灰を抱く者   作:ケーケーケー

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AI利用です


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第八章 兄だけを帰す日

 

燈矢が目を覚ましてから、培養槽を出るまでに一か月かかった。

 

その間、燈真は毎日兄のもとへ通った。

 

燈矢はまだ声を出せなかった。

 

焼けた喉は移植された組織によって形だけは修復されていたが、三年間使われなかった声帯は、すぐには動かなかった。

 

だから兄弟は、透明な壁越しに会話をした。

 

燈真が問いかける。

 

燈矢が瞬きや指の動きで答える。

 

「痛い?」

 

一度の瞬き。

 

肯定。

 

「苦しい?」

 

一度。

 

「俺のこと、分かる?」

 

燈矢は目を細めた。

 

少しだけ傷ついた顔だった。

 

それから、右手の中指を立てた。

 

「元気そうでよかったよ」

 

燈真が笑うと、燈矢はもう一度同じ指を立てた。

 

以前と同じ反応。

 

姿は変わっても、中にいるのは燈矢だった。

 

それだけで、燈真は救われた。

 

三年間が無駄ではなかったと思えた。

 

「家のことが気になる?」

 

一度の瞬き。

 

燈真は少し迷った。

 

家族の現在を、詳しくは知らない。

 

施設で見せられる映像が本物かどうかも分からなかった。

 

それでも、分かっていることだけを伝えた。

 

「みんな、俺たちが死んだと思ってる」

 

燈矢の目が揺れる。

 

「父さんも探した。瀬古杜岳に何度も行ったみたいだ」

 

燈真が映像で確認できたのは、そこまでだった。

 

炎司は焼けた山へ何度も足を運んでいた。

 

行方不明者の捜索が打ち切られたあとも、一人で山を歩いていた。

 

だが、それが息子たちを案じての行動なのか、罪悪感からなのかまでは分からない。

 

「母さんは、まだ病院にいる」

 

燈矢の眉が寄る。

 

「でも、焦凍には傷が残らなかった。冬美も夏雄も無事だよ」

 

本当に無事なのか。

 

自分でも分からなかった。

 

身体に傷がないというだけだ。

 

大切な兄を二人同時に失い、それでも以前と同じでいられるはずがない。

 

「帰ろう」

 

燈真は透明な壁へ手を当てた。

 

「兄さんの身体が動くようになったら、二人で帰ろう」

 

燈矢の手が持ち上がる。

 

培養液の中をゆっくり進み、燈真の手と重なった。

 

透明な壁に阻まれ、触れることはできない。

 

それでも燈真は、兄の手の温かさを感じた気がした。

 

燈矢が培養槽から出されたのは、それから二週間後だった。

 

液体が排出される。

 

扉が開く。

 

全身を支えていた器具が外されていく。

 

燈真は医師たちの後ろで待っていた。

 

燈矢の身体が前へ倒れる。

 

「兄さん!」

 

燈真が受け止めた。

 

軽かった。

 

記憶にある兄より身長は伸びている。

 

それなのに、抱えた身体には驚くほど重さがない。

 

長い眠りの中で筋肉の多くが失われていた。

 

白くなった髪が燈真の頬へ触れる。

 

「とう……ま……」

 

掠れた声だった。

 

音を出すだけで、喉が裂けそうに痛むはずだ。

 

それでも燈矢は、弟の名を呼んだ。

 

「うん」

 

燈真は兄を抱き締めた。

 

「ここにいるよ」

 

「おまえ……」

 

燈矢の腕が、震えながら燈真の背中へ回る。

 

「でかく……なったな」

 

「兄さんが寝すぎたんだよ」

 

「三年……」

 

「うん」

 

「本当に?」

 

燈真は答えられなかった。

 

腕の中にいる兄。

 

三年間待ち続けた兄。

 

目覚めたことが嬉しい。

 

それなのに、喜びと同じくらい申し訳なさが込み上げた。

 

