第七章 弟だけが起きていた
最初に戻ってきたのは、痛みだった。
胸を内側から引き裂かれるような痛み。
肺へ息を入れるたび、焼けた刃を押し込まれる。
心臓が一度動くごとに、全身の血管が破裂しそうになる。
燈真は目を開けた。
視界が緑色に染まっている。
声を出そうとしても、口と鼻を覆う器具が邪魔をした。
身体が動かない。
腕も。
脚も。
指一本さえ、自分のものではないようだった。
目の前を気泡が上っていく。
自分が液体の中にいるのだと気づく。
透明な壁の向こうに、白衣を着た男が立っていた。
丸い眼鏡。
白い髭。
大きな頭。
男は燈真が目を開けたことに気づくと、驚いたように資料へ視線を落とした。
「もう意識が戻ったのか」
声は機械を通して聞こえてきた。
「驚異的だ。まだ移植した組織も安定しておらんというのに」
燈真には、男が何を言っているのか分からなかった。
ここはどこなのか。
自分はなぜ液体の中にいるのか。
最後の記憶を探す。
雪。
山。
青い炎。
腕の中にいた燈矢。
「――!」
兄を思い出した瞬間、燈真の身体が跳ねた。
周囲の液体が激しく揺れる。
機械が警告音を鳴らした。
「落ち着け。今暴れれば、せっかく繋いだ心臓が裂けるぞ」
心臓。
繋いだ。
言葉の意味を理解した途端、恐怖が込み上げた。
燈真は透明な壁を叩こうとした。
腕は動かない。
それでも必死に身体へ力を入れる。
「兄さん……」
器具の隙間から、泡だけが漏れた。
「兄なら生きている」
白衣の男が言った。
燈真の動きが止まる。
「君よりも重傷だがね」
男が横を指す。
燈真は、視線だけを動かした。
隣にもう一つ、培養槽があった。
全身へ包帯を巻かれた少年が浮いている。
白くなった髪。
焼けた身体。
無数の管。
顔の大部分が覆われていたが、間違えるはずがなかった。
燈矢だった。
「にい、さん」
今度は音にならなかった。
それでも、燈真は何度も兄を呼んだ。
燈矢は動かない。
胸が上下しているようにも見えない。
ただ機械だけが一定の音を鳴らし、辛うじて命が繋がっていることを示していた。
「助けて」
燈真は器具を通して必死に声を出した。
液体と呼吸器に遮られ、ひどく歪んだ声になる。
「兄さんを、助けて」
「そのために治療している」
白衣の男は淡々と答えた。
「焼失した皮膚。炭化した組織。損傷した神経。肺や喉も焼けている。普通なら、山で死んでいた」
「治るの?」
「簡単ではない」
「助けられるんだよね?」
男は答えなかった。
代わりに培養槽の前から離れ、誰かへ連絡を取った。
数分後。
暗い部屋へ、もう一人の男が現れた。
山で見た黒い男だった。
顔の上半分を影に隠し、穏やかな足取りで燈真へ近づく。
「目覚めたそうだね」
男――オール・フォー・ワンは、培養槽越しに燈真を見た。
「気分はどうかな」
燈真は答えなかった。
答える代わりに男を睨む。
身体が動かなくても、それだけはできた。
「君は私を警戒していたね」
オール・フォー・ワンは楽しそうに言った。
「正しい判断だ。知らない大人へ簡単についていくべきではない」
「兄さんを、どうするつもり」
「助ける」
「嘘だ」
「なぜそう思う?」
「嬉しそうだから」
燈真は男から伝わるものを感じていた。
直接触れてはいない。
それでも山で一度、触れられた。
そのとき吸収したわずかな熱が、まだ体内に残っている。
二人の子供を救えた喜びではない。
珍しい個性を手に入れた喜び。
壊れかけた兄弟をどう利用するか考える愉悦。
この男は、燈真たちを人間として見ていなかった。
「なるほど」
オール・フォー・ワンは否定しなかった。
「君の個性は、私が予想していたよりも繊細らしい」
「家に帰して」
「今の身体で?」
「治ったら帰る」
「君たちは死んだことになっている」
燈真の思考が止まった。
「何を言ってるの」
