吹き始めていた。