燈真だけが成長してしまった。

 

燈矢が眠っていた間に。

 

兄が何も知らないまま止まっていた三年間を、燈真は生きてしまった。

 

「ごめん」

 

「なんで……お前が謝る」

 

「起こせなかった」

 

「馬鹿」

 

燈矢の声は弱かった。

 

それでも、以前と同じ言い方だった。

 

「お前は、悪くない」

 

その言葉を聞いた途端、燈真の目から涙が溢れた。

 

三年間、一度も言われなかった言葉だった。

 

実験を受けたのも。

 

ほかの子供の苦しみを吸収したのも。

 

何度も身体を作り替えられたのも。

 

全部、自分で選んだことだと思っていた。

 

兄を助けるために必要だった。

 

だから苦しいと言う資格はない。

 

ずっとそう考えていた。

 

「兄さん」

 

声が震える。

 

「俺、頑張ったよ」

 

「ああ」

 

「兄さんが起きるまで、頑張った」

 

「ああ」

 

「痛かった」

 

ようやく口にできた。

 

燈矢の腕に力が込められる。

 

「ごめんな」

 

「兄さんは悪くない」

 

「それでも謝らせろ」

 

燈真は泣いた。

 

声を抑えることもできなかった。

 

施設へ連れてこられてから初めて、誰かの腕の中で泣いた。

 

燈矢は何も尋ねず、弟の身体を抱いていた。

 

その手が燈真の背中に残る傷へ触れる。

 

燈矢の指が止まった。

 

服の下に隠された手術痕。

 

熱源へ繋がれていた痕。

 

何度も開かれ、繋ぎ直された胸。

 

成長した身体に残る傷の多さが、三年間に起きたことを物語っていた。

 

「誰がやった」

 

燈矢の声が変わった。

 

「治療のためだよ」

 

「治療で、こんなになるか」

 

「兄さんを助けるために必要だった」

 

「誰がやったって聞いてる」

 

燈真は答えなかった。

 

燈矢が弟の肩を掴む。

 

弱っているはずなのに、指には痛いほど力が入っていた。

 

「黒い男か」

 

「兄さん」

 

「あいつに何をされた」

 

「大丈夫だよ」

 

「その言葉を使うな」

 

燈矢の目に怒りが浮かぶ。

 

「お前が大丈夫って言うときは、絶対に大丈夫じゃない」

 

燈真は何も言えなくなった。

 

兄は覚えていた。

 

三年眠っても。

 

身体が別物になっても。

 

燈真が痛みを隠すときの言葉だけは忘れていなかった。

 

「全部話せ」

 

「今は休んだ方がいい」

 

「燈真」

 

「話したら、兄さんが自分を責める」

 

「もう責めてる」

 

燈矢は自分の胸元を掴んだ。

 

「俺があの山で炎を出したからだ」

 

「違う」

 

「俺がお前に吸わせたから」

 

「違うよ」

 

「俺を生かすために、お前は三年間ここにいたんだろ!」

 

燈矢の身体から熱が上がった。

 

怒りに反応し、掌に青い炎が灯る。

 

次の瞬間、移植された皮膚が焼け始めた。

 

「消して!」

 

燈真は兄の手を握った。

 

青い炎を吸収する。

 

三年前と同じ熱。

 

だが、以前より簡単に取り込めた。

 

身体を作り替えられた結果だった。

 

「離せ」

 

燈矢が手を引こうとする。

 

「兄さんの身体は、まだ炎に耐えられない」

 

「お前が吸うな!」

 

「じゃあ消してよ!」

 

二人の声が重なる。

 

燈矢は歯を食いしばり、炎を止めた。

 

燈真も手を離す。

 

兄の掌には、新しい火傷ができていた。

 

三年かけて治療された身体が、たった数秒の炎で傷ついた。

 

「どうして」

 

燈矢は自分の手を見つめた。

 

「前より、弱くなってる」

 

燈真は答えられなかった。

 