「山から遺体は見つからなかった。だが、生存できる状況ではないと判断された」
「父さんが探してる」
「もちろん探したとも」
オール・フォー・ワンが指を鳴らす。
壁に設置された画面へ映像が映し出された。
焼けた瀬古杜岳。
立ち入り禁止のテープ。
山の入口に立つ炎司。
取材へ答える警察官。
画面の下には、轟燈矢と轟燈真の死亡を伝える文字が流れていた。
場面が変わる。
喪服を着た冬美と夏雄。
炎司の横で俯く焦凍。
病院の職員に支えられ、遺影を見つめる冷。
二枚の写真。
燈矢と燈真。
自分の葬式だった。
「やめて」
燈真は目を逸らした。
「残念だが、これが現実だ」
「帰れば分かる」
「何が?」
「生きてるって」
「その身体で家族の前へ戻れば、どうなるかな」
オール・フォー・ワンの声は優しかった。
だからこそ、恐ろしかった。
「君の身体には既に、本来持っていなかった組織が移植されている。通常の病院で調べられれば、説明を求められるだろう」
「……」
「誰が治療したのか。なぜ死亡した子供が三年間も――」
「三年?」
燈真は聞き返した。
「今、何て言ったの」
オール・フォー・ワンは、わずかに首を傾けた。
白衣の男が口を挟む。
「厳密には、山火事から五週間ほどしか経っておらん」
燈真は息を吐いた。
その安堵を見て、オール・フォー・ワンが笑う。
「私は少し未来の話をしただけだよ」
「ふざけるな」
「いずれ、そうなる」
男は燈矢の培養槽へ視線を向けた。
「兄の治療には長い時間が必要だ」
「どのくらい?」
「分からない」
父も。
母も。
そして目の前の男も。
誰も燈真が欲しい答えをくれなかった。
「兄さんが起きるまで、ここにいる」
燈真は言った。
「起きたら二人で帰る」
「君の兄が目覚めればね」
機械音が鳴る。
白衣の男が燈矢の数値を確認した。
その表情が険しくなる。
「血圧が下がっておる」
燈真の心臓が跳ねた。
「兄さん?」
白衣の男が複数の機械を操作する。
警告音が大きくなる。
燈矢の身体は動かない。
「何とかして!」
「移植組織が拒絶を起こしている」
「助けてよ!」
「今の設備では、これ以上の処置は難しい」
白衣の男がオール・フォー・ワンを見る。
「追加の再生系個性が必要です」
「用意しよう」
オール・フォー・ワンは簡単に答えた。
「ただし」
男の視線が燈真へ向く。
「相応の対価は必要になる」
警告音が鳴り続けている。
燈矢の命が消えようとしている。
考える時間など与えられていなかった。
「何をすればいい」
燈真は尋ねた。
「聞き分けが良いね」
「兄さんを助けるためなら、何でもする」
山で燈矢が口にした言葉と、同じだった。
「燈真」
白衣の男が培養槽の音声を調整する。
オール・フォー・ワンの声が、より鮮明に聞こえた。
「私に協力しなさい」
「何をさせるつもり」
「君の個性を調べる。そして、強くする」
「人を傷つけることはしない」
「必要なら?」
「しない」
燈真は迷わなかった。
「誰かを殺せって言うなら、兄さんと一緒に死ぬ」
オール・フォー・ワンは黙った。
脅しではないと理解したのだろう。
燈真にとって、兄を救うことは大切だった。
だが、兄を救うために誰かの家族を奪えば、燈矢はその事実に耐えられない。
「安心するといい」
オール・フォー・ワンは両手を広げた。
「今すぐ君に人殺しをさせるつもりはない」
今すぐ。
その言葉を、燈真は聞き逃さなかった。
「実験を受けてもらうだけだ」
「兄さんは助かる?」
「君が協力する限り、治療を続けると約束しよう」
「約束?」
「ああ」
燈真は約束という言葉を信じなかった。
自分も。
父も。
燈矢も。
守れない約束を何度もしてきた。
それでも、ほかに選べる道はなかった。
「分かった」
燈真は目を閉じた。
「何でもする」
その日から、実験が始まった。
最初に行われたのは、燈真の身体を培養槽から出せる状態まで修復することだった。