代わりに、白衣の先生が告げた。

 

「お前の身体は、生来のものではない」

 

燈矢が睨む。

 

「焼失した組織の多くを、別の人間のものと置き換えた。生命維持を優先した結果、元の身体ほど炎への耐性はない」

 

「戻せ」

 

「不可能だ」

 

「俺の身体を返せ!」

 

燈矢が先生へ飛びかかろうとする。

 

脚に力が入らず、その場へ倒れた。

 

燈真が支える。

 

「触るな!」

 

振り払われた。

 

その手が燈真の頬へ当たる。

 

弱い力だった。

 

痛みなどほとんどない。

 

だが燈矢は、自分が弟を叩いたことに気づいて青ざめた。

 

「違う」

 

「分かってる」

 

「叩くつもりじゃ」

 

「大丈夫」

 

「それを言うな!」

 

怒鳴ったあと、燈矢は床へ拳をついた。

 

「何なんだよ」

 

声が震えている。

 

「父さんに見せるために強くなったのに」

 

青い炎を手に入れた。

 

父よりも熱い炎。

 

その代わり、自分の身体を失った。

 

「これじゃ、もう……」

 

「父さんに見せなくていい」

 

燈真は兄の前へ座った。

 

「もう証明しなくていいんだよ」

 

「じゃあ、俺の炎は何のためにあるんだ」

 

「誰かを助けるために使えばいい」

 

「俺自身も焼く炎で?」

 

「俺がいる」

 

燈真は迷わず答えた。

 

「兄さんの熱は、俺が吸える」

 

燈矢の顔が歪んだ。

 

「それじゃ、昔と同じだろ」

 

「同じじゃない」

 

「何が違う」

 

「今度は、父さんのためじゃない」

 

燈真は兄の火傷した手を取った。

 

「俺たち自身で、使い方を決めるんだ」

 

燈矢は黙って弟を見た。

 

その日から、二人のリハビリが始まった。

 

燈矢は歩く練習から始めた。

 

最初の数日は、数歩進むだけで倒れた。

 

倒れるたびに燈真が手を貸す。

 

燈矢は苛立ちながらも、その手を取った。

 

声も少しずつ戻った。

 

以前より低く、掠れた声になった。

 

食事も普通には取れない。

 

移植された組織が馴染まず、何度も熱を出した。

 

その熱を燈真が吸収した。

 

「やめろ」

 

毎回、燈矢は止めた。

 

「これくらい平気だよ」

 

「だから、その言葉を使うな」

 

「じゃあ、少し痛いけど我慢できる」

 

「それも嫌だ」

 

「注文が多いな」

 

「弟が自分を雑に扱うからだろ」

 

燈真は困ったように笑った。

 

燈矢は以前より、燈真の表情を見るようになった。

 

笑っていても、目が笑っていない。

 

平気と言いながら、左手で胸を押さえている。

 

眠るとき、身体を丸めて震えている。

 

ほかの子供が泣けば、自分の体調に関係なく部屋を出ていく。

 

三年間で染みついた行動だった。

 

「お前、あいつらのところへ行くのか」

 

ある夜、燈矢が尋ねた。

 

燈真は扉の前で立ち止まる。

 

「誰かが泣いてる」

 

「放っておけ」

 

「できない」

 

「お前は今、熱を出してる」

 

「だから?」

 

「寝ろ」

 

「苦しんでる子がいる」

 

「お前も苦しんでるだろ!」

 

燈矢が燈真の腕を掴んだ。

 

そのまま引き寄せ、額へ手を当てる。

 

「熱い」

 

「俺は慣れてる」

 

「慣れていいことじゃない」

 

「でも、俺が行けば楽になる」

 

「その代わりにお前が苦しむ」

 

「それで一人助かる」

 

燈矢は弟を睨んだ。

 

「どうして自分を一人に数えないんだよ」

 

燈真の表情が止まった。

 

誰かを助ければ、一人助かる。

 

自分が傷つけば、一人傷つく。

 

本来なら何も変わっていない。

 

それでも燈真は、自分を数へ入れたことがなかった。

 

「俺は……」

 

言葉が続かない。

 

燈矢は腕を離さなかった。

 

「俺も行く」

 

「兄さんは休んで」

 

「お前を一人で行かせない」

 

二人で廊下へ出る。

 

泣き声の聞こえる部屋へ向かう。

 

中には、幼い少年がいた。

 

個性の移植実験を受けたばかりだった。

 

身体の一部が変色し、高熱を出している。

 

「お母さん」

 

少年は何度も呼んでいた。

 

「帰りたい」

 

燈真はベッドの横へ座った。

 

「手、握ってもいい?」

 

少年が小さく頷く。

 

触れた瞬間、熱と感情が流れ込んできた。

 

痛み。

 

恐怖。

 

母親へ会いたいという願い。

 

燈真の身体が震える。

 

燈矢が背後から肩を支えた。

 

「吸いすぎるな」

 

「でも」

 

「半分、残せ」

 

「苦しいままだよ」

 

「全部お前が持ったら、今度はお前が動けなくなる」

 

「それでも」

 

「そしたら、次に泣いてる奴を誰が助ける」

 

燈真は目を見開いた。

 

初めて言われた考え方だった。

 

自分を守ることは、誰かを見捨てることではない。

 

次の誰かを助けるために、力を残す。

 

燈真は吸収を止めた。

 

少年の熱は下がっている。

 

苦しそうではあるが、先ほどより呼吸は落ち着いていた。

 

「ごめん」

 

燈真が言うと、少年は首を振った。

 

「ありがとう」

 

その一言に、燈真は泣きそうになった。

 

燈矢が弟の頭を軽く叩く。

 

「帰るぞ」

 

「うん」

 

二人は同じ部屋へ戻った。

 

消灯後。

 

燈真は燈矢へ、施設の構造を話した。

 

長い廊下。

 

実験室。

 

子供たちの部屋。

 

地上へ続く階段。

 

警備員が交代する時間。

 

この三年間で調べたことだった。

 

「ずっと逃げるつもりだったのか」

 

「兄さんが起きたら」

 

「一人では逃げなかったのか」

 

「兄さんを置いていけない」

 

「ほかの子供は?」

 

燈真が黙る。

 

それだけで答えになった。

 

「全員連れていくつもりか」

 

「置いていけない」

 

「何人いる」

 

「今分かってるだけで、十七人」

 

「俺たち二人で十七人を連れて逃げる?」

 

「無理だと思う?」

 

「無理に決まってるだろ」

 

燈真は俯いた。

 

燈矢がため息をつく。

 

「だから、考えるんだよ」

 

「手伝ってくれるの?」

 

「お前一人でやらせたら、絶対に死ぬ」

 

「兄さんがいても死ぬかもしれない」

 

「縁起でもないこと言うな」

 

昔、父へ言われた言葉だった。

 

二人は顔を見合わせた。

 

少しだけ笑う。

 

その夜から、兄弟は脱出計画を立て始めた。

 

決行日は、一か月後。

 

警備員が最も少なくなる深夜。

 

燈真が熱を吸収して施設の温度管理装置を停止させる。

 

燈矢が非常用の隔壁を炎で破壊する。

 

保護されている子供たちを起こし、地上へ向かう。

 

外へ出たあとは、最寄りの警察署へ助けを求める。

 

単純な計画だった。

 

それ以外に方法がなかった。

 

決行の日。

 

燈真は施設全体の熱を感じ取った。

 

壁の中を通る配管。

 

発電機。

 

空調設備。

 

実験室の熱源。

 

すべての熱を一か所へ集める。

 

「灰燼」

 

灰色の炎が、燈真の身体を覆った。

 

施設の照明が消える。

 

警報が鳴る。

 

非常灯が赤く点灯した。

 