焼けた内臓の一部を別の組織へ置き換える。
裂けた血管を繋ぐ。
何度も停止する心臓を補助するため、回復を促進する個性因子を定着させる。
燈真は、その意味を詳しく教えられなかった。
ただ、眠らされるたびに身体のどこかが変わっていた。
胸に新しい傷が増える。
呼吸の仕方が変わる。
以前より強い熱へ耐えられるようになる。
その代わり、ときどき自分の心臓が自分のものではないように感じた。
最初に歩けるようになるまで、三か月かかった。
足が床へ触れた瞬間、燈真は崩れ落ちた。
力が入らない。
白衣の男――医師から「先生」と呼ばれている男は、記録を取りながら燈真を眺めていた。
「以前の筋肉はほとんど失われておる。焦るな」
燈真は床へ手をつき、立ち上がった。
「兄さんのところへ行く」
「まだ無理だ」
「行く」
壁を支えに、一歩進む。
脚が震える。
二歩目で転んだ。
それでも立ち上がる。
「やめておけ」
「兄さんが起きたとき、迎えに行けない」
「まだ目覚める兆候はない」
「それでも行く」
燈真は何度倒れても立ち上がった。
先生は止めなかった。
その様子さえ、実験記録の一つにしていた。
廊下を進むだけで一時間近くかかった。
燈矢が眠る部屋へたどり着く。
培養槽の中にいる兄の姿は、以前と変わっていた。
焼失した皮膚の代わりに、別の組織が移植されている。
色の違う皮膚。
そこを繋ぎ止める器具。
「兄さん」
燈真は透明な壁へ手を当てた。
返事はない。
「遅くなってごめん」
その場へ座り込む。
「俺、歩けるようになったよ」
燈真は、眠る燈矢へ毎日話しかけた。
今日は十歩歩けた。
食事を全部食べられた。
灰燼を少しだけ出せるようになった。
冬美は料理が上手くなっているだろうか。
夏雄は泣いていないだろうか。
焦凍は、炎を嫌いになっていないだろうか。
母は治療を続けているだろうか。
父は、自分たちがいなくなって何を思っているのだろうか。
答えは返ってこない。
それでも話し続けた。
燈矢が一人ではないと伝えるために。
そして、自分が一人だと思わないために。
半年が過ぎたころ、燈真は実験室へ移された。
中央に椅子が置かれている。
その周囲には、巨大な熱源が並んでいた。
「すべて吸収しろ」
先生が安全な場所から指示を出す。
「無理だよ」
「以前のお前ならな」
「何をしたの」
「熱を蓄積できる器を増やした」
「器?」
「説明しても理解できん」
「俺の身体だ」
「その身体を作り直したのは、こちらだ」
燈真は椅子へ座った。
手足を拘束される。
最初の熱源が起動した。
炎が噴き出す。
燈真は熱を吸収する。
胸の奥に火が流れ込む。
痛い。
以前なら、すぐに意識を失う量だった。
今は耐えられる。
二つ目が起動する。
三つ目。
四つ目。
全身から煙が上がる。
「まだだ」
先生の声が聞こえる。
「限界まで吸え」
「もう、無理」
「燈矢の生命維持装置を停止するか?」
燈真は顔を上げた。
先生の隣にある画面へ、眠る燈矢が映っている。
「卑怯だ」
「お前が協力すると言った」
五つ目の熱源が起動する。
燈真は叫び声を上げた。
それでも吸収した。
兄を生かすために。
実験が終わるたび、燈真は燈矢の培養槽の前へ運ばれた。
自分では歩けない。
床へ寝かされ、兄の姿を見る。
「今日も頑張ったよ」
返事はない。
「だから兄さんも頑張って」
腕を上げることもできず、床から培養槽を見上げる。
「早く起きてよ」
燈真が泣いても、誰も慰めなかった。
施設に季節はなかった。
窓がない。
朝も夜も、照明によって決められた。
燈真は日数を忘れないため、自分の部屋の壁へ一本ずつ傷をつけた。
三百六十五本目。
一年。
燈矢は目覚めなかった。
そのころには、燈真の身体は以前より頑丈になっていた。
高温の炎を吸収しても、すぐには倒れない。
傷も以前より早く治る。
灰燼の炎は、掌に収まらないほど大きくなった。