「行くぞ!」

 

燈矢が扉へ青い炎を放つ。

 

数秒で金属が赤くなり、形を失う。

 

同時に燈矢の腕も焼けた。

 

燈真がすぐに余分な熱を吸う。

 

兄弟は廊下へ飛び出した。

 

一つずつ部屋を開ける。

 

子供たちを起こす。

 

「外へ出るよ!」

 

「静かについてきて!」

 

年長の子供へ幼い子を任せ、列を作る。

 

途中で警備員が現れた。

 

燈矢が前へ出る。

 

「下がれ」

 

青い炎が廊下を塞ぐ。

 

人へ向けては撃たない。

 

それでも、その火力を見た警備員は近づけなかった。

 

「右へ!」

 

燈真が先導する。

 

階段を上る。

 

一つ目の隔壁を破壊。

 

二つ目。

 

地上が近づく。

 

外気の冷たさが、わずかに感じられた。

 

「もう少しだ!」

 

子供たちの表情に希望が浮かぶ。

 

そのとき。

 

最後尾から悲鳴が聞こえた。

 

黒い影が床を這い、子供の足へ絡みついている。

 

燈真は列を逆走した。

 

「離せ!」

 

灰色の炎を放つ。

 

影が焼け、子供を解放する。

 

しかし進路の先に、複数の異形が現れた。

 

人間のようで、人間ではない。

 

身体の一部を継ぎ合わされた兵士たち。

 

「脳無」

 

燈真は、先生がそう呼んでいたことを思い出した。

 

「燈真!」

 

燈矢が駆け戻る。

 

「子供たちを連れていって!」

 

「お前は?」

 

「こいつらを止める」

 

「一緒に行くんだよ!」

 

脳無が突進する。

 

燈真は両手を前へ出した。

 

灰燼の炎が壁となり、衝撃を受け止める。

 

足元の床が砕けた。

 

「早く!」

 

「嫌だ!」

 

「兄さん!」

 

燈真は燈矢を見た。

 

「外へ出たら、家に帰って」

 

「二人で帰るって言っただろ!」

 

「うん」

 

「約束しただろ!」

 

「ごめん」

 

燈真は笑った。

 

燈矢が最も嫌う笑顔だった。

 

自分を犠牲にすると決めたときの笑顔。

 

「また破る」

 

「燈真!」

 

灰色の炎が二人の間へ立ち上がった。

 

熱はない。

 

それでも、吸収した恐怖や苦痛が渦巻く炎は、燈矢の本能へ直接触れた。

 

足が止まる。

 

「兄さんは外へ出て、ヒーローを呼んで」

 

「一緒に戦えばいい!」

 

「子供たちを守る人が必要だ」

 

「ほかの奴に任せろ!」

 

「兄さんにしか頼めない」

 

燈真は脳無の攻撃を受け止めながら叫んだ。

 

「俺は兄さんを信じてる!」

 

その言葉は、燈矢を縛るためのものだった。

 

信じていると言われれば、応えずにはいられない。

 

弟がそれを分かっていることも、燈矢には分かった。

 

「絶対に迎えに来る」

 

燈矢が言った。

 

「待ってろ」

 

「うん」

 

「今度はお前が待つ番だ」

 

「分かった」

 

「約束しろ!」

 

燈真は一瞬だけ迷った。

 

「約束する」

 

最後の子供が階段を上る。

 

燈矢もその後を追った。

 

何度も振り返る。

 

灰色の炎の向こうで、燈真が一人で立っている。

 

その姿が見えなくなるまで、燈矢は弟の名を呼び続けた。

 

地上へ続く扉を抜ける。

 

冷たい夜風が吹き込んだ。

 

三年ぶりの外だった。

 

子供たちを森の中へ進ませる。

 

遠くに街の明かりが見える。

 

燈矢は先頭を走った。

 

身体が痛む。

 

足が重い。

 

それでも止まらない。

 

燈真が待っている。

 

警察へ助けを求めれば、ヒーローが来る。

 

父が来るかもしれない。

 

今度こそ。

 

そう信じた。

 

だが、森を抜けた先に警察署はなかった。

 

街もなかった。

 

目の前に広がっていたのは、古びた児童養護施設の庭だった。

 

子供たちは、いつの間にか敷地の外へ出ていた。

 

背後を振り返る。

 

地下施設へ続いていたはずの扉が消えている。

 

あるのは、焼けた物置だけだった。

 

「そんな……」

 

燈矢が炎を放つ。

 

物置が吹き飛ぶ。

 

その下に階段はない。

 

土があるだけだった。

 

「燈真!」

 

地面を掘る。

 

爪が剥がれても。

 

指から血が出ても。

 

弟へ続く道は見つからなかった。

 

施設そのものが、黒い霧によって別の場所へ移されたのだ。

 

最初から、逃走を察知されていた。

 

それでもオール・フォー・ワンは、燈矢を外へ出した。

 

兄を失った燈真がどう変わるのか。

 

弟を置いてきた燈矢が、どれほど憎しみを育てるのか。

 

それを見るために。

 

翌朝。

 

保護された子供たちの証言によって、警察とヒーローが動いた。

 

しかし地下施設は見つからなかった。

 

子供たちの身体から複数の個性因子が確認されても、誰が実験を行ったのかは分からない。

 

燈矢は警察から逃げた。

 

自分の名前を告げれば、轟家へ連絡される。

 

それ自体は望んでいたことだった。

 

だが、燈真を置いて一人だけ帰ることが怖かった。

 

父に何を言えばいい。

 

弟をまた置いてきたと、どう伝えればいい。

 

迷った末、燈矢は自分の足で家へ向かった。

 

夜になっていた。

 

懐かしい家。

 

三年前と変わらない門。

 

窓から明かりが漏れている。

 

玄関へ手を伸ばす。

 

そのとき、裏庭から音が聞こえた。

 

氷が地面を走る音。

 

炎の弾ける音。

 

燈矢は足を止めた。

 

塀の隙間から中を見る。

 

成長した焦凍が、訓練場に立っていた。

 

三年前より大きくなっている。

 

左側の顔に火傷はない。

 

燈真が守った顔。

 

その焦凍へ、炎司が指示を出していた。

 

「違う。氷から炎への切り替えが遅い」

 

「……」

 

「もう一度だ」

 

焦凍の身体は傷ついていた。

 

息を切らし、それでも父の命令に従っている。

 

「お前は俺を超える」

 

炎司の声が聞こえた。

 

「オールマイトを超えるために生まれたんだ」

 

三年前と何も変わっていなかった。

 

燈矢と燈真が死んだことになっても。

 

母が家からいなくなっても。

 

父はまだ、同じ夢を焦凍へ押しつけている。

 

燈真は父が変わろうとしていると言った。

 

家族を救うと約束した。

 

その燈真がいなくなった途端、すべてが元へ戻っていた。

 

燈矢の中で、帰りたいという気持ちが音を立てて崩れた。

 

今ここで姿を現せば、父は何と言うだろう。

 

生きていたことを喜ぶのか。

 

それとも、また炎を使ったことを責めるのか。

 

燈真がどこにいるか尋ねるのか。

 

弟だけを置いてきた兄を、どんな目で見るのか。

 

燈矢は玄関から離れた。

 

家の裏手へ回る。

 

二階の窓に、冬美の姿が見えた。

 

食卓へ皿を並べている。

 

その隣には夏雄がいた。

 

二人とも成長していた。

 

食卓の端には、使われていない椅子が二つ残されている。

 

燈矢と燈真の席だった。

 

帰りたい。

 

扉を開けたい。

 

冬美と夏雄を抱き締めたい。

 

焦凍に、あのとき責めようとして悪かったと謝りたい。

 

母の病院へ行きたい。

 