だが、炎を出すたびに家族の感情が蘇る性質だけは変わらなかった。
父の後悔。
母の恐怖。
燈矢の絶望。
焦凍の悲しみ。
灰色の炎は、燈真が背負ってきたものを燃料にして成長していた。
二年目。
実験の内容が変わった。
燈真と同じ施設にいる子供たちの熱を吸収するよう命じられた。
体温ではない。
苦痛や恐怖によって生まれる、感情の熱。
個性を移植され、熱を出している子。
身体の形が変わり、泣き続けている子。
自分の名前を忘れた子。
「嫌だ」
燈真は拒んだ。
「この子たちに触るな」
「吸収すれば、苦痛は和らぐ」
オール・フォー・ワンが言った。
久しぶりに姿を現した男は、以前と何も変わっていなかった。
「君が痛みを引き受ければ、彼らは楽になれる」
その言い方は卑怯だった。
燈真が断れないと知っている。
「その代わり、俺が苦しくなる」
「そうだね」
「分かって言ってるの?」
「もちろん」
オール・フォー・ワンは笑った。
「君は、それでも手を差し伸べる」
燈真は目の前で苦しむ子供を見た。
助けを求める目。
家にいたころの焦凍と同じ目だった。
燈真は子供の手を握った。
熱が流れ込んでくる。
恐怖。
痛み。
家に帰りたいという願い。
母親を呼ぶ声。
すべて燈真の中へ入る。
子供の表情から苦痛が消え、静かに眠った。
代わりに燈真が床へ倒れた。
「素晴らしい」
オール・フォー・ワンが言った。
「君は生まれながらの救済者だ」
燈真は床から男を睨んだ。
「違う」
「何が?」
「この子たちを苦しめたのは、お前だ」
笑みは消えなかった。
「だから俺が助けても、お前のしたことがなくなるわけじゃない」
「なるほど」
「いつか全員、ここから連れ出す」
「君一人で?」
「兄さんと一緒に」
その言葉を聞き、オール・フォー・ワンの笑みがわずかに深くなった。
「まだ兄が君を助けてくれると信じているのか」
「信じてる」
「兄は目覚めないかもしれない」
「起きる」
「目覚めても、以前の燈矢ではないかもしれない」
「それでも俺の兄さんだ」
燈真は迷わなかった。
オール・フォー・ワンは、それ以上何も言わなかった。
三年目。
壁の傷は千本を超えていた。
燈真は十三歳になっていた。
身長が伸びた。
身体には無数の手術痕が残った。
髪は熱の影響で色素を失い、燈矢と同じように白くなっていた。
瞳だけは以前のままだった。
家族の顔は、まだ忘れていない。
冬美の笑顔。
夏雄の泣き顔。
焦凍の左右で色の違う髪。
母の冷たい手。
父の大きな背中。
忘れないため、毎晩一人ずつ思い出した。
ある日。
いつものように燈矢の部屋へ入ると、警告音が鳴っていた。
燈真の血の気が引く。
「兄さん!」
培養槽へ駆け寄る。
医師たちが慌ただしく機械を操作している。
「何があった!」
「脳波が変化しておる」
先生が画面を確認する。
「これは……」
燈矢の指が動いた。
ほんのわずか。
見間違いかと思うほど小さな動きだった。
「兄さん?」
燈真は透明な壁へ両手をついた。
燈矢の瞼が震える。
三年間、一度も動かなかった目がゆっくりと開いた。
焦点が合わない。
天井を見ている。
自分がどこにいるのか、理解できていない。
「兄さん」
燈真の声が震えた。
「俺だよ」
燈矢の目が動く。
透明な壁の向こうに立つ少年を見る。
白い髪。
以前より伸びた身体。
胸元や腕に残る傷。
燈矢の知っている弟とは、姿が違っていた。
唇が動く。
声は出なかった。
それでも、何を言ったのか分かった。
――誰だ。
燈真は笑った。
涙が次々と溢れた。
「燈真だよ」
三年間、何度も練習した言葉。
兄が目覚めたら、最初に言おうと決めていた言葉。
「おはよう、兄さん」
透明な壁へ額をつける。
「少し、寝坊しすぎだよ」
燈矢の目が大きく見開かれた。
「三年経ったんだ」
その瞬間。
燈矢の目から、一筋の涙が流れた。