父を殴ってでも、燈真を探させたい。

 

だが、足が動かなかった。

 

今の自分の姿を見せれば、家族は苦しむ。

 

燈矢が生きているなら、燈真も生きているはずだと期待する。

 

何も知らない家族を、オール・フォー・ワンの標的にするかもしれない。

 

燈真を救う前に帰ることはできない。

 

燈矢は家へ背を向けた。

 

近くの路地へ入り、壁にもたれる。

 

服の隙間から、移植された皮膚が見える。

 

本来の自分の身体ではない。

 

死体から継ぎ合わせたような身体。

 

山で一度死に。

 

施設で作り直された存在。

 

もう轟燈矢のままでは、動けない。

 

名前を捨てなければならない。

 

家族へ繋がるものを隠さなければならない。

 

それでも、燈真との約束だけは捨てない。

 

「待ってろ」

 

掠れた声で呟く。

 

掌に青い炎が灯る。

 

以前よりも強く。

 

以前よりも自分を焼く炎。

 

「今度は俺が、お前を助ける」

 

轟燈矢は、その夜もう一度死んだ。

 

代わりに生まれたのは、家族を焼き尽くすための男ではない。

 

奪われた弟を取り戻すためなら、ヒーローにもヴィランにもなれる存在。

 

死体を焼く炎の名を借りた男。

 

荼毘だった。

 

一方。

 

移動した地下施設では、燈真が床へ膝をついていた。

 

周囲には倒された脳無と、焼けた壁が広がっている。

 

子供たちが脱出するまで、追手をすべて止めた。

 

その代償として、身体にはほとんど力が残っていない。

 

足音が近づく。

 

オール・フォー・ワンが、暗い廊下の奥から現れた。

 

「見事だったよ」

 

燈真は顔を上げた。

 

「兄さんは」

 

「無事に外へ出た」

 

安堵が胸へ広がる。

 

「子供たちも?」

 

「ああ。君が守った子供は、全員保護された」

 

「よかった」

 

燈真は笑った。

 

自分が捕まっていても。

 

実験が続くとしても。

 

十八人が外へ出られた。

 

それなら意味はあった。

 

「なぜ追わなかった」

 

燈真が尋ねる。

 

「追う必要がないからだ」

 

「兄さんは戻ってこない」

 

「戻ってくるとも」

 

オール・フォー・ワンは確信していた。

 

「君がここにいる限りね」

 

燈真の笑顔が消えた。

 

「燈矢は君を助けようとする。そのために力を求める。憎しみを育て、自ら炎の中へ入っていく」

 

「兄さんは、お前の思い通りにはならない」

 

「君は既になった」

 

男の手が燈真の頭へ置かれる。

 

振り払う力は残っていなかった。

 

「君は兄を助けるために、三年間私へ従った」

 

「……」

 

「そして兄も、君を助けるために道を踏み外す」

 

「違う」

 

「実に美しい兄弟愛だ」

 

指先へ力が込められる。

 

複数の個性が同時に発動する気配。

 

燈真の頭に激痛が走った。

 

「やめろ……」

 

「君は少し自由を与えすぎた」

 

「兄さんは、戻ってくる」

 

「ああ」

 

オール・フォー・ワンは笑った。

 

「だから、戻ってきたときのために君を作り直そう」

 

燈真の意識が薄れていく。

 

最後に思い浮かべたのは、燈矢の顔だった。

 

絶対に迎えに来る。

 

兄はそう言った。

 

燈真は約束を信じた。

 

自分が何度破っても。

 

父に破られても。

 

今度だけは信じたかった。

 

「待ってるよ……兄さん」

 

その声を最後に、燈真の意識は暗闇へ沈んだ。

 

次に目覚めたとき。

 

彼が自分の名前を覚えている保証は、どこにもなかった。

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総合評価:267/評価:3.67/連載:69話/更新日時:2026年08月30日(日) 21:25 小説情報


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